『籠 城 六 〇 〇 日』 


第四章  離    島

             離 島 へ の 憧 れ               

 人心が悪化し、食べることだけに窮々としていたウオッゼ本島の者にとって、離島は終始あこがれの的であった。見張り員として派遣される者、ヤシ採取の作業員として派遣される者、いずれも喜色に満ちて出発した。離島といってもさほど食糧が豊富にあるわけではないが、ヤシだけは腹いっぱい食べられた。もっとも腹ごたえのある食べ物がヤシだったから、それが充分食べられるということは非常にありがたいことであった。
 しかし身体があまり衰弱している者は、離島へ行っても作業ができないため、少し弱りかけたぐらいの者が選出された。かれらは帰島時、ヤシをたくさん袋に入れて持ち帰った。やがてヤシの個人的持ち帰りが禁じられ、取り調べが厳重になると、コプラ(ヤシの脂質部分)を一立方センチぐらいに刻んで、着替えのあいだに隠して持ち帰った。その後、所持品検査はますます厳重になり、不法持ち込みはすべて没収されることとなった。
 籠城2年目を迎えて、逃亡者が続出するようになったが、これも敵の宣伝に惑わされたというより、離島のヤシに誘惑されたという方がおおきい。

             離 島 管 理              

離島との境界 昭和19年3月から、離島へ行くのに許可が必要になった。それでも糧食が欠乏するにしたがい、無断で渡ってヤシを持ち帰る者が増えてきた。離島への渡渉箇所には見張り員がいるが、夜間は居眠りする者も出るし、帰りにヤシをくれるなら見逃してやるという者もあり、離島のヤシはどんどん荒らされていって、次第にその被害が遠方の離島にも及ぶようになった。
 離島の物資を有効に利用し、糧食欠乏による餓死者の増加を防ぐため、全員を各離島に均等に分散しようという案がしばしば出された。しかし兵力を分散するということは戦闘の原則にもとり、基地防衛という本来の任務に反するというので採用されなかった。 8月中旬、離島管理に関して首脳部でいろいろ画案され、下旬、各部隊の長が集められ会議が行われた。その席上、各部隊ともその兵力の1割以内を派遣することが認められた。そのほか、離島面積をなるべく各部隊の人員に比例させること、旧802航空隊の管理はなるべく本島近くのものにすること、陸軍は塚部隊を南方に、高橋部隊は北方にすること、施設部および航空廠は、工員の大部分を漁労作業員として派遣するため、小さい離島を管理すること、などが決められ、翌々日、離島管理規定が公布された。
 このように離島管理は、その主旨ははなはだよかったが、たいした成果は挙がらなかった。派遣された者たちが自己の安逸のみをむさぼり、当初考えられたような多量の物資を本島に送り込む件が遂行されなかったからである。それでも離島派遣員に対する配給が本島在島員の8割であったこと、管理開始後、8ヶ月ぐらいしてから若干の農作物を本島に送るようになったこと、それまで手放しであった離島のヤシの実を盗難から防ぎ、いくばくかの成熟したヤシの実を本島に送ったという点で、いくらかの効果があったともいえる。

             離 島 生 活              

 離島の一つ、エニブンには30名ぐらいの人員が派遣され、農耕に従事していた。夜明けとともに起床、宮城を遥拝し、体操をやってから朝の作業にかかる。朝食が終わってからまた畑に行く。開墾はまず密林を伐り拓く。ツルハシやスコップで耕す。畝をつくる。土をふるいにかけて石を取り除く。堆肥をいれる。下肥を大事そうに少しずつかける。あるいはカボチャについたアブラ虫やトウモロコシについた青虫を手でもみ殺す。水かけ、堆肥作り、肥料が足りないときは、海岸にいる黒ナマコを採って堆肥にまぜる、などなど 
 一方では、干潮を利用して漁労作業に従事した。鉾で魚を刺す。タコを探す。貝を拾う。各自手作りの水中眼鏡をもっていた。このようにして採った魚貝類と、畑で栽培した雑草とが主食だった。
 炊事は係の者が2名専門にやっていた。食器は本島から携行した。体力のもっとも衰えた者が1名、製塩係に選ばれて朝から晩まで海水を煮ていた。時計は一人だけ動くのを持っていたが、一日1時間ぐらいの狂いがあった。明るくなったら起きて、暗くなったら寝る。潮が引いたら漁労をやる、というだけなので、正確な時刻はそれほど必要でなかった。
 夜は全然燈火のない生活。終日の労働で暗くなったらすぐ寝てしまった。寝るときはちょっと毛布をかけるだけで、一日中ハダカで裸足の生活である。また、この島には蚊が全然いなかった。離島にも蚊のいる島といない島とがあったようだ。飲料水は、もと島民が使っていた井戸があったので、不自由しなかった。チリ紙は本島でも相当欠乏していたが、この島ではみな木の葉を使っていた。

第五章  資    材   

             被  服              

 宿舎火災のため、被服類を早くから無くした者が多い。それでもはじめの頃は主計科の乏しい在庫からできるだけ補充していたが、被服庫が炎上してからは、死没者のものを流用するようになった。
 靴類は早くから不足し、19年12月、「当直中又ハ訓練ノ時以外ハ、下駄ヲ使ツテモ差支エナイ」という告示が正式書類として出された。下駄といっても手製の木履で、機械用のベルトで作った草履も流行した。太いロープを解いて、それで草履を作った者も相当あり、カボチャと交換していた。草履2足とカボチャ1個の割合であった。 
  衣類とヤシの実とを交換していた者も多い。ヤシの実は無断で離島に渡って盗んでくるのだが、軍人よりも軍属、ことに朝鮮人工員に多かった。このため軍人の方は被服を手放してヤシと交換するので、漸次ふんどしで素足の生活をする者が増えていき、一方工員は、軍人よりも整った服装をするようになった。

             日 用 品  

 爆撃開始と同時に宿舎はたちまち破壊されて、壕内生活がはじまった。ほとんど全部がロウソクを用いていたが、これも1週間ぐらいでなくなったので、各壕ともカンテラを自作して、航空用揮発油を燃やしていた。また蚊帳を吊ることができないので蚊取線香を使ったが、これも2週間ぐらいで皆無となったので、代用壁を蚊遣りとして燃やした。これも10日ぐらいでなくなると、破れた蚊帳をいろいろ細工して壕内でも使えるようにした。
 マッチは1ヶ月ぐらいで無くなった。運用科、主計科では最後までいくらか持っていたようだが、一般にはマッチなしであった。飛行機用発動機に付いていた磁石発電機を利用して、電気マッチを作ったところも数箇所あった。また、航空写真機のレンズを外して太陽熱で火を起こしていた者もいたが、ほとんどの小屋が発火装置を持たず、他所から火種をもらって炊事をしていた。
 石鹸も早くから無くなったものの一つである。これは代用品がなく、入浴はもちろん、洗濯も石鹸なしでやったので、身体も衣類も完全にはきれいにならなかった。ごく一部の者は木灰で洗濯していた。身体が衰弱するにしたがい、入浴もできなくなり、全身に皮膚病の出た者が少なくなかった。歯ブラシや歯磨き粉もなくなったので、起床時、歯を磨いていた者は百人に一人もいなかったであろう。しかしそれが原因で歯を悪くした、という者はなかった。タオルはシャツ類を裂いて代用していたので、別段不便はなかった。
 針や糸もすっかり欠乏し、針は一本5円ぐらいで売買されていた。糸は、破れ靴下を解いて、これで服の修繕などをやっていた。また漁労用の網は、ケンバス(帆布)を解いて作った糸で編んだ。ケンバスは天幕の破れたものや、被服梱包用の袋を使った。これらのものは当初雨露に晒され腐ってしまい、残っていたものも少なかったが、これで網が作れると分かってからは、非常に貴重品扱いされた。
 時計修理の技術を持った者が2、3名いて、カボチャやトウモロコシ、魚と交換で修理をやっていた。しかし時計の必要性が少ないのと、糧食欠乏が甚だしいため、時計が動かなくなっても修理しようとする者はそのうちいなくなった。
 食器類は、死亡者が増えていくにしたがい、余裕が出てきた。被服類も人員の減少にともない、あまり不足を感じなくなり、内地引揚げの時には、みななんとか軍服らしい軍服を着て帰ることができた。

