『籠 城 六 〇 〇 日』 


第十一章  漁    労

             海 の 幸

 餓死者を多数出した籠城とはいえ、典型的な海洋性気候の小島で、風土病もなく、毒蛇・猛獣の類にも災いされず、食塩に不自由しなかった点は恵まれていた。
 籠城1年目の7月頃は、イソギンチャクをみな喜んで食べた。これで汁物を作ると卵汁のようになり、脂気が多く、味もよかった。最初は背の立つ浅い所でも捕れたが、次第に深い所まで行かないと捕れなくなり、やがて桶と金槌を持って、沖の方まで泳いで捕りに行くようになった。8月上旬、中毒で数名の死亡者が出たこともあり、収穫の減少とともにほとんど食用に供せられなくなった。クラゲも食べたが、いかにも栄養価が乏しく、食べても満腹しないので時々捕った程度だった。
 ウミウシは味が巻き貝に似て愛好された。大きいのは30センチ四方ぐらいで、縮むと20センチぐらいの三角錐状になる。イソギンチャクのように多量にはおらず、タコ同様、発見困難だった。(追記・昭和37年8月9日付朝日新聞に、昭和天皇がこのウミウシを昭和24年頃試食されたとの記事があり、しばし感慨にふけった)
 ナマコはタコよりはるかに数が少なかったが、<黒ナマコ>と称する真黒いナマコ状のものが多数リーフ上にころがっていた。内臓を出し、外皮を削り落として試食した者もいたが、結果はよくなく、一般には食べられなかった。
 海藻は、海中に落ちた爆弾の弾痕にくっついており、籠城2年目の5月頃さかんに食べた。たくさん食べると全身にシピレが起こるが、生命には異常がなかったので、これも乱獲され、1ヶ月ぐらいでなくなった。

        

             漁 労 方 法

 漁労方法としてもっとも効果があったのは、爆発物によるものだった。これはきわめて危険なため、当初、漁労班以外の者には許されなかったが、食糧が欠乏するにつれ、一般の者も行うようになり、相当数の犠牲者が出た。
 大型機による高々度爆撃の場合、時おり爆弾が海中に落ち、海岸に多数の魚が浮かび上がる。すると空襲警報解除を待たずに、みな我れ勝ちに海中に飛び込んでこれを拾った。その後小型機になってからも、時々この思わぬ土産物を提供してくれることがあった。
 カニを捕るには、プリキ缶や大きな缶詰の空き缶に、残飯や腐った魚類を少量入れて砂地に埋めておく。時にはシャコが入っていることもあり、10個ぐらい仕掛けておけば、数人の食卓を充分に賄うことができたが、あまり流行したためか、カニが減り、餌にも不自由して2、3ヶ月で自然に取らなくなった。タコは籠城当初より終戦まで、引き続き捕られた。モリと水中眼鏡を持って海岸付近を探しまわるが、リーフと同じ色をしていて、素人にはなかなかみつからなかった。熟練者が、地に足がつきそうな大きなタコをモリに突き剌して帰ってくるさまは、実に得意そうで、みな羨ましくこれを眺めた。
 最初はモリで魚を突き刺していたが、これは特別の者にしかできなかった。その後、ゴムの張力で弓矢のように射ち出すようになってからは、各部でおこなわれたが、これにもある程度の熟練が必要だった。
 水中眼鏡は、堅い木を選んで丸く刳りぬき、ガラスの破片をやはり丸く切ってはめ込み、水洩れ防止用にピッチを周囲に押し込んで作った。漁労には欠かせないもので、多くの者がこれを持っていたようだ。
 網を作った者も多少あったが、成功したのは2、3箇所にすぎなかった。ある班ではケンバスを解きほぐして糸にし、目の荒い、長さ10メートルぐらいの網を4枚作った。水深4メートルほどの所に張っておき、翌朝見ると、サメが頭を突っ込んでもがいていることがある。タタミ2畳ぐらいの大きなエイが掛かっていたこともあった。
 釣りもはじめの2、3ヶ月は手慰さみに行われたが、たいして釣れず、長続きはしなかった。

