『籠 城 六 〇 〇 日』 


第十五章  犯    罪

             白 状 せ ぬ 泥 棒

 籠城2、3ヶ月の頃である。夕方、主計長が自転車で走っていると、乾パンを齧りながら歩いている兵に出会った。不審に思い自転車をとめ、どこから手にいれたのかと訊ねると、海岸の叢の中で拾ったと言って、黒布の袋に入れた20枚ばかりの乾パンを見せた。主計長から連絡を受けた分隊長は、あらゆる手段を尽くしてその出所を尋ねたが、「拾った、拾った」の一点張りで白状せず、そのまま拘禁3日の処分を受けた。
 またある者は海岸で用便を足そうとしたところ、砂地に何か埋めた形跡があるのに気付き、掘ってみると乾パン3箱(一箱15キロ入り)が出てきたと言った。時計を乾パンと交換している者があり、尋ねてみると倒壊した被爆家屋の中から拾ったものだと主張した。これらの者はいずれも強情で、盗んだとは白状しなかったが、疑問の点が多かったので拘禁5〜10日に処せられた。
 同じ頃、ある工員の食っていた乾パンがきっかけとなって、籠城当初に空襲警報中の盗みがあったことが明るみに出て、20名ばかりの連累者を出したことがある。中には共犯者のあることが分かっていても、「男が言わぬと誓ってやったのだから、決して共犯者の名前は言わぬ」と、思い掛けないところで男を立てようとした犯人もいた。

             白 飯 の 横 盗 り

 陸上隊指揮所には、第531海軍航空隊の整備員が10名ばかり起居していた。最初は味方機の来た場合を考えて配員されたのだが、籠城状態になってからも矢張りその付近に陣地を築き、指揮所の中で起居していた。
 彼らは所属航空隊からでなく、警備隊本部烹炊所から配食を受けていた。同烹炊所までは片道千メートル位あり、身体の丈夫な時は問題がなかったが、空腹状態が続くようになってからは、烹炊所に食事を取りに行くだけでも非常に疲れるようになった。一般に警備隊員は航空隊員に対して好感を持っていなかったので、同指揮所員に対しても配給量が少ないというもっぱらの噂だった。
 19年5月頃、配食を取りに行った食事当番が帰路空襲に遭い、防空壕に逃げ込んだが、そのとき飯を一握り食べたということが公になった。警備隊主計長はこのことを取り上げ、烹炊所員が航空隊員に対し配食を少なくするなどとは考えられない、今まで食事当番が横盗りしていたのだろうと言った。食事当番のつまみ食いはそれまでにも或いはあったであろう、しかし烹炊所員が航空隊員を差別していたこともあながち否定はできなかった。一方、その食事当番を糧食窃取の科で罰すべきかどうかが問題になった。この程度のつまみ食いは他にもたくさんあっただろう。家庭内で子供が空腹のあまり、母親に内緒で飯を食うのと同じ程度のものではないか。しかしすでに公になった以上、法規に照らして処分すべきではあるまいか。1本のトウモロコシ、1個のカボチャで拘禁所に入れられ、なかには射殺された者すらいる位である。結局、人事担当の分隊長は懲罰言い渡しの準備をしたが、果たして懲罰処分にしたかどうか明らかではない。
  
             泥 棒 の 末 路

 食べるものがなくなると、盗む。盗むと拘禁所に入れられる。無事出所しても身体の回復が不可能なため、数日以内に死んでしまう。あるいは回復を焦るあまり、また罪を犯して、遂に拘禁所の中で死ぬ。これがたいていの窃盗犯人の辿る道だった。拘禁所に5回も入れられ、その勇名を司令にまで覚えられ、無事内地に帰還した堂本という兵隊もあったが、これは例外といえよう。マロエラップのタロア島では、糧食泥棒はヤシの木に縛りつけられ、死ぬまで雨ざらしにされていたが、40数日も生き延びた者がいたそうだ。堂本も同様な手段で罰せられていたら、この男と優劣を競ったことだろう。
 電信員に笠田という下士官がいた。19年4月頃、彼は当直下士官として夜間当直に立っていた。糧食庫番兵の勤務ぶりを監視するため、立哨箇所の巡視に行き、帰路、番兵の目を掠めて糧食庫に手を突っ込み、ウドン2束を盗んだ。翌朝盗難が発見され、調査の結果彼の仕業と分かり、番兵の監督者にさらに番人を付ける必要があり、総員が泥棒だという感じをますます深くした。
 彼は航空隊の電信員であったが、その後まもなく警備隊電信室に移った。20年6月頃、行方不明になった。北地区に行くといったまま帰って来なかったのだ。物を持ち出した気配もないので逃亡とも思われない。この日、北地区方面は爆撃を受けたので戦死かとも考えられたが、死体はみつからなかった。人食いにやられたのではないかという噂もあった。
 電信室の側に副長室があり、両室は交通壕で繋がっていた。副長室は半土中式の小屋で、電信室は耐弾式になっていた。空襲のとき副長が避退できるよう作られたのだ。当時副長室には、離島物資が土産物として各方面から納められていたが、これが空襲中や夜間にたびたび盗まれた。現認はできなかったが、犯人は笠田との疑いが濃かった。彼が行方不明になる前夜にも盗難があった。そろそろ犯行が暴露しそうになったので、これを最後の盗みとして逃亡したのかも知れないと、副長は話していた。

             主 計 兵 の 盗 み

 主計兵は役得のためか、餓死者を出すことが少なく、従って飢えのために他人のものを盗むということが少なかった。しかし第552航空隊では主計兵の役得などは全然許されなかったので、同隊の主計兵には飢えによる窃盗を働いた者がいた。
 19年6月(籠城後約5ヶ月)頃、烹炊所のすぐ傍にある糧食小出し庫で盗難があった。前夜の番兵を全部集めて調べたところ、中の一人が当直中に同糧食庫に怪しい人影を発見し、誰何したところ、金田主計兵だったと供述した。「いま怪しい人影が此処からそっちへ逃げたので、何か盗まれていないか調べているところだ。番兵に立っていて気が付かなかったか」と金田が言うので、一緒に付近を探したが、誰も姿をみなかった。金田は平素の勤務ぶりは非常に立派で、主計兵ではあるし、まさかその男が盗みをするとは思われなかった。金田本人は、下痢をしているので急に便意を催し、便所に走り込んだ時、外を眺めていたら、小出し庫のそぱに人影がみえたと申し立てた。時刻は真夜中だった。
 当時多勢の者が下痢をしていたが、これは非常な腹痛を伴い、とても外を眺めるゆとりなどない。また番兵が「誰か?」と誰何した時、「誰か?」と問い返していること。普通の者なら誰何されたら、「俺だよ」とか、「金田だよ」と当然自分の名前を言う筈なのに、疚しいことをしているので、とっさに名乗れなかったのだろうと疑われた。そして諄々と説き伏せられていくと、最後に隠し切れずに白状した。盗品は米約2升とウドン5束で、米は出て来たが、うどんは弾痕の水たまりの中に捨てられてあった。
 20年4月頃、脚気と栄養失調で足が膨れ上がり、その膨れ上がった皮膚が裂けてしまう症状の者が数名出た。渡辺という一主計兵もその一人であった。軍医官は熱心に傷の手当てをし、ビタミン剤も飲ませたが、糧食不足による病気なので、全然回復の様子がみえなかった。ところが急に渡辺だけが快方に向かい出した。やはり主計兵だから何かうまいものを食っているな、と軍医官は推測した。はたして数日後、糧食庫から乾パン1箱を盗み出して食っているのが発見された。
 渡辺はさっそく拘禁所に入れられ、出所後数日で病死した。金田も拘禁されたが、体力はそれほど衰えていなかったので餓死を免れ、その後派遣されたエニブン島で戦死した。

             逃 亡 者( その1 )

 昭和19年6月10日、第552大隊の海軍上等整備兵・石室久治が逃亡した。おそらくこれが本島最初の逃亡者であろう。彼は生まれつきの怠け者で、作業時間中はフラフラとどこかへ逃げて行き、食事時刻になると何処からともなく帰って来るという男であった。6月上旬、下痢のため入室(病院でなく、隊内の病室に入ること)した時も、トリコモナス性の下痢だった。たいていの者はこれにかかっても、入室などしないのだが、彼は作業を怠けるため入室したようだ。入室中は粥食だが、塩気が不十分なため、糧食庫に入って食塩少量を盗んだりした。退室後も相変わらずブラブラしていて、班長によく叱られていた。
 6月10日、フラフラと何処かへ行って、そのまま帰って来なかった。そのうち腹が減ったらまた帰って来るだろうと思われたが、3日経ち、4日経っても帰ってこず、逃亡したものと判断された。15日頃、第802大隊員がパラオ島に潜伏中の彼を発見し、捕らえた。
 翌月上旬、彼はまた糧食庫から米を盗んだ。倉庫扉の破れ穴から片手を入れ、米俵の中を四握りぐらい掴み出して風呂敷に包んだ。直接居住区に持ち帰るのは不安だったので、一応陣地の中に入れておいた。やがて付近を通った者がこれを発見し、その風呂敷を当直将校に届け出た。その風呂敷は蚊帳の裾で自作した特殊なものだったので、まもなく石室の仕業と分かった。そして彼は拘禁所に入れられ、栄養失調のため数日後に死亡した。

             逃 亡 者( その2 )

