『籠 城 六 〇 〇 日』 土屋 太郎著   解題          

                      

緒  言

 マーシャル群島は、太平洋戦争の前半にはほとんど敵の攻撃を受けることがなく、全戦線を通じて最も作戦が閑散な方面とみなされ、<マーシャル平和郷>と呼ばれていた。それが昭和19年1月、当方面に対する敵の作戦が開始されると、平和郷は一転して生き地獄の様相を呈するようになった。
 補給を途絶され、敵の完全勢力下におかれた一島嶼の戦闘は、籠城と同じである。しかし古来の戦史をひもといてみても、2ヶ年にわたる長期の籠城は類例をみないだろう。絶海の一孤島では、敵の囲みを破って味方と連絡することも不可能であった。
 食糧がだんだん欠乏してくる。餓死者が続出する。人間性が失われていく。新聞電報やメルボルン放送によれば戦況は次第に悪化していく、といった中で、長期籠城を続けていたウオッゼ島の状況がどういうものだったかを、以下に体系だてて記録した。文中、氏名は本名を用いたものもあるが、そうでないものも少なからずある。




第一章
 地  誌

             一  般  

 北緯4度30分から15度まで、東経161度から174度までの間に、概ね北西から南東に向かって併行している二列の環礁群、それがマーシャル群島である。環礁の数は約30、そのほぽ中央東側にウオッゼ環礁がある。
 この環礁は六十余の島々からなり、ヤシの木、パンの木が繁茂している。地味は一般に痩せていて、農耕には適さない。
 主島ウオッゼが最大であり、これに次ぐのがウォルメージ島である。どの島も珊瑚礁上の沙堆で一般に低く、高汐面上2メートルより高い所はない。一般に風上にある東側が高く、風下にあたる西側が低くなっている
     

             沿  革  

 マーシャル諸島は南洋群島の最東端にあり、その歴史は他のマリアナ、カロリン諸島とは異なっている。1781年(一説では1878年)、イギリス人船長マーシャルの探検によって本諸島が発見された。したがってはじめはイギリスがこれを占領していたが、その領有の根拠が薄弱なのに乗じ、当時植民地熱の高かったドイツが1877年、軍艦を派遣して酋長と款をまじえ、1885年、ふたたび各酋長を説いて完全に領有することになった。
 その後、ドイツ政府は鋭意開発に努めていたが、第一次大戦の際にわが帝国海軍に占領され、大正8年12月、日本の委任統治領となった。
 昭和10年3月26日、わが国は国際連盟を脱退したが、南洋諸島は、委任統治の根拠およびその性質に照らし、ひき続き日本の構成部分としての施政が行われていた。

             気  象  

 南洋諸島は、全部熱帯圏内にあるので、四季の別がなく、一年を通じ温帯の夏季の気候である。しかし各島ともみな太平洋上に点在する小島なので、海風がたえず吹きわたり、純然たる海洋性の気候で、昼夜の別による気象変化はきわめて少ない。そのため生活には適順で、他の熱帯焦熱の風土を想像して渡来する者はひとしく意外に思うところである。そのうえ熱帯特有の風土病であるマラリアもなく、また毒蛇・猛獣も棲んでおらず、自然の恩恵がきわめて大きいといってよく、生活・住居ともいたって簡単である。
 湿度は一般に高く、年平均80パーセント以上である。季節による変化は少ないが、普通5月〜11月が高く、12月〜4月は乾季である。降雨の状況は内地と違い、いわゆるスコールで、濃い積乱雲が現れ、さっと涼しい風が吹いてきたかと思うと、急に激しい雨が降るという状態で、暑さもこれにより緩和されることが多い。
 雷は7月〜9月に稀にある。内地でみるような大きな雷鳴は少なく、きわめて小規模で、落雷はほとんどない。そのうえ雷鳴を反響する山もないので、頼りない雷鳴である。
 視界は良好で、島や船舶の視認も、内地沿岸に比べ、二〜三割ぐらい大きいといえる。

 以上、「第一章 地誌」は、おもに水路部資料に依拠した。


第二章  戦   闘   

             籠 城 前 の 情 勢               

 昭和16年12月8日の開戦から18年11月に至るまで、敵のマーシャル方面に対する攻撃はほとんどなく、作戦は一般に閑散であった。昭和17年2月1日、敵機動部隊が一度来襲したことがあったが、わが連合艦隊からみればマーシャルは休養地のようなもので、<ウオッゼ平和郷>の名さえあった。
 昭和18年11月下旬、敵のギルバート諸島占領作戦が行われた時も、2機の大型機が偵察に来ただけであった。
 同年12月5日、はじめて艦載機約20機が来襲し、同月中旬から大型機数機ないし10数機が数日おきに来るようになった。そこで基地防衛のため、戦闘機数機がマロエラップから派遣されたが、戦闘機・地上砲火とも戦果らしいものを挙げることなく、逆に同島にあった飛行艇、艦上攻撃機がそのつど相当の被害を受け、地上施設も次々と破壊されていった。
 昭和19年1月中旬、「対敵機動部隊作戦用意」が下令されたが、1月29日には解除された。するとその日の夕刻から敵大型機が来襲しはじめ、連続1時間おきに数機ずつ来襲するようになった。中にはウオッゼ本島でなく、離島を爆撃する機もあったが、これが敵の大作戦の前兆であるとは誰も予期できず、翌30日も平日どおりに○三〇〇頃食事をし、索敵機を数機発進させた。
 (*海軍では24時間制を使用し、四つの数字で時刻を示していた。なお戦時中はどの戦線でも内地時間を
   使用しており、マーシャルでは日の出が午前3時ごろだった)
 ○四二〇、空襲警報のサイレンが鳴り、○四二五、敵艦載機があいついで来襲した。
 索敵機の報告により、敵空母がウオッゼ島の西方および東北方150カイリの位置にあることが分かり、○六〇〇、艦上攻撃機6機が魚雷攻撃に発進した。一〇〇〇頃、外海に敵巡洋艦1隻、駆逐艦3隻があらわれ、対上陸戦闘用意の発令を示すサイレンが5分間鳴り響いた。このとき、第24航空戦隊司令部のあったルオット島は通信が途絶しており、艦上攻撃機2機が連絡のため同島に向かった。
  しかし、索敵機なども含め、これらの飛行機は全部未帰還となり、地上に残っていた数機もまたたく間に破壊された。




             籠 城 開 始 時 の 戦 況            

 昭和19年1月29日、大型機の夜間連続来襲に引き続き、翌30日早朝から艦載機が来襲し、同日夕刻からは敵の艦砲射撃を受けるようになった。
飛行艇桟橋跡 2月5日夜、サイパンから飛行艇が2機来島、搭乗員10余名と電信員約10名を後送した。また敵側のラジオにより、2月7日ルオット島が占領されたことを知り、その時点でわれわれが見棄てられたのも止むなしと分かった。
 2月12日、サイパンを出発したと思われるわが飛行艇がルオットを攻撃し、大きな戦果をあげたとの報道が入った。戦果云々についてはあまり信用していなかったが、いくぶん気休めにはなった。
 翌13日は艦砲射撃なし。敵機も哨戒機が来ただけで、爆撃はなし。連日の攻撃が突然途絶えたのが、かえって不気味だった。
 翌14日、またも艦砲射撃がはじまり、いよいよ敵の上陸部隊が来るかと緊張したが、輸送船団はなかなか現れない。つまり 日曜ごとに彼らは休戦していたのだ。この艦砲射撃は結局2月22日まで続いた。
 2月23日になると艦砲射撃もなくなり、これに代わって中・大型機が毎日2、3回やってくるようになり、敵の上陸意図はないものと知った。
 ルオット、クェゼリンは敵に占領され、2月17日にはトラック島が、同2月23日にはサイパンが敵機動部隊に攻撃され、われわれは籠城対策を考える必要があると判断した。かくて3月1日からは給食量が3割方減ぜられた。当時、糧食保有量は全島員に対し2ヶ月分ぐらいに過ぎなかった。
       