             燃 料 油

 補給路を絶たれた当時、残存航空燃料は100万リットルぐらいであった。燃料庫やヤシ林の中に分散しておいたものは、爆撃のためほとんど炎上してしまい、離島に分散してあった5万リットルぐらいが残った。
 この揮発油は自動車や大発に使われた。当初、火焔瓶の充填にも使ったが、そのうち中身が空になった火焔瓶は充たされないまま、放棄されていった。全然人けのない陣地内に、中身のないサイダー瓶が火焔瓶として転がっているのも情けないものだった。
 また危険を伴ったが、石油がなくなってからは燈火用のカンテラにも用いられた。砂に滴下して炊事に使う試みは成功しなかったが、密林を開墾するため、ガソリンをばらまいて、潅木を焼きはらっていた者もある。
 ドラム缶ははじめ土中に埋めてあったが、燈火用に無断で盗む者が多くなった。なかには肥料溜に使うため、中のガソリンを捨て、ドラム缶だけ盗んでいく者もあった。ガソリンはこのようにずいぶん荒っぽく使われたが、それでもまだずい分余裕があった。籠城が長引くにつれていくぶん心配になってきたので、20年5月、燃料の徹底的調査が行われた結果、当時の消費量を続けたとして、昭和22年中ごろまでの量があった。

             資 材

 トタン板や直径10ミリ位の鉄筋棒、金網は建築用材料として多量にあった。爆撃にも慣れてくると、壊された宿舎の柱やこのトタンを使って、地上に小屋を作るようになった。金網は畑の土ふるいに使った。そのためトタン板や金網は早くから欠乏したが鉄筋棒だけはいつまでも転がっていた。
 また多数の窓ガラスが破壊された。なかには割れずに残ったものもあるが、ガラスは必要価値がないので、容赦なく踏み砕かれていた。漁労が盛んに行われるようになってからは、水中眼鏡を作るのにガラスが利用されたが、これは破片で充分まにあった。ほかには、カンテラの風よけに3枚のガラスを三角な枠に組んで使った。
 板材や角材は、当初燃料に使われていたため、19年の終わり頃からすでに不足を感じはじめていた。20年4月、司令宿舎が破壊されたときには、再建用の材料が見当たらず、ウォルメージ島の公学校の校舎を壊し、その材料を本島に送ったほどである。
   

 ドラム缶は風呂や塩炊き缶、肥料溜に使われた。農作に専念するようになってからは、肥料桶としての使用が非常に増え、入手が困難になってきた。


       

第六章  施    設   

             天 水 採 取 装 置               

 マーシャル方面にはたいした伝染病はなかったが、赤痢やトリコモナスによる下痢が多く、新渡島者はたいてい一度か二度これにやられた。井戸を掘っても、珊瑚礁なので良好な水はなかなか得られず、そのため飲料水にはもっぱら天水を使用し、ちょっと大きい建物にはすべて天水採取装置が設けられていた。また飛行場への降水を全部大水槽に導き、これを濾過して水圧を加え、水道式にするという計画があったが、3分の1ぐらいしか工事が進んでいなかった。

             便  所               

 便所は各宿舎ごとにあったが、爆撃後はどうやら使えるものが少し残ったぐらいである。下痢が大流行したことと便所の数が減ったこととで、その使用回数がグンと増し、汚れ具合はすさまじいものだった。下痢のため、暗やみの中をあわてて走り込み、反対むきにやったと思われる跡もしばしば見られた。各部隊入り乱れて使ったので掃除する者もなく、二人の将校が見るに見かねて掃除をしたこともあるが、やはりすぐに汚れてしまった。籠城がはじまってからは、便所も各小屋の近くの畑の中に作られた。屋根まである便所はごくわずかで、たいてい三尺ぐらいの高さのトタン板で3方か四方を取り囲んだものである。トタンがなかなか入手できなくなると、全然囲いのない便所にしゃがんでいる姿があちこちに見られた。

             窮 乏 生 活               

 防空壕は、セメントがないのでただ土を掘り下げ、ヤシの樹を渡し、その上に土を覆うだけのものである。珊瑚礁なので山が全然なく、山腹に横穴式の防空壕、といったものはつくれない。大潮の時の水面を考えて穴を掘ったが、それでも7、8月の高潮時に浸水して使えなくなった壕がだいぶ出た。周囲の壁の部分と天井にヤシの木を並べるのだが、1年ぐらいで腐ってボロボロになった。
 たび重なる爆撃で、各小屋も壊されては作り、壊されては作り、やがて材料が乏しくなるにつれ、小屋もますます粗末になっていった。爆撃の弾片で天井のトタン板が穴だらけになり、スコールの降った時は毛布がピショ濡れになった。恒常風が東から来るため、スコールに備えて東側だけ囲いがしてあった。

         

 入浴は、風呂を沸かしてもいつ空襲があるか分からないので、いつも戦々競々として入っていた。逃げる余裕のないときは、セメント作りの浴槽の隅に小さくなって、素っ裸のまま頭に洗面器を載っけていた。浴室が全部壊されてからは、各小屋でドラム缶風呂を沸かしていた。しかし体力が衰えてからは、燃料不足もあって、よほどゆとりのある者しか入浴しないようになった。はじめ天秤棒の両端に桶をぶらさげて水を運んでいた者も、やがて天秤棒の真ん中に桶を一つぶらさげて、二人でそれを担ぐようになった。それもふらつきながらなんとか歩いている、という感じで、炊事用の水を運ぶだけで精一杯であり、風呂を沸かす、などというのはとてもできない贅沢になった。
 洗濯もなかなかの力仕事であり、身体が衰弱すると洗濯もできなくなった。いつも汚れた服を着る。風呂にも入れないので身体も不潔になる。ただでさえ皮膚病になりやすいのにこの不衛生だから、皮膚病が蔓延する。そしてこのような者は、たいてい栄養を補うこともできず間もなく死んでいった。
 このような状況下でも、なお畑作りだけは精出して行われ、ちょっとでも利用できるところは全部畑になった。弾痕の中、防空壕の上にもカボチャの蔓がうねうねと這い回っていた。そのカボチャ畑のあいだに小さな粗末な小屋があちらこちらに点在していた。人間は骨と皮ばかりになって杖をつき、風にあおられてフラフラしながら、とぼとぼと歩いていた。