 以下は、松下兵長の供述である。
「私の班は、食事のたびに『俺の飯はすくない』『誰それの飯は多い』とみな不平を言うので、非常に不愉快でした。腹は減るし、班の雰囲気も面白くないし、いっそのこと離島に行けばヤシも充分あって、うるさいことを言う班員もいないと思い、11月13日の夜、自分の班を抜け出して離島に行きました。
 最初の日は飛行場にある空き防空壕の中に寝ました。翌日も昼間はその中に眠って、夜になってから南の方の三つめの島へ渡り、ようやくヤシの汁を飲むことができました。ジャングルの中に寝て、3日目にキメジョー島に渡りました,ヤシの実を食ってはジャングルの中に寝ていましたが、一人ぼっちで寂しくてたまらぬので、17日、同島にいた農園係のところに届け出て、翌日の大発便で帰島させてもらいました。
 その後1ヶ月ばかり本島にいましたが、やはり班の気分が面白くなく、また離島に行きたくなって、1月上旬班を抜け出し、南の離島に渡り、今度はエネツェルタックまで渡りましたが、島に着くとその日のうちに農園係に発見され、本島の拘禁所に入れられました。
 1月21日朝、演習があって番兵も陣地の方の配置に付いていたので、その隙に拘禁所を抜け出しました。一、二町ばかり行くと畑があって、トウモロコシが実っています。あまり腹が減っていたので逃げることも忘れ、それをもぎ取ってムシャムシャ食いました。そのまま畑に腰をおろして休んでいると、まもなく演習も終わり、みなが帰って来て私を見つけました。
 よく逃げるからというので、今度は拘禁所でなく、当直室前の叢の中に手足をグルグル巻きにして転がされました。夜になってもそのままです。闇に紛れてゴロゴロ転がりながら逃げようと思いましたが、10メートルぐらい転がった時、当直将校に見つけられ、今度はヤシの木に縛りつけられました。翌日になってもそのままです。あと2、3日こうしていたら死んでしまう、なんとかして逃げようと思いましたが、いくら首を曲げても口が届きません。止むを得ず後手に縛られた紐を、ヤシの木に擦りつけて切ることにしました。夜とはいえ、すぐ目の前に当直将校がおられるので、なかなか難作業でした。ほとんど一晩中かかってやっと紐が切れました。それから先はすぐ解くことができました。当直将校が居眠りをしている隙を狙ってその場を逃げ出し、まず自分の班に行きました。畑でトウモロコシを数本盗み、班員に見つかりましたが、うまくその場を逃げ、今度は北の離島に渡りました。3日ほどしてウォルメージ島に到着し、同島でヤシの実を食いながら生活していましたが、一週間ぐらいしてまた農園係に見つけられ、捕まりました。
 本島に連れ戻され、また拘禁されていましたが、2月10日夜、ふと気がつくと拘禁所の扉が開いています。番兵もみえません。これ幸いとまた抜け出し、北側の離島に渡りました。2月16日トレーチ島でまた捕まえられました」
 以上が松下兵長の逃亡録である。2、3回逃亡した者は他にもだいぶあったが、5回逃亡したのは松下兵長だけだったろう。彼は身体も小さく、知能もいくぶん劣っていたようだったが、一度逃亡してからはますます幼稚っぼくなり、2月頃にはもう人間というより、動物的状態になっているように思われた。5回目の逃亡で捕まえられ、拘禁されてから約10日後、栄養失調で死亡した。
 2月10日に拘禁所の扉が開いていたのは、当時番兵だった安田兵長が、拘禁中の松下兵長と河部兵曹を逃がしてやったからである。安田兵長は翌々日の朝、北隣のパラオという小さな島で死体で発見された。覚悟の自殺と推定された。河部兵曹はそれから数日後、ウオルメージ島で発見され、逮捕された。状況を尋ねると次のように答えた。
 「1ヶ月ぐらい前に、安田兵長は農作物を荒した科で拘禁されていました。その頃私は拘禁所の番兵をしていました。安田兵長の班の者がたびたび規定外の差し入れをしに来ました。私も初めは許しませんでしたが、だんだん可哀そうになり、2、3回目の頃から黙認してやりました。安田兵長はこのため私にずいぶん恩義を感じているようでした。
 1月下旬、今度は私が応急用の乾パンを食ったために、拘禁されました。2月の役員交替で、安田兵長が番兵に立つようになりました。<彼奴と俺と、今度は立場が逆になったな>と思いました。数日後のある夜、眠っていると誰かがしきりに揺り起こします。うるさいなと思って目をあけると、安田兵長が黙って私を出口に連れて行き、逃がしてくれました。私も本島にいては餓死するばかりだし、離島にでも逃げた方がよいと思っていたところですから、安田兵長が後で懲罰されはせぬかと案じましたが、彼に感謝しつつ、そのまま逃亡しました。まさか安田兵長が自殺を覚悟で逃がしてくれたとは思いませんでした。」
       

             逃 亡 者( その3 )


 第5大隊(元第552大隊の改称)に本藤兵長というのがいた。彼は精悍な面構えをしていて籠城前から素行がよくなかった。20年3月20日、農作物窃取の科で分隊士の調査を受けていたが、一寸した隙をみて逃げた。何か用事を思い出して居住区に帰ったのだろうと思って、分隊士は人をやって捜させたが、居住区の者は「さっき一寸帰って来たが、すぐ出ていった。分隊士の許可を得てきたのかと思っていた。」と話した。
 3月24目夜、彼は板倉少尉の農園にトウモロコシを盗みに来た。農園番兵に誰何され、驚いて逃げたが石につまずいて倒れた。農園番兵はすかさず組み伏せたが、本藤は右手に手榴弾を握りしめ、「これが見えぬか、どかぬと発火さすぞ。」と脅した。そして手榴弾を口に持っていき、安全栓を抜いた。番兵もその様に息を呑まれ、組み伏せていた力を緩めた。本藤はその隙にはね起きて逃げ出したが、騒ぎに気付いて起き出した数名の者が横から飛び出して彼を捕らえた。
 分隊長は行方不明だった者が発見されて安心したが、処分検討のため、分隊士に状況調査を命じた。25日朝食後、分隊士は副直将校に届けた上、本藤を拘禁所から連れ出し、自己居住区に連れていき、調査を始めた。やがて昼食時になったので、彼を監視しながら食事をはじめた。ところが縛られていた縄をどうやって解いたのか、再びいきなり脱兎のごとく走り出した。その場で食事をしていた者数名が追いかけたが、見失った。付近の防空壕などいくら捜しても発見できず、分隊長に届け出た。分隊長がすぐ副長のもとに報告に行きかけた時、「本藤が逃げたそうだが、責任者はすぐ副長のところに来い」と伝令が来た。副長の従兵が、分隊長の報告前に副長の耳に入れたものらしい。分隊長はあわてて副長のもとに走ったが、「関係者を全部呼べ」ということで、当直将校、副直将校、衛兵司令、同副司令、分隊上が呼びつけられた。副長は本藤逃亡の実情を確かめたうえ、「糧食窃盗、逃亡、殺人未遂という重要犯人を扱うのにあまりにも寛大すぎる」といって激しく怒り、直接の取扱い者だった分隊士を思いきり数回殴打した。直接責任者である分隊長を叱らずに分隊士に鉄拳を加えたのは、分隊長の部下に対する体面を重んじたためと思われる。分隊士はまったく自分の責任だと思ってこれに堪えていたが、分隊長は分隊士以上に強く責任を感じ、どうしても捕まえてみせると捜索逮捕に執念をもやした。
 分隊長は、彼が離島に逃亡するに違いないと判断した。干潮が一六〇〇(日没は一五五〇)であったから、日没後一九〇〇までの間が離島への逃亡可能時間だった。本島の南端へは下士官1名を派遣し、自分は本藤と同じ班の野上兵長を連れ、ウオッゼ本島の北隣の小島に渡り、本島からの徒渉者監視にあたることにした。その頃、同隊には使用可能な三輪車があったが、分隊長は三輪車を使わず、歩いて島の北端に向かった。分隊長も体重13貫(50キロ弱)ぐらいまでに衰弱しており、中地区から北端まで歩くのは相当苦痛のようであった。
 1日目の監視は海岸に腰をおろして、部下と月を眺めながら時間の経つのを待った。しばらくすると遠くに何者か、ウオッゼ本島より徒渉してくるのが見える。時々頭を水面すれすれまで低くして、周囲の状況を透かし見ているようである。分隊長は野上兵長に装填を命じた。本藤は手榴弾を持っているし、逃亡者は銃殺するように定められていたから、状況によっては逮捕せずにすぐ射殺しようと思って、分隊長も拳銃を装填した。しかし男は漁労にきた施設部工員で、分隊長は無断離島徒渉は規則違反だからと諭して帰島させた。それから一九〇〇まで監視していたが、人影一つ認められず、潮も大分満ちてきたので二人は中地区に戻った。
 2日目の夜は雨であったが、離島監視は続行された。雨を避ける小屋もなく、雨漏りのひどい粗末な陣地の中で、雨具から下着までピショ濡れになりながら、潮の満ちるまで頑張った。すると離島の方から大きな袋を背負って本島に向かう者がある。「誰か」と呼び止め、袋の中を検査すると、赤草ばかりで禁制品のヤシ類は持っていなかったので、無断離島の非を教えて帰島させた。そのほかには人影が見えず、ふんどしまで濡らして中地区に戻った。
 分隊長の食卓の者はすでに皆就寝していたが、夜食用のトウモロコシが二本食卓の上に置いてあった。野上兵長は自分の班に帰りかけていたが、分隊長は呼び止めてそのトウモロコシを二人で分けた。
 翌朝、分隊長の畑はすっかり荒らされていた。1月上旬種をまき、毎日水をやって最近漸く熟しかけていたトウモロコシが、大部分盗まれていた。前夜離島監視に行っている間に盗まれたらしい。付近の畑も相当荒らされている。ひょっとしたら本藤の仕業ではないかと噂された。
 その日の午後、居住区の傍の防空壕に本藤らしい者がいると報告してきた者があり、分隊士以下数名の者が直ちに調査に行くと、はたして中で眠っている本藤がみつかった。こうして彼はたやすく逮捕された。昼間は防空壕に眠り、夜になると農園を荒らしていたのだろう。野上兵長はそのことを知りながら、分隊長の伴をしていたと思われる。離島監視のことも、野上から本藤に知らせてあったのかも知れない。一方、分隊長はこのことを知ってか知らずか、毎日野上を連れては離島へ行き、深夜帰班して自分の夜食を野上に分け与えていた。野上が栄養失調で衰弱がひどくなると、彼を離島療養所に派遣したり、糧食の豊富な農園係に配置変更したりしていろいろ面倒をみ、終戦後は第一便の氷川丸で内地に帰還させた。
 本藤の方は、すぐ拘禁所に留置されたが、再脱走のおそれがあるので当直室前のヤシの木に縛りつけられた。逃亡罪により翌日の夕刻銃殺される予定だったが、午前中に死んでしまった。相当悪どいことを重ねていたためか、栄養失調の様子は全然見えなかったのに、次々と当直の者に猛打されたため死んだらしい。原因は糧食欠乏にあるのだが、その末路は哀れなものだった。

             逃 亡 者( その4 )

 20年7月頃のことである。花木二等機関兵曹は中隊長の農園からカボチャを盗んだ容疑で、中・小隊長の前で尋問されていた。彼は前々から中隊長の食生活に対し面白くない感情を持っていたので、尋間中も態度が不良で、隙をみて逃亡した。中隊長はすぐ部下を要所要所に配員して捜査にあたったが、発見できなかった。
 逃亡後約10日経った頃、板倉少尉の農園に忍び込んだところを見つかり捕らえられた。彼は逃亡罪で当然銃殺されるはずで、中隊長もそのつもりだったが、司令は、
 一、逃亡者を銃殺と決めたのは、逃亡者が敵に投降する心配が充分にあったからである。しかし彼には
    その気がなかったことがはっきりしている。
 一、逮捕されるまで本島内にいて、全然離島に渡っていない。
 一、尋間中逃亡の機会を与えたのは、中隊長の責任である。
 一、逃亡の原因となった窃盗も中隊長の食生活に対する不満によるもので、中隊長の態度にも部下の
    不満を買う原因が認められる。
 一、中隊長の銃殺主張には個人的感情が見受けられる。
 一、この頃は逃亡者の数も減り、特に厳罰にする必要はない。
との理由で中隊長の再考を要請した。
 花本兵曹はこうして銃殺されずに助かり、拘禁15日にされただけであった。しかし拘禁中の栄養不良と、拘禁後も中・小隊長、班員の敵意に遭い、充分の栄養が摂れず、拘禁所を出てまもなく栄養失調で死亡した。

