読後および刊行へのご感想


 「・・往時の記録を良くぞ発表下され、取りまとめ致して刊行下されました。ご苦心の程如何許りかと存じます。‥弟はウオッゼ島へ砲術下士官で派遣されて以来音信不通のまま昭和拾九年12月29日戦死として遺骨を送られましたが、遺品も記録も何一つなく今日となり、大兄のお送り下されました御本が只一つの記録となります。永久に保存して遺品と致す心算で御座います。」   (桶川市・松岡様)

 「・・戦後五十年祭に当り此の様な立派な体験誌を頂き早速仏壇にお供へ報告致しました。ウオッゼ其の他にかづヽゞ生死を背に苦戦しました土屋様皆々様の胸中をさつし如何ばかりだった事を想い出も新に、ご拝見させて頂きなんともやるせなく又感無量で御座います。」                                                                    (相模原市・田中様)

「   肌黒き子ら吾れらをかこみココヤシの樹の散らばる ここがウオッゼ島か
   ウオッゼの飢餓のさなかに爆死とぞ 四十余年をここに眠れる
   戦いは夢のごときか五十年 さながらスコールのすぎしにも似て
 ‥弟“正”とは三つちがい、私は今八十三才、脳こうそくです。でもこんな宇でも書けるのは幸せです。‥有難うございました。」
                                                                  (新潟県・三上様)

「‥昨日は『籠城六〇〇日』ご恵送を賜り誠に有り難うございました。戦地ウオッゼ島において当時の隊内生活のうち直接ご体験の記録は真に貴重なものと存じます。戦後五〇年目に当たりまして初めて発表された当時の現況こそ後世の為、意義深いことと存じます。
 早速兄の仏前に供えさせて頂きました後、記録写真、ウオッゼ島作戦配置図、まえがきまで拝読させて頂いていますうちに、昭和六一年に私が体験させて頂いたクェゼリン島墓参と島々の事が憶い出されてきました。・・このような事共の経験も勝手ながら思い浮かべてじっくりと『籠城六〇〇日』の本文を拝読させて頂きます。ありがとうございました。」  (横浜市・岡野様)

「‥先日は立派な『籠城六〇〇日』をお送りいただき有難うございました。八月十一日が命日ですので墓前に報告した上、ゆっくり読ませて頂きます。とり急ぎお礼まで。」  (磐田市・木野様)

 「ウオッゼ島に於ける今まで知られなかった苦難を淡々とした記述の中に述べられ、人間の極限状態に迫られて感動致しました。守備隊の皆様の御苦労を偲び現在がある日本を思う時、ここにあらためて土屋様初め関係の皆様に感謝申し上げる心境です。 ‥昭19・1・30戦死鯨井浩 兄・鯨井久八」  (熊谷市・鯨井様)
                                        
 「・・今度貴重な記録誌『籠城六〇〇日』を御送り戴き有難うございます。・・・扠て戦死者の概略左の通りです。男五人(陸軍三海軍二)の内、戦死者三名は靖国神社へ合祀されて居ります。故海軍二等兵曹柳澤元一は中部太平洋方面にて戦病死の公報でした。戦後暫くして生残り戦友よりウオッゼ島警備隊第一分隊三砲台(十二・七糎)二番砲手配備中被爆負傷し療養後戦病死(昭和十九年六月二十五日享年二十五才)以上。乍末筆猛暑の祈御壮健をお祈りします。」  (東京都・柳澤様)

 「先日は、貴重な書籍をお送り頂き有り難うございました。父(注:戦没者の弟)が入院中のため、ご返事が遅れて申し訳ありません。父、病院にて夢中になって拝見いたしており、大変喜んでおりました。」  (下田市・野崎様)
                                          
 「・・戦地に行きましてから一度も便りありませんでしたので、ウオッゼの事が書いてありますと、なつかしいような気がしまして繰返し読んでおります。食物のことは哀しいうわさを誰にとなく聞いて心痛めておりました。去年五十回忌の法事もすませました。今年も終戦記念日が参りました。八月三十一日には町の戦没者慰霊祭があります。・・」  (宮城県・新田様)

 「『籠城六〇〇日』ありがとうございました。佛前に供へて御礼申上ます。申上げて御礼としたいのですが、もうなかゝゝかけませんがとにかくありがとう御ざいました。あらゝ御礼まで」  (浦和市・河野様)

 「・・お礼がおくれました事お許し下さい。佛前に供え上官からの報として合掌しました。ウオッゼは、弟の最后の地、小島の運命二〇〇〇余の方々餓死なされたこと、さぞや無念であった事残念です。ごめい福をお祈りして居ります。」  (茨城県・起工様)

「拝復『籠城六〇〇日』よくぞ送って下されました。厚く御礼申し上げます。
    埃たつ日ざかりの道を汗あえて征きし弟よ かえる日はなしに
    ふるさとの駅ゆたつとき 汝がなげし 瞳のいろを忘れかねつむ
    里さとの海はかなしも磯にたち かへらぬ汝の名をよびにけり
    数珠を手に ウオッゼ島の磯の砂わづかばかりを袋におさむ
                    お読みしていろいろなことわかりました 合掌 」  (新潟県・三上様)

 「‥私の兄(村上信一)は私の十才上でウオッゼ島八〇二航空隊の主計長をして居ります時、昭和十九年二月十三日に戦死致しました。兄の戦死致しましたゆかりの島の此の御本を読まして頂くのを楽しみに致して居ります。右御礼まで。」  (東京都・村上様)