第七章  士    気   

             士 気 の 沈 滞                

 昭和19年9月中旬、中地区に対する爆撃がさかんに行われた。この時司令はさっそく北地区に避難した。司令がこのようなつまらぬ爆撃で戦死するのは本島にとっても不幸であるし、また宿舎の関係上やむを得ない点もあった。しかし、「司令が北地区まで逃げられるのだから、われわれも逃げなければ危ない」というので、中地区にいた軍属はもちろん、軍人も他地区に避難し、当直将校まで警報のサイレンを鳴らしっ放しにして海岸の方へ逃げていった。
 20年4月、会議の最中、通信士が持参した電報を司令が受け取り「離島見張り員から来た電報だ。『敵駆逐艦二隻、輸送船三隻接近中、上陸用舟艇十隻ガ<ニーブン島>ニ向カヒツツアリ』 どうすればよいか、意見のある者は?」と言ったとき、臨席していた士官のうち、少なからぬ者が精神的動揺を顔にあらわした。しかしこの電報は、士官の訓練のため司令が仕組んだ芝居であった。

             朝 鮮 人 の 資 質  

 施設部工員の約三分の二が朝鮮人で、その数は400人ぐらいであった。なかには日本語も充分しゃべれず、素質のよくない者もいたが、各部隊から選出されてきた者なので、その大部分は優秀で、団結心が強かった。糧食が欠乏し、道義が地に堕ち、軍人たちもみな利己主義に陥っていた時、彼らは決しておたがいの団結を失わなかった。20ヶ月にわたる籠城生活で、朝鮮人の死亡率がもっとも少なかった原因のひとつが、この、よく団結した糧食増産にあったともいえる。ちなみに、敵の伝単撒布の中には朝鮮文字のものもあった。そこには戦後、朝鮮に独立を与える意思あることが示されていた。
 彼らはまた義理堅かった。終戦となり引揚げる際、配船の関係上彼らは後回しになったが、われわれが先に帰る時、「長いあいだお世話になりました」と、心から別れを惜しむ者が少なくなかった。そして荷物を持って、桟橋まで見送りにきた。

             < 火 事 泥 > 横 行

 敵来襲の兆がみえると、総員配置につく。あるいは防空警報で、みな退避壕に避難する。その隙をねらって盗みを働く者が出はじめた。盗むのはたいてい煙草か菓子類であった。大切に隠しておいたのが盗まれて、口惜しがる声があちこちで聞かれた。荷物もすっかり荒らされ、トランクなどは鍵を壊して開けるし、縄で厳重に縛っておいても、縄ごとぶち切られていた。もっとも、やられた方も煙草と菓子以外はべつに惜しいとも思っていなかった。司令宿舎もしばしば泥棒に見舞われたし、戦没者の遺留品も落花狼藉のありさまだった。
 なかには手術用具や食器類を盗み去った者もある。こんなものを盗んで何にするのだろう、と当初思われたが、籠城が長引くにつれ、医薬品などは、高価な値段で売買されていった。

             公 務 の 商 売 化

 敵はほとんど毎日爆撃にやってきたが、対空戦闘配置にある者が一部応戦するだけで、他の者はみな、自分の畑が爆撃されないようにと、そればかり念じていた。レーダーを破壊された電探員は、「やれやれ、これで畑に専念できるぞ」と喜び、25ミリ機銃員は「自分たちの砲台も早くやられてくれないかなァ」などと口にしていた。
 剃夫(理髪専門員)もやはり畑をやらなければ生きていけない。他人の散髪ばかりやっていたのでは、食い物に困る。したがってそのうち、カボチャかなにか代償を出さぬとやらなくなった。自動車運転員も、車が故障しているからと言って公用に出さず、そのくせ試運転と称して時々私用に使っていた。電信員も、カボチャを呉れれば新聞電報を写させてやる、などと言い、軍医官の中にも治療の代償として食糧の提供を求める者があった。

             逃 亡 者 の 増 加

環礁遠望 離島に逃亡し捕えられて本島に連れもどされた者の話によると、各離島ともヤシはすでにほとんどなくなっており、その上警戒が厳重なので、なかなか思うように食を求めることができなかったという。またたとえ手つかずのヤシを見つけても、身体が弱っているのでよじ登って採ることができない。しかも逃亡者の常として、いつも戦々兢々としているので、本島にいた方がむしろましだった、とのことである。
 しかし、逃亡者がただ離島に逃げていくだけでなく、敵手に投降する者があるということが確認されてからは、本島の内情がすっかり敵に分かってしまう虞がでてきた。そのため20年2月下旬、逃亡者は全部銃殺にする、という通達が出された。
 逃亡し、または行方不明となった者は、全島で130名ぐらいで、多くは施設部工員だったが、海軍軍人も39名含まれており、陸軍にも相当いた。逃亡後、離島で逮捕され、銃殺された海軍軍人は18名、敵が投下した伝単に写真が載っている者、あるいは敵舟艇から拡声器で名前を告げる者など、あきらかに敵に投降したと思われる者は29名で、その他の者は最後まで行方不明である。おそらくは体力が衰えて潮に流されて溺死したか、密林に隠れたまま餓死したのであろう。

             誤 れ る 部 下 指 導

 昭和20年5月頃、第5大隊で自殺者があった。検死を行った軍医官が、「なるほど、これは本当の自殺だ」と言った。「それでは本当でない自殺があるのか」と尋ねると、軍医官は言を左右にしてはっきりとさせなかった。それと同じころ、次のような事件があった。
 当時、日没は3時半か4時ごろであったが、8時ごろになって一兵曹長が大隊長のところに来て、こう報告した。
 「ただいまわが分隊の畑に泥棒が入ったので、農園番兵がこれを射殺しました。あとで明かりをつけてみると同じ隊の分隊員でした。分隊長が報告に来られるべきですが、現場の後始末をやっておられるので、代わりに私が報告に参りました。なおただ今のところ、共犯者はない模様です」
 大隊長は、なぜ共犯者はない模様、とわざわざつけ足したのだろうかと思いながら、そのまま床に就いた。翌朝、昨夜の兵曹長がまた大隊長のところに報告に来た。
 「今朝みると、分隊員が1名自殺しておりました。昨夜射殺された者の共犯者で、自己の非を悟って自殺したものと思われます」と。
 しばらくして、次のような風聞が流れた。すなわち、最初に射殺された兵隊はカボチャを盗みに入ったところを番兵から撃たれた。弾丸は大腿部にあたった。同じ分隊員でありながら盗みに入るとは以てのほかだ、と番兵は憤慨したが、「痛い、痛い、殺してくれ」と言うので、射殺した。また、別の分隊員も共犯者であることが分かったので、夜通し「おまえのような人非人は死んでしまえ」と責めて、自殺を強要したらしい、と。
 これ以前にもその分隊では窃盗が発覚し、<その非を悔いて自殺した>者が数名あった。その分隊長は次のように言っていた。
 「自分は、常日頃から部下の者に決して盗みなどしないようにと注意している。そしてもし窃盗のような破廉恥行為をした場合は、自殺することにしようと申し合わせている」と。司令から「大事な陛下の軍隊を預かる者として、そのような指導のやり方はよくないのではないか」と問われると、「今日のように糧食甚だしく欠乏し、みなが餓鬼道に陥っている時には、いくら精神教育をやっても効果があがらない。その上、農作物を盗まれたら、その畑の持ち主の方が餓死することになる。これでは単なる窃盗でなく、殺人にも該当する行為なので、当然、自己の非を恥じて自殺してもかまわない」と答えたとのことである。