             メ ッ チェン 島 殺 人 事 件

 昭和19年9月上旬、籠城8ヶ月目、一部人員の離島分散が行われ、環礁の西南にあたるメッチェン島に、施設部工員約80名が派遣された。隊長には、班長をやっていた新妻某なる者が選ばれた。彼は平素より峻厳実直で、実行力および部下の把握力に富み、派遣員の隊長としては適任のように思えたが、翌月下旬、この新妻隊長に対する殺人および過失致死傷害事件が発生した。
 すなわち、伊藤・中下の二工員が10月20日夜、新妻隊長の小屋を襲い、手榴弾二発を投入して、中で寝ていた衛生兵長一名を殺し、新妻隊長に軽傷を負わせたのである。中下の語るところによると、当時の状況は次のとおりであった。
 ウオッゼ本島より持参した糧食は、米、麦、味噌、醤油のごくわずかであった。そこで自給自足の生活をするため、農園係・漁労係が決められた。ヤシ・魚貝類の無断採取は禁止された。このようにして糧食は、隊長監督のもとに厳重な配給制度が実施された。
 時々ヤシ・魚貝類を無断採取し、単独烹炊する者がいたが、発見されるたぴに隊長から手ひどい体刑が加えられた。この体刑を、われわれ仲間では<焼きを入れる>といっていた。私(中下)も一度、魚を煮ているところを見つかり、焼きを入れられた。その時には何もこんなひどい目に遭わせなくてもいいではないかと憤慨したが、自分が悪かったのだからと我慢していた。
 このように皆の者には喧しく言っていたが、隊長自身はヤシを採ったり、ヤシたけを採って、いつもうまいものを食っていた。漁労班が捕ってきた魚も、小豆鱒のような美味しい魚はまず自分が取って、残りをみなの者に配給していた。またウオッゼから携行した醤油も、皆には与えず、自分だけ使っていた。一緒に烹炊していた衛生兵長もこの恩恵を受けていた。しかし衛生兵長は良い人で、みな尊敬していたし、私もべつに悪い感情は持っていなかった。隊長に対しては、焼きを入れるやり方がひどく、また自分だけうまいものを食っていたので、みな強い反感を持っていた。
 殊にヤシ・魚のような現地物資はともかく、醤油のような本島から持ってきた調味料を独りで消費されたのでは、とても我慢ができない。こうして隊長誹膀の声が昂まり、「隊長に焼きを入れようではないか」「何時がよいか」「今度の公休日、21日にやろう」というので、21日夜、総員で押し掛けて袋叩きにする計画ができた。伊藤工員が音頭を取ったようだ。
 10月20日、焼きを人れる前日、私が小屋で寝ようとしていると、伊藤工員がやってきて、「明日の晩、隊長を襲撃するのは自分たち二人だけでやろう。皆に迷惑をかけるのは悪いから」と言うので、「二人でやるといっても、どういう風にやるのか」と闇けば、「二人で隊長の寝室に行き、ハッパを投げ込むのだ」と言う。「ハッパを掛けたら、死んでしまうではないか」と、暗に反対の気持ちを示すと、「では俺だけでやるから、ハッパをくれ」と言い出し、自分は持っていないと答えると、「漁労係だから、ある所を知っているだろう、取って来てくれ」と無理に頼むので、仕方なく漁労班長の小屋に行った。何処に隠してあるのか分からぬので、ゴソゴソ探していたら、寝台の下にあるのが見つかり、ハッパ2個と手榴弾3個を盗んだ。余分に盗ったのは、内緒で漁労に使おうと思ったからで、持てるだけ盗んだ。
 ハッパを伊藤工員に渡すと、「どうだ、一緒に行ってくれぬか」と誘うので、「嫌だ」と断わると、「そうか、俺にだけやらすつもりか、俺はまだハッパを使ったことがないので、失敗するかも知れぬ」と脅し、しまいには私がいかにも卑怯者のように言うので、一緒に行くことにした。伊藤工員がハッパを1個持ち、私は手榴弾を両手に1個ずつ持った。手榴弾の威力を強めるため、途中で2発ずつ手榴弾を紐で縛りつけた。伊藤工員が「オイ、何してるんだ」と呼ぶので、2発だけでは、たいしてこたえんからなあ」と返事した。
 私の小屋から隊長の小屋まで約300メートル、その間、闇夜ではあるし、誰にも遇わずに到着した。小屋の10メートルぐらい手前の叢に入り、しばらく様子をみた。ひっそりとしてよく眠っているようだったので、姿勢を低くして、小屋の窓下に近づいた。伊藤工員と目で合図しながら手榴弾を発火し、隊長の寝台の方へ投げ入れた。窓の高さは胸ぐらいだった。伊藤工員もすぐハッパを投げ込んだ。姿勢を低くしてジャングルの方へ逃げ込むと、まもなく大音響が聞こえた。
 「何だ、なんだ」と言って、皆が集まってくる気配がしたので、不安になり、海岸へ逃げた。伊藤工員はそのままそこにいたようだった。数分後、人員点呼の号令がかかったが、出る気にならず、小屋に戻って寝ていた。
 人員点呼後、伊藤工員がやって来て、「君がいないので、みな君を疑っている。こんな時には出て来なければ駄目だ。しかし中下は、夕方腹が痛いと言っていたから、寝ているのでしょうと言っておいた」と言った。また、「どんなに調べられても、決して白状すまい」と言い合った。
 翌朝、人員点呼の時、尊敬していた衛生兵長が死に、隊長は負傷しただけだと知らされた。そして「みな手を出せ」と言って、掌の検査が行われた。ハッパに使ってあるピッチが付いていないか、調べられたのだ。伊藤工員は左の親指にピッチが付いていたので心配していたが、検査員が気付かなかったのか、それともわざと見ない振りをしたのか、そのまま見逃され、その後、本島から検査官の来るまで調査は行われなかった。みなの態度では、自分たち二人がやったことをうすうす感付いているようだった。その後一般の食事もよくなり、気のせいか、それとなく私たちに感謝しているようにさえ思われた。
 4、5日後、ウオッゼ本島から加藤主任官(施設部工事主任官加藤技術大尉)他3名の者が調査に来られた。翌晩、私と伊藤が容疑者として本島に連れて行かれた。舟の中で、「絶対白状するな、俺もしない。知らぬ存ぜぬで突っぱねれば、一通り調べた上で赦されるに違いない。証拠は何もないのだから」と伊藤工員がさかんに言うので、自分も白状すまいと思った。そのうち大便がしたくなったので、両手は縛られていたが、少し動かせるので舷側を持ち、舷外に用便を足していた。すると大波が来て舟が傾き、アッと思う間に水中に落ちた。
 水には自信があったが、両手を縛られているので、浮かんでいるのがやっとであった。翌朝夜明け前に、トートン島より二つ目の小さな島に流れ着き、少し眠った。手を縛った紐を木に擦りつけて摩り切った。ヤシの木は数本あったが、実が一つもなかったので、隣の島に泳ぎ渡り、ヤシの実3個を採って喉をうるおした。海岸を見るとゴム製の浮き舟が打ち上げられていた。米軍の飛行機搭乗員用救命プイのようだった。それに乗ってトートン島に渡り、見張り指揮官に自分の犯行と今までの顛末を全部白状した。指揮官より本島に電報報告され、数日後迎えの大発で本島に帰島した。
 以上が中下工員の供述内容である。
 この事件は、ウオッゼとしては最初の殺人事件であり、しかも上官殺人に相当する性質のものなので、慎重に調査審議が行われた。最初、下調べが行われ、11月下旬から正式審議が1ヶ月行われ、遂に死刑が適当ということになり、第四艦隊司令部よりの指示を待ち、銃殺された。
 伊藤工員は愛知県の出身で、弁舌巧みでなかなか如才なく、青年団の団長もやったことがあるとのことだった。その当時も、公金を横領し、起訴されたことがあったとのことだ。継母に育てられたという。中下工員は三重県出身で、長兄と不和だったようだ。白状するに至った動機を尋ねると、最初より自白の意思があったのだが、海中に落ちたとき、なんとかして助かり、正式に罪の裁きを受けたいと強く感ずるものがあったという。また伊藤は、毎晩のように死んだ衛生兵長の夢をみて苦しみ、尊敬する加藤主任官の心痛しておられるのを見て、白状するつもりになったとのことである。
 銃殺する時、加藤大尉が何か言い残すことはないかと尋ねると、中下は、「舟から落ちたのは本当で、わざと跳び込んだのではない」と答えた。自殺または逃亡のつもりで跳び込んだのだろう、と言う者が多かったからである。そして両人とも、多くの人々に面倒をかけ、特に事件審査にあたった人々には済まなかったと述べ、「天皇陛下万歳」と言って死んでいった。

             上 官 暴 行

 小山水長は内気でおとなしい男であった。班長の川部二曹はとかく彼に対して辛くあたり、食糧事情が悪くなるにつれ、その態度がますますひどくなった。川部班長は食物や身の回りの日用品がみえなくなると、すぐ小山水長を呼んで、「お前が食ったのだろう」とか、「お前がヤシと交換して食べたのだろう」といろいろ責め立てた。ついには罰として1、2回絶食させたこともあった。小山水長もはじめは服従していたが、たび重なるにつれ、班長に反感を持つようになり、性格が陰険になっていった。川部班長は自分で食っておいて、小山水長が盗み食いしたと責めることもあった。一方、小山水長にも、事実疑われるような盗み食いなどもあったようだ。
 19年11月頃(籠城後10ヶ月頃)、川部班長が烹炊所より不法入手してきた醤油がなくなったことがあった。班長はさっそく小山水長を呼んで詰問した。彼も止むを得ず、ヤシの実と交換して食ったことを白状した。
「交換したヤシの実を出せ」
「みな食った」
「そんなことがあるか、まだ残っているはずだ。何個と交換したのか」
「みな食った。1個しか貰えなかった」
「あれだけの醤油で、ヤシ1個ということがあるか。誰と交換したか」
「施設部の工員と交換した」
「その工員を呼んでこい」
「名前を知らぬから分からない」
「どうしても探してこい。連れて来ぬと、もう飯を食わさぬ」
 そこでしかたなく小山水長は南地区へ行ったが、相手の顔も名前もはっきりせず、探しようがないので、昼食も食えぬまま、南地区で昼寝をして、夕方帰ってきた。
 「いくら探しても分かりませんでした」
 「嘘を言うな」
 そういって班長は小山水長を跳ね飛ばした。栄養失調でフラフラになっている水長は、たわいもなくひっくり返り、ドスンと扉にぶつかったところ、棚から包丁が転げ落ちて彼の右手にあたった。その包丁を見て彼はカーツと逆上し、班長めがけて躍りかかって行ったが、川部班長の方は栄養失調にもならず体力があったので、難なく包丁を取り上げ、小山水長を取り押さえた。
 班長は大腿部に少し負傷しただけで、まもなく全治した。これに対する処罰はどの程度だったか覚えていないが、10日ぐらい拘禁されただけだったと思う。