「・・『まえがき』を読ませて頂き、御子息様がお書きになったのかな、又後でゆっくり読ませて頂こうと思って、忙しかったりしてそのままになってゐました折、去る八月十三日のお盆に帰省しました武千代(故人の一人息子五十三才です)に、送って頂いたご本をまだ読んでないけどと渡しますと、早速読み始めて墓参を済ませては読みして一日半位かゝりました。ウオッゼのお父さんの最後の様子が出てゐるよ。
 雑事「死運生運」 『十九年二月五日、敵来襲の数日後、二機の味方飛行艇が来て搭乗員および電信員の一部を連れて帰った。この時はみな戦死を覚悟していたとはいえ、羨ましいと思った。ところがそのうちのー機はサイパン到着前不時着して行方不明に、他に一機も連絡がないまま行方不明になった。』
 この時の一人の機長が清水治正でした。まこと運命とははかり知れぬもの、あれからとうとう五十余年が流れました。神になってゐるであろう故人に再び相まみえる日、御苦労のねぎらいの言葉をとなうためその日のために今少しこの現世で精進にはげんでみようと思ひます。
 今迄これと云ふ資料もなく、たゞ漠然とウオッゼ島へ味方を迎えに行って帰りに不明になった位にしかわからなかった父の事があの本を読ませて頂いて、戦ひの日々の事、父の乗った飛行艇がウオッゼ島に行ったくだり等読んで感激も新たな様でした。
 文面が前後して相済みません。六〇〇日の長き日々、食との戦、つらい大変な道のりでした。トウモロコシー本、カボチャーヶのために命を失った方々のために深い深い感謝を捧げまして御礼と致します。」    (逗子市・清水様)
                               
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「・・御本の一章毎に当時を思い浮かべ胸を熱くして御本を読み終るのに時間がかかりお礼を申し上げるのが大変遅くなってしまいました。御許し下さい。私はウオッゼにおり乍ら六十四警のことは何も知らずに居りました。この夏に偶然光人社発行の『海軍サムライ列伝』を入手し、六十四警の発足の時からの経緯を知りました。これを当時知って居れば平静では居られなかったでしょう。吉見さんと佐々本さんの争いが決定的にならなかった事はウオッゼにとっては幸いでした。色々と思い出す事ばかりです。共に語り合える人も段々と減っていくばかりです。どうぞ御身体呉々も御大事に」   (調布市・牟田口様)

「‥八月七日に本が着きました。御苦労さまでございました。私の所まで御送り下さいまして誠に有難う御座いました。 ・・主人は昨年十二月十九日になくなりました。今年が初盆でした。本は霊前にそなへました。主人が生きて居たらどんなに喜んだ事でしょう。マーシャル群島、ガダルカナル、山本元帥、食物、生活等話をして居りました。本は隣の人、来客の方々に見てもらって居ります。まだ私は読書途中です。それでは御元気でおすごし下さいませ。」   (鹿児島県・山本様)

 「拝復、貴筆『籠城六〇〇日』は私の生涯において最大最強の来信で最大の感銘を拝受しました。・・」 (以下判読不明箇所多し、添付された別紙に『土屋様、御本代二千円同封します。失礼の事とは思いますが、九十七才の老人の願いです。お許し下さい。手紙の方も御判読願います。御本お贈り下さったこと、とてもとても喜んでおりました。ありがとうございました』)    (沼津市・篠崎様)

 「‥土屋様にはよおく島の状況を而も克明に認められ本当に敬服致しました。『籠城六〇〇日』を拝読致しますと当時が偲ぱれ、誠に感無量で御座います。靖国神社へお参りの際にはウオッゼの亡友の御冥福を御祈りして参ります。」   (横須賀市・出牛様)

 「主人は平成3年に脳梗塞にかかり、平成5年の11月に亡くなりました。生存中は生死を共にして皆様方にいろいろとお世話になった事と思います。よく食糧難の話で、貝や魚などとって命をつないだり、かぽちゃ等つくったりして本当にご苦労さまでしたね・・生きていたら昔を偲んでいろいろな話がはずんだ事でしょうが・・仏前に供えて一しょに読ましていただきます・・」    (宮崎県・宇田津様)

 「‥現地では編纂の軍務をされておられた事を以前伺っておりましたが、土屋先輩の確かな、正確な記憶、確かな手記を元に貴重な実記を纏められて、執筆された著書を御恵送頂き心から御礼申し上げます。・・先輩の著書を拝読しまして、「あの時はそうだったのか」等、思い出される記事が多く出てきます。私はウ島に十八年十月に配属されて、そのまま水警科、二号大発艇機関科員としての生活を終戦迄、島を離れる迄余儀無くされましたので、島内の出来事はあまり承知しておりませんでした。このたびの『籠城六〇〇日』にて大分当時の知識を得る事が出来まして、感謝申しあげます。何度も何度も読ませて頂きます。有り難うございました。」    (北海道・稲毛様)

 「・・先日は大変貴重な著書を御送付下され、早速拝見させて頂きました。当時の色々な出来事が脳裏に浮び思出の数々。私は寺田、中津、吉見三司令の元で東地区第一トーチカ十三ミリ機銃の射手として勤務終戦となりました。私明治四十年生、間もなく満八十九才になります。」   (東京都・山口様)