             個 人 生 活 と 共 同 生 活

 海軍部隊は、その編成や習慣が艦内生活に適するようになっているため、陸上生活には不適であり、籠城生活がはじまると不都合が生じ、生活単位がだんだんと小さくなっていった。
 具体的には、他人の世話をしなくなり、また他人を信用することもできなくなった。炊事も個人個人で行うようになった。畑も自分一人でやる。薪も自分で捜しにいく。可食植物も自分で採りにいく。缶詰の空き缶を拾ってきては一人で煮炊きを行う、といった具合である。自分のためだから一生懸命やれる、したがって共同生活をしている者よりも能率があがるだろう、と思われたが、実際は、泥棒に対して常時注意しなければならず、また病気になったらどうしようという気持ちもあって、一人での生活は非常に不安定なものであった。
 施設部工員、とくに朝鮮人工員は徹頭徹尾2〜4名の共同生活を堅持していた。そのためか、あるいは戦備作業が軍人よりも少なかったためか、これらの工員の餓死率は軍人よりもはるかに少なかった。全島員の約5分の1が工員であったが、終戦時には在島員の3分の1を工員で占めるようになった。

              将 校 の 実 力

 将校の中には、これでも将校かと疑われるような無能力者もいた。平時、または通常の戦況の際には、彼らも厳正な軍紀の上に乗って、なんとかその責務を果たすことができただろうが、軍紀はもちろん、人道も地に堕ちるような様相を呈してからは、真に実力があり、徳のある者のみがよくその地位を保ち得た。たとえ将校でも、将校たるの資格を備えていない者は部下から見離されていった。小隊長でありながら、部下隊員からまったく邪魔者扱いされ、部下分隊の間を転々と移っていった者もある。
 しかし、食わんがための動物的本能がことごとに現れるようになってからも、なお終戦までの2年間、暴動も起こらず、なんとか治安を保ち得たのは、やはり最高指揮官であった警備隊司令の部下統御が適切だったからだろう。司令のみはあくまでも訓練の励行、戦備の充実を強調し続け、みな不平不満を感じてはいたものの、司令の意思にはできるだけ添うよういちおうは努めていたのである。

    

第八章  糧    食   

             糧  食               

ミレ島 昭和18年1月25日、すなわち敵のマーシャル攻撃の5日前、第4艦隊幕僚と第6根拠地隊幕僚がウオッゼ島の視察にきた。このとき、警備隊司令は「糧食保有量がこんなに少なくては、いざというとき心配である。常に1ヶ年分ぐらいあるように補給されたい」と要請した。これに対し幕僚たちは、「現在は、ギルバートに最も近いミレ島に対する補給が急務になっている。ウオッゼは補給基地たるクェゼリン島が近いから、そんなに心配しなくてもよいだろう」と答えた。
 幕僚たちが島を去ってから、わずか5日後に米軍のマーシャル攻略戦がはじまり、補給基地であったそのクェゼリン島が数日で玉砕、占領され、同時に各基地に輸送する予定であった多量の糧食も一挙に失われた。

             減 食 状 況                 

 規定量は1日720グラムであった。しかし糧食保有量が少なかったため、敵来攻前から供給量を8割にしていた部隊もあった。
 昭和19年3月1日から、在島員全部が3割減食することになった。しかし規定量の720グラムがもともと余裕をもっていたので、3割減になってもあまり大きな影響はなかった。
 4月1日から長期籠城に備え、昼食は粥または雑炊になった。この日から空腹感が急激に増した。
 6月17日から規定量の4割、すなわち288グラムになった。朝100グラム、夕110グラム、昼は78グラムの粥食になった。
 その後さらに減食が強化され、7月18日には210グラムの供給量となり、朝昼それぞれ55グラムの粥、夕食のみ100グラムの飯となった。
 9月1日に210グラムから180グラムに減った。これまでは三食の割り当てを全島一斉にしていたが、供給量があまりにも少なくなったため、今後は各烹炊所ごとに適宜にやれ、ということになった。したがってある部隊では2回給食にした所もあり、3日に1度ずつ堅い飯を作るというやり方をした所もあった。
 11月9日からマゴモック(芋の一種)を主食として配給することとなった。マゴモックそのものは苦くて食べられないが、すり潰して澱粉を採ることができる。そこで芋のままの状態で140グラム(澱粉に精製して約20グラム)と、米麦130グラムが一日の供給量となった。
 翌20年1月6日、さらに減食され、米麦130グラムが110グラムとなった。マゴモックはすでに食い尽くされたので、配給は停止された。
 2月1日から極度の減食が行われ、一人一日70グラム配給となった。これでは共同烹炊が困難なので、全部米のままの現物配給となり、この日以来、烹炊要領は各自まちまちになった。
 6月1日から一人一日45グラムになり、しかもその大部分はカボチャやトウモロコシで配給されたため、米麦は週一回ぐらいしか食べられなかった。
 なお、このような状況下ではあったが、規定量2日分は敵来襲時に備え、応急用として絶対手をつけないように計画されていた。
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 昭和20年9月6日、降伏文書に調印し、翌々日、米軍から若干の糧食を供給された。また同下旬には病院船氷川丸によって21トンの糧食が補給された。しかし事後の補給も引揚げの予定も分からないので、増食は慎重に考えられ、30日から150グラム、引揚げの目途がついた10月2日から300グラム、その翌々日から450グラムとなり、ようやく食事らしい食事を口にすることができた。

             減 食 と 死 没 者

 栄養失調による最初の死亡者が出たのは、昭和19年5月上旬である。減食による体力低下がひどくなりつつあるところへ、さらに減食が強化されたため、これ以後死没者は次第に増えていった。
 国民兵役または補充兵から召集された者は、わりあい早く栄養失調で倒れた。これは階級が低いので、他の上級者に気兼ねして食事を控えめにしたり、日常作業量が他より多かったということのほかに、もともと体力が充分でなかったことによるだろう。総じて同階級の者でも、徴兵検査で合格した体力頑健な徴兵の方が志願兵より死亡率は低かった。
 栄養失調による死亡者がもっとも多く出たのは、冬期、すなわち20年の1月から3月にかけてであった。特に2月がもっともひどく、この1ヶ月間で284名が死亡した。農作物の不出来と漁労の不良、それと急激に行われた減食が原因である。5、6月にはいると農作物、魚貝類とも収穫が増え、終戦直前の1、2ヶ月間は栄養失調による死亡者はほとんど出なかった。