             上 官 殺 人 事 ( 二砲台 )

 北地区には12,7センチ高角砲が4門あり、第二砲台といっていた。この付近は島内でもっとも地味が肥えたところで、カボチャがよくできた。砲台員もカボチャを充分食べていたためか、1、2月の糧食事情最悪の時でも、皆よく太っていた。その砲台員のなかに山本兵長がいた。彼は若くて性格も不良じみていたため、班長と気が合わず、班長からも、とかく冷たくみられていた。
 20年2月頃だったと思う。彼は遂にその班に居辛くなって逃げ出した。配給になったばかりの米少々と、畑のカボチャ数個を持ち出して、北の方にあるパラオ島付近まで行ったらしい。10日あまり離島で生活していたが、そのうち食べものに困り、本島に盗みに来た。そして様子の分かっている二砲台に来ると、小屋のそばに塚田兵長が小銃を持って番をしているのを見た。これを日頃の恨みもあって、梶棒でー撃のもとに打ち殺した。
 その物音に驚いて班員が跳び起きて来たので、山本兵長は逃げ回ったが、遂に捕らえられ、上官殺害の科により死刑にされた。死刑は銃殺で行うと海軍刑法に定めてあったが、この時には銃剣で刺殺したので一時問題になったが、それもいつしか忘れられてしまった。

             飛 行 場 傷 害 事 件

「毎日毎日食うものはカボチャと木の葉ばかりだった。漁労の上手な者は、ハッパを作って魚を捕っていた。長いあいだ魚を食ったことがないので、無性に食べたくなり、何とかして魚を手に入れたいと思った。漁労のうまい井上兵曹に『魚を分けて貰えますか』と頼むと、手榴弾をくれれば魚と換えてやると言われた。そこで陣地にあった手榴弾を先任下士官に分からぬように5個持ち出して、魚15匹と換えて貰った。
 2、3日して、先任下士官が手榴弾のなくなったことに気付き、探さなければ小隊長に叱られると、随分心配してあちこち探された。そこで私も仕方なく、魚と交換したことを話した。先任下士官は非常に怒って、『どうしても取り返して来い』と言われた。
 そこで井上兵曹のところへ行き、手榴弾を返して貰うように頼んだが、『魚を返せば返してやる』と言われ、『魚はもう食ってしまったから、カボチャで我慢してくれ』と言うと、井上兵曹は『それではカボチャで我慢してやる』と言われた。
 居住防空壕から包丁を持ってきて、一緒に畑に行き、カボチャを1個採って彼に渡したが、手榴弾を1個しか返してくれないので、『全部返してくれ』と言うと、また『魚を返せば返してやる』と言い、だいぶ口論した。そのうちカッとなって、持っていた包丁で彼の腹を突き刺した。彼は体も大きく、魚を食っているので丈夫だし、逆に包丁を取られてしまった。そこで気持ちを変えて、彼の傷口に包帯するためシャツを脱ぎ、包丁を戻してもらって、それで切り裂いた。包帯をしながら、やはり後のことを考えると殺してしまった方がいいという気になり、また腹を突き剌した。彼が倒れたので怖くなり、そのまま居住防空壕に逃げた。夕方になって気掛かりなので、彼が倒れた場所に様子を見に行った。井上兵曹は最初の場所より10メートルぐらい離れた所でウンウンうなっていたが、『許してくれ、俺が悪かった。済まんが病室まで連れて行ってくれ、決してお前にやられたとは言わぬから。飛行場を歩いていて、半島工員に腹を刺されたということにするから』と一生懸命頼むので、私も気の毒になって、彼を背負って病室に行った。奥軍医少佐が来られて、『何処でやられたか』『誰にやられたか』と聞きながら手当てをされた。
 井上兵曹ははじめは黙っていたが、急に『此奴がやったんです、此奴です』と私を指差したので、『何を言われるんですか』と必死に否定したが、隠し切れずに軍医長に白状した」
 これは籠城15ヶ月の頃に発生した事件で、被害者は数日後に死亡し、加害者は翌々日ぐらいに銃殺刑に処せられた。

      航空廠への誘導路

             上 官 殺 人 事 件            

 減食がひどくなるにつれて、訓練はそっちのけで農園・漁労と、食生活に全力を尽くすようになった。しかし自動車運転員は、その任務の関係上、自動車の運転・整備をしなければならず、充分食生活に時間をかけることができなかった。運転員も爆撃や栄養失調で次々と死亡し、20年5月頃には島田上等機関兵曹、太田一等機関兵曹、山本二等機関兵曹、野田二等機関兵曹、西沢機関兵長、吉口水兵長の6名となった。作業の関係上、島田と西沢は主として漁労作業を、太田と野田は農園を、山本と吉口は自動車整備をやるように申し合わせた。このような分業組織でやっていたが、農園の作物が6名を養うだけ出来なかったので、農園係の太田と野田が、自動車整備係の山本と吉口には食べさせないようにし始めた。
 農園は中地区の西側にあり、主としてカボチャを植え、一部トウモロコシも作っていた。東海岸にも痩せた畑があり、そこには赤草を植えていた。西側農園内に常住用の小屋を作り、東海岸の畑にも番小屋を作った。先任下士官の島田は車庫に寝、山本・吉日は番小屋に、他の3人は常住用小屋に寝ていた。
 20年4月下旬、農園係の太田は、山本と吉日に「お前たちは少しも畑をやろうとしない。この畑は俺たちが作っているのだから、今後はこの畑の作物はお前たちには食わさない。」と、最初の申し合わせに反することを言い出した。それで両名はその不合理を主張したが聞き入れられず、分隊士に申し出たが、分隊士も最近の配置変更で車庫に来たばかりで、食生活ではかえって車庫員の世話にもなっており、太田の話は筋が通らぬと思っても、強く言えなかった。
 その後、山本・吉口は食生活でとかく区別をつけられ、二人は太田に対して次第に反感を強め、太田と一緒にいる野田に対しても恨みを持つようになった。
 20年5月上旬、
 「殺そうじやないか」
 「殺そう」
 「一人やるか、二人やるか」
 「二人ともやってしまおう」
と簡単に決まり、決行したのは翌々日の夜だった。
 5月9日一九〇〇(現地では真夜中近くになる)、二人は東海岸の番小屋を出て、居住場所に来た。すでに小銃には弾丸が装填してあった。まず山本が音のしないように小屋の中に入って行った。二、三歩離れて吉口もついて行った。闇夜で小屋の中は真っ暗である。手探りで進んで行くと、小屋の奥の方に太田と野田、入り口には西沢が寝ているのが分かった。三人とも一つの蚊帳の中である。
 山本が太田を、吉口が野田を殺す手筈になっていた。山本が奥にいく時、西沢の足を踏みつけ、西沢や他の者も目を覚まして騒ぎ出した。吉口は素早く外に逃げた。
 「誰だ!」
 「私です」
 「私では分からぬ、誰だ」
 「山本です」
 「何しに来た」
 「どうしてこんなに遅く来たんだ」
  山本は仕方なく、
 「昼間二砲台で貰ったカボチャを、チェストの中に仕舞ってあるので、食べたくなって取りに来ました」
 「嘘を言うな、俺たちのカボチャを盗みに来たのだろう」
 「いいえ違います」
 「いや、盗みに来たんだ」
 「すみません、許してください」
 「駄目だ、許さぬ」
 「許してください」
 「いかぬ」
 そのうち山本は不貞腐れて、太田と野田のあいだにゴロ寝してブスッと黙り込んでしまった。やがて野田は便所へ行くと出ていった。
 小屋の外にいた吉口は、物蔭に身を潜めて、野田が大便所に行くのを見ていた。便所は高さ四尺ぐらいの板で三方を囲んで、天井も入り口もない簡素なものである。10メートルぐらいの所から吉口は狙いを定めた。用便を終えて立ち上がった野田は一発目で倒れたが、すぐ立ち上がり「助けてくれ」と言いつつ走り出し、2発目でばったり倒れ、しばらくうなっていたが間もなく絶命した。
 小屋の中で発砲音を間いた山本は、ぐずぐずしては失敗するとすぐはね起き、入り口に置いた小銃を取りに行った。その態度が只ならず異様なのと、野田の「助けてくれ」の悲鳴に、太田もやっと山本・吉口の計画に感付き、外に逃れようと窓に足をかけた瞬間、一発撃たれたが、そのまま闇の中に逃げてしまった。
 吉口はすぐ自殺すると言い張ったが、山本が分隊士に届け出ようと言い、やがて先任下士官が来て二人を分隊長の所に連れていった。両人はすぐ事情を話し、数日後に銃殺された。太田は左大腿部に貫通銃創を受けたが、順調に治って、不具にもならなかった。

             上 官 殺 人 事 ( 第五大隊 )