             ハ ッ パ 漁 労

 ダイナマイトによる漁労はもっとも効果があった。
 ダイナマイトの大半は、相次ぐ爆撃で倉庫が炎上した際焼失し、約500本が残っていた。ハッパ作製用の火縄は、ちらばっていたのを回収した時点で30メートルぐらいあった。1メートルの火縄で2、30個のハッパが作れた。
 火薬は、正式には航空廠の熟練工員が爆弾を分解して取り出していたが、航空隊の射爆整備員も時おり行い、やがて全然教育を受けていない兵員工員も真似るようになった。なかには敵の不発弾を分解したり、砲弾の頭部から信管を抜き取る者まで出たが、もとよりきわめて危険な作業なので、熟練工員も喜ばなかった。
 餓死者が続出するようになってからは、代用火縄が作られはじめた。紐に火薬を少量含ませるのだが、火薬の量および作製時・使用時の、気温・湿度により、伝火速度が大きく変わり、使用時の爆死者が出始めた。犠牲者はたいてい頭部をやられ、即死または数日後に死亡した。なかには右腕を吹き飛ばされ、両眼を失ってなお命が助かった者もいた。もっとも傷が癒えても不具となっては食糧欠乏の状況下では、1ヶ月内外で死ぬのが常だった。ようやく死を免れた1、2名は、周囲の真の戦友愛に助けられた者といえよう。
 ハッパ漁労は、漁労主任の監督下にある者以外は許可されなかったが、取り締まりが困難なのと餓死者が続出していることもあり、結果は黙認で、あちらこちらでドカンドカンと毎日平均20発ぐらい使用されていた。
 桶の中に爆発物を入れ、水中眼鏡をかけて、泳ぎながら魚群を探す。魚が深い所にいれば、点火後す早く投げないと届かない。逆に浅い場合は、底に着く前に爆発しなければ魚が逃げてしまう。いずれにしてもカー杯遠方に投げても、泳ぎながらだからせいぜい10メートルぐらいしか飛ばず、爆発時には人体にも相当の衝撃があった。
 死んだ魚は底に沈んでいく。仮死状態でフラリフラリしている魚も、やがて動けなくなって沈んでいく。これを潜って捕るのだが、2尋3尋ぐらいまではともかく、4尋(7メートル強)以上になると相当漁労の上手な者でなければ不可能だった。7尋(12メートル半)潜れる者も4、5名いた。一度7尋ぐらいの所で、一発の爆発物で、1メートル大のサワラ24匹を捕らえた者がいた。
 籠城2年目の4月頃、自動車運転員の塩谷某が電気式のハッパを考案した。火薬を詰めて缶を海底に沈め、電線に結び、陸上から魚群が集まるのを見届けてスイッチを入れる。泳ぎながら爆発させるのと異なり、安全性はきわめて高かったが、普通の人には点火用のニクロム線と二次電池が手に入らないので、普及するまでには至らなかった。
 また手榴弾をハッパに流用した者もおおぜいいた。手榴弾だけでは爆発力が弱いので、空き缶に火薬を詰め、中に手榴弾をはめ込む。これは安全栓もついており、点火秒時も決まっていたので、犠牲者はほとんど出なかった。「手榴弾をハッパに流用することがないように、取り締まりを厳しくせよ」との注意が20年1月下旬に出されたが、一万発ぐらいあった手榴弾の7割ほどがハッパに姿を変え、同年6月頃からは、中隊長が自ら手榴弾を保管するようになった。

             ア ジ の 大 漁

 昭和19年7月6日、アジの大群がやってきて大収穫をあげた。一人平均10匹は食べられたから、3万匹ぐらいの水揚げであったろう。減食に次ぐ減食で、空腹に耐えていた頃であり、干物にしようという者もなく、みな思う存分食べた。煮る者焼く者、刺身にする者、五合入りの大食器にいっぱい刺身を食った者もいた。
 6月から8月にかけてが漁の最盛期で、それから次第に漁獲が減っていった。ハッパをド力ンドカンやるから魚が恐れて集まらないものと思われた。農作物の冬枯れ時と時を同じくして魚が獲れなくなったので、1月から2月にかけての餓死者が最も多かった。
 翌年6月7日、ふたたびアジの大群が押し寄せ、冬の漁獲減少はハッパ漁労の影響でなく、単に時期によるものと分かった。


第十二章  ヤ    シ                        

             利 用 法                 

 ヤシの木は、材木としては腐りやすく、乾きにくく、火力が弱いので燃料としても利用しにくかったが、他に樹木もないので、防空壕のほとんどがヤシ材で作られた。材木としては役立たずのヤシだったが、食用としてはきわめて利用価値が高かった。籠城六百日で多くの死没者を出しながらも、なんとか持ちこたえたのは、このヤシのおかげだったといっても過言ではない。
 食糧が欠乏する前は、ヤシの実の果汁を飲む程度だった。時には<ヤシリンゴ>と称して、地面に落ちて芽を出しはじめた頃のヤシを拾って食べた。果汁がなくなって綿のようになり、ちょうどスカスカしたリンゴのような味で、脂肪分もあっておいしかった。
 また、幹の頂上の、葉が生い茂るあたりに、いくぶん繊維質の可食部分があり、。<ヤシたけ>と呼んで、食糧欠乏以前にも生野菜代わりに時々食べていた。いくらか甘みもあり、タケノコよりおいしかったが、食糧欠乏と共に主食代用とされた。
 糧食補給の上でもっとも役立ったのは、ヤシの実の内殻についているコプラだった。成育のはじめのうちは柔らかくてドロドロしており、成育するにつれて繊維質が増して固くなってくる。これを細かく刻んで焼くと、色も形も、味までもちょうど焼きイカのようになる。実の充分熟したものは、コプラも非常に固く、慣れない者が食べると胸につかえて下痢をおこす。それでも慣れれば下痢もせず満腹感が味わえるので、糧食が減少してくるにつれ、みな固いのを好むようになった。コブラは小さく切ってそのまま食べたり、<ヤシアラレ>と称して、1センチ角に切って鉄カブトに入れて炒めて食べたり、空き缶に釘でたくさん穴をあけて、その穴のまくれで擦りおろし、キュウリや木の芽の煮物にふりかけたりして食べた。

             ヤ シ 採 取 作 業

 最初のヤシ採取作業は、籠城3ヶ月後の19年4月9日、ヤシ主任の計画のもとに正式に行われた。ウオッゼ本島のヤシは爆撃の災禍でみる影もなくなったので、本島より西南12キロのルーエ島が最初に選ばれた。ヤシの木は全環礁で5、6万本あり、そのルーエ島には概算1千本あった。一六〇〇頃(日没は一五五〇)総員40名が、厳重に武装したうえ、十字鋤(ツルハシ)を持って大発で出発した。翌朝7時頃、約2千個のヤシを採集し、持ち帰った。これらのヤシは、2個で昼食1食分に該当するものとして支給された。
 7月に入ってからは、能率をあげるため、作業員を離島に常駐させることになり、はじめにトレーチ島(ヤシ2千本)とエネツェルタック島(同8千本)が選ばれた。作業員は本島にいるより食糧事情に恵まれるため、6日から10日ごとの交替制となった。
      