 「・・(私は)八〇二空の主計兵にて十五年召集の若輩者で転進したばかりでウ島はすぐ敵の攻撃目標となり、地理すらも分からぬ中に連日の猛攻に遭いまして夢中で勤務する事となり、ほかの同地守備隊の状況は少しも分かりませんでした。・・司令の鴨大佐、直上司の村上主計長等沢山の指揮官が一瞬の間に戦死され、本部の内部は硝煙の臭いとコンクリート破片、電信機の残骸等、足の踏み場もなき有様であったように思って居ります。奇跡的に助かった不思議さでどうであったのかさっぱり今日に至ってもわかりませんです。・・復員してもウ島での言いつくせぬあの苦労を考へますと五十年も何とか生き永らえた事無上の喜びであり、戦友の方々にはもちろん皆に感謝せねぱならぬものと心がけて毎日を大切に致して居ります。
 ‥貴誌こそわが人生のあかしで大切に読ませて頂き、家系の続く限り永久保存を致す所存で居ります。本当に貴重な体験誌を御恵贈ありがとうございました。」   (宮城県・千葉様)

 「‥早速ご送付下さいまして有難く謹んで受納の上貴重な戦誌を拝読させていただきました。悲惨であり苦難の続きました当時を偲び、思い出深く感無量でございます。折角お届け下さいましたので、末永く保存し子孫に語り継ぎたいと存じております。‥」 (広島県・田久和様)
                      
「‥貴重な記録となかなか得がたい写真の挿入の文献、早速読ませて頂きました。ただただ涙、涙。‥土屋大隊長とは、本部で時々御逢いも致しましたが、敬礼だけで一兵卒が□もきけませんでした。今思うに五〇二大隊長は大変に「コワイ」存在でした。今はこうして貴重な御本を御恵与戴き当時をなつかしく、又、存在を認めて戴いた感激で一杯です。」     (須坂市・田幸様)
                                                          
 「・・主人康貴は一月二日病院にて死亡、75才にてなくなりました。・・最後は点滴半年、何も□から入れられませんでした。2日間ほどちょっと悪いかなあと思っていましたが、1月2日眠るが如く去って行ってしまいました。さすが海軍軍人で弱音はちっともはきませんでした。今回の戦記を頂き存命中でしたら大変喜んだ事と残念に存じます。一番楽しみにしていた戦友会に今年も昨年も出席できず本人もくやしく思っていた事可哀想でした。生前より土屋太郎様及び戦地の話は子供、孫等いやと云ふほど聞かされましたが、その時の顔は大変嬉しそうでやはり軍隊生活、海軍軍人を誇り、戦友第一でございました。
 毎日お経がすむと、毎日読んで聞かせております。骨箱の上には小さな海軍旗がのせてあります。戦争中は話に聞いていたより何倍も苦しい生活で皆様本当にご苦労さまでした。残って帰った人もなくなり、あの世とかで戦争の話でも楽しんでいる事でしょう。
 土屋様も健康にお気をつけられましてお暮し下さいませ」   (名古屋市・臼井様)

 「・・有り難く拝読致しました。大兄の詳細なる記録による内容は、実に確実性があり、ウオッゼ時代の種々の出来事を再び眼前に見る心地が致します。戦後50年ともなれば幸ひにも命永らえて内地に帰還した戦友達も7割以上は他界され、残る人達も僅かで又年齢のためか、記憶も失われつつあると思います。この時に貴重なる書籍を頂戴致し感謝の言葉もありません。厚く厚く御礼申し上げます。
 ウオッゼの戦記は過去数度、兵達の記載したものが出版され、私の手許にも送られてきましたが、之等は皆聞き伝えたもの或は部分的な表現のみで、安心して読めるものは一つとしてありませんでした。今回大兄の著書により、初めて安心して読み且つ他人に話しの出来る書籍と思い、他人にも読んで頂くつもりで居ります。出版までには種々のご苦労があった事と思いますが、その労力が高く評価される書籍であると信じております。まことにご苦労さまでした。・・」   (大阪市・奥様)

 「・・故国を離れること6000粁の地、マーシャル諸島ウオッゼ島に眠る亡き戦友の鎮魂を込めて絶海の孤島で飢餓と戦った『籠城六〇〇日』の生々しい闘争記録を発刊された事に対し、心から敬意を表します。そして私如き者にまでご恵送いただき恐縮に存じております。早速読ませて頂きましたが、色々思い当たる事、飢えとの戦いの悲惨さが滲みでて当時を回想し感慨無量の想いです。同じ島で同じ状況下に従軍しても、それぞれの任務、配置等によって小さな島とはいえ、環境、行動に差異があり(各陣地に分散生活のため)一律に律することは当を得ないことと思うが、飢えとの戦いについて極限状態にあったことは一様に言えることと思います。
 戦後ウオッゼ島の慰霊祭において吉見司令のご挨拶で、島の戦闘、警備において多くの部下を亡くしたことは最高指揮官として至らない点も多く、慙愧に堪えないところで心からお詫びをする、然しあの戦況下にあっては補給も途絶し、如何に隊員の体力を維持し島を守るかに最高を尽くしたのであり、真に止むを得ないことで了解されたい、軍規、士気の低下、悪事、犯罪の多発は、食糧なき故の出来事で、平時の給食であればあのようなことはあり得ないことだった。病死、餓死等も当然戦死であり、その旨上部に上申してあるとの挨拶がありましたが、尤もなことと同感した次第です。
 戦後マーシャル、ギルバード諸島慰霊巡拝団に参加された方々の記録によると、島は椰子、パンの木、タコの木、パパイヤそのほかジャングル等の木々が繁茂し、戦前を凌ぐ緑の楽園となっているようです。・・遺骨は誰しも(特に遺族において)日本で眠らせてやりたいと思うのが人情ですが、戦没者の10%にも満たない収集状況も現実であります。人それぞれの感情があることと思うが、この平和で緑豊かな美しい島を墓苑として純情な暖かい心の住民の方々に見守って頂き静かに眠っていただくことも諸々の現実からみて止むを得ないことと考えられます。そして住民に、島に眠る御霊の追悼を見守り、之の感謝の印として何等かの意を表することを帰還者、遺族の方々と図り合ってはとも思います(国としてなすべきことと思いますが現状では不可能と思います)・・・」   (横手市・高橋様)