             食 糧 対 策

 全島には最初、主計官が4名いたが、第802航空隊の主計長は、初期の爆撃で戦死した。
パンダナス(タコの木) 昭和19年3月下旬、現地糧食を開発利用するため、糧食主任が決められた。すなわち北島警備隊主計長が農園主任、篠崎元第531航空隊主計長がヤシ主任、岡部軍医少佐が漁労主任になった。防備部隊副官の配置にあった牟田口主計大尉は、翌年5月中旬、漁労対策を強化するため第2漁労主任に任命された。
 糧食主任が任命されると同時に、次のような通達が発令された。
 一、ヤシ、パンの実、タコの実、マゴモック、タロ芋は本島の糧食とみなすので、今後、
   許可を受けた者以外は採ってはならない。
 一、漁労主任以外は爆発物を使って魚を捕ってはならない。
 一、無断で離島に渡ってはならない。
 一、各隊で飼っている豚、鶏は全部登録を行い、無断で殺してはならない。
 一、北地区で施設部が作っている農園は、本島の農園として提供し、農園主任の管理下におく。
 以上の通達が厳重に励行されておれば、栄養失調による死亡者ははるかに少なくて済んだかも知れない。通達違反のうち、もっとひどかったのは無断離島であった。爆発物(ハッパ)による漁労も、禁を破ってさかんに行われた。栄養補給の面では非常に効果があったが、そのため魚群が本島の周辺から離れてしまった。
 豚、鶏の登録はなんの効果もなかった。豚肉は当初1回か2回、配給になったことがある。施設部農園を主任の管理下においたことは有効であった。

             糧 食 庫 番 兵

 要所要所に番兵が配されていたが、減食が進むにしたがい、次第に糧食庫の盗難が増えていき、隊内一般警戒の番兵は、いつのまにか糧食庫専門になった。
 それでも番兵が居眠りしていて盗まれることや、番兵自らが盗むこともあった。あるいは番兵とあらかじめ話をつけておいて盗みに来る者もあり、番兵に番兵を付けなければならぬというので、番兵を二人ずつ立てることにした。しかしそうすると一人が見張りをして、もう一人が鍵を壊して中の糧食を盗むということで、番兵による窃盗をかえってやりやすくする結果になった。こうなると落ち着いて盗めるので、箱の中身だけ抜き取って、箱に再び釘を打ち、繩まで掛けておくので、盗難に気づくまで大分日数がかかった。また衛兵伍長(立直番兵の先任下士官)にできるだけしばしば見回るように命じたが、番兵の隙を狙って衛兵伍長自ら中の糧食を盗み出すという事件もあった。
 立直中の番兵が盗みを働くのは、一般刑法による窃盗罪でなく、海軍刑法による辱職罪に該当するので、このような犯罪者は軍法会議送致予定者として取り扱った。それでもこのような犯罪が次から次へと発生した。ある部隊では糧食庫の扉の前に番兵を就寝させ、同一人に一晩中の責任を持たせたが、これは案外効果があった。

             糧 食 調 節 委 員 会

 減食をどの程度行えぱよいか、ということは難しい問題で、糧食担当者たる主計長に一任するのでなく、高級幹部全体で考えるべきだというので、糧食調節委員会が作られた。しかしこの委員会はその名が示すとおり、糧食の消費を調節するだけで増産面には全然関与しなかったため、<減食委員会>とまでいわれた。
 第1回の委員会は、昭和19年4月30日に行われた。この当時は、「減食などする必要はない。糧食がなくなったら、総員自決するまで」と本気で論じる者もいた。しかし、最高指揮官からなかば押しつけられてなった委員長自らが、委員会に対して積極的熱意を持たなかったため、会議はおおむね低調であった。

             増 食 日

 糧食調節委員会が開かれるつど、減食率が高められるので、島内の雰囲気はだんだん暗いものになっていった。そこで、毎月一日と十五日は増食日とし、この日は乾パン100グラムが各人に増配された。この増食日の制度は配給率が210グラムから180グラムに減ぜられた9月1目からはじまった。
 100グラムというのは、乾パン枚分ぐらいに相当する。それでも各食卓ともこの日を目標にして増産に努め、当日はできるだけのご馳走を作った。このようにして、増食日には栄養はともかくみんな腹一杯食べることができ、陰鬱な籠城生活に若干のうるおいをもたらした。
 しかし保有糧食がますます底をついてきて、乾パン100グラムの増配も困難となり、わずか2ヶ月後の11月にこの制度は廃止された。11月といえば農園・漁労とも不作の時期であったので、その影響は大きかった。それでも四回実施した増食日という観念は、すでに皆の頭にしみこんでいたので、各食卓とも一日と十五日をめざして自らの努力でご馳走を作ることに努めた。この習慣は終戦まで続けられ、もっとも大きな楽しみとなっていた

             将 校 の 特 配

 准士官以上は当直その他の公務があるため、下士官兵のように農耕や漁労に全力を尽くすことができなかった。そのため、直接部下を持たない准士官以上や、部下があっても心服されていない者は、独力で生活していかねばならなかった。このような立場にある准士官以上の中に、そのうち栄養失調で死亡する者が現れたため、20年1月ごろから、准士官以上に対し1ヶ月あたり乾パン900グラムが特配された。枚数にして約30枚、一日1枚ぐらいの特配である。この特配は一般には公表されず、努めて内密に行われたが、多くの将校はこれを自分一人で食べるに忍びず、食事をともにする班員とともに食べた。
 将校に対するこの特配は、あるいは下士官のあいだで問題になるのではないかと懸念されたが、そのようなことは起きなかった。ただ、この特配の乾パンを盗まれた者が2、3人出た。これも特配に対しての反発、というより、空腹のための一般の糧食窃盗事件と同じ性格によると思われた。
 この特配は、島内の糧食事情が若干好転した5月まで続けられた。

             主 食 代 替 品

 農園係が離島でカボチャやトウモロコシを作っていた。これを配給するときの主食への換算率は、トウモロコシと米麦が1対1、カボチャは1キロが米麦100グラム相当であった。


第九章  食  生  活       

             生 活 単 位 

 料理のできた食事の配給は、烹炊員が目分量でやった。大きな杓子とシャモジで、各食卓に応じて配食缶の中に入れる。目分量ではあるが、長いあいだの経験でだいたい間違いはなかった。それでも減食が進み、空腹をかかえるようになると、わずかの多寡でも問題にしはじめた。航空廠では、いちいち秤で計って配食した。
 主計兵は烹炊・配食の際、自分たちの分を多めに配食する傾向があった。減食が進むと、そのことが大きく取り上げられるようになった。ことに粥食になってからは、米粒がたまっている底の方をしかも幾分多めに自分たち用に取っておき、みなには重湯のような上澄みを配食する。そのため第802航空隊では19年6月ごろから、552航空隊は20年2月から、烹炊作業をやめて、各食卓ごとに現品で配給することにした。しかしこれでは、今まで「食事受取レ」の号令で喜びいさんで烹炊所へ受け取りに行っていたのが急にさびしくなるのと、副食(雑炊用の汁)はたくさん作った方が味がよくなる、ということで、汁だけは従来どおり烹炊所で作った。そのうち調味用の材料もだんだん欠乏してくると、副食も材料配給に変わった。
 警備隊本部でも、やはり主計兵が規定量以上に取る傾向があった。しかし本部烹炊所は、他に比して糧食に余裕があったためか、あるいは一人あたりの配給量を若干多くしていたためか、烹炊分散の意見も少なく、最後まで共同烹炊を続けていた。