 各離島で採取されたヤシの実は、ヤシ主任または主任附が4、5名の作業員を連れて大発で採りに行く。だいたい1回に1千〜2千個入荷にして、一人1ヶ月あたり、6個ないし8個が特別増配された。ところが、せっかく輸送したヤシも、本島の桟橋警備隊桟橋に陸揚げし、トラックでヤシ倉庫に入れるまでの間に、2割方減っていた。敵機の来襲を警戒し、陸揚げ作業を夜間に行うため、作業員が1袋ぐらい艇内に隠したり、作業員以外の者が作業を装って盗んだり、作業員自身が他の者と組んで、大発が桟橋に着く直前にヤシを入れた袋を海中に投入したり、トラックで運搬中に袋を投げおとしたりしたからである。このような輸送中の盗難は、最後まで続いた。
 こうして到着したヤシの実は、ヤシ主任が起居する第5大隊本部近くの天水槽二個に納められていたが、9月中旬の中地区爆撃の際、至近弾で破壊され、その後は飛行場にある耐弾式の陸上隊指揮所の一室に保管された。この保管室はコンクリートの厚い壁に囲まれ、重い扉と頑丈な鍵で守られ、米麦庫と同様、(爆弾や敵に対してでなく)盗難に対して最も安全と思われていたが、20年2月、毎日5、6人ずつ餓死していた頃の夜、ついに千数百個あったヤシがすっかり盗まれてしまった。数日後、千個入荷されたがこれもその夜のうちにすべて盗まれ、衛兵司令・篠原大尉が犯人調査に手を尽くしたが、結局見つからず、以後、鉄扉の前に寝台を置き、番兵を寝させることによってようやく解決した。

             ヤ シ 券

 20年4月下旬、ネズミが増えて農作物の被害が増えたため、ネズミを30匹捕らえた者にヤシ1個が与えられることになった。ネズミそのものは、重要な蛋白捕給源として食用に供されるため、尻尾のみを持参させ、ヤシと交換した後、尻尾を切り刻んで捨てるか焼却した。
 ヤシは現物でなく、副長かヤシ主任の捺印した「本券引替エニやし一個供給シマス」というヤシ券で渡し、倉庫で現物を受け取ることにした。このヤシは<ネズミヤシ>と呼ばれ、ネズミは<30分の1>と呼ばれた。ヤシ券は、島内流通貨幣の代用にするもくろみもあって、全部番号を附し、授受の際に氏名を記録して流通状況を調べたところ、たいていのヤシ券は1週間以内に主任のもとに戻っていた。1日の出券高は平均30枚で、当時ヤシの実は1個70円、カボチャ150円、小魚1尾10円、針1本5円の闇値だったが、これらの売買に使われたヤシ券は流通枚数の5%ぐらいだった。
 6、7月に入って、農作物や魚貝類が豊富になると、自然に<ネズミヤシ>を請求に来る者も減ってきた。


第十三章  医 務 ・ 衛 生    

             衛 生 状 況

 ウオッゼ島だけでなく、マーシャル方面全般にそうだったが、この方面の衛生状況はきわめて良かった。デング熱、トリコモナス、アメーバ性赤痢はあったが、マラリヤのような悪質な熱病・風土病はなかった。
 デング熱は、当方面に来た者の8割が一度はかかり、10日前後で全治して、死ぬことはなかった。
 トリコモナスもやはり大部分の者がかかり、全治することは少なく、たいてい慢性になったが、これも1日に一、二度便所に通うぐらいで、たいして痛痒は感じなかった。
 アメーバ性赤痢はエメチン注射でたいてい治ったが、減食がはじまってからこれにかかった者は死亡した。毎日20回以上も便所へ通った果ての死であった。熱帯性潰瘍になった者も相当いた。全治するのが難しく、1ヶ月以上も苦しみが続いた。
 身体が衰弱し出すと、被服の洗濯をせず、入浴もしないで、皮膚病が流行しはじめた。臀部や股、背中全面を冒され、全身に及ぶと10日も待たずに死んでいった。薬品も底をつき、火薬が効果があるというので、マゴモック芋から採った澱粉と練り合わせて特効薬として用いたが、もともと栄養失調が原因なので、悪化する一方だった。
 籠城4ヶ月目の頃(19年6月)、原因不明の発熱患者が続出し、減食による衰弱と高熱の連続で、罹病者の8割ぐらいが死亡した。チフスではないかと疑われ、三混注射が行われたが、注射液不足で総員には行きわたらなかった。そのうえ薬液も古く、効果の程は疑わしいが、毒にもならないだろうというので使用された。さいわい手の施しようがなくなるまで伝染するには至らなかった。
 籠城2年目頃から、いわゆる飢饉腹といって、妊婦か力士のように腹が異様に膨らんだ者が多くなった。カロリーの少ない木の葉や雑草を主食とするので、食べる量が多く、さらに満腹感を求めて多量の水を飲むので、そうなるのだろうと言われたが、こういう者は一般に健康状態が他よりよかった。逆にいえば飢饉腹となるのは、よくこの悪状況に胃腸が順応しえたから、といえるだろう。
 飢えや栄養失調で死亡した者は多かったが、衛生状況は一般に良かった。
          