             戦 備 作 業 と 訓 練               

 本島防備の主体は約950名の人員からなる警備隊であった。これに兵力増強のため、昭和18年11月ごろ陸軍部隊400名余りが来島し、警備隊司令の指揮下にはいった。同年12月、海軍航空隊が3個部隊ほとんど同時に来島した。いずれも保有航空機が少なく、航空隊と称するには恥ずかしいような部隊であった。それでも彼らはそのうちに飛行機の補充があるものと期待して、もっぱら飛行場の整備に努め、警備隊側から敵上陸部隊来襲時の陣地分担に関し、再三再四の折衝があったが、一向にこれに応じなかった。彼らとしては、警備隊では主要陣地を全部施設部工員約650名に作らせておいて、自分たち航空部隊に対しては何処そこを担当し、陣地を作って配備につけ、と言ってくるのが納得できないことでもあったからだ。
 昭和19年1月30日、敵の第一波攻撃で、わずかしかなかった航空機が第1日目に全滅し、味方機の来援もほとんど望み得ない状況となった。そこで各航空隊ともただちに陸戦隊を編成して本島防備の配置につき、全力を傾倒して応急陣地の急造にかかった。まず海岸に第一線陣地を作り、その内方に第二線陣地を作った。陣地は倒壊家屋の柱材を骨として、これに板材を張り、その上に防水のためにトタンを載せて土砂を盛り上げるのである。このようにして猛烈な砲爆撃下にありながら、2月中には第一線、第二線陣地ともすっかり完成した。
 3月に入ってからは陣地整備もほとんど行わず、もっぱら訓練に重きをおき、、刺突や陣地転換訓練などを行った。翌4月になってからは減食による空腹のため、いくぶん訓練が低下し、5月以降は次第に訓練に対する熱意が衰えていった。6月になると、ある大隊では毎日訓練作業報告を提出させたり、毎日査閲項目と期日を予定して、月2、3回、大隊長が各小隊の軍事査閲を行って練度の維持を図った。しかし7月に入ると、予定査閲日の2、3日前から訓練を実施するだけで、その他の日は農園作業や烹炊作業に専念するようになった。
 この頃の日課は、起床後、1時間の訓練、午前中整備作業、午後は食糧増産ということになっていたが、実際は、早朝も午前も午後もほとんど食うことにのみ専念していた。
 その後、各部隊に対して、毎月頭その月の訓練予定および前月の実施報告を出せ、という命令が最高指揮官から出された。また昭和20年5月からは、訓練報告の提出を毎日行うように命ぜられたが、司令が訓練状況を視察に来る時のほかは、各部隊ともほとんど訓練を実施せず、朝夕の「配置ニ付ケ」の号令も単なる号令にのみ終わっていた。この頃になると、訓練時間が起床後の30分間に短縮されていたが、この30分間の訓練すら、畑を作ったり、可食植物を摘集したり、薪を拾ったりするため、ほとんど励行されなかった。前日中に食事の準備をしておけばよいと思われるが、一食一食をどうやってかき集めればよいかということが最大関心事だった時に、次の食事など考える余裕のある食卓(班)はほとんどなかった。
 また、衰弱しきった身体には、武装をするというそれだけのことがなによりの重労働だった。何も持たずに歩いても、100メートルも歩くと疲れて一休みしなければならず、ちょっと風が吹くと身体がふらついた。それを武装して、自分の住んでいる小屋から訓練場所ないし陣地まで歩いていくことは、たとえ距離が短くても大へんな努力を必要とした。健康状態を甲乙丙丁に分けて報告することが一時行われたが、その甲に属する者にしてそうであった。「担え銃」や「立て銃」を2、3回やると、その日一日、畑の仕事がやれなくなった。
 また爆撃のため、いたるところ陣地を破壊されたが、だれも修復しようとせず、戦備作業はやりっ放しであった。その特に著しいものについては司令から厳しい注意があり、やむを得ずしぶしぶと修復していった。すなわち昭和19年の終わり頃には、波浪のためすっかり壊れていた外海側の水中障害物を再構築し、20年2月には高潮のため洗い流されていた内海側の陣地を修築した。また、5月頃からは水中障害物の強化作業をはじめた。
 以上、戦備作業および訓練とも、籠城後2ヶ月ぐらいはきわめて熱心に行われたが、籠城の長期化と食糧の欠乏にともない、次第にその熱意を失っていき、司令の努力によってのみ、ようやく軍隊たるの体面を維持していたにすぎなかった。

             戦 備 状 況 と そ の 被 害  

 後方との連絡が遮断されたのは昭和19年1月末である。当時の在島部隊は、第64警備隊、第802海軍航空隊、第552海軍航空隊第531海軍航空隊、第4施設部、航空廠、陸軍部隊などで、3月15日の調査では3100名いた。終戦後、内地に引き揚げた者は1074名だったから、三分の二が死亡したことになる。このうち、戦死者は全死亡者の2割程度で、他は栄養失調による死亡で、逃亡・行方不明者も百数十名いた。
 主要兵器としては、12センチ高角砲が12門。15センチ対水上砲が6基で、高角砲は、敵来襲後1、2ヶ月で全部その機能を失い、そのうちの2基か3基が水平射撃にのみ使用可能であった。旋回範囲は20〜60度に制限され、なかには仰角の変えられなくなったものもあった。対水上砲は、全部外海に対してのみ装備してあったから、敵がギルバート作戦以降実施したように、内海側から強行上陸を試みたとするならば、全然その用をなさなかったであろう。このように本島の防備は外海に対してのみ重きをおき、内海に対してはほとんど考慮されていなかった。昭和18年7月頃、警備隊司令の交代があり、あらたに吉見信一海軍大佐が着任したが、大佐は着任後ただちにこの非を知り、当時装備未了であった高角砲2門を、内海方面の水上射撃にも使用できるように配備した。このほかに15センチ榴弾砲(野砲)が5門あったが、そのうちの3門は、19年9月中旬の中地区爆撃の頃までに直撃粉砕された模様で、残り2門は終戦時まで完備していた。
 また沈没船室津丸から備砲を陸揚げして、これを陸上に装備した。これは12センチ砲で、一門は外海側、一門は内海側に配備した。日露戦争当時に製作された大砲で、弾丸は一門につき12個しかなかった。
 このほかに機関銃が約30、小銃1500、航空機銃100挺があった。航空機銃は飛行機搭載用のもので、18年12月、航空隊が来島したときに携行したものである。19年1月末、飛行機を全機失ったので、これらの航空機銃に応急架台を取りつけて、対空射撃・陸上戦闘にも使えるようにした。小銃の数は在島員数の半分にも充たなかったため、施設部工員全員と航空隊員の一部は、槍を作ってこれを唯一の武器とした。しかし昭和20年に入ると人員が相当減少してきたので、小銃は余裕を生じ、機銃配置の者にも行き渡った。それでもなお死者の増加につれ、兵器に対して人員が不足するので、ついには主計員、看護員はもちろん、工員にまで武装させるようになった。
 手榴弾はたいていの者が数発ずつ持つことができた。またビール瓶やサイダー瓶にガソリンをいれ、戦車攻撃のための火焔瓶として各陣地に10本ずつ準備した。
魚雷調整台跡 兵舎は北地区に10数棟、中地区に20数棟あった。格納庫は水上機用1棟、陸上機用2棟があった。発動機調整場、魚雷調整場、航空廠工場の数棟も大きな建物であったが、これらの施設は、昭和19年2月中にその7割方を破壊され、9月頃には小さい倉庫もすべて破壊されつくした。送信所・受信所も2月中旬の直撃弾で、発電所も5月上旬の爆撃で破壊された。飛行隊指揮所は10メートル平方ぐらいの小さな耐弾式建物であったので、1、2度至近弾を受けたことはあったが、ほとんど無傷のまま残った。
 これらの砲爆撃を通じて、本島戦力は籠城1ヶ月で約7割ぐらいに低下した。また終戦時における残存戦力は、兵器の点からは3割ぐらいといえたが、人員の減少と体力の著しい低下により、当初戦力の1割ぐらいに落ち込んでいたと思われる。