 河本一整曹は一見温順で親切そうにみえたが、いくらか陰険なところがあった。毛利二整曹はたいへん温順実直な下士官であった。ただ、漁労作業中に負傷して右眼を失ってからは、体力が次第に衰えがちであった。野上整長は最も若かったが、非常に真面目に働いていた。
 第5大隊は旧552航空隊の水兵員、整備員、看護員、主計員からなっていた。そのうち整備員は、常務編成で5班に分別されていた。そのうち第3班は6名おり、居住烹炊は二つに分かれ、その一方に河本一整曹、毛利二整曹、野上整長の3名がいた。
 以下に述べる事件は、籠城後約18ヶ月、終戦1ヶ月前頃のことである。
 毛利二整曹は負傷以来、身体は弱ったままで、それが河本一整曹には、とかくなまけているように見え、事ごとに嫌味を言われていた。農園のカボチャが盗まれるたびに、「お前の見張りが不十分だからだ」「ボンヤリしているからだ」「盗まれたのではなく、お前が食ったのだろう、お前は今日は減食だ」などと言って、カボチャも魚も野上整長と二人で食べ、毛利二整曹には汁だけしか飲まさなかった。このようなことがたび重なったが、毛利二整曹はいつも辛いひもじい思いに耐え、上官にも言わず我慢していた。
 その晩、10時ごろ用便に起きた時、何気なく横をみると、河本一整曹がさも心地良げに眠っている。自分は空腹で腹がグウグウいっているのに、河本はのんびり満足そうな顔をしている。ジーッとみていた毛利二整曹は平素の虐待を思い出し、発作的に殺意を生じた。防空壕へ行って銃を取り出し、蚊帳の外から狙いを定めて一発撃った。弾丸は横向きに寝ていた河本一整曹の額から後頭部に抜け、その銃声に野上整長は跳び起きた。
 毛利二整曹は、すぐ分隊長のところに行って自白すると言ったが、野上整長は他所の者に殺されたことにしよう、自分たち二人はネズミ捕りに行っていたことにしよう、と勧め、毛利二整曹もついその気になって、まず班長の岡本上整曹のところに行き、「河本一整曹が殺されました。自分たちがネズミ捕りを調べに行っていたら、銃声がしたので帰ってみると、河本整曹がウンウンうなっているので、『河本整曹、河本整曹』と呼んでみましたが、まもなく死んでしまいました」と届けた。岡本上整曹は「そうか、そうか」と眠そうな声で応えただけで、毛利二整曹が「分隊長のところに届けに行きます」と言うと、班長は「明日になってからでいいだろう」と、意に介さなかった。
 翌朝、野上整長が分隊長に届けに行った。分隊長は、野上整長に半分疑いをかけつつ、状況を聞いた。ことに銃声を聞いた時、および10時の時鐘を聞いたとき、毛利二整曹の所在、ネズミ補りを調べた際の野上整長の位置などについて尋ねた。その後、野上整長は居住家屋に帰され、毛利二整曹が尋問を受けた。二人の答弁はぴったり合っていたが、尋問が長引くにつれて毛利二整曹はだんだん後悔し出し、また分隊長に迷惑をかけることを済まないと思い、夕刻になってすべてを白状した。
 毛利二整曹はその夜監禁され、翌日の午後、上官殺人の科により銃殺された。
 銃殺の状況は以下のとおりである。執行者は分隊長、同補助として分隊士、銃隊員4名、検死者として5大隊医務隊長。
 分隊長、分隊士、警戒員たる銃隊員一名が監禁所に来て、毛利二整曹が監禁所から出される。
「いろいろ同情すべき点は多いが、上官殺人という重罪を犯したのだから死刑にされる」と、分隊長が本人に宣告。処刑場まで約200メートルを4名が黙々と進む。処刑場は墓所の近くの弾痕跡が、死体運搬距離が短いということで選ばれた。そこにはすでに銃隊員が待機していた。毛利二整曹に目隠しされる。
「何か言い残すことはないか」
「分隊長、済みませんでした」
「他にはないか」
「はい、何もありません」
「気を付け」
「立ち撃ち」
 ガチャガチャと弾を込める音、
「発射用意」
「天皇陛下万歳」
「撃て」
 ダーン!
 医務隊長の検死、終わって銃隊員および班員の手で、前もって掘り起こされた墓穴へ死体を入れ埋葬、ビール瓶に草を差して供える。分隊長、分隊士、分隊員拝礼。
 後で聞くと、毛利二整曹は前日の夕食も、当日の朝食・昼食も貰えず、監禁所の中に両手を固く縛られたまま、入れられていたとのことだ。

             人 食 い 事

 昭和20年5月中旬のことである。施設部工事主任官・加藤技術大尉から、衛兵司令・篠原大尉宛、次のような訴状が回された。「昨日午後、藤井隊員がカボチャと魚の交換のため第四砲台に行ったが、そのまま今日になっても帰ってこない。工員の噂によると、同砲台に行った者は、みな帰ってこない。殺されて、食われているらしい」と。
 翌朝、衛兵司令は部下数名に厳重武装させ、起床後直ちに同砲台を急襲した。砲台員5名を集めて部下に監視させ、その居住区および防空壕を検査した。居住区といっても小さな小屋二つで、片方に2名、片方に3名が生活していた。防空壕も2個あった。その一つの防空壕に、はたして人肉と思える大きな肉塊が3個、天井からぶら下がっていた。犯人はその砲台員のうちの2名だけで、他の3名は全然知らなかった。犯人の自供は次の通りである。
 20年4月上旬、班長の横暴を恨んでこれを殺した。小隊長には、東海岸に行ったまま行方不明になったと届けた。ちょうどその頃、食糧が非常に欠乏していたので、食ってみようと相談が決まり、二人で食った。なかなか旨かった。数日にして食いつくしたので、「また誰か食おうではないか」「食おうといっても、そんなやたらに人を殺すわけにはいかぬ」というので、そのままになった。その後どうしても人肉の味が忘れられず、5月12日、一人の施設部工員に目をつけた。
 「俺のところはカボチャはよく出来るが、魚を捕る者がいなくて困っている。交換してくれないか」
 「ハイ承知しました」
 「今日捕れたら、夕方でも四砲台まで持って来てくれ」ということになり、その日の夕刻、工員は魚数匹を持って四砲台に来た。
 「カボチャは向こうに納めてあるから、防空壕まで来てくれ」と言って、壕の中に誘い込んだ。そしてカボチャを数個出し、
 「これとこれと2個でいいだろう」
 「それは小さすぎます」
 「では、これとこれにしよう」などと話しているところを、他の一人が後ろから小銃で射殺した。
 これより以前にも、5、6名四砲台に行ったまま帰らぬ者があったので、この件も問い質したが、白状しなかった。拘禁中も「人肉は甘いぞ」とさかんに同室者や番兵に吹聴し、他への影響も面白くないし、二人とも死刑を予期しているので、いつ逃亡するやも知れず、余罪の追求をやめ、銃殺刑に処した。
 これで人肉事件は一応かたづいたと思われたが、その後も次々と行方不明者があらわれた。中には逃亡したかも知れないと思われる者もいたが、全然そうとは思えない者まで行方不明になることが続いた。今度は北地区方面が怪しい、というので、衛兵司令は施設部員と協力して捜索にあたり、同方面の居住区および防空壕を一斉点検したこともある。この捜索は終戦時まで続いたが、ついに犯人は発見できなかった。
 人肉を食った事件はこれより前にも一件あった。20年3月下旬だったと思う。施設部工員が栄養失調で死んだ者の肉を食った。食った者も、相当ひどい栄養失調であった。このとき食べた者の処分について大分議論が行われた。すなわちみな栄養失調で困っている時だから、死んだ人間を食うことぐらいは許されていいのではないかという考えと、これを許したら人肉供食を奨励するようになり、しまいには生きている者をも殺して食うようになるから、絶対許してはいかぬという意見であった。検討の結果、後者に意見が一致したが、法律には人肉を食った場合のことは出ていない。あえて適用すれば死体凌辱であろうが、これも殺人罪などに較べるとはるかに罪が軽い。本島では拘禁15日以内か死刑の他、罰する手段がないので、一応拘禁することに決まった。拘禁数日後、犯人は栄養失調で死んだ。



第十六章  終    戦

             終 戦 の 報

 最高指揮官は戦局判断のため、常に外国放送を聴いていた。昭和20年8月12日、ポツダム宣言が日本政府に手渡されたことは、早速当日の外国放送で報ぜられたらしく、何人かの首脳部は「日本はいよいよ降伏するらしい」と考えていた。
 8月15日の天皇の放送は、感度が悪くて聴けなかったが、夜の日本側新聞電報により、ポツダム宣言の内容と日本の降伏を知った。しかし正式な命令はまだ届いていないため、最高指揮官は積極的攻撃を避けるようにと命じただけで、敗戦のことはまだ公にしなかった。終戦に関する正式の命令を受け取ったのは、8月17日だったと思う。
 敗戦を知った時、皆はすぐには実感が湧かなかったが、重荷をおろした時のようなホッとした気分であった。「敗戦によって戦争は終わった。もう餓死する心配はない。敗戦国といってもなんとか無事、故郷に帰って父母や妻子に逢えるだろう」と、安心した者が多かったと思う。これからの日本は一体どうなるのか、などと思い詰めて考えるほど、気持ちのゆとりはほとんどなかった。現地で武装解除された後はどうなるのか、捕虜として諸作業に使役されるのではあるまいか、内地への帰還は何時になるだろうか、ということが、引揚げ確定までにいちばん心配された。たとえ労務に使役されても、それまでに度々投下されていた伝単により、それほど非人道的な取り扱いはされないだろうと、少々甘い考えかも知れないが、そう思っていた者が多かった。

             諸 物 件 の 焼 却

 昭和19年1月末に、上陸部隊来襲に備え、機密書類、不用私物類はその時ほとんど焼いたが、その後また書類が増え、私物の中にも他人に見られて恥ずかしいものを大事に持っている者があったので、敗戦を感づくとすぐそういう不用物件を焼くように指示が出た。敗戦確定と共に敵軍の来島を予想して、処分は急いで行われた。官・公金も占領軍に没収されることを懸念し、終戦の正式命令が中央から来る前に始末した。何万円あったか覚えていないが、揮発油がかけられ、アッという間に灰になった。また兵器引き渡し後、廃陣地内に小銃弾がやりっ放しにされているのを発見したが、これは海中に棄てられた。
 降伏直後、敵がやってくるものと思っていたが、彼らはなかなか来なかった。そこで武装解除される前の、8月21日、最後の観兵式が行われた。永尾中佐が指揮官となり、総員飛行場に整列し、最高指揮官の閲兵を受けた。分列行進は栄養失調のため、力強い行進ができないので行われなかった。閲兵終了後、最高指揮官の命令により、総員捧げ銃をして皇居を遥拝した。名誉ある帝国軍人としての自分はこれが最後で、再び兵器を持つことはないだろうと、それぞれ感慨深いものがあった。
 8月26日、武装解除。兵器を一箇所にまとめて引き渡しの準備を完了した。

             慰 霊 祭

 8月22日、追悼式が行われた。当時最高指揮官はその官舎を破壊され、第5大隊本部に起居していたこともあり、式場は同隊の本部前広場が選ばれた。この追悼式には戦没者はもちろん、自殺者、銃殺者も一緒に祀られた。供物といっても適当なものがある訳もなく、カボチャ、トウモロコシばかりであった。このカボチャやトウモロコシをもう少し早く食べさせられていたら、と思うと、哀れさに胸のつぶれる思いであった。読経は、仏門の出である邑陸軍中尉が行った。
 正式降伏調印後、記念碑建立の案があり、米軍の許可を得て戦死した多数の日本人将兵の碑と、米軍将兵の戦死者の碑を二つ並べて、五十鈴岡に建てた。加藤技術大尉の設計で、木製の枠にジュラルミン板を覆った碑である。資材がないためこんな簡単な碑しか作れず、雨風にさらされ長く原型を留めることは期待できなかったが、哀悼の情を禁じ得ず、建立されたものである。復員船に乗る前日、10月29日に総員整列して、記念碑に対する告別式を行なった。