          医 務 一 般 

 全島には軍医官が7名いた。第802航空隊の軍医長・若田中佐は、19年2月13目、同隊指揮所が直撃弾をうけ、多数の戦死者が出た時負傷したが、さいわい戦死を免れた。
 第552航空隊・八代軍医少佐は、同年9月中旬、防空壕に至近弾をうけ生き埋めになったが、救出された。
 「梁材で胸を圧っせられ、呼吸が困難になった。肛門のゆるむのが分かったので、いよいよ最期かと覚悟を決めた。すると明かりがぼんやり洩れてきたので、助かると思い元気が出てきた」と述懐していた。
 第531航空隊・岡部軍医少佐は、20年4月、原因不明の熱病にかかり、痔疾も悪化して一時はそのまま衰弱死するのではないかと心配されたが、よく一命をとりとめた。
 第802航空隊附だった軍医大尉は、12月頃より肺浸潤が悪化し、やがてウォルメージ島に療養のため派遣され、終戦後は第一便の氷川丸で内地に帰還した。
 本島にはこのほかに施設部嘱託の岡村医務官と、第64警備隊軍医長の奥軍医少佐および隊附軍医大尉がおり、医療の面では恵まれていた。しかし薬品類は、籠城に入る前から不足を伝えられていた。その上艦砲射撃をうけていた籠城当初の頃から、防空壕荒らしが横行し、装創剤(ガーゼなど)や薬品はもちろん、手術道具も盗まれていった。さらに看護兵が糧食と交換するため、持ち出す例も多く、籠城が長引くにつれ、軍医官も食生活が詰まり、薬品の欠乏も重なって、ついには医務を商売化して、何か代償物がなければ治療しないという者も出てきた。このことは司令の耳にも入り、当該医務官を注意したが、医務官本人の生命にも係わることであり、完全に改まるまでには至らなかった。
 部下看護兵と共同一致の生活をしていた軍医官は、食生活に困ることもなく、したがって治療に代償を求めることもなかった。特に八代軍医は最後までもっとも積極的に治療にあたり、自分が医務を担当している旧第552航空隊員以外の者にもしばしば治療を施していた。

          飲 料 水 

 爆撃で天水採取装置(コンクリート製の雨水収集タンク)を破壊されてからは、止むを得ず弾痕に湧き出る水を使用するようになり、トリコモナス患者が急増した。海岸付近や土地の低い所は塩分が多く、塩辛かった。それでも数ヶ月すると慣れてしまい、トリコモナスも減少し、そのまま飲んでも平気になった。

          体 重 秤 量 

 19年8月17日、旧第552航空隊で、隊員の体重を測定した。計測人員269名に対し、その平均は13,5貫(50,6キログラム)だった。11貫(約40キログラム)未満の者はたいてい1ヶ月も経たないうちに死んでいった。体重計測は毎週行われたが、ある程度以下の体重の者は次々と死亡したので、平均体重には変化がないため、やがて計測中止となった。計測担当者個人の体重は次の通りである。
  19年 8月17日 13,6貫(51,0キログラム)
       8月31日 13,2貫(49,5キログラム)
      10月 5日 13,1貫(49,1キログラム)
      11月23日 12,6貫(47,2キログラム)
  20年 2月17日 13,5貫(50,6キログラム)
       6月 9日 14,3貫(53,6キログラム)
       9月18日 15,0貫(56,2キログラム)
      11月 1日 15,6貫(58,5キログラム)
 なお、当人の籠城前の体重は15,7貫(約59キログラム)。最後の日付の15,6貫は、復員船に便乗し、ウオッゼ島を去る日の体重である。


第十四章  様 々 な 死    

             電 信 室 直 撃

発電所裏か ウオッゼ島で耐弾式になっていたのは、島の北部にある受信所、南端にある送信所、中地区にある発電所、飛行場にある飛行隊指揮所、北部内海岸にある飛行艇指揮所の5施設である。その中でも受信所は本部として使用できるように設備されており、二階建てであった。したがってその階下におれば、島内でもっとも安全だろうと考えられていた。
 敵のマーシャル作戦が始まってから数日後のこと、すなわち昭和19年2月13日、中型機が数機奇襲を加えてきた。超低空で侵入し、爆弾を投下した。その一弾が受信所の二階窓から跳び込んだ。窓は頑丈な鉄扉であったが、奇襲だったため、閉鎖してなかったのだろう。あるいは閉鎖してあったとしても、留金を充分締めてなかったのかもしれない。爆弾は二階で爆発した。階下の安全と糧食の被害分散をはかるため、二階には数十俵の米が土嚢代わりに積み重ねられていた。そのため、その重量も加わり、わずか一弾の爆発で二階が落ち、約30名が戦死した。当時この電信室は、第802航空隊の本部として使用されていたので、同隊の司令、主計長なども戦死した。耐弾式建物のため、外観はあまり壊れたように見えなかったが、内部はすっかり破壊され、惨状を呈していた。天井が落ちたので、壁の近くにいた数名の者は助かったようだった。

             第 802 航 空 隊 通 信 長 の 死

 第802航空隊は、司令を指揮官とし、通信長と整備長を中隊長として陸戦隊を編成していた。当時、通信長は大尉、整備長は少佐であったが、整備長は機関科出身であったので、軍令承行順位は通信長の方が上位であった。そのため司令の戦死後は、通信長(大尉)が指揮を執ることになった。整備長(少佐)は着任前、相模原航空隊で陸戦主任をしていたこともあり、能力識見とも通信長に劣るとは思えないにもかかわらず、軍令承行令により通信長の指揮を受けざるをえなくなった。
倒壊した無線塔 このように、先任者が後任者の指揮下に入ることは、その両者にとって共に面白くないことで、周囲の者もみな憂慮していた。指揮官となった通信長は、死を顧みない猛進型の人物で、空襲の際も防空壕に入らず、自ら見張りにあたることが多かった。司令が戦死して、旬日を経ずして再び敵中型機が来襲したときも、通信長は同隊の見張り所になっていた受信用鉄柱に登っていて、至近弾のため、戦死した。本人にとっては不幸な戦死ではあったが、同隊の指揮継承に関する難点は、これにより自然解消した。