             配 食 の 仕 方

 ひとつの食卓は当初10名内外で編成されていた。食生活が苦しくなるにしたがい、死亡者の出た関係もあって、3、4名ごとに再分割され、食卓単位ごとにそれぞれ小屋を作って起居を共にした。
 烹炊所からもらってきて食事の準備をする、いわゆる食卓当番は、たいてい若い(階級の低い)兵隊であった。そして古い兵隊には、いくぶん盛りをよくしてやるという習慣があり、この習慣は減食されてからも根強く続けられた。若い兵隊には公の作業のほかに、班内での雑務があったが、それでも若い者が古い者よりも余計に食べるということはできなかった。それで彼らは、古い兵隊には柔らかくふんわりと盛り、自分たちのは押さえつけて外見上は少なく見えるように盛った。やがて若い兵隊の食卓番は辞めさせられ、相当古参でもっとも真面目な兵隊が食卓番に代わったが、それでもなお「オレのは少ない」「貴様のは多すぎる」と、食事のたびに口争いがみられた。
 雑炊になってからは、各食卓ともその内容を充実させ、量を増やすことに努めた。配給された食事にスベリヒユの葉やモンパの木の葉を入れた。スベリヒユはハコベに似ているが、色が赤く、形はやや小さい。島では<赤草>と呼んでいたが、この雑草さえ、12月には天候不良のため、成育が悪くなった。モンパの葉は<兎の耳>と呼んでいた。厚みがあって白い毛が全面についている。あくが強いのでよく水に浸して、二度煮直さなければ食べられなかった。米の量が減ってくるとこれらの雑草だけが食事代わりになった。

      

 食器は、大・中・小食器と湯呑みで一組である。これ以外に食卓ごとに配食鍋(烹炊所から食事を受け取るための大きい缶で、食事後は洗って返しておく)とヤカンがつく。爆撃で烹炊所をやられた部隊では、石油缶や帽子缶を代用したが、死亡者が増えるにしたがい、余裕が出てきた。海軍では陸軍のような飯盒を持たなかったので、6斤(3,6キロ)缶詰の空き缶や配食鍋を直接火にかけて煮炊きをした。また缶詰の底に穴を開けたものでヤシのコプラを擦りおろしていた。
 本の葉や草を主食とし、これにカボチャを若干加えるようになると、カロリー量が少ないため、毎回4、5合入りの大食器で2杯近く食べても、またすぐ腹が減った。3食では足りないので4食も5食もとり、いわゆる飢饉腹という臨月間近の女性のような腹をした者があちこちにみられた。

             薪 と 塩 焚 き

 製塩作業をやり始めたのは、クェゼリンの玉砕により補給が途絶えてから4ヶ月ぐらい経ってからである。海岸から海水を運び、薪を拾い集める。この頃はまだ小隊か分隊が生活単位になっていたので、小屋の近くで海水を煮詰めて塩を作った。
 はじめは壊れた板材や角材が無数に散乱していたが、それもやがてなくなり、枯れ木を切り倒して薪を作るようになった。倒れたヤシの木は湿気が多くて役に立たず、まれに枯れていても火力が弱くてすぐ灰になってしまう。パンの木はよい燃料になったが、樹質が硬くて鋸で挽かねばならず、それだけの体力のある者は少なかった。
 やがて海岸から小屋まで海水を運ぶのが苦しくなり、海辺で塩焚きをやるようになった。少しでも体力のある者は農耕作業に従事し、衰弱のひどい者が塩焚きをやった。
 昭和20年1月ごろ、朝から塩焚きに行っていた杉本海軍兵長が行方不明になった。昼食時に同じ食卓の者が見に行った時は、姿が見えなかったが、鍋の下の火は燃えていた。しかし夜になっても帰ってこないので、翌朝、行方不明の届けが出された。真面目な思慮深い男なので、逃亡も考えられなかったが、翌々日ひょっこり帰ってきた。
 「きのうはどうしたのだ」と訊くと「自殺するつもりだった」という。
 「栄養失調で、もう癒る見込みもないし、生きていてはみなに迷惑をかけるばかりだから」
 「しかし塩焚きをすれば、みなの役に立つではないか」
 「薪を捜して歩くだけでも苦しくて、自分にはもうやれそうもない」
 「なぜまた戻ってきたのか」との問いには、「拳銃を持っていなかったので自殺できなかった。2、3日飯を食わずにいたら死ぬるだろうと思って南地区へ行き、陣地の中に隠れていたが死ねなかった。腹が減ってどうにもならないので戻ってきた」とのことである。
 その後、彼は周囲の者からずいぶん労ってもらったが、栄養の補給がつかず、1週間ぐらいして亡くなった。

             天 長 節 の 増 食

 昭和19年4月29日は、天長の佳節を祝して朝昼は7割、夕は10割の臨時増食だった。しかも夜はボタ餅だった。小豆がないので缶詰のグリーンピースが使ってあったが、この頃はまだ砂糖があったので非常においしく、また腹ごたえもよかった。
 どんな意図に基づくものか、敵はちょうどこの日に最初の伝単をバラまいた。前線の痩せこけて骨と皮ばかりになった兵隊が、衰弱し切って地上に俯し、あえいでいる。手には日の丸の小旗をつけた小銃をもっている。これに対して内地の高官連は、酒肴をいっぱい並べて芸者遊びに耽っている図である。この日、第4艦隊司令部宛てに次のような電報報告がなされた。
 「今日、敵ハ伝単ヲ撒布シタ。本島守備隊員ノ餓死ト内地高官ノ暖衣飽食ヲ風刺シタモノデアル。本島ハ目下五割減食ヲシテイルガ、本日ハ天長ノ佳節ヲ祝シ規定量ヲ供給シタ。総員満腹シテ意気軒昂。尚、本島保有糧食ノ持続期間ハ五月二十三日迄デアル」この電文は、読む者をして読ましめる現地からの一矢であった。

             ビ タ ミ ン 摂 取 法

 昭和19年10月ごろ、新聞電報にパパイヤからビタミンCを採る法が発見された、という記事が出た。警備隊司令はさっそく次のような問い合わせ電報を中央に打った。
 「新聞記事二ぱぱいやカラノびたみん剤採取法ガ発見サレタ、トアルガ、本島デハびたみん不足二悩ンデオリ、ソノ採取法ヲ知ラサレタシ」現地にパパイヤがあるなら、それを食えばよい。それでビタミンは摂取される。何をつまらぬことをわざわざ電報で問い合わせるのか、と中央ではいぶかったかもしれない。司令も特に回答を予期していたわけではなかったが、予期に反して返事が来た。
 「現地デハびたみんヲ採ルコトナク、ソノ侭生食サレタシ  海軍省医務局長」
 きわめてバカバカしい事務的な回答であったが、もしそれだけのことなら、あの不利な戦況下で多忙をきわめていた海軍省が、こんなつまらぬ電報をわざわざ打ってくるはずがない。
「貴下の苦しい状況はよく分かった。戦況不利のため止むを得ぬ。忘れてはいない」という意味にとれた。