      

             戦  果               

 昭和19年1月末に敵のマーシャル攻略作戦が行われ、ウオッゼにも多数の敵艦艇が接近して艦砲射撃を加え、艦載機も多数爆撃に来た。このとき平射砲で駆逐艦1隻を撃沈、巡洋艦1隻を小破、駆逐艦1隻を小破させた。対空射撃は12門の高角砲、8門の25ミリ機銃および仮設された数十挺の航空機銃(20ミリおよび7.7ミリ)で行った。航空機銃による対空射撃は全然訓練されたことがなく射法もまずく精度も不良だった。しかし数の点では島の大きさの割に多かったので、敵に相当の恐怖を与えたといえる。(ちなみに軽機関銃はIg、重機関銃Mgの符号が定められていたが、陸上配備した航空機銃には符号がなく、航空隊では不便を感じて、20ミリ航空機銃をAg、7.7ミリをagで示した)
 この作戦が一段落してからは、陸上機ならびに陸上を基地とする小型機が連日多数やってきたが、ときおり1機か2機撃墜したにすぎない。ことに3月中旬からは長期籠城に備えるために、「対空射撃ハ態勢ガキハメテ良好ナ場合ノミ」と制限されたため、士気もだいぶ阻喪した。敵機は毎日相当数やってきたが、爆撃による被害は少なく、ことに戦死者のでることはきわめて稀であった。それでも累積効果は大きなもので、地上建築物はやがて飛行隊指揮所を残してすべて破壊された。対空射撃もほとんど行われず、稀に「撃った、撃った、今のはこっちの機銃だぞ!」と喜ぶような状況だった。したがって敵のマーシャル作戦の終了後、終戦までの1年半の間に対空射撃で落としたのは累計20機ぐらいだった。
 また敵機が来襲するときには、撃墜機救助のため駆逐艦が周辺を遊戈していたようで、ときおり視界内まで近接してきた。本島に応戦力があるかどうかを打診するためか、艦砲射撃を加えてきたことが5回ぐらいあったが、砲戦により遁走させ、一度は火災を発生させたこともある。敵の艦砲射撃は老朽駆逐艦であるためか精度がきわめて悪く、島内に弾着するものはほとんどなく、砲戦配置の者以外は海岸にズラリと並んでそれを見物していた。至近弾を受けるようになると敵艦は煙幕を展張し、急に変針して射程外に遁走するのが遠望できた。

             暗 号 書 焼 却

 当時本島の最高指揮官であった第64警備隊司令・吉見信一大佐は、悪質の胃腸病と神経痛で病臥生活を続けており、とうてい作戦指揮に任ずることは不可能であった。そこで第531海軍航空隊司令佐々本健爾大佐が全島の指揮にあたった。
 艦砲射撃を受けて敵の上陸作戦も予期されるようになり、暗号書その他重要書類の焼却が命ぜられた。防備のうすい本島のことであるし、味方の来援は到底望めず、敵が上陸してきたならたちまち全滅のほかないであろうと、全員玉砕を覚悟していた。
 暗号書などの焼却は、たとえガソリンをかけて焼いても、1時間や2時間で完全に焼却し尽くせるものではない。もっとも艦隊司令部からは、とかく暗号書の焼却処分が早すぎて、事後困難をきたす部隊があるから、あわてることなく、敵上陸部隊の舟艇を確認してから焼却せよ、とのことが達せられていた。
 しかし非常に不利な状況下にあって、全員すでに死を覚悟しており、もし敵の上陸部隊が来ず、暗号書焼却を後悔する事態となったとしても、それはかえってありがたいということで、各部隊ともただちに焼却し、程度の低い簡単な暗号書のみ残しておいた。
 暗号書はこのようにして焼却されたが、通信そのものは最後まで可能であった。簡単な暗号書は毎月使用方法が変更された。しかしおそらくその都度、敵も暗号を解読していたであろうことが察せられ、艦隊司令部から「貴殿ノ暗号書ハ敵ニ解読サレテイル懸念大ニツキ、重要事項ハ発信セザルヨウニ」との注意があった。一方そのような注意をしておきながら、「人員兵器ノ現状ヲ報ラセ」などと尋ねてきて、当隊から「暗号ヲ解読サレテイルトスルト危険ダガ……」と返信して取り止めになったこともある。もし暗号書を焼却していなかったならば、潜水艦による糧食補給も1回ぐらいは成功していたかもしれない。
 ところで、この暗号書焼却は佐々本大佐の指揮中に行われ、当時の状況下ではあえて非難すべき程のことではなかったが、自己の病臥中に焼却されたことは最高指揮官であった吉見大佐としては、残念だったようで、その後副官などにそのことをしばしば洩らしていた。ことに、佐々本大佐が指揮を継承したことについては、ある程度の了解は得られていたものの、画然たる了解は成立していなかったようで、これが一因となって、事後両人の間にある種の疎隔が生ずるに至った。

             爆 弾 の 地 雷 化

 敵の攻撃が始まってから、マーシャル方面は一様に敵の勢力下に入った。敵がいつウオッゼに上陸してくるか分からず、味方部隊の来援はとうてい望み得なかったので、本島防備にできるだけの努力工夫が払われた。爆弾を地雷の代用にしたのもその一つである。
 すなわち百数十発の60キロ爆弾を主要箇所に線状にズラリと埋め、先端の雷管部分のみを地表に出すというもので、ちょっとした重みでは作勤しないが、戦車などがやってくれば大爆発を起こしたと思われる。
 終戦後、米軍からこれらの爆弾を掘り起こして海中に投棄するよう指示されたが、昭和19年2月に埋設してから1年半も経っており、その間全然整備したこともなく、至近弾で爆発または埋没してしまったものもあり、実際掘り出し得たのはその半分ぐらいであった。
 魚雷を抱いて泳いでいこうという案も考えられたが、使用可能な魚雷は1本もなかった。消防自動車にガソリンを搭載し、火焔放射自動車とする件も話題になったことがあるが、実現には至らなかった。