             降 伏 調 印

 8月22日、ミレ島の降伏電報を入手した。25日には、国民党政府の南京入城が報ぜられ、28日には先遣部隊が厚木に到着、9月2日には、東京湾で降伏調印式があると次々と情報が入ったが、ウオッゼ島にはなかなか米軍が来なかった。
 これより先、「降伏の意思表示のため、桟橋に白旗を掲げよ」と飛行機から書類を投下してきたので、そのようにしたが、まだ彼らは現れなかった。
 9月1日○八四五、見張り員から「敵の内火艇が見える」との報告があった。駆逐艦の先任将校が軍使としてやってきて、メジュロ島にいる米軍マーシャル方面指揮官からの降伏勧告書を示した。此方は、最高指揮官、次席指揮官および副官2名が軍装・白手袋で応対した。これに対して米軍使はいかに駆逐艦乗りとはいえ、靴下も履かずに全体にだらしない感じであった。内火艇で海上を走るとき、機雷に触れないかと随分心配したそうだ。このとき軍使は贈り物として多量の煙草を置いていった。「わずかな煙草にごまかされまいぞ」と戒めあいつつも、その贈り物に気分がなごやかになった。
 9月6日一一〇〇、正式調印のためメジュロ島にいる米軍指揮官が来島するとの通知があったので、そのつもりで準備していたところ、当日の○七〇〇頃、内火艇がみえた。先日の先任将校が「アイアム・ソリー、アイアム・ソリー」と言いつつやって来て、「11時と言ったのは7時の誤りであった。米軍使用時の9時だから、2時間引かなければならないのに加えてしまい、日本時間の11時と連絡してしまった」とのことだった。お粗末な話である。8時頃、米軍指揮官が飛行艇で来島し、在泊中の米駆逐艦で調印を行った。同指揮官はすぐまたマロエラップに飛び、同島の降伏調印を行うとのことだった。
 20年9月1日、はじめて軍使が来島した時と同様、降伏調印式の際にも、米軍は我々に煙草を贈り、在島員はまたも良い印象を受けた。
                  
 食糧増産のため爆発物による漁労許可を申し出たところ、兵器の流用になるにもかかわらず、手榴弾、火薬、信管の数量をいつも明確にし、保管出納に責任者をつけて、ときおり米軍将校が点検するという条件で許可してくれた。武装解除の目的には背くが、食糧増産のためとあれば、ということで、その寛大な処置はとても有難かった。
 彼らは自動車類の使用をも許し、昼間に限り舟艇が離島へ行くことも許した。また掃海要具を備えていないことを告げると、日本軍側で敷設したリューリック海峡と、米軍側飛行機で敷設した環礁内の機雷も、彼らの手でさっそく掃海してくれた。これらのことはみな当然のことだろうが、捕虜となった当時の我々には非常に有難く思えた。
 降伏調印後も彼らは上陸してこなかった。
 一、もしキャンプ生活をさせられるようになったら、将校と下士官との間に連絡をとることを許可してもらう。
 一、将校と兵員とを一緒に収容するなら、なるべく部隊編成を崩さないようにする。
 一、本島を去り、他の小さな離島への移動を命ぜられた場合は、糧食の補給がなければ不可能な旨伝える。
などの提議を出そうと準備していたが、現状のままで差し支えないとの返事だった。彼らは環礁内に監視のため駆逐艦を一隻停泊させ、毎日朝夕数人の者が米国旗を掲揚降下するため来島していた。
 通信については、受信は自由だが、発信は駆逐艦長の許可を得て行うこととされ、この点も連絡維持の上で好都合だった。
 監視駆逐艦には、毎日飛行艇が一隻、生鮮食品の補給に来て、我々を羨ましがらせた。我々が輸送船の来るのを今か今かと待っている時、彼らも「早く君たちが帰国できるよう望む。そうすれば我々も早く本国に帰れて、故国でクリスマスを迎えられるから」と言って、我々をなごませた。

             患 者 送 院

 重傷患者は米軍病院に収容するとのことだったが、当時は送院を必要とするほどの重傷者はなく、それに送院後のことについても心配なので、みな送院を嫌がった。しかし折角の好意を無にすることもできず、2、3名の者が送院されたと思う。盲腸か外傷か分からないが、腹部手術の時、腹膜に力をいれたため腸が内部になかなか収まらず、そのため一時危篤状態になり、その後順調に経過しつつあった者、および熱湯による熱傷患者などが、降伏調印のあった翌9月7日、飛行艇でメジュロ島の米軍病院に入院した。

             糧 食 補 給

 降伏調印を了えた翌々日9月8日、米軍から糧食の補給を受けた。わずか2日分ぐらいの携行糧食と白米にすぎなかったが、みな心から喜んだ。
 9月下旬、マーシャル方面の患者収容のため氷川丸が派遣された時、糧食63トンが補給された。これをヤルート、マロエラップ、ウオッゼの三島に分割し、本島は21トンの補給を受けた。米麦はもちろん、乾燥味噌、乾燥醤油の香りも懐しく、少しずつ配給のあったいろいろな漬け物も本当に有り難かった。引揚げ期日が決まらないため、増食はなかなか思い切って行われなかった。9月30日から150グラム(一合)配給となり、10月2日、300グラム、10月4日、450グラム配給となった。それまでの45グラムの実に10倍だった。
 爆撃の減少と順調な天候により、5月頃からだんだん向上しつつあった健康状態は、この補給によってますます良くなり、10月30日、内地引揚げのため復員船に収容された時には、乗員から「マーシャルは、糧食状況が悪いから早く引揚げになったのに、みな心配なさそうだ。むしろ船の乗員より、君たちの方が元気なぐらいだ」とまで言われた。病弱者はすでに氷川丸で後送してあったし、その上みな日に焼けて真っ黒な顔をしていたので、一層元気に見えたのだろう。

             煙  草

 煙草は籠城後1、2ヶ月で皆無となり、その後2年は禁煙状態となった。軍使がやってきた時、いくらかの煙草を寄贈していったが、敵だった者からの施し物は断じて口にせぬ、と痩せ我慢を言う者もなく、みな喜んで喫煙した。さっそく手製のパイプを作り、全く端の端までむさぽり吸った。このときの煙草は一部の者にしか行き渡らなかったが、降伏調印の行われた時は、米軍指揮官から相当量の寄贈があり、総員に1本づつ配給された。1本の煙草を数人で回して吸った。翌々日、米軍から補給された携行糧食のなかにも煙草が4本ずつ入っており、みなを非常に喜ばせた。それでもやはり1本または半本を数人で回しのみし、楽しんでいた。1本が10円、一吸いが1円とか言っていた。
 10月19日、内地からの第二便として海防艦が入港した時、煙草を融通して欲しいと頼んだが、「我々乗員ですら、1日3本しか配給がなくて困っているのだ」と、けんもホロロの挨拶をされ、敗れたりとはいえ、お互いに戦友だったではないかと感情を害した。10月30日、最後の引揚げ船「鳳翔」に便乗した時は、航海中の10日分として30本の配給を受けた。それまでは米軍煙草を二つに切って夕食後、数人で回しのみしていたので、「こんなに沢山貰っていいのだろうか」と驚いたものだった。

             兵 器 引 渡 し

 武装解除については前もって中央から指示がきていたので、局地降伏の調印が行われる前からその準備が行われていた。調印後、兵器引き渡しに関する具体的なことが決められ、大砲・機銃・小銃類は一定箇所に集め、移動できない大砲は尾栓を取り除いた。爆弾と航空燃料は倉庫に入れたまま引き渡すことになった。それまで手入れもせず、錆びついたままにしていた銃砲類も多かったが、最後を飾るため全部手入れをして油をつけ、引き渡しの場所である第三格納庫に集めた。その後、爆弾・銃砲類は大発に乗せて環礁内の深い所に棄てた。

       滑走路上の大砲

 地雷代用のため、地中に埋められていた多数の30キロ・60キロ爆弾も掘り返して棄てられた。ただ爆撃で埋まった爆弾は、その位置に赤旗を立てて放置された。またリューリック水道に沈めておいた機雷は掃海用具を持たないため、米軍の手で処分されることになった。
 軍刀を引き渡す必要があるかどうかは、中央からの指示も度々変わったし、現地米軍もなかなかはっきりした指示を与えなかったが、結局、「後日返すかも知れないが、一応没収する」ということになり、名札をつけて各部隊毎にまとめて引き渡した。遺品の刀は差し支えないとの指示があり、そのままにしていたが、漁労用の爆発物の点検に来た米軍士官から、遺品の軍刀も引き渡すように指示され、結局軍刀は全部没収されてしまった。また刃を仕込んでない短剣も取り上げられた。なおこの時、他にも軍刀を隠していないかと大分詰問されたが、皆無だと言明した。その後、離島に派遣されていた一陸軍士官が軍刀を持っていたが、改めて米軍に届け出ることもできず、そのまま海中に投棄した。
 また兵器に関しては極めて広い意味に解釈して、航空被服、航空帽、時計、時鐘、双眼鏡、薬盒、水筒のごとき細々としたものまで引き渡し準備をしたが、薬盒用革帯および水筒はその場で返却された。
 このようにして武装解除、兵器引き渡しは積極的にきわめて順調に行われた。

             米 旗 掲 揚

 9月6日○八○○、降伏書の調印が行われ、同月10日○八○○、星条旗の掲揚式が行われた。米軍約80名がこれに参加し、我が方からも各部隊の代表約100名が参列した。敗戦の儀式ではあるが、我が方の体面を汚さぬように、その前日予行を行った。
 当時は規律がたいへん乱れていたので、当日の参列者の集合を定刻一時間半前と定めた。いかに仕事がない時とはいえ、一時間半も前に集合させるとはあまりに無茶だと非難する者もあったが、それでも指定された時間には1名残らず集合した。
 両軍将兵の見守る中、ラッパの音とともに星条旗は柱上高く掲揚された。この時の両軍将兵の心境はいかなるものであったろうか。


             終 戦 後 の 様 相

  一時は末世の様相を呈していた本島も、終戦後は一部の者を除いてまったく見違えるようになった。規律はよく守られ、軍隊らしくなった。これは米軍の指揮下に入ったため、もし規律を守らなかった場合、どんな手段に出られるかという心配があったこともあろうが、終戦の数ヶ月前から糧食状況がよくなり、在島員全部の健康が相当回復していたことにもよるものだった。
 しかしそれにもまして軍紀粛正の因をなしたものは、帝国軍隊もいよいよこれで最後であり、敗れたとはいえ、我々は名誉ある帝国軍人である、日本人としての誇りを傷つけることのないようにと、各自が充分な自覚を持って事にあたったからである。
 こういった中で、ひとり通信科員だけは芳しくなかった。彼らは終戦前も、体力が続かないといっては任務を怠りがちであったが、終戦後は事務通信なりと称して、
 「余は第何期練習生卒業者なり、貴方は何期なりや」
 「余は第何期の某なり」
 「貴方には煙草ありや」
などと勝手に交信していた。
 終戦後はまた大分あちこちに電灯がついた。発電機は戦時中ももちろん、常に運転していたが、電球・電線不足のため、点灯設備は壊されっぱなしだった。終戦後はどこから資材を見いだしたのか、中地区だけでなく、遥か北地区まで電線を引っ張り、10数ヶ所に点灯されていたようだ。
 糧食状況がよくなったため、20年6月頃から時折り行われていた会食は、終戦後あちこちで行われるようになり、演芸会も各部隊で大々的に行われた。会食といっても、無論カボチャ・トウモロコシが主で、これに可食雑草やネズミが加えられるぐらいである。9月24日、北地区で行われた演芸会はもっとも盛大で、この時には出演者には勿論、一般見物人にも第8大隊からトウモロコシとコウリャンで作った紅白団子が配給された。9月上旬には県人会も行われていた。

