『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年6月1日(日)

 バスでさらに北へ向かうという男を見送り、今日は日曜でお店は休み。港に魚影をみたので、縫い針ともらった洗濯紐で釣針と釣糸を作り、さかな釣りを試みる。水、あくまで澄み、魚、餌をつつく。2回、水面より上まで釣り上げたが、振り切られ、逃げられる。釣針が返しもない焼きなましなので、30センチぐらいのがかかると、針がまっすぐ伸びてしまう。夕方、ユースに着いた男と2人して再度挑戦、今度は地面まで釣り上げたが、跳ねて逃げられる。口惜しい。
 ヘルシンキで同室だったアメリカ人が、今日やってきた。彼はフィンランドをヒッチ・ハイクで北上して、ノース・ケープを経て来たのだという。移動遊園団
 街の小さな公園に、ポーランドから来た移動遊園地がかかっている。昨日土曜日に、回転木馬や小さな観覧車、射的場などを組み立てて、はげかかったペンキを塗りかえていた。彼らもノルウェーのさい果てに流れついて思うところがあったのだろう、昨日一緒に写真を撮った。
 フェリーニの映画『道』のようである。

1975年6月2日(月)

 釣り道具屋で鉤を買って再度挑戦し、今度は小1時間で20〜25センチのを5匹釣る。これ以上釣っても食べ切れないので止める。スーパーでアルミホイルと塩を買い、魚を解体し、バターを敷いて戸外で鉄板焼きを作る。名前は知らないが美味である。
 移動遊園地は荷造りを終えてすでに出発するばかりになっていた。昨日出会ったナルビクの、英語が少しわかる少年たちにまた出会ったので、
 「いつも遊んでいるがいつ勉強するのか」と聞くと、今は休みなのだという。ノルウェーでは15才から煙草が喫えるが、彼らは13才なのに、
 「煙草を持ってるならくれ」という。
 「日本では喫煙は20才からである。私は日本の教師なので叱りたい」といって、持参のハイライトをふるまう。彼らは駅舎にたむろして、日に2便しかないストックホルム行き長距離列車を見送るのを常としている。
 15時40分ナルビクを離れる。車窓よりトナカイの群生するをみる。

1975年6月3日(火)

 車内の2等寝台で目がさめる。ストックホルム駅で乗り換えてイエテボリまで急行で行く。野原をキツネが1匹ななめに横切って行くのを見、『星の王子さま』を思い出す。
スウェーデンからデンマークへ 予定では今日中にユラン半島まで渡ることになっていたが、乗るつもりでいたナルビク発11時のストックホルム行きが週末列車で存在せず、4時間あとの列車に乗ったため、夕刻着いたイエテボリでは、すでにデンマークに渡るフェリーがなかった。ナルビクで見送った同僚に、今度はイエテボリ駅まで迎えにきてもらう手筈だったので悪いことをした。
 やっと捜しあてたイエテボリのYHは、恐れていたとおり団体客で満員だった。今はスカンジナビヤのあちこちのYHに小学生の一群がバッコしている。2人の先生にだいたい20人の生徒が相場である。そこで港近くの下宿屋を教わって行ったが、着いたと同時に「満員」の札がかけられ、さらに近くの安ホテルを紹介されてそこに逗留となった。
 スカンジナビヤ半島には何も期待していたものがなく、物価もきわめて高かったので早く別れたかったが、もう一晩、半島の先端に引っ掛かってしまった。
 ホテル備えつけの石鹸をその都度もらっているので、だいぶたまる。

1975年6月4日(水)

 朝7時、ホテルの目の前の港からに乗り、免税の煙草を1カートン買う。船内でまた13才のグループがいたので、例によって折り紙を教え、ハイライトをふるまい、彼らの名前を平仮名で書いてあげる。そのうちの1人、ピーチャという少年がスウェーデンの記念にと50オーレ銀貨を1枚くれたので、100円白銅貨と10円銅貨をあげると、世界のコインを集めているといってたいへん喜ぶ北海を渡るキルケゴール
 10時半、待望のデンマーク入りをする。波止場の若いインフォメーション嬢がキルケゴール家発祥の地、セディング村の記念碑を知っていたので内心驚く。新潟港の観光案内所で、西田幾太郎ゆかりの地をたちどころに指摘できるかどうかは疑わしい。
 今日は終日、稲光りをともなう雨模様だが、平原と牧草と酪農の平らな国、デンマークにいるということで意に介さない。
 2時すぎオーフスに到着、ナルビクにYHの会員証を忘れたのでデュッセルドルフまで送ってもらうよう郵便局で手紙を書き、スーパーで米とスパゲティとスープの素その他を買って、YHの台所でラーメン・ライスを試みる。ラーメンもどきは成功して美味だったが、ご飯は失敗する。満腹するとこうもゆとりが出るのか、そこにまな板があったのに後で気付く。
 独り台所にあって芯飯を食べ、スパゲティをすすると、かつて戦争のあった頃、日本の若い兵士たちが南洋諸島に散って、みえざる敵と迫り来る飢餓感にさいなまれたその心細さの片鱗が少し想像できそうに思える。
 ここは市街を少し離れた、森蔭に散歩道の続く閑静な場所にある。