             不 発 爆 弾

不発爆弾か 米軍の投下した爆弾には不発のものが多かった。日本軍の使用したものにも、支那事変当時は若干不発のものがあったとのことだが、米軍のはその率が特に大きかったようだ。ことに砲弾は1割以上が不発だったろう。滑走路の上に大きな砲弾や爆弾が不発のままゴロゴロ転がっているのには、所を得ないおかしさがあった。当初は時限装置が付いているだろうと近寄るのを危険視していたが、やがて不発弾だと知り、それでも動揺を与えると爆発するかも知れぬというので、綱をつけて遠方から引っ張って取り除くことにした。しかしそれでは作業に手間どるので、そのうち直接手で押して滑走路の外まで転がしていったが、それによって爆発したものは1発もなかった。
 昭和20年になってから、漁労に使う火薬をとるため、不発爆弾を分解する者があらわれた。成功例が多かったが、取り出し作業中に爆発して身体の四散した者も何名かあったようだ。

             戦 闘 烹 炊

 籠城が長期化し糧食が欠乏してくると、主計兵はその役得としていろいろ非難されるような行為もしたが、籠城当初における活躍ぷりはみごとであった。
 1月30日の戦闘第一日目の昼食は、乾パンと缶詰という応急糧食の配給だったが、その後は敵攻撃のあいま合間をつかまえて、よく烹炊作業を決行した。またちょっとでも煙を出したら、その場所は徹底的に攻撃されるというガダルカナルの戦訓に照らし、空襲警報が発令されるとただちに火を消し、敵機が去るとすぐまた点火するということを繰り返して飯を炊いた。烹炊所を弾痕の中に設けて、上にヤシの葉を覆い、至近弾による被害防止と隠蔽とに努めた。
烹炊釜 この頃は野戦烹炊釜を使用していたが、充分な数がないので、1個でもやられると<2回炊き>しなければならず、さらに主計兵による共同烹炊が不可能になる虞れもあるので、一度飯炊きが終わると、次の飯炊きにかかるまでの間、釜を必ず防空壕の中に格納しておいた。そのうえ1個1個別の防空壕に入れて、たとえ直撃弾をうけても、同時に多くの釜がやられないように努めた。
 19年5月下旬、中・小型機が昼間連続爆撃し続けた頃には、すでに餓死者が出始めており、戦備作業や戦闘訓練もそろそろ怠けがちになっていた。そのため空襲があると、対空戦闘の配置にある者は戦闘に従事しなければならないが、それ以外の者は防空壕に避退して休養することができるので、むしろ一般の者は空襲を喜ぶようになった。したがって昼間連続来襲ともなると、大部分は終日防空壕の中でなんら為すこともなく居眠りをしていたが、この間においても主計兵はあいかわらず烹炊作業を続けて、惰眠をむさぽっている者たちに飯を食わせていた。

             潜 水 艦 補 給

 「昭和19年3月23日(予備25日)ニ潜水艦デ補給ヲ行ウ」との電報が同月初旬にきた。第552航空隊はこのときにはすでに解隊となり、転勤を発令されていた者もあり、この潜水艦に便乗して内地へ帰還(または赴任)したいという希望をもっている者もいた。しかし航空隊内部でその人選が取り沙汰されるに及んで、本島防備の最高責任者であった第64警備隊司令は、これに対して徹底的に反対の立場をとった。そのため要補給物資のほかに、人事問いあわせその他の電報の往復がさかんになり第4艦隊司令部でも潜水艦への便乗希望者があるらしいことを知り、「作戦ノ都合上、便乗者ヲ収容デキナイ」と伝えてきた。そこで、この問題も紛糾の末ようやく落ち着いた。
 やがて補給に対する受け取り要領が、警備隊の日令で示された。それによると、甲板士官が指揮官となって大発(大型発動機船)で受け取りにいくことになっていたが、本補給作業は警備隊の一作業として軽々しくみるべきでなく、本島全般にとっての重要作戦作業であり、潜水艦側としても大きな危険を冒しつつ実施する作業であるから、さらに上級士官を派遣してなにがしかの情報交換を行ってくるべきだ、との意見が航空隊にあった。そのためか本作業の全般指揮は警備隊内務長・相田大尉、艇指揮は第552航空隊の植松少尉に変更された。
味方潜水艦にあらず 3月23日夜、大発は約20名の作業員を乗せて、予定地点たるトートン水道に向かった。当日は月齢28で晴天の闇夜であった。水道に近づくと、前方にかすかに潜水艦らしい船影が見えたので、大発側では電報にあった規約にしたがい燈火を点じ、円弧を描いた。と同時に、三方からすさまじい一斉射撃を受けた。味方潜水艦と思いきや、それは敵の駆逐艦の群れだった。大発は急拠反転して敵の砲撃をうけつつ、さいわい被害もなく帰還した。
 ちょうど敵が待ち伏せしていたワナの中に跳び込んだのである。敵は電報を解読していたか、あるいは電報の発着信があまり頻繁になっていたので、警戒を厳にしていたのだろう。
 23日の補給が失敗したので、予備日25日もおそらく駄目だろうと予想していたところ、はたして当日になって、「今回ノ補給ヲ取り止メル」という電報が来た。しかし警戒が厳重なために不可能になったのか、あるいは潜水艦が撃沈されたのかは不明であった。ちなみに24日夜も、トートン水道方面に砲声がきこえていた。(戦後になって、この潜水艦は撃沈されていたのを知った)

             哨 戒 艇 に 敵 機 接 触

 昭和19年3月頃のことである。超低空で奇襲爆撃を行った敵中型機が、わが哨戒艇に触衝した。爆撃に専念したあまり高度を下げすぎたのか、あるいは地上砲火に驚いて、急いで避退しようとして操縦を誤り、ぶつけたのであろう。飛行機はそのまま飛び去ったが、艇の中に機体の一部が落ちていた。艇員はこれを警備隊司令に報告し、警備隊は航空隊あて敵機の被害程度について照会した。調査の結果、その部品は機体前端下部の風房の一部で、飛行機はおそらく無事帰還しただろうことがわかった。
 はたして数日後、米軍ラジオは次のような放送をした。「ウオッゼ島を攻撃した一爆撃機は、もっとも勇敢な超低空爆撃を行い、日本舟艇からそのマストに掲揚していた日章旗を奪ってきた」と。