 「・・想像を絶する苛烈な状況の下で戦われました皆様のご苦労を偲ぴますとともに、特に亡くなられた方々については今更ながら痛ましく心からご冥福をお祈りする次第でございます。
 父(注:当時のウオッゼ島最高指揮官・吉見司令)が亡くなりましてから七年になりましたが、特に亡くなられた方々のことを心の重荷として生涯を生きたと思います。‥」   (横浜市・吉見様)

 「・・とりあえず礼状だけを差し上げ、ゆっくり拝読しようかと考えておりましたが、読み始めたら止まらなくなり、拝読し終ったときフーッと大きなため息が出ました。「まえがき」にもあるとおり、当時の事情が客観的にかつ克明に、そして淡々と記載されています。わずかのメモを元にして、記憶の生々しい帰還直後に記録されたとの事、それにしても、私などはあの状況の中では自分の周囲にしか注意ができなかったのに、全島の日々の生活にかくも深い注意を払っておられたとは気がつきませんでした。
 ・・このたび貴著を拝読し、「そういうこともあった」と思ったり、「なるほどそうだったのか」と事情が分かったりしましたが、「そんなこともあったのか」といまさらながら驚いたりしました。多分その当時お話は伺っていたのに忘れた部分が多いと存じます。また帷幕中枢の事で機密にされたものもあったかと存じます。ともかく目の覚める思いでした。
 各項目ごとにそれぞれの感想がわいてきますが、いちいち申し上げると長くなります。改めて目次を振り返り、電信室直撃の項で、ミレでも電信室機銃掃射で、立派な髭の552通信長が戦死された事を思い出されました。私の負傷の時の状況は私の戦場日誌に主観的に書いておきましたが、改めて客観的に記載され、感慨深いものがありました。・・
 ‥朝倉整曹長の中毒死は多分はじめて海牛の毒を証明してくれました。P.155の『死に慣れる』はまったくそのとおりでした。艦砲射撃があると椰子の木に登って弾着観測をする者もある始末でした。私も三脚付きの双眼鏡で艦砲射撃を観測?したものでした。重要書類を焼却して帰る途中に空襲を受け、死ねば本望とばかり悠々と歩いていたら機銃弾が身辺を音を立てて飛び、思わず近くの榔子の木を盾にした記憶もあります。
  「拘禁死」の情景はまことに凄惨ですが、事実そのとおりでした。たしか首藤という兵が何回も脱走した末の姿もそうでした。私が当直に立っているとき警備隊の特務少尉が来て、転がっている首藤の頭を踏みつけ、「ゴリッと音がしたから骨が折れたかな、アハハハ」と云ったのには、私も思わず顔を背けました。その少尉は数年前の靖国神社慰霊祭に来ていました。
 ‥私は夢の記憶は全くありません。「もうこれまで」と覚悟した時、故郷のことなどが走馬灯のように頭の中を駆けめぐった事は記憶しています。また帰還して数年間は空襲の夢を見ました。当直に立っているとき眠気にとろとろし、はっと目が覚めた目の前に敵機が音もなく着陸していたというような夢でした。 ‥貴著を拝読し、思い出が次から次へと沸き上がります。・‥」    (船橋市・新井様)
                        
 「‥この度は思いがけずも貴重なウオッゼ島の戦記をお送り戴き洵に有難く厚くお礼申し上げます。立場上詳細で大変ご苦労をされたものと存じ感謝申し上げます。・・島での生活は貴書のとおりで、カボチャができるまで良く食べた赤草が「スベリヒユ」で兎の耳は「モンパの木の葉」ということは初めて知りました。また海軍では随分事件が多かった事も今回初めて知りました。当時は噂程度でしたが、人肉事件も本当だったのですね。
 大分昔の話になりますが、南方戦線の手記を纏めた本を見た事がありますが、ウオッゼ島の海軍の大発の機関兵長とか云う人が大分でたらめの事を書いて、我々の事を満州から幹候ばかりの部隊が来て、爆撃で全員死亡し、その跡に勲章等が散乱していたとの話が載っており、我々の戦友会の席で抗議すべきと云う事で、秋元中隊長から便りを出したが返事がなかったそうで北海道出身者と云う事で残念に思ったものでした。その意味でも今回は正しく記載されてあり、信州の別荘に滞在中の秋元中隊長にご報告しましたが、貴殿の事は良く承知されており、多分田無市の自宅に送られたと思うが、2、3日中に息子が来るのでその節拝見出来ると思うと云う事でした。・・」   (北海道・服部様)