             施 設 部 防 空 壕 被 弾

 昭和19年9月、中地区爆撃があったときのことである。施設部工員3名が、自分たちの作った防空壕に避難していた。大量のセメントと鉄筋を使ったきわめて頑丈なもので、その上安全性を増すため、防空壕の上に鉄板を覆い、さらに鉄線多数を縦横に敷いてその上に土を盛 り上げていた。ただ、鉄扉が入手できなかったので、出入口には土を積み重ねていただけだったが、施設部本部の防空壕に次ぐ島内二番目の頑丈さだろうと、自認していた。
 この防空壕の10メートルぐらいの所に250キロ爆弾が落ち、3人のうち一人が死亡、一人は重傷、他の一人は軽傷を負った。爆風のため入り口の土嚢が飛散し、中にいた者は反対側の壁に打ちつけられていた。直撃だったら、かえって肋かっていたかもしれない。

             蟻 に 食 わ れ る

 第552航空隊は佐世保鎮守府の所轄で、島内に末世的様相が生じてからも、よく団結を保ち、相互に助け合っていた。しかし工作科員だけは兵種の関係上、職人根性が強くて、軍人精神が充分でなかったためか、栄養失調による死亡者が多く、21名中、内地に帰還できたのは2名にすぎなかった。
 吉本工曹長はその先任者であったが、積極的精神に欠け、部下指導も充分でなく、自活力も弱かった。准士官とはいいながら、籠城後の進級でもあり、農園のトウモロコシを盗むことすらあった。他の工作科員にも、工曹長を助けようとする誠意がうすく、彼はやがて脚気と栄養失調にかかって、顔はもちろん、大腿部、腰部までむくみ、足も大きく張れ上がって靴が入らなくなった。
 本人の希望と軍医官の努力により、彼は同隊の管理離島であるエニプン島へ、療養のために派遣された。エニブン島は本島に較べると、いくらかは食糧事情がよかったが、同島派遣員は農園経営が第一任務で、しかもその大部分は工作科とは肌があわない整備科員だったため、吉本工曹長に対する行き届いた看護は充分に行われなかった。
 密林のあいだに彼のための小屋が建てられ、食事はそのつどその小屋まで運ばれた。当時の主食配給率は一人1日70グラムだったが、離島管理人はさらにその2割減の56グラムだったため、若干米が確認できる程度の、木の葉の食事であった。
 衰弱がすすんで病臥を続けるようになってからは、蟻が身体にまといつくようになった。時おり農園係が行って取り除いてはいたが、数日後には全身にびっしり蟻が食いついたまま、死んでいた。

             哀 れ な 自 殺

 昭和20年4月8日の夜である。月齢25であったからまだ月の出る前のことである。第5大隊の第1中隊第1小隊の農園に泥棒が入った。農園番兵が発見して捕まえてみると、第2小隊の佐久間整備兵長だった。番兵は、小隊長に報告した上、犯人をヤシの木に縛りつけ、翌朝まで農園を警戒しつつ、犯人の監視にあたった。ところが番兵が目を離した隙に、犯人は逃走してしまった。
 佐久間は、翌日になっても小隊に帰らず、そのまま離島に逃げたのではないかと思われた。10日の夜明け前、2小隊の小屋付近で小銃の発砲音が聞こえた時も、どうせまた農園番兵の威嚇射撃だろうと誰も気にとめなかった。12日になり、そばにあった防空壕の中から異様な臭気が漂うので、中に入ってみると、佐久間の自殺死体が発見された。
 佐久間と同じ小隊の田口整備兵長も、佐久間と同じ日に、他の小隊にトウモロコシを盗みに行き、やはり農園番兵に捕まえられたが、拘禁5日に処せられただけだった。同じ農園荒らしをやって、一方は拘禁5日で放免され、他方は自殺した。この頃、餓死者が続出していたので、他人の死はもちろん、自分の命をも粗末にする傾向があった。佐久間兵長は、トウモロコシを盗もうとした自分の非を詫びるために自殺したのだろう、非常に真面目でよく働く兵隊であった。