1975年6月5日(木)

 ユラン半島西岸中部のセディング村を訪れる間、車窓よりデンマークの牧歌的情景を堪能する。文部省唱歌『牧場の朝』に、10才の想像力が到達せず、違和感のみ残した不満は17年経ったいま解消された。今日は快晴で気がついたが、山がなくて気象的にひたすら平らだと、今日のように綿をちぎった雲なら雲が同じような形で平たくいっぱいに空に置かれて、空の高さよりも広さの方に思い当たる。 セディング違い
  エスビャーという駅で降りて、セディングを通る長距離バスに乗ると、運転手が英語がだめなので、1人の乗客があいだに立ち、
 「セディングのどのストリートで降りるのか」と聞いてくる。そこはたしか村で街路などないはずなので、キルケゴールの解説書に載っている写真をみせ、
 「この記念碑のあるところだ」と言うと、わが国の書籍は乗客のあいだを一巡し、結局だれも知らない。ようやく恐れていたセディング違いと分かり、途中下車して駅に舞い戻る。
 やはり波止場の案内嬢は確かでなかった。名もない寒村セディングはここからさらに50キロ北上したスキャーンという支線の駅で降りるべきなのだ。
 ふたたび車中の人となる。列車は田舎に向かうほど庶民的となり、編成も2両でよく揺れる。
 スキャーンの老駅員は英語も確かで、珍来の客にたいして親切だった。バスの便とタクシーを使った場合と、生誕地石碑今晩の宿泊地であるオデンセに行く直通列車とを要領よく教えてくれる。バスがないのでタクシーを呼んでもらい、田舎道を10キロぐらい突っぱしると、変哲もない道端に夏草に囲まれた目的の記念碑があり、少し隔ててキルケゴール家ゆかりの教会があった。
 利発な少年だった彼の父、ミカエル・キルケゴールが12の時に、激しい雷雨に見舞われて、惨めな境遇を神に呪ったという小石まじりの荒土の丘も、いまは耕地されて草いきれにむせる牧草地となっていた。
 この道を何日も何日も歩いていけば都会にでれる、この線路をずっと伝っていけば首都につながる、この海峡を渡れば本土に入れるといった感覚は、少年時代の私にはそう強烈な印象として残っていない。ただ人は、ないものに憧れる。ハンガリー人は海に憧れ、デンマーク人は山に憧れ、そして私は森の小人と金髪碧眼に惹かれたのだ。
 夜8時半、アンデルセンの故郷オデンセに到着する。ここのユースでジェファリーというオーストラリアの若者と、レニングラード以来の充実した会話をもつ。彼はインドを回ってきて、見事な絵日記を残し、そのなかに彼独自の仏陀とシバ神とキリストの関係が、大天使ミカエルやガブリエルとともに図示してあった。一見すると原理研究会の講義録のようである。彼も私と同様、教会にいかないたぐいのカトリックで、先進的な考え方をいろいろ紹介する。学生たちの「alternative festival 」の話は興味深く、キュビイック監督の「時計じかけのオレンジ」や「博士の異常な愛情」「2001年宇宙の旅」などの話も出て楽しかった。

1975年6月6日(金)