 「・・ウオッゼ島の実戦記録のご本をお送り下さいまして有難うございます。只率直に申し上げますと、土屋様には申訳ないのでございますが、私は当時の事を忘れ様とこれまでつとめてきました。土屋様のご本の中に記されている様に、下級兵士は栄養失調で次々と死んで行き、将校や上級下士官のみ健在で復員されました。私も復員一等主計兵曹でウオッゼでは最下位の兵士だったので、親しかった同輩が苦しみながら死んで行った事を想い出すと胸しめつけられる思いで苦しくなり、それで思い出すまいとしたのでございます。その当時としては当然の事だったのでございますが、平和な今日となれば死んで行った者への同情が出て来るのでございませう、何卒気にしないで下さいませ。
  ‥戴きましたご本は子供達へ父の若い日の体験記録であると申送り度く存じて居ります。‥福岡方面へお下りの折がございましたら是非ご一報下さいませ、ご案内致します。‥」   (福岡県・下条様)

 「・・此の本は何回読んでも読む程に当時のあの時あの頃が浮んで来ます。我が家では大切に保管し、永久に残すべき本と思って居ります。知人にも読んで頂きました。・・亡くなられた多くの戦友の為にも頑張ってゆき度いと思います。・・絵が好きですので当時を思い出して書いてます。」   (草加市・吉田様)  (*スケッチ4枚を本文中に掲載)

 「・・お立場上かとも思われますが、克明に殆ど実記として保存され、又御子息様の強いお薦めに依って刊行なされた由を伺い、是又別な意味で小生は感激致して受納致しました。・・余談ですが、昨年七月、ウ島の施設部要員として在島して居った半島の人達の中に日本名で柳川と呼んで居た方が斉州島に居り、漁労の事で隊としては大変貢献のあった方でした。隊長を病気お見舞いに態々来日されるとの報を受けて小生等近隣の戦友と連れ立って青葉台に永尾さんを訪ね、ご家族の皆さんと親しく懇親の機会を得ましたが、それが今生の別れであったとは返す返すも残念な事です。・・想えばかって彼のウ島と云う悪条件の中、苦闘に耐え抜いた勇士も年を経て流星の如く消えていく、心細い限りでございます。
  ・・無我夢中に生きる為に互いに頑張っても、所詮は道理的にも完全に越える事の出来得ない極限段階に到って、尚生き抜かねばならなかった孤立無援状態だけが各将兵各自に課せられたウオッゼ防衛の実相は、あの時あの場所に生きた人々のみの識る事実であるものと小生は五十年間思い続けてこんにちに至って居ります。・・その間任に当たった吉見司令麾下上下を問わず、一途に吾が一命の尽きるまでひたすら故国日本の行く末を案じて任を通し続け、不運にも倒れて行った諸戦友には誠に申し訳無かったと何時も感じて居ります。ただし自己の良心に何ら恥じ入る事も無く「国破れても山河は残る」故国に無事帰る事が出来得た事は、一重に全将兵諸氏から戴いたご恩と神仏に成った亡き戦友の加護に依るものと何時も感謝致して居る次第でございます。・・」    (山形県・阿部様)

「・・なつかしさの余り目次を見て感無量、潜水艦補給でトートン水道に中隊長と行ったのが思い出されます。時折り大隊長が几帳面にメモする様が浮かんできます。ウオッゼを出張する際、大隊長に寄せ書きをお願いしたら「無」と書いて頂きました。その後いろいろと勉強し心を空にすることだと悟り、人の語る話は熱心に聞いて参りました。・・私は復員の時は十九才でした。・・復員の時福山を汽車で通る時、ここが大隊長の郷里だと友と語ったのもこの前のような気が致します。大隊長まだ八十そこそこかと思いますが、私どもは強い精神力で内地に帰って参りました。いつまでも元気で頑張りましょう、私は当年とって六十九才、頑張ります。・・」    (沖縄県・照屋様)

「‥主人鶴雄は昭和五十九年六月死亡致しましたので貴方様の著作の本は大切に記念として佛前に供へて戴きます。誠に有難う御座居ます。御健康を心から御祈り申し上げます。」    (宇土市・奥村様)

 「‥先般お送り頂いた戦記有難うございました。小生八〇二・一・三の所属で部下多数を失って残念に思っております。ご貴殿の記録具体的で感激しました。『籠城六〇〇日』永久に保存させて頂きます。」     (岡山県・定様)
                                       
 「‥一か月の応援だから南方へ行って来いと命ぜられ、未だ見ぬ南方で歌にもある南十字星も見られると、当時若年兵は胸を躍らせ居りました。負け戦は知る由もありませんでした。‥一九年一月三一日以後は下級兵の為、使役使役の連続で痩せ衰えて若年兵・補充兵は死の一途でした。オリメージ島で逃亡者の銃殺も命ぜられましたが、小生は拒否をしました。警備隊の一等兵曹が銃殺をしましたが可哀想でなりませんでした。時のオリメージ島の指揮官は特務士官だったと思います。‥本日は大兄の手記献呈下さいまして誠に有難う御座いました。」    (三重県・岡山様)