             ト ー ト ン 島 派 遣 隊

       
 トートン水道を見張るために、中少尉または兵曹長を指揮官とし、電信員2、暗号員1、見張り兼銃隊員6、信号員1の計11名が、トートン島に派遣されることになった。あるいは同島は、わが潜水艦に対する警戒のため、すでに米軍が占拠しているかもしれず、たとえ占領していなくても、電波探知で派遣隊員の来たことを知って攻撃に来るかもしれないというので、最初の派遣隊員は、みな相当の覚悟をもって出掛けた。
トートン水道を望む しかし懸念したようなことはなく、その後は15日ごとに派遣員の交替が行われた。第1回派遣員は、出発するときにはこのように緊張して出掛けたのだが、帰りにはパンの実やタコの実、ヤシの実をたくさん持って帰ってきた。したがってその後の派遣員は、見張りよりも、同島における豊富な糧食に憧れを抱いて出発し、帰りには多くの土産を持ち帰った。ヤシの実やタコの実は、本島糧食として重要視されていたので、派遣隊員がこれらを持ち帰ることは、糧食の平等配分上問題があり、5ヶ月ぐらい経ってから土産の持ち帰りは厳禁された。それが20年5月頃になると、さしも豊富にあった同島のヤシの実もついに食べ尽くされ、逆に配給の携行糧食だけでは派遣隊員は食っていくことができず、農園主任からカボチャの特配を、またヤシ主任からヤシの実の特配を受けて出発するようになった。トートン島に対する敵の攻撃は、きわめて稀であった。それでも数回爆撃または銃撃を受けて、2、3名の戦死者がでた。

           
             伝 単 撒 布( 初 期 )

 昭和19年4月29日、敵は最初の伝単(宣伝ビラ)を投下した。また5月5日には、伝単およびサケの缶詰を投下した。6月9日にも伝単とサケ缶を投下した。伝単の内容は、内地の高官連中は前線の状況も知らず、日夜酒宴に興じている。お前たちは、早く降伏しなければ餓死するばかりである。降伏しなければウオッゼ島をあくまで爆撃訓練の目標として使う、といったことを文章や絵、写真で示したものだった。缶詰の方はなんのために投下したのか分からず、これについては何も言ってこなかった。降伏すればこのようなうまいものが食えるぞ、という意味だったのか。しかしこの当時はまだそれほど糧食に窮していなかったので、その缶詰をそれほど特に喜んで食べたという気配はなかった。
 また伝単によって、精神的な動揺を来たした者は一人もなく、ただ用紙不足のためにこれを利用しようと拾う者が多かった。効果なきことを自認したためか、伝単投下はその後、翌20年1月まで行われなかった。

             特 別 増 食

 籠城後4ヶ月経ったとき、すなわち昭和19年5月9日、「飛行場ノ状況ヲ報ラセ」との電報が第4艦隊司令部から来た。2月中旬に飛行艇が2、3機、ルオットに対して1、2回攻撃したことがあり、それ以後は全然見離されたかのごときマーシャルだったが、あるいは反撃の準備ができて、当方面への作戦が開始される機運が生じたのかもしれない。あるいは潜水艦補給ができないので、航空機で糧食補給をするのかもしれない、などと憶測をたくましうし、「十二日以降使用可能ノ見込ミ」との電報を打った。それからはみな空腹状態にありながら、昼夜兼行で滑走路修復作業を行った。この頃の給食糧は324グラムだったが、作業員には特に60グラムの夜食を与えた。
 12日から毎晩、敵大型機が滑走路修復の妨害をするため、夜間爆撃に来るようになった。すると14日夜、離島調査に行った北島主計大尉が、島民から次のような情報を得てきた。
 数日前、米軍の兵隊が何人かやってきて、近日中にウオッゼを占領にくるから、お前たちはすぐ降伏せよ、降伏する意思があるなら白旗を掲げよ、と言って帰っていった、と。
 数日来、大型機が毎晩爆撃にきているので、島民の話はあるいは本当かも知れないと思い、首脳部はだいぶ緊張した。しかしこれを一般に知らせたら、「戦ができぬから腹いっぱい飯を食わせよ」と騒ぐ者がでる虞があるので、公にはされなかった。ただやはり、ある程度は体力をつけておいた方がよいと思われたので、滑走路修復のためという名目で、全員324グラムから384グラムに増食した。と同時に、「朝食は必ずその前日に炊いておけ、水筒の水は毎晩詰め替えて、いつも一杯にしておけ」という命令が出された。ところが滑走路の修復作業はその後いっこう行われなかったので、疑念を抱いた者も多数あったが、首脳部の緊張していたことは察知されるに至らなかった。
 21日からは、大型機の夜間爆撃に代わって、中・小型機が交替で昼夜連続爆撃に来るようになった。23日は終日天候不良のため飛行機は来なかったが、駆逐艦が艦砲射撃を加えてきた。24日からはまた昼間連続爆撃がはじまり、同日、ウエーキ島に対する機動部隊の攻撃があった。
 16日から行われた臨時増食は10日間で打ち切られ、また324グラム給食に戻った。上記のような戦況だったので、もう少し増食を続けるべきだとの意見も出たが、糧食の保存期間がどんどん縮まっていくなか、ついに打ち切られた。
 27日、海軍記念日に敵はピアク島に上陸した。28日には空母から発進したと思われる小型機が、のベ125機、ウオッゼに連続攻撃を加えてきた。それはなかなか見事な爆撃ぶりといえた。いよいよ本島に上陸部隊がやってくるのかと思ったが、翌日からは常態に復した。12日以降の異常な攻撃ぶりは、今思えば南東方面作戦に対する牽制であったのだろう。

             敵 飛 行 艇 の 転 覆

 昭和19年6月27日、小型機約10機が来襲し、地上砲火によりその1機に損傷を与えた。損傷機は、東海岸の距岸2千メートルのところに不時着した。他の小型機は全部帰っていったが、随行していた大型機および飛行艇各1機は、上空をいつまでもグルグルと旋回していた。
 やがて彼らは着水を決意したらしく、次第に高度を下げてきた。1回目やり直し、2回目やり直し。だいぶ波が高いので着水も困難とみえる。3回目ついに着水、が、頭を突っ込んだと思った次の瞬間、見事に転覆してしまった。搭乗員が波間におよいでいるのが眼鏡に入る。やがて駆逐艦が近づいてきて、搭乗員を救助して去っていった。
 このように空襲の場合には、必ず大型機と飛行艇が各1機随伴していた。大型機は指揮・通信のため、飛行艇は人命救助のためであろうか、駆逐艦もときおり姿を見せていたから、これも空襲時には常に付近で待機していたとみえる。
 わが軍の人命軽視に比し、兵力に余裕があったためか、彼らの人命尊重というのは徹底したものだった。

             教 練 射 撃

 糧食が欠乏するにしたがい、体力は著しく衰えていった。隊員はみな食糧の自給に専念し、戦備作業や戦闘訓練は疎んぜられ、自分たちの任務は戦争することだ、ということも忘れ去られていくかにみえた。
 そこで、われわれは農夫ではなく軍人なのだ、との自覚を強めるため、また戦力の維持を図るために、毎月1回、機銃と小銃の教練射撃を行うことになった。ただし備蓄弾数の減少を防ぐ意味で、発射弾数はわずかに1発、機銃も6発で、うち1発は曳痕弾であった。
 小銃標的は直径30センチ、機銃標的が1メートル、射撃距離は最初は20メートル、その後50メートルになった。このような至近距離の射撃であったが、それでも射撃成績は小銃が5点満点に対して3.5点、機銃は60点満点に対して平均25点という情けないものだった。なかには遊底を押しつけ、弾丸をこめるだけの体力がなく、装填操作不能の兵もあった。
 昭和20年4月、小銃の射撃競技が行われた。最初の1発はあらかじめ装填した状態で発動し、装填操作を5回実施し、実際発射するのは最初のものをいれて3発、その所要時間を45秒間と制限した。その結果、全弾発射できなかった者が2割、装填操作が充分できなかった者が3割あった。これは、入隊当初における新兵教育が不徹底だったことと、籠城後、訓練らしい訓練が行われなかったことにもよるだろうが、最大の原因は弾丸こめ操作ができないほど体力が衰弱していたことにあった。
 手榴弾投擲の戦技が行われたとき、優勝したのは、体力がもっともよく維持されている主計兵の部隊であった。