 駅でジェフアリーを見送ってから、カヌート教会で棺に納まっている聖人の遺骨をみ、そのあとアンデルセン博物館を訪れる。
 アンデルセンはキルケゴールと同時代で、同じハイベルグ教授のサークルに属して親交があったので、もしやと思って見ていくと、はたしてキルケゴールの従兄弟が鉛筆で書いた彼の似顔絵が、アンデルセンの所有となって博物館の一隅に展示してあった。これは数多くあるキルケゴールの肖像画のなかでも、もっともよく彼の風貌を伝えているといわれるもので、それをオデンセのアンデルセン博物館で発見したことは、偶然であったが故におおいに満足であった。
  コペンハーゲンヘ行く5両編成の列車は、半島の先端でフェリーの船腹にそのままスッポリ納まった。ストアベルト湾内を大型フェリーが4隻、船尾にカモメの群れを従えてそれぞれ異なった方角に向かって行き、浮気なカモメがどちらへ行こうかと判断に迷っている広場
  4時すぎ、コペンハーゲン到着。旅の1つのクライマックスである。インフォメーションで問い尋ねた項目は9つに及んだ。ユースに荷物を置き、食料を買い込んで、適当なベンチを探して歩くうちに道に迷い、とある教会の横手に出た。そこに胸像があってもしやと思って近寄ると、まさにデンマーク国教会の「真理の証人」ミュンスター監督と、キルケゴールの攻撃目標となったマルテンセン監督の胸像であった。はやる心をおさえてベンチで食事をし、広場を隔てて100メートルもない商業銀行に近寄ると、その壁面にかつてそこがキルケゴールの家であったことを示す標識がはめ込まれてあった。
  ゲーテの下宿とマルガレーテの家も近距離にあるというが、少年キルケゴールが父ミカエルに伴われて日参し、のちマルテンセン監督の牙城となった国教会は、実にキルケゴールの家から目と鼻の先にあった。
 おおいに満足を覚えて、8時からはモスクワでみる機会のなかったサーカスをみる。遠い思い出のなかから昔、三笠公園にかかっていた見せ物小屋の妖し気な雰囲気がよみがえる。しかしサーカスはやはり、子供たちの手を携えて、私自身が果たせなかった夢を託して、ともに見るべきところだ。明日土曜日、訪れる予定のチボリ遊園地でも、それを痛く感ずるに違いない。

1975年6月7日(土)

 今日から3日間自転車を借りる。。コペンハーゲンは自転車を使うにふさわしい街である。少し練習して右側通行に慣れる。
レンタ・バイク フレデリック教会の正面脇にとってつけたようなキルケゴール像をみた。元フレデリック病院
 工芸博物館に行って、むかいの建物から出てきた小母さんに、
 「ここは元フレデリック病院だったか」と尋ねると、歯切れのよい英語で、
 「まさにその通りである」----で、
 「キルケゴールはこの病院で死んだが、どの病室だったか」と聞くと、
 「それは本当か、知らなかった」といわれる。悪くない。
 人魚の像を望見してから、王立絵画舘にむかう。ディオゲネスとデカルトの肖像画を発見する。16,7世紀のエッチングに見るべきものが多く、ステファノ・デラ・ベラの「死の踊り」に、伝道の書と、源信の「白骨の御文」を連想する。また科学史の本で見覚えのある、鳩を使った「真空実験」(18世紀・グリーン)のメツォティントをみる。
 そのあと元キルケゴール家の前を通って国立博物館にはいる。かつてノルウェー、スウェーデンを征服した王国だけあってアナつき骸骨、あちらの博物館よりも充実していた。国内から出土した紀元前三千年頃の石棺のミイラや、手術跡のある頭骸骨、さらにエジプトからもってきたミイラ、15世紀の密教細密画を思わせるキリスト教ビザンチン文化の展示物をみる。
 1時すぎに工芸博物館が開くので舞い戻り、受付のおばさんに、
 「キルケゴールはここで死んだと聞いているが」と問うと、彼女は立ち上がって我が手を握り、
 「まさにその通りなのである」----で、
 「病室はどこか」と聞くと、彼女もそこまでは知らなくて、1つの元病棟の壁にはめ込まれた<キルケゴールここに死す>標識板まで案内してくれた。
アナブレプスの目 そのあと郊外に足をのばして水族館をみる。そこで卒業論文の例え話に使ってまだ実物をみたことがないアナブレプスという、水上水中両面を同時に見る目をもった魚をはじめてみる。他に珍しいものとしては洞窟内に棲む目のない魚や、小判ザメ、電気ウナギ、水底の砂を呑みこんで舞い上がり、吐き出して餌を探す魚など。日本からは大サンショウウオと金魚が届いていたが、金魚のほうは底に色彩鮮やかなビー玉を敷きつめ、青や緑のガラス玉を水中に吊るして趣向としていたのが楽しかった。
 6時半、チボリに入る。今日は土曜日で催し物が多く、深夜12時の閉園まで滞在する。パントマイム劇場で、悪魔に魂を売って令嬢と結婚する青年の物語を観る。縫いぐるみを着た悪魔の子供たちが輪になって踊ったり、効果的に炎を使ったりして楽しい。少年近衛兵の鼓笛隊が園内をパレードする。夢を創っていると思う。9時からはコンサート・ホールでオーケストラの演奏。プログラムがないので曲目は分からなかったが、チボリにふさわしい軽やかな明るいものが多かった。それでも第一バイオリンの憂欝気な独奏は、独り異国にあって、身にしみてひたぶるにうら悲しい旅情をさそう。10時のステージ・ショウをみてから、クライマックスである深夜の仕掛け花火を真近にみる。面白うてやがて悲しき、といたづらに振り返る必要もなく、ビールの酔い心地にまかせて深更、コペンハーゲンの街を無灯火で走りぬけて宿舎に戻った。

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