「‥駆逐艦の降伏文書の寫真は、特に感慨深く拝見しました。私も随行したのですが、青島中尉に『日本遂に敗れたりだナ鬼畜米英に』と冗談を云いましたら、ライサンダーという米士官が、『私シカゴ大学の出で日本語判りますよ』と話しかけられた記憶が生々しく思い出されます。六四警のことは詳しく記憶に残っているのですが、2隊の詳細についてははじめて知ることもあり、おもむろに当時のことが思い出され感慨も一入でした。飢餓に接した日本人の地獄絵に比較し、斉州島出身の施設部朝鮮人の共に生きる団結心の強さに感銘をおぼえましたが、短文調の記述に冷静な視点を感じ、一気呵成に読ませて頂きました。・・」    (川崎市・北島様)

 「‥息もつかさず読みました。五十年前の悪戦苦闘をまざまざと思い出して感慨一入でした。私は子孫に残しておきたいと昨年から自分史を書きはじめましたが、ウオッゼ島の戦地戦務の状況を出来るだけ正確に書きたいと思い、『別冊歴史読本』や『丸』をはじめ各種の戦記ものを買い集めて記録をまとめてみましたが、充分な結果が得られず、歯痒い思いの記事になっていました。
 ところが此の度、正確な日時、数字、戦闘状況をはじめ、ウオッゼ島の生活すべてをお知らせ戴きまして助かりました。有難うご座居ました。早速自分史の中の戦争体験記の部分を書き直して、『籠城六〇〇日』の本を添えて末永く子孫に残したいと思っています。‥」    (干葉県・矢野様)
                       
「・・私も内容通りの苦汁をなめながら無事帰還いたしまして今もどうやら生き延びて居ります。内容通りの当時を思い出したくはありませんが、あの当時の人生の一コマをまざまざと想い出す時もあり、当時亡くなられた戦友初め諸氏の面影を思い、ひたすら御冥福を祈ってをります。‥私共いづれ向かう泉下に眠っているウオッゼの戦友にも逢うであろう事と存じますが、その時は昔話にウオッゼの事が話題になる事と存じます。本当に貴重なご本ありがとうございました。齢七十二才、亡くなった戦友の方々には申し訳なく存じていますが、帰り辿り着いた横須賀の岸壁に上陸した時、天皇陛下万歳は勿論ですが、あヽ家に帰れる、その喜びが交錯し、妙な気持ちでありました。・・」    (福島県・南様)

 「・・五十有余年前の出来事を戦史をたどり見て想いを新たにして居ます。歳月の流れは早く当時三十代の小生も現在は八十一才となり七十九才の老夫婦二人だけの年金生活に毎日頑張ってゐる次第です。
 此の度は貴重な戦史をご送付いただき心から厚く御礼を申上げます。」   (北九州市・山口様)

「・・実は夫青木勝は去一月六日脳内出血にて急逝いたしました。元気で居りましたらお送り頂きましたご本を懐かしく拝読させていただきました事と存じますが、残念でございます。生前はお世話になりました事と存じ、厚く御礼申し上げます。・・」    (市川市・青木様)

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 「・・小生自身の戦争体験に比べて何と悲壮残酷な、而もその反面、良識を越える思いやりのある隔世的生活を知り、驚き且尊敬の念を禁じ得ません。」    (春日井市・須藤様)

「・・これだけの本の元になる資料をきちんと整理して記録に残された点につきましては、万人の等しく賛辞を惜しまない所でありましょう。あなたがこんな貴重な体験の持ち主であるとは今までちっとも知りませんでしたが、生と死の極限状況において先任将校として誠に立派に職責を果たされた有様が文の端々にうかがい知ることができました。
 ことに施設部工員の朝鮮人グループがよく団結して立派に籠城生活を送り、別れる時にも心から別れを惜しんで荷物を持って桟橋まで見送りに来たとあるが、これまた部隊長はじめ管理者の人徳によるものとの感を深くしました。‥」    (呉市・加藤様)

 「‥先般お送り頂いた『籠城六〇〇日』、一晩で読んでしまいましたが、大変なご苦労であったと存じます。・・読後の感想、只々大変だったと思うだけで、まとまった考えを述べる事が出来ません。其の中再読してまとめ度いと思います。お互に八十の声を聞いて気力はあっても体力が伴わないのが情けないことです。いずれ又・・」    (福山市・枝広様)

 「・・早速ひろい読みさせて頂きました。誠に悽惨な体験をなさったのですね。土壇場にある者の人間性について深く感じさせるものがあります。過般の戦争について兵科の者の著書が多いのですが、機関科出身の書とて貴重な逸品です。ゆっくりと拝読します。・・」    (横須賀市・石森様)

 「・・早速拝読いたしました。貴様の終戦時のご苦労は断片的にも承知しているつもりでしたが、改めてこの『籠城六〇〇日』の言詞に本当に驚き、かつ苦労の連続だったことを今更乍ら想起しております。いずれ改めて語り合うこともありましょう、先ずは右取急ぎ御礼申し上げます。・・」   (東京都・西村様)

「・・早速拝読させて頂き、無量の感に只々言葉もございませんでした。‥」    (浦和市・北原様)