             新 井 大 尉 の 負 傷

 昭和20年7月31日、戦闘司令部に対する集中爆撃があり、最高指揮官が入ったまま埋没してしまった。爆撃終了後、直ちに救出作業が行われた。付近には不発弾が数発転がっていたが、作業は順調に行われ、指揮官は無事救出された。
 その日の夕刻から転がっていた不発弾が次々と爆発し出した。敵の爆弾はそれまでも不発弾が多く、時限爆弾の方は最近使用されていなかったので、またも不発弾だろうと思っていたが、翌8月1目(終戦2週間前)になってからも、時おり思い出したかのように爆発音が聞こえていた。
 不発弾は、たいてい真上に砂礫を跳ね上げるだけで、四周に飛散することは少ない。上空に跳ね上げられた石や弾片が落下してくるには若干余裕があるので、爆発点の近くにいる者も爆発と同時に退避すれば、被害を蒙けることがなかった。ところがこの時の爆弾は、小型機が低空から投下したため、地中に入らず、地上に転がっていた。そのため、瞬発の爆弾と同じように、弾片や砂礫が四周に飛散した。
 新井大尉はそのとき朝食を終え、烹炊所裏にあった箱の上に腰をおろして涼をとっていた。100メートルぐらい離れた所で時限爆弾が炸裂し、半地中式になっていた食堂の中に駆け込もうとした途中で、「ウーン」とうなって倒れた。
 「新井大尉がやられた。誰か毛布を持ってこい」と篠崎少佐が従兵を呼んだ。
 「どこをやられたか」と聞いても、「ウーン、ウーン」とうなるのみで、声が出ない。担架で病室に運ぶと、左腹部に小さな傷痕があるが、たいした出血はみられない。八代軍医少佐が聴診棒で傷痕を調べると、弾片が入っており、死亡するかもしれないと分かった。至急切開手術を必要としたが、充分な道具が病室にもないので、篠崎少佐が施設部医務室まで走り、麻酔剤、ガーゼ、脱脂綿などをもらってきた。手術は外科専門の若田軍医中佐が執刀した。弾片は大腸の下腹部に入り、まさに貫通せんとする所で留まっていた。
 腸を10センチぐらい引き出し、弾片を注意深く取り除き、腸壁への出入り口を縫合した。腸を引き出す時と押し入れる時、大尉は、ウーン、ウーンとさかんにうめき声をあげた。胸部と両脚は脚絆で仮設ベッドに縛りつけられていた。苦痛のあまり、腹膜に力を入れすぎると、かえって多量の腸を外に出す結果になるが、外科専門の執刀医と、その助手に八代軍医少佐自らがあたった故か、手術は無事に終わった。
 大尉は、前年の10月中旬にも原因不明の熱病に冒され、高熱の連続により、すっかり消耗して歩くこともできなくなり、空襲警報のあるごとに本部附の兵が、彼を背負って防空壕に運んでいた。この頃から糧食状況がいっそう悪化し、餓死者が多発するようになり、彼の全治も難しいのではないかと危ぶまれていたが、その時も運よく1ヶ月ぐらいで治癒し、命拾いした。同大尉は、まさに運よく帰還しえた者の一人といえよう。

             自 殺 者

 昭和19年5月上旬、「自分は身体が弱っているので、生きていてもどうせ何のお役に立たないだろう。また身体も回復する見込みがない。生きていても徒食するだけだから、私の食べる分だけでも皆に回してもらいたい」との遺書を残して自殺した者がいた。これが最初の自殺者だったと思う。その後、同様の状況で自殺する者が次つぎと現れた。中には気のあった者同士で手榴弾で心中した者もあった。
 小銃で自殺する者は、足で引金を引いていた。銃口を咽喉部に当て、引金に紐をつけて、それを右脚の親指に括りつけていた。6月中旬、日没後2時間ぐらい経った時のこと、筆者が入浴していると、「ズドン!」「ヒューン」と弾丸がすぐそばを飛んでいった。すぐ状況を調べたが分からず、明朝になって一人の兵が自殺していることが判明した。死体を検したところ、左上膊部と眉間に貫通銃創があった。1発目は失敗、さらに2発目を撃って自殺を遂げたとは、剛毅の者であった。

             死 に 慣 れ る

 昨日も爆弾の雨、今日も爆弾の雨、明日も同様、明後日も同様だろう。昨日も戦死者が出た。今日も出た。栄養失調でも次から次と死んでいく。生きている者はみな痩せ細って、フラフラしている。日本はいったい何時になったら盛り返してくるのだろうか。その気配はー向にみえない。籠城後しばらくは、新聞電報にもウオッゼの記事が時おりみられたが、今ではもう全然問題にされていない。しかし補給に来ないことに対しては、誰も不平を言う者はなかった。補給に来てくれるよりも、それだけ敵攻撃に多くの兵力を向けてもらいたいと望んでいた。皆、日本の必勝を信じていた。しかし日本が反攻に転ずるまで、ウオッゼが持つだろうかという点には心配があった。
 戦友は次から次と死んでゆく。負傷した傷は治っても、やがて栄養失調で死んでしまう。生き残っている者より、死んだ者の方が多い。自分の命もあと幾日あるだろうか。
 身の危険を避けようとする本能も次第に薄らいでいった。いわんや他人の死については、全く日常の茶飯事のような気持ちになった。「たれそれが戦死した」「たれそれは栄養失調で死んだ」と聞いても、「そうか、また死んだか」という程度で、それほど感傷的にならなかった。敵機がやってきても、あわてて防空壕に跳び込む者は少なくなり、「また来たぞ」「3機、6機、9機、向こうにも一隊来ている。だいぶ機数が多いぞ」「編隊を解いたな。爆撃姿勢に入ったぞ」「こっちに来そうだ」と、呑気に眺めていた。
 昭和19年9月13目、当日の爆撃目標は、南地区とみられた。東方には雲が低くたなびいていた。私は、防空壕から頚を出して南の方の爆撃状況を眺めていた。すると急に、東の方から突っ込んでくる音がした。「近いな」と思って防空壕に入ろうとした瞬間、すでに上昇姿勢になっている敵機が雲の下にみえ、石ころが跳んできた。「やれやれ危なかった」と防空壕に入ると、近くに2発ぐらい爆弾が落ち、犬伏兵曹長ほか5、6名が死んだ。彼らは空襲警報にもかかわらず、防空壕に入らず、半土中式の小屋の中にいた。犬伏兵曹長は考裸麦を記註している最中だったという。
 同年2月上旬の大型機による夜間爆撃の際、某兵曹長は、奥軍医少佐や北島主計大尉などと小さな防空壕に入っていた。外の状況をみようと防空壕の蓋を開け、頭を外に出した。奥軍医少佐が「危険だから……」と注意したその時、すぐそばで爆弾が炸裂して、「ザクリッ」という音がし、ランプが消えた。警報解除後調べたところ、同兵曹長は頭を砕かれ即死していた。
 このほかにも、空襲中、防空壕の中に入らないで、銃撃あるいは至近弾で戦死した者が多数あった。これは敵機に慣れ、空襲を恐れなくなったのと、自己の命を大切に思わなくなったことによるものだった。

