『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年6月8日(日)

コペンハーゲン市街図  今日は日曜日で公共施設が無料であり、自転車で駆け回るのも忙しい。朝のうちに市の補助墓地にキルケゴールの墓を訪ね、市立博物館でキルケゴール・コレクションをみる。
 「東京で彼のことを勉強した」と言うと、係員がわざわざ陳列室まで案内してくれた。レギーネに贈った婚約指輪と彼のデスマスクに思いを新たにする。しかし蝋人形館で白雪姫やアインシュタインとともに、若かりしキルケゴールまで憂欝気に作られてあったのは滑稽であった。ガニメデと鷲に化けたゼウス
 午後訪れたトルバルセン博物館とグリプトテケト美術館では、もっとも関心を惹く彫刻が主体であっただけに、焦燥感と至らなさを覚え、写真を撮ることに追われる。
 エルミタージュで観た大理石の『牧童』がここにもあり、係員におかしいと問うと、もちろんこちらが本物であると断言したが、それは怪しい。しかし大理石の模作複製というのは技術的にどうなのか、解しかねる
自動音楽機械館 そのあとの、ツーリスト・ガイドで調べて楽しみにしていた自動音楽機械舘では、ちょうど係員が世紀末と20世紀初頭に作られた機械を一つ一つ実際に動かして、音楽を聴かせてくれているところだった。キーパンチされたロール紙が回転して、それにしたがい機械が動く仕掛けである。爛熟した世紀末の工夫され切った遊戯感覚の極致といえる。
 さらに動物園まで足をのばして、漠たるバクにパンをあたえる。
 夕方6時以降は、ジェファリーに教わった郊外のバッケンヘ行く。チボリより面白くて庶民的な遊園地だった。ジェット・コースターをみて、かつてそれに乗るべき時機を失っているのを思い出すよう強いられた。あれはどこの遊園地だったか、今は定かではない。私たち兄弟は遊園地で心から遊び楽しむという柄ではなかったようだ。創意工夫にたけた兄の遊びの発明には酔いしれることはあっても、お金を出して大がかりな遊戯施設に身をまかせるということには慣れていなかった。ジェット・コースターの前で母から乗るように強く勧められても、私たち兄弟は尻込みした。そのとき私はわが家が遊園地で遊ぶ柄ではないことまで気を回していた。私は、
 「怖いから」と断わったが、「怖いから」と□に出した時に、臈長けた大人にも似た嘘をついたことを知った。
 学生時代に賭けごとをして小遣いを散財し、身を切られるようなうら寂れた気持ちで、バス賃も使い切って夜道を歩く帰途、心の片隅でしかしこれでいいのだ、と言い聞かせていた理由を今になって探りたくはない。しかし少なくとも線路伝いに家に帰ればわが家がある、安心できるという寄り所に縋っていたのは紛れもない。
 いまさら入場料を払ってまでベンチに腰かけて、行き交う楽し気な人々をジッと見守る老人を思い出してはならない。こども連れで遊園地で遊ぶときは小銭を大量にじゃらつかせて、覚めている子供にはビールでも飲ませて酔わせ、夢心地におとぎの世界が本当にここにあると信じ込まさねばならない。
 9時すぎ、遊園地をあとにする。周囲は鹿公園とよばれる森である。いましがた私の少し前に出た老人が、やや足をひきずり、手をおおきく振って右側の舗道を歩いている。こちらからみる後ろ姿は痛々しいほど寂し気げだが、彼の心の中では先に逝った愛すべき者と二人して歩いているのかもしれない。

1975年6月9日(月)

 持参した倫理教育について質問するアンケート用紙が切れたので、USE IT という公設の学生会館みたいなところで、タイプライターを借り、200枚コピーする。800円という安さでやってくれたのは驚異的であった。
 昼すぎ、コペンハーゲン中央駅よりドイツに入る。西独製の車両にみられる独語に、中学・高校時代のドイツ人校長の、こぶしを振りあげての演説を思い出す。
 今晩のリューベックのユースでモスクワで別れた男に偶然会い、ラーメンを作って食べさせてあげる。

1975年6月10日(火)