 「前略 貴著がウオッゼ島で神去りましし神霊とその御身内、友人の方々の御心に如何なる衝撃を興へる結果になるか、御熟考の上御上梓に踏みきられたのでしょうか。
 御身内の方々は、今は亡き故人の痩せ衰へて餓死された様、食糧の盗みや逃亡の罰として戦友に射殺された様、或は本島から他島へ渡る為途中で溺死したのではないか、食べられてしまったのではないか等々の事共、あれやこれやと追想なさることでせう。
 飽食暖衣の今日、何の為に戦時中の特殊な極限状態の集團の事を世の中の人々に知らされる必要があるのか、小生にはどうしても理解致し兼ね、今日の世ではマイナスにしかならず、左寄りの史学専攻者雑誌記者共の好餌となることゝ思ひ心痛して居ます。
 現職の宮司ではありませんが、靖国の神霊に御仕へしたものとして神霊と御遺族に申し譯なく思って居ります。
 取急ぎ小生の心境意中陳述迄、御自愛御健勝祈り上げます。 敬具」    (東京都・松平様)

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「戦後五十年、戦争を知らない世代が多数になりつつあるときに、戦争とは何かを語り伝えていく必要を痛感しておりましたところ、誠に得がたい優れた記録文学を得て、熟読玩味致しました。
 戦争と云ってもいろいろな局面があり、作戦の巧拙や兵の強弱とは別に、紙一重の運としか云い様のない事態も多数有ると思いますが、600日の籠城という体験はおそらく古今に例のない事でしょう。長期間極限状況におかれた人間が、どういう心理状況におかれるものか、どれほど耐え得るものか、終戦があと数か月遅れていたらどうなっていたのだろうか、等々凡そ想像を絶するものがあります。
 そういう状況のもとで、その立場におられたとは云え、きわめて客観的に克明な記録を残された事は、これ又あまり例のない事と思います。」    (広島県・鳥山様)

「・・五十年前の出来事といいながら銃後にいた私共はこれ迄詳細な戦地の様子を見聞したのは今回が初めてで、一気に貪るように読破し、今改めて熟読させて頂いています。・・」    (幸手市・鈴木様)

「・・帰還時、文章の持ち出しを禁じられて、わずかなメモを基に此のような精細な内容を盛った記録書を出版されたのは、大変な事であったことと思います。通勤の往復の車中で、幾度も乗り越しそうになりながら夢中になって読ませて頂きました。
 かつて母より太郎叔父さんが福山に復員された当座、鼠を見ると<食べられる>と言って追っかけられた事を聞いておりましたが、どのような状況の下に置かれて居られたのかを知らないままに、大変な所より復員されたのだなあと思って居りましたが、此の度やっと理解出来ました。・・」   (神戸市・小川様・甥)

「‥先日お送り戴きました本を読ませて頂きました。話やテレビでしか知らない世界でしたが、画面に表われない苦しい世界に改めて戦争の残忍さと、平和のありがたさを感じました。有難うございました。 ・・」   (福山市・田中様・姪)

「・・あの戦争の最中から続く終戦後の処理に大変な御苦労のありましたこと、つぶさに記録されていてまるで昨日の出来事の如く当時の状況が手に取るように記されて、誠に誠に驚き深い感銘を受けました。早速地図を取り出し島を辿ってみたりしております。サイパンとかガダルカナルとか当時全員玉砕され痛ましく思っておりましたが、ウオッゼ島も充分その危険性が高く死と直面して来られましたこと初めて知りました。極限の生活の中で大勢の方々を統率されるのは並大抵ではなかったことと幹部の方々の御苦労に本当に頭が下がります。
 私方の主人、目が不自由で日常も新聞や本を読むことが出来ませんので、合間合間に御本を読んで聞かせておりますが、主人も北支方面を転戦して終戦後は飢えとの戦いがあり、折にふれ話すことがありますが、語り継ぐ事は中々正確に伝わらぬもので御本に残されたことはほんとに良いことをなさったと思います。子々孫々に読み継いで貰いたいと思います。・・」    (福山市・佐藤様)

「太郎さん、先日は『籠城六〇〇日』をいただいて有難う。戦争とは大敵と戦火を交へるだけのものではなく、人が生きる上での第一条件、食べる事に対しての戦いであるとは、それを初めから意識して何人が応召して行ったでしょう。
 貴方はそれでも命永らえて帰国できた事は、何者かの意志であったのか、お守りであったのか、感謝しても感謝したりない気がします。この本を読んだ人は戦争の愚かさ惨めさを思い、言葉もないでしょう。多くの人に読んでもらいたいものです。
 ・・兄上が逝ってしまわれ、本当にさびしくなりました。よく面倒をおかけしよくしていただいたのに、もう三人になってしまいました。兄さんから戴いた写真を毎日ながめています。
 貴方もどうぞいつも元気でいて下さい。・・」    (山口県・竹下様・姉)
                  
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「・・先日いただいた『籠城六〇〇日』読ませていただきました。想像もできないことを淡々と述べられており、それだけに状況が目にみえるようで驚きました。戦死とされている中に、餓死や死刑によるのが多いのにもびっくりしたことでした。(二○○○人の死者の埋葬はどうしたのか気になりましたが)
 私もまた、戦後、昭和21年10月、満州からの引揚げで、戦後50年を深くうけとめているこの頃です。まだ暑いさなか、くれぐれもご自愛のほど‥」    (世田谷区・松下様・東大病院長)