             拘 禁 死

 窃盗などの罪を犯した者は、拘禁処分に付された。拘禁中は食事の量が半減される。はじめの間は、烹炊所員が直接拘禁者に配食していたが、その後、拘禁者の属している班から配食することになった。たとえ悪事をなした者でも、同じ班の者なら差し入れ量を多くする傾向があった。特に拘禁者が古参兵の時には、その傾向が強く、いろいろと面倒をみてやっていたが、番兵もこれを黙認していた。これが後に問題になり、やがて当直将校に厳重に監督させて、一般隊員の半量を厳守させることにした。
 減食率の進むにしたがい、拘禁者の食事はだんだん絶食に近いものになっていった。イモ虫を食う昔や、ゴキブリを食う者も出た。普通に食っていても衰弱し切っている身体であり、空腹に耐えかねたから悪事をした者である。その者たちが絶食に近い拘禁生活をするのだから、無事に出所できても、出所後5日か10日の間に栄養失調で死んでいき、たいていの者は出所を待たずに死んでいった。
 拘禁所の番兵も、やはり栄養失調でフラフラしていた。したがって夜になると、腰をおろして居眠りすることが多かった。この番兵の隙を狙い、拘禁所を脱走する者が相次いだ。しかも脱走する者はたいてい重大犯人だった。そこで重大犯人は拘禁所に入れないで、ロープまたは太いキャブタイヤ線でがんじがらめに縛り上げ、当直将校の目の前のヤシの木に縛りつけた。犯人に恨みを持つ者が、頭や腰などをこん棒で猛打することもあった。
 手足を縛り上げられ、身動きもできず、頭などから血を流している。ウーンウーンと苦しそうにうなっている。蝿が目、鼻、傷口、唇の上にいっぱい群がっている。時おり横に寝返りを打ったり、「プーッ、プーッ」と自分の吐く息で、唇の蝿を追い払っている。哀れといえば哀れであるが、その犯した罪は憎んでも憎んでも、なお余りあるものだった。たとえカボチャ1個、トウモロコシ1個でもこれを盗めば、その罪、万死にあたるということはこの世の末ともいうべき状況を経験した者でなければ、想像できないだろう。悪事が発見され、拘禁所に入れられる、それはそのまま死んでいくことを意味していた。

             農 園 荒 ら し

 20年1月3日、「だいぶ遅くなったようだから、寝ようではないか」ということで、班員みな床に就いた。しばらくすると、隣にいた坂本兵長がゴソゴソと起き出した。「何処へ行くのか」と聞くと、「ちょっと便所に行ってくる」とのこと。しかしながら帰ってこない。<ずいぶん長い便所だな>と思っていると、隣の班の小林兵曹が来て、「今、うちの畑に泥棒がはいったので、撃ち殺した。調べてみると、坂本だった」と。そういえば、さっき「誰か、誰か」と誰何する声が聞こえ、続いて銃声が聞こえたが、その時、撃ち殺されたのだろう。現場へ行くと、坂本は両手にトウモロコシを握ったまま死んでいた。胸部貫通銃創で、即死である。畑の番をしていた西本兵長によると、「どうも畑の隅の方でゴソゴソと音がする。おかしいなと思って近づくと、はたして黒い人影がみえる。誰何したら逃げ出したので、引金を引いた。坂本兵長と知っていたら撃つのではなかった」と。
 正月早々、哀れな死に方をしたものだ。同様の事件はこの前後にも数件あったが、なかには誰何されることもなく、狙い定めて撃ち殺された者もあったという。
 2月18日、藤本兵長はトウモロコシを盗んでいるところを農園番兵に発見され、捕らえられた。彼は入団前、小学校の先生をしていたこともあり、当時の下士官兵の中では、教育程度の高い方だったが、飢えに耐えかねて、盗みを働いたのだろう。農園の持ち主は、それまでもしばしば被害を蒙けていたので、すっかり憤慨し、藤本兵長をヤシの木に縛りつけ、さかんに殴りつけた。「痛い」「痛い」「ウーッ」という悲鳴が、相当遠方まで聞えていた。その晩はそのままヤシの木に括りつけておき、翌朝行ってみると、すでに冷たくなっていた。
 同年3月上旬、近藤兵長は<取り次ぎ>として当直していた。月はまだ出ていなかった。と、ズドン、ズドンと銃声が聞こえた。どこかの農園で威嚇のため撃ったのだろう。当直将校は、近藤兵長に異常の有無を調べてくるように命じた。彼は銃声のしたと思われる場所へ行き、オーイ、オーイと声をかけた。すると朝鮮人工員数名が走ってきて、同兵長を押さえつけ、殴りつけた。農園泥棒と勘違いされたのだ。いくら弁解しても、朝鮮語で叫びながら、なおも殴ってくる。当直室にいた衛兵伍長が不審を抱いて、状況を見にいき、工員をよく納得させて連れて帰ったが、近藤兵長は足腰立たぬまで打たれていた。栄養失調で衰弱していたためか、あるいは殴られたのが原因になったのか、その後10日も経たないうちに死亡した。
 4月上旬、佐藤兵長は、隣接班の畑に入り、トウモロコシを盗んでいるところを番兵に発見され、捕らえられた。さかんに殴られた上、ヤシの木に縛りつけられたが、番兵の隙を窺って逃亡した。翌日になっても、彼の姿は発見できなかった。拘禁所に入れられるのを恐れ、離島へ逃亡したものと思われていたが、翌々日の昼になって、彼の居住防空壕の中で小銃自殺を遂げているのが発見された。