             島 民 復 帰

 ウオッゼ環礁には約500名の島民が住んでおり、その酋長はリキエップ環礁・マロエラップ環礁をも統べる大酋長であった。昭和19年8月頃、全員がカイゼン島から米軍の手に投降していることが確認された。その後どこに住んでいたかは不明であるが、20年10月21日、米軍の上陸用舟艇でウォルメージ島に帰ってきた。
 ウォルメージはウオッゼ本島のような敵の第一爆撃目標にはされなかったが、本島に次ぐ大きな島であるため、数回爆撃を受けた。その上農園係その他が100名ばかり派遣され、ヤシの木は大半が切り取られ、ヤシの実もほとんど取り尽くされていたから、彼ら島民も戦争の災禍を蒙ったことになる。
 島民復帰後、「酋長が土に埋めておいた宝石類が紛失しているから、調査するように」と、米軍から命ぜられたが、心当たりの者はだれもいなかった。それまでそのような噂は全然耳にしたこともなく、おそらく爆撃で吹き飛ばされたものと思われる。
 復興作業に使うためか、米軍を通じ、ノミ、鋸、カンナなどの工具類やスコップ、ツルハシの提供を求められたので、当時残っていたものの過半数を彼らに譲り与えた。もちろん手元に残したものも、引揚げの際はそのまま置いてきた。

             私 物 点 検

 第一便たる氷川丸に便乗する者は、9月25日に出発した。この船に内地向け手紙を託送する件について、米軍と打ち合わせたところ、「私は今ウオッゼ島にいて健在である。近日中に内地に帰還できる」ということだけを書いた葉書なら、軍で取りまとめて氷川丸船長に託すということになった。ところが出発にあたって米軍から荷物点検を受けた際、荷物の中に不法に依託された手紙や、双眼鏡を入れている者が見つかった。いずれもたいして問題にはされなかったが、日本軍人の名誉を落としたことになった。しかも望遠鏡携行者は、初任准士官、手紙託送者は特務士官であったとは益々恥ずかしい限りであった。
 以上のように不法携行物件が多く、それぞれの自覚に待つことが不可能となったので、最後の引揚げにあたっては再び不名誉を繰り返さぬよう、前もって検査を厳重にすることになった。各中隊長級にその部下の所持品を点検させ、その点検に際しては他の中隊長を立ち会わせた。中隊長以上の所持品に対しては、副長が点検に当たった。官品の被服を定数以上所持している者は、没収して不足者に与えた。なかには革帯の留金を十数個集めていた者や、万年筆を十数本持っている者もあり、いずれも戦死者の所持品を私物化したものであった。万年筆を何本も持っていた者のなかには、将校(予備士官)もいたという情けない有様だった。
 ナイフ・ハサミ類を凶器とするか否かは疑問であったが、念のためこれらも名札をつけて集めた。終戦後日が浅く、日本人のやけばち的復讐心に多大の不安を持つ米軍は、当初、携行物件に充分監視の目を光らせた。第一便による帰還者は、米軍舟艇でミレ島まで送られたため慎重だったが、次回以降は各自に返却された。

             引 揚 げ

 終戦後、生き残っていた者は1074名で、約200名の朝鮮人を除いた他の者は、三段階に分けて引揚げが行なわれた。まず第一便の氷川丸で健康不良者112名が帰還、その大部分は栄養失調によるものだった。
 第二便は10月19日入港、翌日出港の海防艦「奄美」であった。これには軍属全部を便乗させる予定であったが、入港の前々日になって朝鮮人工員は別便で直接朝鮮に輸送されることになったので、「奄美」には陸軍部隊約120名と、朝鮮人以外の軍属約180名が便乗した。
 残りの約550名は10月30日、元航空母艦「鳳翔」に便乗し、31日出航、11月9日浦賀に上陸した。マーシャル方面残存基地はヤルートとミレ、マロエラップ、ウオッゼの四島であったが、他基地の首脳部の者は戦争犯罪者として拘引された。ウオッゼ島だけは総員帰還することができた。おそらく一名も米軍捕虜がいなかったことと、島民が早くから米軍に降伏して一人も残っていなかったからだろう。
 ウオッゼ島はまたマーシャル方面の朝鮮人工員の集合地とされ、10月28日にはヤルート、マロエラッブの朝鮮人もウオッゼ島に移送されていた。

            

第十七章  そ  の   他

             慰  安

 嗜 好 品  敵上陸部隊の来襲を予期するようになった時点で、酒保の煙草、酒、菓子類は総員に分配されてしまった。もともと在庫量も少ないので、分配量もごく僅かであった。
 煙草は翌月中にはみな吸い尽くしてしまい、愛煙家は紅茶の茶殻で手巻の煙草を作っていた。鉛筆の周りに巻きつけて作った紙の管に、茶殻を押し込んで作った。パンの木の葉もよいとかで、刻んでパイプに詰めて吸っていた者もある。しかしこれも4月半ばごろまでで、その後はどんな愛煙家も煙草のない生活を送るようになった。時折り煙草が欲しいと思うこともあったが、食を求めることに一生懸命で、煙草がなくてもそれほど苦痛には思わなかった。
 酒は代用品もなかなか現れなかった。離島にいる者はヤシから採取したチャカロを時々飲んでいたようだ。本島に運び込まれるようになったのは、籠城2年目に入ってからである。しかも度々離島に行き、相当期間離島に駐在した者が土産として少し持ち帰る程度で、ごく一部の者が口にしたにすぎない。
 娯 楽  2年に渉る籠城生活で娯楽は何もなかった。たとえあったとしても餓死すれすれの身体では、娯楽を楽しむゆとりはなかったろう。
 昭和20年の冬枯れ時が過ぎ、糧食状況がよくなってからは幾分娯楽を求める気持ちも現れ、施設部工員は時々賭博をやっていた。終戦の少し前の7月13日、首脳部の懇談会で人心明朗化に関して話し合われたが、これという対策もなく、演芸会の奨励程度であった。この頃、夜、あちこちでドラ声を張り上げた放歌が聞こえた。思えば全然娯楽のない島内で、唯一の慰めとして月夜に原住民が踊り明かす心境が分かるような気がした。ハーモニカ、尺八を持っている者もいた。蓄音器も3台あった。ギター、アコーディオンも各1台あった。
 慰 安 婦  兵糧と同様、戦争には女性も必需品のように考えられ、慰安婦は相当の犠牲を払いながら各戦線の殆ど最前線まで送られていた。しかしマーシャル方面に対しては全然その準備がされず、ウオッゼ島も当然その通りだった。以前、南洋部隊司令部からマーシャル方面防備部隊司令部宛、慰安設備の設置に関し照会があったが、マーシャルは女のいない所であるとの先入観を持っているから、今後も慰安設備を設置しない方がよいだろうとの意見が出され、そのままになったとのことだ。
 連日敵の艦砲射撃を受け、何時敵上陸部隊がやってくるかも知れないという緊張した気分では、異性を求める心の余裕はない。減食が始まってからは体力の消耗が激しく、歩くのもやっとという状態で、性慾は無論おきない。
 敵来襲の予想があった時、機密物件、その他敵に見られて恥ずかしいものは全部焼却するようにと通達が出されたが、終戦になるまで猥画類を大事に保管していた者もある。しかし籠城中はそのような会話はほとんど耳にしなかった。
 もし慰安婦がいたとすれば、これに対する対策は随分困難だったろうと思われる。島民の女性もいなかったということは本島にとって幸いであった。もし女性が加わっていたら、さらに陰惨複雑な事件が多発していたことだろう。

             雑  事

 死 運 生 運  19年2月5日、敵来襲の数日後、2機の味方飛行艇が来て搭乗員および電信員の一部を連れて帰った。この時はみな戦死を覚悟していたとはいえ、羨ましいと思った。ところがそのうちの1機はサイパン到着前不時着して行方不明に、他の1機も連絡がないまま行方不明になった。当時見棄てられたと観念して全滅を覚悟した者は、終戦時その三分のーではあるが、生きて帰ることができた。
 また3月下旬、補給のため潜水艦が来るとの情報があった時、解隊した第552航空隊の者その他一部の者は、これに便乗して帰還しようと考えていた。便乗は禁ぜられ、補給そのものも失敗したが、もし実施していたら、その者たちも帰還前に戦死していたことだろう。
 進級の辞令来たらず  当然進級の通知の来たるべき資格のある者で、進級の来ない者が数名あった。同級の者あるいは下級の者には進級があったが、自分にだけ来ないというのは不愉快なことである。進級していることは確実だが、所在不明のため電報が届かないか、あるいはすでに戦死者として取り扱われているものと推測された。そこで「何某ハ本島ニ在リ」との電報を南洋部隊司令部宛に打ち、関心を得ようとした。それにより、やがて進級の電報が来た者もあるが、遂に何等の応えのなかった者もあった。通信量節減のため、直接中央宛て電報を打つことが禁じられていたため、南洋部隊司令部で面倒をみてくれなければどうすることもできなかった。
 上等兵曹・北条某は警備隊の先任伍長をしており、島内最古参の下士官であった。19年11月頃の進級で下級者数名が准士官になったが、彼は進級しなかった。第6根拠地隊司令部付きから第64警備隊に臨時転勤になっていたので、内地ではそれを知らず、第6根拠地隊がクェゼリンで全滅した時、彼も一緒に戦死認定されたのだろう。「北条上曹ウオッゼニ在リ」と電報を打ったが、遂に何の通知も来なかった。20年11月復員して帰省したら、果たして戦死となっており、遺骨も届き、墓も出来ていたとのことだ。
 闇のブローカー  金銭は籠城状態になってから全然その価値を失ったかのようだったが、闇相場は何円だということが時折り言われていたから、多少は金銭取り引きも行なわれていたようだ。乾パンは籠城直後で1枚1円、2、3ヶ月後には1枚5円であった。これらは糧食庫から盗み出して売買されたのであるが、さらに糧食欠乏がひどくなってからは、盗んでも人に売らないで自分で大事に食べたので、乾パンの相場はその後聞かれなかった。
 最も盛んに売買され、また物々交換に利用されたのは、盗んだり離島から密輸入されたヤシである。カポチャ1個とヤシ2個、小魚3匹とヤシ1個ぐらいの割合で物々交換されていたようで、ヤシの闇相場は1個30円で、冬枯れ時には70円にもなったようだ。
 漁労の特に上手な者、あるいは肥沃な広い畑を持っている者は、自分で苦労しなくても先方から物々交換を頼みに来たので、魚でもヤシでも容易に入手できた。一般の者は仲買人を通じて物々交換を行った。これを<闇のブローカー>と言っていたが、それの話すところによると、ブローカーもなかなか楽ではない。思うだけの量で交換してくれればいいが、予想量より少ない場合は、あちこち交渉してみる必要がある。体が弱っているので、100メートルか200メートルも歩けば腰をおろして休まなければならない。交換してきたら、何個と交換したと正直に話して依頼者に渡す。その後で、いくらかを謝礼として貰う。もし荷の抜き取りをして儲けようとすると長続きせず、すぐ注文が来なくなるそうだ。
 20年5月頃、武藤禎吉という者が草履を作り出した。40ミリの麻縄を何処からか手に入れ、これを解いて作った。草履5足とカボチャ1個で交換していた。草履が不足して裸足で歩いている者が多い時だから、着眼点はよかったが、カボチャと換えてまで求める者はそうそういなかった。ブローカーで成功した者は少ないようだ。もともと漁労もやれず、畑も作れない者が始めたからで、彼らもまもなく餓死していった。