             陸 の 幸(そ の 一)

 建物が次々に破壊され、島全体が荒涼たる状況になってくると、急にネズミが増え出した。追いかけっこをしたり、跳んだりはねたりしている。歩いている人間の前を横切る。本を読んでいると、その机の上をチョロチョロ行き来する。かかとを舐めるのもいる。南洋ぼけしているのか動作も鈍く、まるで人間をバカにしているようだった。
 籠城当初は、「ガダルカナルではネズミやトカゲを食ったそうだ」などと呑気に言っていたが、10月ごろからはネズミが栄養補給の大きな役割を果たすようになった。
 小さな木箱を作って、ネズミが入って中の餌に食いつくと、入り口の扉がガタンと滑り落ちるようにしておく。餌には腐ったコプラを使ったが、やがて腐ったコプラも人間が食べるようになると、カボチャの種子を焼いて、それを布で包んだものを餌にした。叢の中に置き、10分おきぐらいに見に行く。掛かっていたら箱を持ち上げ、両手で強く何回も上下に振る。すっかり目を回したところで箱から出す。料理の仕方は、皮を剥いで丸焼きにするだけ。醤油があれば雀のチュンチュン焼きのようにうまいだろうが、そんな気のきいたものはなく、ただそのまま食べた。
 4人で木箱を10個ぐらい作り、一晩に4回ぐらい見て廻り、10匹ぐらい捕った者もいる。トウモロコシの上に這い上っているネズミを手捕りにする者もいた。数も多かったが、形は小さくこのように鈍感でもあった。人間の方で食べられるものはなんでも食べたので、ネズミ社会でも食糧危機に頻していたからだろう。
 冬が終わりに近づくと、あれほどたくさんいたネズミも次第に数が少なくなり、根絶やしになるのではないかと心配され、当分のあいだ捕鼠を禁止するという通達が3月1日に出された。するとネズミはまたたく間に繁殖し始め、3月末には捕鼠禁止令が解かれた。そればかりか、鼠による農作物の被害が次第にひどくなったので、捕鼠奨励のため、4月下旬には、「ネズミの尻尾30本を持参した者に、ヤシの実1個を支給する」旨発令されたほどである。
 トカゲは8月ごろから食べていた。全長18センチぐらいで、なかなか捕まらなかったが、焼くと小魚のような味がした。コオロギもときどき焼いて食べた。腹の足しにはならないが、堆肥の中にたくさんいるので、気まぐれに捕る程度である。
 玉ネギやコウリャンの葉を食う蚕のような青虫を捕って食べていた者もいた。拘禁されていた者の中には、ゴキブリを生で食った者もいた。
 犬は島内に10数匹いたが、早くから食用にされ、6月には1匹もいなくなった。猫も、犬より遅れたが食用にされはじめ、飼い猫は全て処分された。ノラ猫は最後まで10匹ぐらいいたが、用心深くてなかなか捕まらなかった。一度、兎狩りの要領で、昼間姿を見せた猫を防空壕に追い込み、漁労用の網を張って捕まえた班があった。その代わり網はズタズタに破られてしまった。

             陸 の 幸(そ の 二)

 赤草(スベリヒユ)や兎の耳(モンパの木の葉)のほかに、次のようなものも食用に供された。
くろがき 兎の耳より灰汁が少ないので食べやすかったが、あまりたくさん生えていなかった。 
カボチャの花 毎朝起きると、すぐ畑に行って雌花の交配をやりつつ、雄花をかごー杯に摘みとる。これをそのまま赤草にまぜて煮ると、色もきれいで、なんともいえない香りがあった。葉柄も食べれば食べられたが、スジばかりなのでほとんど利用されなかった。
パパイヤ 数が少なかった。爆撃で倒されたとき幹を割り、中の蕊を取り出して食べた。擦りおろすと、大根おろしのような味がした。
バナナ 本島に2、3本あったが、爆撃ですぐやられてしまった。根が芋のようなので試食したが、苦くて駄目だった。
青草 赤草よりさらに小さく、細長くて1センチ足らずである。赤草より美味だが、本島には少ししか生えていなかった。
ぜに草 かたぱみに似た葉をもち、裏面にトゲのような毛が生えている。この毛が少し喉にかかるような感じがするが、柔らかく粘り気があって、そのまま煮たり、団子にして焼いて食べた。
しそ草 密林のあいだに、非常に香り高い葉をもった蔦のような木があった。しその代わりに漬け物にした者もいるが、あまり香りが強すぎて一般には利用されなかった。
イノコズチ お茶の代用として利用された。実は金平糖のような形をして針が非常に鋭く、ちょっと触れただけで手に突き刺すので、<島民泣かせ>とか<兵隊泣かせ>とか呼んでいた。
豆の葉 兎の耳、赤草に次いで主食の代用にされた。これと似たものに。<朝顔の葉>と呼んでいたものがあり、数回試食されたが、そのつど激しい下痢をするので、ついに利用されなかった。
 以上のほかに、ヤシの根は下痢止めに利く、というので煎じて飲んだり、<島民泣かせ>の実やトウモロコシのヒゲを利尿剤として服用した。倒れて腐ったヤシの木に茸が数種類生えたが、試食して中毒死した者もあったようだ。島内のあらゆる植物が試みられたが、魚貝類に較べれば犠牲も少なく、程度も軽かった。

             主 計 兵 の 役 得

 主計兵に対する不満は多く、悪評もいろいろあった。誰も面と向かって具体的な例をあげて文句を言う者はいなかった。とりたてて文句を言うと、配食を減らされる虞があったからだろう。なかには逆に、主計兵の不正を摘発して彼らを脅し、缶詰を出させる者もいた。また魚を捕ってきて、官品の糧食と交換する者も時々いた。栄養失調による死亡者が次々と出てきても、主計兵はほとんど死ぬことがなかった。
 この主計兵の不正を防止するため、早くから分散炊事をして糧食を各小隊に分けた部隊がある。このように烹炊所での共同烹炊を止め、糧食の現品給与をはじめた部隊の主計兵は、それ以後やはり体力が衰えていった。
 ただ、警備隊本部の烹炊所だけは、全島の糧食管理をしている主計長の直接指揮下にあったため、最後まで分散烹炊を行わなかった。ある会議の席上で、各部隊の健康状況が報告された時、
 「本部部隊の主計兵は漁労・農園ともたいしてやっていないようだが、なぜそのように健康状況がよいのか」と、副長から同隊掌衣糧長に質問があった。
 「漁労はあまりやりませんが、畑は烹炊所の横にだいぶ作っています」
 「わずかあれだけの畑で、主計兵20名近くがよく食っていけるな」
 「一本のトウモロコシから4〜6個とれますから」
 「ふつうの畑だとせいぜい2個ぐらいだが」
 「米のとぎ汁などやりますから、よくできます」
 「なるほど、米のとぎ汁とはなかなかいいな」と副長は言い、それも主計兵の役得か、とつぶやいた。


