解 題


 昭和20年11月9日、当時三十歳だった私の父・土屋太郎(広島県福山市出身)は敗戦による島での降伏調印後、引揚げ船の元空母「鳳翔」で浦賀港に上陸した。一時は47sまで落ち込んでいた体重は、帰国時には58sまで持ち直していた。
 島の名前は、ミクロネシアのマーシャル諸島にあるウオッゼ島。昭和19年2月6日、ウオッゼ島から目と鼻の先にあるクェゼリン環礁の日本軍守備隊が、米軍の猛攻によって全員玉砕し、「つぎは自分たちの番」と覚悟を決め、遺品・遺書を束ねて時を待った。
 ところが米軍は、クェゼリン島を落とすと「飛び石作戦」を展開し、作戦上とるに足りぬウオッゼ島は、定期的に飛来する米軍偵察機と爆撃機との<戦闘>以外には戦争状態のないエアポケットに入ってしまった。
 当時、ウオッゼ島にいた日本軍守備隊は、司令(大佐のち少将に)のもとに軍人軍属を含めて約3100名。以来、脱出路・補給路を断たれた南海の孤島での籠城生活がはじまった。そして終戦時、島に生き残った軍人軍属は1074名。亡くなられた二千人余の方々のほとんどは餓死によるものだった。
 第552航空隊、のち第64警備隊所属の海軍大尉(のち少佐)。これが当時の父の階級であり、島内での生活すべてを客観的にかつ克明に記録することも職務の一環であった。悪化する食糧事情、指揮系統の乱れ、士気の衰え、死を賭したサバイバル、増加する犯罪、カニバリズムと、内容は凄じくも父の筆致は職業軍人のゆえか、最後まで淡々としている。
 この籠城の記録は戦後すぐに追補され、ながらく防衛庁の戦史室に資料として保管されていたが、昭和36年、元米軍将校のK・S・ウィリアム氏から接触があって、逐次翻訳されて米国に送られた。氏からは米軍側資料や写真が提供され、父との間で25年にわたる交友が続いたが、昭和61年、氏は体調をくずして逝去された。
 戦後60年を経て、かつて兵卒による戦地での身辺雑記的な体験談や、将官による大所高所からの戦史観の書物は多く目にすることはできたが、中間管理職ともいえる若き尉官による、戦時下の一島嶼での生活全般にわたる客観的な記録は稀有なものと考え、老父を説いて平成7年上梓させていただいた。
 献呈本をうけた父の友人の松平永芳氏(靖国神社宮司・当時)は、今さら英霊の御霊を騒がし遺族感情を害するものとして、読後出版社の在庫を一括買い入れ、処分した。平成17年12月、父は89歳で他界した。平成24年、本書は潮書房光人社のNF文庫として開版された。 
 なお原本の記録は詳細をきわめており、「火力急襲部隊」「鯨の漂着」「破甲爆雷作動せず」の項など約三分の一にわたる部分は割愛せざるをえなかった。

           

 * ネット上にアップしたカラー写真は、「鎮魂 ウオッゼ島」(昭和62年発行・編集 篠崎英夫様)および
    「南十字星」(平成6年 マーシャル方面遺族会様)から転載しています。挿絵は「ウ島戦夢物語」
    (昭和62年 稲毛三郎様著・非売品)より転載しました。モノクロ写真は Wotje Island(Wikipedia)の Images に依ります
                                                     

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