             空 襲 時 の 避 退

 対空戦闘に従事する者はごく一部の者に過ぎず、他の大部分は警報が鳴ると我れ先にと防空壕へ急いだ。電探は20キロ〜80キロ範囲、普通50キロ〜60キロで敵機を捕らえていたから、10分ぐらいはゆとりがあった。宿舎から密林内の防空壕に避退してから、暫くして爆音が聞こえ、高々度で悠々と爆撃進路に入って来た。
 このように相当の余裕があったにも拘らず、防空壕に走る有様は実に哀れであった。度々爆撃の経験のある者は耳を澄まし、爆音を聞いてから走ったり歩いたりして防空壕に向かったが、経験の少ない者は士官でもあわてていた。食事中箸を投げ出して走ったり、廊下の手すりを跳び越えて逃げて行くという見苦しい士官もあった。士官たちの逃げ去った後、彼らの食事に蝿除けの蓋をして、その後防空壕に向かっていくという従兵の落ち着いた姿もあった。就寝中空襲警報のサイレンが鳴り、寝衣のまま飛び出す士官もあったが、見苦しいものだった。
 電探のある時にも、爆音の聞こえるようになるまでサイレンの鳴らぬことがあったが、眼鏡による見張りは実際たいへん困難で、電探が破壊されてからは、爆音を聞く方がサイレンの鳴るよりいつも早いようになってしまった。飛行場方面で作業している工員がスコップを担いで逃げるのを見て、サイレンが鳴らされたこともある。工員は爆撃に対して非常に敏感であった。彼らは鳥が飛び立つのを見て、爆音に気付くと言っていた。鳥は人間以上に敏感だった。
 爆撃にも慣れ、籠城が長期化して餓死者が出る頃になると、空襲警報が発令されても、またか、という調子で、あわてて逃げる者はー人もいなくなった。自分の方を目がけて敵機が突っ込んで来ない限り、決して防空壕に入らなかった。そのため思わぬ方向から攻撃を受けて犬死する者も時たまあった。

             私  事

ミレ島 任 務  昭和18年8月10日、第552海軍航空隊附(整備長)を命ぜられ、同月下旬ミレ島で着任した。11月下旬、ラバウル方面の状況が急迫したため、飛行隊は同方面に転進し、私が残留部隊の指揮に当たることになった。
 この頃戦勢はすでに我が方に不利であり、連合艦隊の作戦も消極・防御的なものになっていた。第552航空隊もウオッゼに後退することとなり、12月2日、ミレ島に陸軍部隊を輸送してきた巡洋艦「長良」に便乗して、ウオッゼ島に転進した。
 飛行隊はその後ラバウル方面で全滅し、昭和19年3月4日解隊した。そこでウオッゼ島に残留していた者は、すでに内地との連絡も絶えていたので、同島にあった第64警備隊に総員一時転勤となった。
 警備隊転入後も編成はそのままで、第552大隊の名称で私が指揮にあたった。その後多少、人員の出入りがあり、第5大隊と名称が変わったが、やはり大隊長として勤務していた。
 健 康 状 態  ミレ島からウオッゼ島に転進後、まもなく下痢をはじめたが、トリコモナスによるもので、一進一退、なかなか治らなかった。艦砲射撃が始まってから、2、3日は緊張のためか下痢も止まったが、それからまた下痢するようになり、2週間目ぐらいからは回数も増え、痛みも激しいので受診したところ、アメーバ赤痢とのことで10日間、エメチン注射をしてもらった。ひどい時は1日12回便所に行った。爆撃最中便意を催し、爆音の去るのをジッと待つのは実に苦しく、また夜間艦砲射撃の隙をみて便所に行くのもなかなか辛いことだった。
 アメーバ赤痢全治後、トリコモナスも治ったようだが、その後減食がひどくなり、繊維性植物を多量に食べるようになってまた下痢を始めた。しかしこれは食物の関係によるもので、別に体には病的症状はなく、便が柔らかく1日2、3度行くという程度だった。
 2、3回風邪をひいたこともある。牟田口大尉などに随分心配してもらったが、幸い薬も飲まず毛布をかぶって汗を一杯かくことにより、2、3日で治った。
 20年8月中旬(終戦前後)から、両膝関節に甚だしい痛みを感じるようになり、原因不明なので軍医官に尋ねると、神経痛だと言われた。冷やすのが悪いとのことだったので、昼間もズボンを二着重ねばきし、夜は湯を入れた一升瓶を抱いて毛布を充分かけて寝たところ、数日で全治した。
 そのほかは病気らしい病気をしなかった。
 外傷の化膿する者もいたが、私は常に長い軍袴に飛行靴をはき、長袖のシャツを着、上着もなるべく着用することにしていたため、外傷らしい外傷もせず、ちょっとした傷は水で洗って済ませた。
 至 近 弾  第552大隊本部防空壕に直撃弾を受けたことがある。壕内の棚に置いていたビール瓶が膝の上に落ち、思わず牟田口主計大尉に抱きついた。後から聞くと、同大尉は私の抱きついたことには気がつかなかったという。このとき、防空壕入口にいた機関兵が1名即死した。
 飛行場の被害状況を調査するため、三輪車(運転員は吉延一水だった)を走らせた時、滑走路到着前にドンドンという爆音にあわてて車を止めた。バリバリバリと銃撃。鉄兜は被っていたが、そばには適当な避退場所もなく、<島民泣かせ>の叢に伏せた。次いで銃撃の合間をみて戦車壕にとび込んだ。ガダルカナルで戦闘機が執念深く個々の兵を狙撃した話を思い出し、あるいはこのままやられるのではないかと思った。
 滑走路の十字路付近でも奇襲されたことがある。人が走っているのに気付き、車を止めた。爆音が真上にきこえる。車は止めたが、エンジンは止める間がない。向こうに防空壕があると言って、運転員が走る。伝令は松本主計兵曹。日本刀の長いのを下げて、彼の後を追った。シャーシャーシャーという爆弾の落下音。防空壕まで走る間なし。そばにあった弾痕の中に滑り込む。その瞬間ドドン、ドドン、という爆発音。風速修正不十分のため風下側に落下。おそらく十字路めがけて投下したのだろう。
 また小型機来襲の初日、低高度で来襲したため警報が鳴らず、突如銃撃音を間いた。10メートルぐらいのところに防空壕があったが、そこまで走れず、高さ70センチ、巾1メートル、厚さ15〜20センチぐらいの宿舎の土台石(宿舎はすでになくなっていた)の蔭にうずくまって難を避けた。
   いつも内地時間の午後7時頃寝て、午前4時ごろ起き、一時間程度昼寝をしていたから、10時間は寝ていただろう。熱帯地なので衛生上からも必要だっただろうが、栄養失調の身体には特に大事な睡眠時間であった。眠る間が長いのでよく夢をみた。夢はたいてい覚めれば忘れるものだが、中にははっきり残る夢もあった。
 もっともよく見たのは、銃爆撃を受ける夢である。敵機を見ながら防空壕に急ぐ夢、至近弾を受ける夢、わずかな物蔭に銃撃を避ける夢などなど。銃爆撃を受ける場所は戦地のこともあり、家郷のこともあり、半々ぐらいだった。懐かしい我が家の焼けている様子、裏の菜園に掘った防空壕に父と避退している光景、家の横を流れている小川に飛び込んで、銃撃を避ける光景も頭に残っている。
 敵攻略部隊の来襲した夢も数回みた。上陸用舟艇の近接しつつある光景と、水際戦闘の光景の二つは、今も覚えている。敵上陸部隊と交戦しながら、味方輸送船に収容される夢もあった。しかもその輸送船で、おいしい饅頭やお菓子にありついたというあさましい夢もあった。甘いものや喫煙の夢は数回見た。別府の料亭に遊び、すき焼きを食うという夢もあった。
 内地帰還の夢も数回見た。遥か孤島より連絡のため帰還し、父母の許にあり、「ある要務のため一寸帰還したが、すぐまた島に引き返さなければならない」と言って、死を覚悟し、寂しく、また雄々しくウオッゼ島に向かわんとする同じ夢を二回見た。また内地で可食雑草の栽培を家族に教えている夢も一度見た。
 他の者にどのような夢をみるか聞いてみたが、やはり銃爆撃の夢が多く、またその過半数は内地で受けつつあるものだということだった。
                   
             後  記

 20年11月9日、元空母「鳳翔」で浦賀に入港した。郷里福山に帰り、父の許でブラブラしていたが、21年1月10日、充員召集との電報が来て、呉地方復員局運航部に勤務した。セミ・チョン生活だったので、夜の時間を利用してウオッゼの生活全般の記録を補追した。記憶の新たなうちにと思って書いたので、だいたい間違いないと思う。
 戦時中は毎日、天気図用紙を小さく切って日記を書いていた。飛行機の来襲機数や食事の内容(削りヤシの粥、赤草の煮物、トウモロコシ、アジ三匹)などと書いた。
 帰国の際、米軍から戦死者名簿以外書いたものは一切持ち帰ってはならぬ、と命令された。しかし折角の記録を焼却するに忍びず、落とし紙に重要記事、期日などをメモした。できるだけ小さい宇で鉛筆書きにし、2枚か3枚に書き上げた。乗船時、桟橋で米兵数名が荷物点検を行ったが、厳重なものではなく、何ということもなくパスした。
 戦後、ルオットの占領作戦に従事した米軍将校、K.S.Williamsから受け取った手紙によると、文書の持ち出しを禁じたことはない、現地将校が何か間違えてそんなことを言ったのだろうとのことを聞き、惜しいことをしたと思った。防空壕や海岸風景などのスケッチも相当数描いていたのだが、いずれも帰還直前現地で焼却した。      <了>  


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