第十章  農    園   

             農 産 物 の 種 類                 

コウリャン カボチャ、トウモロコシに次いで貴重だったのはコウリャンである。これは補給途絶の数日前、内地より届いた慰問袋の中にあったのを、山中二等兵曹が遊び半分に蒔いたのが芽を出したものである。コウリャンは虫が非常につきやすく、最初の作付けが困難だが、肥料不足の場合でも小さな房が実って、トウモロコシのように収穫ゼロとなる心配はなかった。
 きゅうり、まくわ瓜、メロン、青瓜などは、攻撃を受けるようになってからは作る余裕がなくなったが、冬を越して人員が減少し、天候が回復して爆撃も減ってからは、またぽつぽつ、このような贅沢品も作られはじめた。

             畑 の 開 墾

 土地がなくなると、道路にまでどんどん畑が拡がっていった。コチコチに固まっている道路をツルハシで起こすのだが、半分以上がりーフ(珊瑚礁)の破片なので、金網で土をふるった。鎌がないので、雑草は一本一本手で引き抜いた。
 弾痕を畑にしたものもあった。500キロ爆弾の痕は、直径15メートルぐらいのすり鉢式の穴になる。黒い土は全然なく、全部真白いりーフの砂である。穴の底には水が溜まっていて、潮の満ち干で水面が上下した。海岸から遠い所は塩分も少なくて、飲料水や灌漑用水に役だった。
 弾痕の周囲の盛り上がった土をスコップで削りおとし、穴を半分ぐらい埋めて底を平らにする。中央に水たまりを残してそのまわりに畝を作る。これに堆肥にした雑草を入れる。ふるいにかけた黒土を運んできてその上にかける。二人で午前・午後1時間ずつ作業しても、穴埋めと黒土運びにそれぞれ3日はかかり、衰弱し切った体には重労働であった。それでも普通の畑では冬になると風が強く、実りがなくなるが、弾痕穴の畑ではその心配がなかったので、あちこちで作られた。
 畑の開墾は容易でなかったが、みな必死になって弱った体に鞭うちながら、全力を尽くした。ある者は努力の結晶を待たずに餓死し、生存者は彼らの犠牲によって生命を保った。

             肥 料 の 不 足

 補給途絶後数ヶ月すると、糞尿は肥料にするため先を争って汲みとられるようになった。各小屋ごとに便所が作られ、公務や漁労のため外出中便意を催しても、なるべく自分の小屋に帰って用を足した。当直室付近の人通りの多い道路に醤油樽を埋め、小便所として公衆の用に役立てると、2、3日で一杯になり、「貴様は実にいい所に便所を作ったな」と羨ましがられる者もいた。
 硫安は飛行場周辺の雑草施肥用として、施設部で少々持っていたが、他に分けるほどの量はなく、同部だけで少しずつ使用し、最後まで使っていたようである。その上、彼らの畑は島内でいちばん地味がよいとされている北地区であったから、硫安の肥料でますます育成がよく、格段の成績をあげていた。
 肥料不足を補うには堆肥しかなく、ふつう雑草が少し腐ってから使ったが、刈り取ったのをそのまま埋めることが多かった。ところがカボチャの場合は、なまの雑草を埋めておくと、腐敗する際の発酵熱で、せっかく発芽しても10日目ぐらいで枯れることが多かった。
 海の浅いところに、真っ黒いなまこ状の生物が多数棲んでいて、海岸付近の者はこれを肥料にしていた。食べた者ははげしい下痢をおこした。

             虫 害・鼠 害

 害虫としては、1ミリぐらいのアブラ虫のほかに青虫がいた。青虫は葉が大きくなるにつれ、2〜4センチに成長した。夜中に蚕が桑の葉をはむような、ブツブツブツという異様な物音を聞き、翌朝になると、500本ばかりのトウモロコシが見るも無残に食い荒らされ、大きな青虫がピッシリ付いていたことがあった。一本一本両手でふるい落としていったら、バケツに2杯とれたという,
 ネズミは食用としてたくさん捕獲されたが、彼らの繁殖に追いつかず、一時期を除いてその数が減らず、いつまでも大きな被害が続いた。鼠害対策として、艦船が繋留中の綱につけているネズミ除けのように、コウリャンやトウモロコシの幹に傘状の厚紙をくくり付ける者もいたが、材料が足りないのとスコールで駄目になるのとで、試験的にやった程度である。
 また、サイダー瓶をトウモロコシの頭に被せたり、高層気流観測用のゴム風船で巻いたり、トタン板で垣根を作ったりする試みがあったが、いちばん効果的なのは、泥棒対策を兼ねて、夜間2時間ごとに金だらいをガンガン叩きながら夜廻りすることだった。労力がたいへんだが、その班では10名中1名の餓死者も出さなかった。

             農 園 爆 撃

 農園作業に精出すようになった始めの頃は、カボチャやトウモロコシの種子が貴重品だった。はじめて全員にトウモロコシの種子が配給されたのは、19年7月だった。10月には収穫できる予定だったが、9月なかぱに数日間にわたる大爆撃があった。敵は農作物を目標としているのではないか、と疑われるほどの執拗さで爆撃し、その結果、飢餓線上をさまようことになった者も多く、農園爆撃はやるせない精神的打撃を与えた。

             配 置 変 更 と 農 園

 配置変更は、<現人員ヲモッテスル最大戦カノ発揮>を目的として行われたのであるが、食糧が欠乏してからは、配置変更も農園のことを考えないわけにはいかなかった。
 部隊としての配置変更ならともかく、一人二人の配置変更はそこまで配慮することはできなかった。そのため、今まで育てていた農園を捨てざるをえなくなり、相当伸びたカボチャを根から掘り起こして、農作物と一緒に移動した者もいた。それでも新しい農園が実り始めるのを待つことなく餓死していった者もあった。

              農 園 番 兵

 農園泥棒の現れ始めたのは、籠城後3ヶ月ぐらいからである。栄養失調が増えるにしたがい、泥棒も増え、冬の不作時期はもっともはげしかった。
 種を蒔いてから約3ヶ月、毎日毎日虫を取って、衰弱し切った体に重い桶をかついで水をかけ、さんざん苦労の末、汗の結晶がようやく実り、今日あたり収穫しようかと胸はずませながら朝起きて、さっそく畑をみる。すると、カボチャの蔓は見るも無残に引きちぎられ、トウモロコシは一つ残らずもぎ取られている。それはそのまま絶望感にともなう飢餓と死につながっていった。
 泥棒警戒のため、農園番兵は実弾をこめた銃を持っていた。敵は全然島内に上陸してこないのに、夜間、銃声があちらこちらで聞こえた。盗む者も、もとより盗まなければ餓死するばかりなので命をかけており、トウモロコシをしっかり握ったまま番兵に射殺された姿もみられた。
 農園番兵には、ふつう衰弱の甚だしい者が選ばれた。作業を共にできない者が昼も夜も番小屋で四六時中ゴロ寝のまま警戒していた。中にはそのまま死んでいる者も少なくなかった。

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