             中 毒 死

 19年8月下旬、イソギンチャクを食べて中毒死した者がある。イソギンチャクは1、2ヶ月前から食膳に供されていたが、なかなか美味で、中毒症状をおこすことはなかった。ところが8月下旬以後、数名の犠牲者が出た。
 またこれと同じ頃、ウミウシの内臓を食べて死んだ者もある。これに命を奪われたのは、2名か3名だった。
 鮫の腸を食べて死んだ者は相当数あった。これに毒性のあることは早くから分かっていたが、それでも食べていたのだ。隔月に2、3名死んでいたようだ。
 このほか、離島でボラなどを食べて、けいれんをおこした者がたくさんいた。同じ魚でも、本島で捕ったものは異常がなく、離島で捕ったものは中毒するのだった。軽い者は、手や足の先がしびれ、あるいは水に入れた時だけしびれるという程度だったが、ひどい者は身体全体、特に背中の方がしびれて、居ても立ってもいられなくなった。しかしこのため死亡した者はいなかった。
 一般に、南洋の魚類は毒性のものが多いから、なるべく食べないように、ということが以前から言われていたが、上記のように特殊なものを食べた場合のほかは中毒死した者はなく、南洋の魚も特に警戒を要するというほどではなかった。みな魚は全然心配することなく食べていた。
 次に茸を食べて死んだ者が数名あった。ヤシの木が爆撃で倒され腐ると、これに茸が生える。毒性のない茸もあった。私も2回食べたことがあるが、異常はなかった。毒性のあるものと無いものとの見分け方は知らないが、ともかく茸で数名の者が死んだ。
 19年12月下旬、ある兵長は栄養失調で体力が衰えていたので、農園作業も漁労もできず、当直として<取り次ぎ>に立っていた。2時間の夜間当直を終えて自分の班に帰ると、炊事場に魚の切れ端らしいものがあった。空腹だったので早速これを焼いて食べたところ真夜中から腹痛をおこし翌日の午後、死亡した。捨ててあったのは、夕食時料理に使ったウミウシの内臓だった。

             栄 養 失 調 死

 戦没者の大部分は栄養失調によるものだった。栄養失調で、痩せる者と水ぶくれになる者と同数ぐらいだった。一方は、14貫、13貫、12貫と次第に減じていき、骨と皮ばかりのミイラか、材木かと思うような有様になる。他方、脚気兼栄養失調の者は、足が腫れ、顔がむくみ、腿や腰部も膨れ上がって、今まで減っていた体重が急に増えてくる。腫れた足を傷め、ちょうど凍傷が潰れたようなひどい症状を呈していた者もいた。
 水ぶくれになった者は、顔もまるまると膨れ上がり、しかも艶々しいので、非常に福々しい顔になる。そしてその死に顔は、痩せて死んだ者も同様だが、いずれも何等の苦痛の跡もなく、愛憎の人間社会を超越したかのような温和な顔をしていた。老衰死と同じだろう、みな仏そのものの顔であった。
 栄養失調で骨と皮ばかりになった者は、だからといって決して床に臥すことはなかった。体がだるいというので病臥すると、2、3日内に必ず死んだ。働かざる者は食うべからずということで、働かない者に対しては充分に食を与えなかったせいかもしれない。全員が痩せ衰えてフラフラしながら、自分の身の回りを整え、畑を耕しているのだから、病臥中の者に対して充分な手当てができなかったとしても、止むを得ないだろう。しかしそれよりも、床に臥すことの精神的影響の方が大きかった。「なにくそ、最後までがんばるぞ」という気概がなくなり、「もう駄目だ」という気分になるので、すぐ死亡したのだろう。
 いったん寝ついたうえ助かった者は、絶無といってよい。身体がどんなに衰弱しても、臥せる者は少なかった。たいてい死ぬ前の日まで、熱心に畑を耕していた。一鍬起こしては休み、また二鍬ついては休み、ほんとにひと鍬ひと鍬だったが、最後まで仕事を続けていた。朝になってなかなか起きてこないので呼びに行くと、すでに冷たくなっているという死に方であった。たいていの者が、夜眠ったまま死んでいった。第8大隊では、洗濯をしながらそのまま死んだ者もあった。
墓標 死亡者は、同じ班の者が懇ろに葬った。みな土葬である。分隊長、分隊士、あるいは中隊長、小隊長も必ず参列した。しかし栄養失調による死亡者が毎日毎日出るようになってからは、墓穴を掘る元気のある者も少なくなった。死体を担架に乗せて運ぶ者も、足がふらついている。墓穴を掘る、死体を入れる、そして土を被せようとしていると、「第何班の誰それがまもなく死にそうだから、それも一緒に埋めよう」というので、その兵隊が死ぬのを待つこともあった。また、墓穴を掘ってから死体を取りに戻っているあいだに、他の部隊の者がその墓穴を利用してしまったこともあった。このような状況では、やがて死者を埋葬することも不可能になるのではないかと思われたが、昭和19年12月から20年2月までの冬期が最悪で、それ以後は作物の出来がよくなり、栄養失調も次第に減っていった。

            Home  Top