「ベニスに死す」 リューベックはトーマス・マンの街である。彼の生家ブッデンブルック家は、今は商業銀行になっていたので、滞在費を両替する。5月31日からおととい6月8日まで彼の生誕祭が行なわれていて、『ベニスに死す』などの劇が上演されていたのを知る。惜しいことをした。トニオとハンスの散歩道
 市役所に行って、彼が7才のときに引っ越した家も、14才になるまで通ったブセニウス予備学校も、ともに戦災でなくなってしまったことを聞く。そのあと彼は、19才まで現在もなお存続しているカタリーネウム校に在学してから、ミュンヘンに旅立つのであるが、クレーゲル領事家の多感な少年トニオが、学校の帰りにハンス・ハンゼンと回り道した運河の土手伝いに足をのばしてみた。
  トマス・マンは晩年になってハンスが実在実名の少年であったと告白したが、われわれはトニオ・クレーゲル、すなわちマンの業績の方をいま称えるのである。
 ハンスやインゲボルグとの折衝を突き放して、小説化できるような精神を培った彼が、故郷リューベックに戻って幼少の思い出を一つ一つ確かめていったように、いま彼の追体験を試みても、戦災で焼き払われて復興一変した町並みはもはや辿ることがむずかしい。この先行き止まり
 そのあとバスでシュルトップ (Schlutup) まで行き、トニオ・クレーゲルの与り知らぬ、東独との国境検問所まで行って戦後の現実を見る。写真を撮ってよいかと尋ねると、2、3メートルさがれと言う。どうやら2、3メートル分、中立緩衝地帯に足を踏み入れていたらしい。さらに海岸まで出て、高さ3メートルの鉄条網とコンクリートの哨兵塔を見、ハンスやインゲたちドイツ国民を押し流し、一掃した今次大戦の爪跡を確認した。
 夕刻ハンブルグに入り、レーパーバーンを行き来し、久しぶりに肉らしい肉を食う。

1975年6月11日(水)

 ヘルシンキで会った男と再会し、気があい、ともに日本人会館へ行き、朝日新聞を読む。そしてそこにいた男と碁をする。握って私が黒番で4目勝ちであった。尻尾を切り捨てて中原を守ったのが勝因となった。2つの美術館をまわって夕食は自炊とする。のんびりした1日である。

1975年6月12日(木)

園内の遊具ハミング・バード 北ドイツ一といわれるハンブルグ動物園へ行く。マダガスカル産の空中に静止する蜂鳥と、オーストラリアの擬態カマキリをみる。
  ビールがコーラよりも安いので、いきおい昼間から酔って芝生に寝込むことになる。
  夜は碁敵を求めて日本人会館へ行ったが、今日は相手がいなかったので新聞を丹念に読む。企業連続爆破の容疑者8名の再逮捕と、モスクワ路面電車の無賃乗車急増と、リューベックのトーマス・マン生誕百年祭の記事を読む。
 教会前で1ドイツ人にアンケートを試みたが、彼は7、8年前に新宿・風月堂でハッシシを売り、国外追放され、ブラック・リストに名前が載っているのだという。それで名前のほうは勘弁してくれと言われる。

1975年6月13日(金)

 中世のたたずまいをみせる古都リューネブルクを一巡してから、ブレーメンに入る。駅で荷物を預けるときに、警察犬が荷物のあいだをかぎまわって麻薬を捜しているのを目撃する。郵便局と間違えてドアをあけた所がお役所のようなワインの小売店で、出ようとすると通り掛かったタンザニアの学生がニヤニヤして、
 「買うのか」と聞く。市庁舎の地下にラーツケラーで、仕方なく買って、彼について100万本のストックを誇るワイン・レストラン、ラーツケラーで上等酒を飲む。デンマークに入ってこのかた、飲んでばかりの感がする。
 ユースで、ハンブルグで会った男とまた会う。彼は柔道初段、将棋3段の好漢で、ヘルシンキから自転車に乗って南下してきている。ハンブルグでは共に丘の上からエルベ河を見下しながら碁をうち、ウィスキーを飲み、今宵またベーゼル川河岸で極上のワインを飲み干す。

1975年6月14日(土)

サソリにタランチュラ ブレーメン駅前広場の脇に、「海外民族地誌博物館」とでもいうべき建物があり、その地下にある水族館の一隅で、はじめてサソリと巨大な毒グモを見た。ともに夜行性なのでジッとして動かず、敏捷性がさぐれなかったのは残念であるが、あれらがかなりのスピードで喰らいついてくれば、やはり怖いと思う。
 列車で約一時間はなれたハノーバーに昼すぎ着く。緑と競技施設とヨット、池、市庁舎、河川と続き、土曜日で子どもから老人までくり出してのんびり散策し、遊び、スポーツをしている。そこではじめてホッケーの試合を見た。いきおい夜はユースで卓球をする。カウントをドイツ語で読み上げてあげると、こどもたちは喜び調子づく。

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