「‥この度は御父上の貴重な資料をおまとめになり出版して下さり、又学校へご恵贈下さりまして誠にありがとうございました。
 終戦五〇年で後世に伝える種々の出版物のある中、戦争の実録を読ませていただき、画録では伝わらない毎日のご苦労がよくわかりました。あまりにも知らなかったことが多過ぎるように思いました。極限状態の中でよくここまで克明に客観的にたんたんと記録されたものと、唯々感嘆申しあげるのみでございます。まさに第一級の資料と思われます。
 出版にまで漕ぎつけるには、先生の大きな応援があったからだと思います。お忙しい中ご苦労様でございました。早速御礼をと思いましたが、目を通してからと思い遅くなりました。」    (静岡市・伊藤様・静岡雙葉学園校長)

「‥数日前、お父上様のお書きになった『籠城六〇〇日』を拝受致しました。わざわざお送り頂き、誠に有難うございました。
 早速拝読。従来の戦史や戦記物と異なって、苦しく長い被包囲下の勤務と生活が正に「淡々と」活写され、それだけに空襲、爆撃、飢餓、次第に募る理性と本能との葛藤、管理する者と管理される者との物理的、心理的相克等が読む者の脳裏に複合化されて、人間の限界を越える苦悩図を鮮明に浮かび上がらせます。
 当初外敵に対して団結した集団が、逐次生きて行くことに心を砕くようになり、果ては人間性を喪失するに至る過程、そんな中における指揮官の態度、語るに忍びない惨状を乗り越える指導力の重要性を痛感しました。真の、極限状態での統率とはいかなるものか、記載された各種事件に対する最良の処置はどうあるべきか等を深く考えさせられ、御父上様はじめウオッゼ守備隊の皆様の御苦心と、またそのような環境にもかかわらず最後まで日本軍としての偉容を維持された素晴らしさに打たれました。・・・」    (横浜市・栗栖様・軍事評論家・元統幕議長)

「・・先日は『籠城六〇〇日』という貴重な書籍の贈呈をいただき誠に有り難うございました。
 本書は、「ウオッゼ」島での戦闘準備、そして「クェゼリン」島玉砕の後は、孤立無援の離島という困難な環境下で、悪化する食糧事情及び士気の乱れの中で、大隊長としての貴重な体験談であり、激しい戦闘場面とは違った戦場の一面、特に極限下の人間心理を考える上で極めて示唆に富むものです。
 贈呈頂いた本書は、一冊は本校で戦史教育を担当している戦史教養班で保管し、教官による教育への参考とさせて頂くとともに、一冊は本校の図書室に保管し、学生及び職員の呈覧に供したく思います。本書は、本校の教官、学生等に戦場の実相を知る上で、大いに参考となると思います。‥」     (静岡県・石脇様・陸上自衛隊富士学校二等陸佐)
 
                       
「・・ウオッゼ島における六〇〇日にわたる詳細な記録は、ふつうの公刊戦史、歴史書などと違い、裏面史を含め、事実を述べた貴重な記録と思います。ご発刊に至るまでの御気持ちは大変だったでしょう。じっくり読ませて頂きます。御健勝を祈りあげます。」    (世田谷区・土井様・軍事評論家)

「‥貴重な大変な記録の本をお送り下され厚くお礼申し上げます。これからゆっくり読ませて頂き、私の協会の書庫に永久保管させて頂きます。戦争は人類の病気であり、悪夢でした。・・・」    (習志野市・小菅様・南洋群島協会)
                              
「・・此の度、須藤武行様から錦著『籠城六〇〇日』を御紹介いただきました。大変貴重な記録であり、資料室に保存、展示させていただきたく、是非にとお願い申しあげました。‥須藤様はかつて弊所顧問として御在住され、種々ご指導を賜りました。‥」   (愛知県・岡野様・三菱重工業資料室長)

「『籠城六〇〇日』有難く頂戴しました。今後の軍事史研究の資料の中に加え、活用させて戴きます。人肉事件などは、飢餓の戦場では珍しくなかったことのようですが、一般にはあまり知られていません。敢えてこれを公にされたことに敬意を表します。‥」   (八王子市・熊谷様・軍事評論家)

「 土 屋 太 郎 殿
  謹啓 時下ますます御清祥のこととお喜び申し上げます。
  平素は、海上自衛隊に対し格別の御高配を賜わり誠に有難うございます。
  さて、この度貴著書「籠城 六〇〇日」を送付頂きまして、誠に有難うございました。
  当時のご苦労を拝察しつつ読まして頂きました。
  貴重な先人訓として、当校の図書館に保管し、学生の教育に活用させて頂く所存でございます。
  末筆ながら、貴台の一層の御健勝をお祈り申し上げます。   敬 具
                      平成7年8月8日  海上自衛隊第4術科学校長 海将補 澤 本 修 次 」

 土屋太郎 殿
  謹啓 残炎の候 ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
  さて、この度は、ご労作「籠城600日」をご恵贈頂き誠に有り難うございました。早速拝見させていただきました。
  南洋の孤島に事実上放置された軍人、軍属の方々の極限状態に於ける生き様が克明にかつ淡々と記述されており我々国防の任に当たるものとして、有事に於ける部下統率のあり方等随所に参考とすべき事案がございました。
  本書の完成に至るまでには、大変なご苦労があったことと拝察いたします。そのご苦労に対し
 深甚なる敬意を表しますとともに、この貴重な資料を有意義に活用させていただく所存であります。
  ここに、略儀ながら書中をもって御礼申し上げますとともに、ますますのご活躍とご健勝をお祈りいたします。 敬白
                      平成7年8月21日 海上自衛隊第2術科学校   総務部長 福岡 逸 」