             四 部 員 訓 練

 餓死者が続出するようになってからは、訓練らしい訓練は全然行われなかった。最高指揮官からは、起床後30分間でよいから配置教育を実施するように、としばしば達せられたが、これすらも行われなかった。時おり最高指揮官が訓練状況を視察に来るときだけ、止むを得ず配置教育を行ったが、そうでないときはいちおう武装して陣地付近に集まり、芝生に腰をおろして居眠りし、一部元気なものが無駄話をしている程度で、陣地まで意味なく往復するだけの無駄な労力となっていた。
 そこである大隊では、当時の隊員の食生活と体力をあわせ考え、四部員訓練なるものをはじめた。すなわち隊員を四部員にわけて、毎朝輪番に一部ずつ訓練を行う。中隊長も輪番制で訓練指揮官になり、大隊長みずからも現地に赴いて訓練を監督する。訓練に無理がなかったことと、訓練指揮官をつけたこと、大隊長みずから細部にわたる注意を行ったことにより、この四部員訓練は軍紀の粛正と訓練成果の発揚に効果あるもののようにみえた。
 しかしこのような訓練をはじめてまもなく、このやり方は最高指揮官の意図に反する、というので、大隊長は次席指揮官から注意を受けた。大隊長は四部員訓練の有効なことを確信してはいたが、指揮官より注意を受けたことで熱意を失い、他部隊と同様、「最高指揮官の意図に添うよう、訓練を励行せよ」と各中隊長に一任した。これにより同隊も他部隊同様、いかにすれば訓練をやっているかのように見えるか、ということに努力する無意味な訓練に戻っていった。
 最高指揮官は、あくまで戦闘第一主義で、いかに餓死者が増加しても訓練の励行を第一、と心掛けていた。もし最高指揮官が食生活第一、訓練第二の意思を若干でも示していたなら、当時の窮状から、総員が銃を手にすることを忘れ、全兵器を錆びつかせていただろう。
 しかし、もし訓練が全廃されていたとして、それにより餓死者が減少したかどうかは疑問である。一方で、もし敵攻略部隊が来襲してきたとしても、敵に与え得る損害が、訓練全廃によりどの程度減じていたかも疑問である。
 要するに飢えが全島を覆っていたのだ。

             伝 単 撒 布( 後 期 )

 昭和20年になってから伝単投下がふたたびはじまり、2月中旬頃からは特に盛んになった。
 伝単の内容は、いずれも直接間接に降伏を勧告するものであった。すなわち軍閥を誹謗し、平和な新日本を建設せんとする者は降伏してこい、降伏させるのは日本人を奴隷化するものではない、と強調していた。また、捕虜の優遇されていることを書き立てて、サイパン島などの日本人捕虜の日常生活を写真入りで説明していた。患者が手厚い看護を受けている写真があった。食事を充分に与えられている写真もあった。大きな皿に、色とりどりの握り寿司がいっぱい盛ってある色刷りの写真は表現がおかしかった。アメリカは平和の女神である、大慈大悲の菩薩である、ということを示すものもあった。降伏の意思があれば滑走路に布板信号を出せ、捕虜になりたい者は離島に渡って哨戒機に合図せよ、といってきた。指揮官がそれを許さないなら有志の者で指揮官を殺害し、しかるのち降伏の合図を出せ、というのもあった。
 文章は、はじめは英語を直訳したものか、二世が書いたと思われるものが多かったが、やがて捕虜に書かせるようになったらしく、きちんとした日本語で書かれたものが次第に多くなった。なかにはかなりの名文もあったが、つまらない誤字が混ざっていたりして、やはり教養低き日本人捕虜が書いたのだろうとの感があった。
 20年11月9日、双発のダグラス輸送機がやってきた。上空を数回旋回したが、飛び去る様子も爆撃する気配もなく、向こうの司令官か誰かが偵察を兼ねて遊覧飛行にでもやってきたのだろうか、と話しながら食事についた。すると飛行機から拡声器でなにか話をしているようなので、みな小屋の外にでた。
 「今日ハ皆様二音楽ヲ聴カセテアゲマス。爆弾ヲ落トサナイカラ安心シテ今日一日ヲ楽シンデ下サイ」
 などと言っている。そのうち音楽にかわった。♪ 昔恋しい銀座の柳………といった古い流行歌が多かった。はじめのうちは600メートルぐらいの高度だったが、やがて500、400メートルと高度を下げてきた。バリ、バリ、バリッ!と地上から対空砲火を浴びせると、機は急に高度をあげて2、3回旋回したあと、飛び去っていった。
 サイパン島の収容所で発行している日本語新聞を投下したこともある。捕虜がキャンプ内で自治生活をしていることを知らせていた。第○番テント村の組長何某が、家庭の事情により辞表を出したので、後任の選挙を○月×日に行う、とか、○月×日こどもたちに対し、菓子の配給を行う。○月×日から○月×日まで捕鼠競技を行い、賞品を出す。まだ便器に蓋をしない者があるから注意するように。何某はアメリカ兵から禁制の缶詰をもらい、テント内に持ち込んだので拘禁5日にする。何某は倉庫から食糧を盗み出したので、拘禁20日にする。○月×日、B29約250機が東京・横浜を爆撃した、というような記事内容だった。
 アメリカの雑誌『LIFE』を投下してきたこともある。比島沖海戦の作戦経過が載っていた。その写真および図面から、日本艦隊の全兵力が投入され、しかもその大部分がやられたことが推測された。しかし昔のライフに較べて紙質が非常に悪かったので、アメリカもやはり物資が欠乏していることが知られた。
 このように敵はさかんに宣伝につとめたので、ウオッゼ本島でも朝鮮人工員ばかりでなく日本人兵士の中にも逃亡して捕虜になる者がでた。伝単はみな熱心に拾われたが、これは紙不足の折とてチリ紙にするためであった。

             司 令 埋 没 す

 昭和20年7月頃、敵の撒布した伝単のなかに、第64警備隊からの逃亡者2名の写真が載っていた。そのうちの1名は司令従兵をやったこともあって、島内事情に詳しかったので、彼らの情報で、島内主要部分に対する爆撃が今後行われるのではないかという懸念が出てきた。
 そのため、毎月1日と15日にやっていた部隊長会報を不定期とし、日時もその都度特令されることになった。また、もっとも爆撃される可能性のあった中地区の当直将校は、昼間のみ内海岸に避難することにした。
 7月31日になると、はたして中地区に対する集中爆撃があった。来襲機数は約15、司令防空壕は至近弾を受けて埋没した。敵機の去ったあと、ただちに掘り出し作業のために作業員を集めようとしたが、みな体力が衰えていて思うように集まらず、小隊長や中隊長、大隊長、防備部隊の副官までがスコップを持って掘り出しにかかった。
 このとき外海に駆逐艦が1隻現れ、3千メートルぐらいまで近づいて、本島の状況をうかがっていた。みな掘り出し作業に一生懸命だったが、すぐそばには不発弾も2発転がっていた。一人が防空壕の上に登っていくと、叢のなかから、ココ、コッ、と鶏が一羽驚いて飛び去った。司令が愛育していた鶏で、それまで気絶していたものらしい。
 防空壕の入り口が開いたのは、爆撃後2時間あまり経ってからだった。壕内には8名ほどが入っており、戦死1名、重傷2名で、司令は無事だった。その日夕刻から、あちこちで爆弾が作裂した。不発弾だと思っていたのが時限爆弾だったのだ。司令防空壕のそばに転がっていたのも、1発は夜に、もう1発は翌朝になって爆発した。救出作業が手間取って、もしその最中に作裂していたら、副長以下2,30名の中枢部の者が全員爆死または重傷を負ったことだろう。
 降伏調印後、本島に見学にきた米軍士官の一人が、司令に次のように話した。
 「あのときの爆撃は私が指揮をした。もちろん目標は司令防空壕だった。爆撃が終わるまで、ずいぶん長く感じられたのではないか」と。
 また降伏調印後、重傷患者はメジュロ島にある米軍病院に入院したが、そのなかの一人が10日ぐらい後に退院し、帰島してきた。彼は入院中に、栃木県出身の志水雅盛なる日本人捕虜に遇った。志水はそのとき、得々として次のように語ったという。
 「自分は6月頃、ウオッゼ本島から離島に渡り、そこから合図して米船に拾ってもらった。司令防空壕の位置は、自分が教えてやった。司令は死ななかったかナ。内地に帰ってから軍法会議に廻されるって?そんなことは絶対にないよ。将校たちは戦争犯罪人としてみな殺しにされ、そのような者がいなくなってから自分たちが日本に帰るのだ。内地に戻ったら、自分たちには重要な指導者としての地位が与えられるのだ」と。

             日 施 哨 戒

 敵は毎日午前午後の2回、航空偵察にやってきた。2機編成で環礁上を2旋回していた。日の出後3時間ぐらいのときと、日没1時間前ぐらいにやってきた。この偵察機は爆撃も銃撃もしなかった。地上砲火が弱体化してからは、かなり低空で、ときには50メートル以下の高度で面白半分に偵察しているのではないか、と思えることもあった。後部席の者が、機銃を構えているのが地上からもよく見えたが、それでも射ってくることはなかった。この点は、敵も軍紀厳正であった。爆弾を携行することもあったが、本島に対して投下することはなかった。
 われわれはこれを<定期>と称していた。天候不良のときも欠かさずやってきたらしく、機影はみえなくても爆音は聞こえていた。戦線よりはるかに後落し、味方からも全然その存在を忘れられたかのような孤島に対しても、このように哨戒を怠らず、しかもその偵察は綿密をきわめていた。

             逃 亡 者

リキエップ環礁 籠城2ヶ月ぐらい経って、警備隊の兵員3名が行方不明になった。陣地に供給してあった応急糧食を持ち出して、カヌーに乗って逃げ出したのである。「本島にいても糧食は欠乏し、餓死を待つばかりなので、隣にあるリキエップ環礁に行って敵艦を捕獲してくる」といった内容の置き手紙があった。途中でカヌーが転覆して海中の藻屑となったか、あるいは敵手に捕らえられたか、彼らの最期は不明である。敵艦捕獲の妄想よりも、ウオッゼ環礁から逃れ出ることが目的だったのだろう。ともあれ逃亡第一陣がこれであった。
 逃亡者が増加し出したのは、籠城第1年目の終わりごろからである。半島工員(朝鮮人)約20名がルーエ島に渡り、同島からリキエップ環礁に泳ぎ渡ろうとした、という噂が立った。この工員たちも途中で水死したか米軍に救助されたか、不明である。ウェトウェルク島に派遣されていた9名の農園係が、総員、米軍に船で連れ去られたこともあった。
 20年5月頃、ウォルメージ島に農園係として派遣されていた朝鮮人工員7名が、逃亡を企てたことがある。外海の海岸から600メートルのところに、米軍の舟艇1隻がきていた。7名の工員が突然持ち場から脱走し、その舟艇めがけて一斉に泳ぎ出した。当時、同島には某主計特務中尉が農園係指揮官として派遣され、約100名の農園係と数名の銃隊員を指揮していたが、この銃隊員に、舟艇に向かって必死に泳いでいる逃亡者を小銃で射撃させた。7名のうち2名が小銃に撃たれて波間に漂い、2名は米船への逃亡を断念して、一時隣の小島に泳ぎ逃げた。他の3名は米船に近づき、甲板から投げられたブイに掴まって同船に収容された。
 その当時爆撃は非常に少なく、月に3回か4回ぐらいだったが、この日の午後、ただちに小型機十数機がやってきた。本島上空を2航過したあと、ウォルメージ島に向かっていき、そこを爆撃した。翌日、敵は「逃亡しようとする者に妨害を加えるならば、昨日のような報復爆撃を行う」との伝単を投下した。
 ウオッゼ本島には敵船が近づいてくることはなかったが、上記のような離島にはしばしば近接してきて、派遣員を誘引し、奪い去った。敵船に収容された者は、ウォルメージ島の沖合で、「何某、本日無事、本船に収容されました」と拡声器で放送した。そして先に収容されていた者は、米軍は捕虜を優遇すること、糧食を十分に給与すること、などを述べ、飢餓状態にある者はドシドシやってくるようにと宣伝していた。みずから進んで宣伝しているのか、無理やり放送させられているのかは分からなかったが、逃亡したぐらいの人間であるから、進んで放送に従事していたのであろう。

             ウ オ ッ ゼ 攻 略 計 画

 降伏書への調印を終わった後、米連絡将校が語ったところによれば、米軍は当初ウオッゼを占領する計画であった。
 昭和19年2月、彼らはクェゼリンおよびルオット、それに続いてブラウンを占領した。このとき同時にウオッゼも占領する予定だったが、防備が厳重らしかったのと、ウオッゼを残しても作戦上たいして支障がないので、無用の損害を避けて取り止めたのだという。
 「なぜウオッゼの防備が厳重だと思ったか」と問うと、海岸の戦車防壁が他島に較べて完備していたこと、対空射撃がきわめて猛烈だったこと、の二点を挙げた。対空射撃が猛烈だったのは、各航空隊のもっていた多数の航空機搭載用機銃に応急架台をつけて、対空射撃に転用したからである。
 かくて全員玉砕を免れ、代わって籠城六〇〇日の飢えと戦うに至ったのであった。

         
                       

第三章  内    務   

             島 内 通 信              

 電話は約50箇所に設置され、交換台は警備隊の指揮所防空壕の中にあった。このほか、主要箇所には指揮用の直通電話が仮設してあったので、局内通信はおおむね完備していた。
 ところが爆撃によって電話機を破壊され、電話線を切断され次第に各部署とも不通になっていき、終戦時には、わずかに当直室、電信室、司令室、第552大隊(旧第552航空隊)本部の4箇所に残るのみとなった。直通電話も、はじめのうちは各部隊で隊内通信に有効に利用されていたが、やがて電池が消耗して使用不能となった。
 このため所用事項の伝達には、そのつど伝令を走らせ、急を要する場合には機銃車(機関銃を装備したサイド・カー)を走らせていた。しかしこの頃になると、戦況も内務関係もたいして急を要することがないので、連絡時刻を決めて文書交換を行うことにした。毎日午前8時に、各部隊から連絡員を庶務担当の副官部に派遣し、命令の受領や事務連絡などをおこなった。
 戦闘中の隊内連絡としては、陸軍部隊が野戦用の携帯無線電話機を持っていたので、これで連絡をとることにしていた。

             敵 側 放 送

 無線連絡は最後まで確保されていた。しかし籠城当初に暗号書のほとんどを焼却したので、作戦関係の電報は傍受しても解読することができず、内地から放送される新聞電報で戦況の概略を察知するだけであった。その後戦況が不利になるにしたがい、日本側放送だけでは戦況の推移を充分知ることができず、漸次敵側の放送に重きをおくようになった。
 戦時放送は、とかく自国に有利なことばかり報道して相手側の戦意を挫こうとするため、島内においても一般の者は外国放送を聴取することが禁じられていた。毎日、通信長または通信士が外国放送を傍受し、翌朝これを最高指揮官に報告して、そのとき副官その他の上級士官が傍聴した。
 最高指揮官は毎日この報告を聴いて、戦局の推移を知る一資料としていた。そして早くから日本の敗戦を憂慮し、ときおり幹部にもその旨洩らしていた。それがやがて従兵の口から一般の耳に入り、司令に対して不満の念を抱く者も出た。
 外国放送は感度の関係で、夜間しか傍受できない。たいていメルボルン放送で、重大な作戦のあったときは、リスボン放送やサンフランシスコ放送も聴いていた。これらの放送には、あきらかに虚偽と判断できるものもあったが、おおむね正確な放送をしているように思われた。

             電  灯

 島内には、500キロワット発電機2基と、60ないし150キロワット発電機が6基あった。大型発電機の方は耐弾式発電所内にあったが、19年5月3日に直撃弾を受けて全壊した。それでも基地設備が完備していなかったため、常時小力量の発電機1基で充分であった。これらは各砲台の附属発電所に装備されていたが、累次の爆撃で漸次破壊され、終戦時までかろうじて運転可能だったのは、第1、第3砲台の各1基であった。
小型発電機(1)小型発電機(2) 発電機そのものは最後まで運転可能であったが、点灯し得たのはわずか数箇所にすぎない。敵の攻撃を受けるや、各部署の電線はたちまち切断され、第1日目にして全島の大部分が電灯なき生活となった。司令室、電信室、当直室など、作戦上必要なところはただちに修理されたが、一般に対しては点灯など思いもよらず、ただ一部の者が独力で自分の防空壕に電線を引いて、盗電的に点灯していたにすぎない。ことに籠城が長期化してからは、電線も欠乏し、電球も残り少なくなってきたので、最後までずっと点灯を続けたのは、上記のほか、第552大隊本部、施設部本部、主計長宿舎、内務長宿舎の4ヶ所程度だった。
 この発電機の運転は、警備隊の機関兵がやっていた。その機関兵も次から次へと死んでいき、はじめ30名ぐらいいたと思われる機関兵もついには3名となり、元航空隊員だった飛行機整備員の応援を得て、やっと運転を続ける状態だった。

             時  鐘

 海軍部隊は、陸上にあっても海上と同じように、30分ごとに時鐘を鳴らしていた。はじめは高角砲の薬莢を時鐘代わりにして、カンカンカンと叩いていたが、やがて一人が時鐘を入手してきたので、薬莢は本物の鐘と取り替えられた。籠城が長引くにしたがい、故障していない満足な時計を持っている者が少なくなったので、これらの時鐘は時を知るのに非常に役立った。
 離島では、本島と連絡のあるつど、時間の整合をやっていたが、普通は潮の干満と潮汐表とを照合して、時間を推定していた。また太陽の高度をはかって時間を知る方法も用いられていた。

             気 象 観 測

 ウオッゼには、トラック島の第4気象班から約10名の気象員が派遣されてきていた。また、東京気象台出身の予備士官が2名いたので、気象観測にはなんら不便を感じなかった。
 19年2月ごろ、観測所および同防空壕に直撃弾があって、気象班の者ほとんど全員が即死した。気象観測そのものには支障がなかったが、飛行機が全部なくなってしまってからは、気象を問題にする者など全然いなくなった。

             懲 罰 処 分

 海軍における懲罰処分には、拘禁と禁足とがあり、拘禁は30日未満、禁足は60日未満を科することができた。それより軽い者は上陸止めにすることもあったが、作戦地では上陸止めも禁足もほとんど意味がないため、懲罰はすべて拘禁処分とされた。
 懲罰をうける者の大部分は、糧食窃盗によるものである。糧食関係の犯罪は、平常時はともかく、籠城生活においては特に厳しく罰する必要があった。悪質でない場合は5日、悪質な者は10日、二人以上共謀したときは15日の拘禁が標準となった。
 みなが糧食欠乏のため体力の衰えているとき、拘禁されている者が終日寝転んで、しかも規定量の糧食を摂るのは不合理だというので、やがて給食は規定量の半分にまで落とされた。初期の2割減食、3割減食のころは、その半量給食でも体力に致命的影響を及ぼすことはなかったが、規定量が240グラム、200グラムと減ぜられてからは、その半量給食により、拘禁所内で栄養失調死する者が次々とあらわれた。また、たとえ拘禁期間を無事了えた者も、拘禁中の栄養不良のため、旬日を出でずして死ぬ者が多かった。
トーチカ化された水槽 拘禁所は、空襲のときに避退しなくてもよいように、防空壕の余ったものや、コンクリート製の水槽あとを使用した。しかし特に悪質と認められた場合は、胸に「この者は、○月×日、副長自作のトウモロコシを窃取した」などという木札をぶらさげ、人通りの多い道端のヤシの木に縛りつけて、敵機が来てもそのままにされた。
 このように拘禁といっても、結果は相当殺人的な処分であった。さらに、敵に投降しようとした者や、上官を殺害した者などに対しては、それ以上の重罰を科する必要があったが、籠城という特異な状況下にあっては適当な懲罰方法がなく、結局、拘禁か然らずんば銃殺、の極刑しかなかった。

             軍 法 会 議

 昭和19年10月21日、上官殺害事件がおきた。犯人を処分しなければならなかったが、後方との連絡が全然ないため、内地または艦隊司令部に後送することができなかった。さればとて護送可能になるまで島内に収容しておくのも、施設の関係と一般への影響から芳しくなかった。島内で非公式の軍法会議を開くことも考えられたが、それは規則上認められていなかった。島内に戒厳令を布くという案も出たが、それは臨時軍法会議以上に困難なことであった。艦隊司令部からは、「軍律二照ラシ処分シテ差支エナイ」という、分かったような分からないような指令が来た。そこで事件の内容を審査するため、第8大隊長、第5大隊長、衛兵司令、主計長、防備部隊副官、ヤシ主任の6名がその任に命ぜられた。第8大隊長は数年前、呉において軍法会議の判事を命ぜられたことがあり、主計長、防備部隊副官、ヤシ主任はいずれも法学士であった。この6名が、軍法会議に準じて裁判を行った。裁判は11月下旬にはじまり、約1ヶ月かかった。
 犯人は結局、最高指揮官の断により銃殺とされ、その数日後、刑が執行された。
 その後も重大犯罪があった場合は、このような軍法会議様のものが組織されて、裁判が行われた。


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