『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年6月15日(日)

ハノーバー市庁舎

  市庁舎に行き、ドームの頂上までエレベータで昇って、ハノーバー市内を一望する。ケストナー博物館ではフランク王国時代のコインに歴史の実感を味わう。西洋人が陶器に抱く感情は、われわれが大理石に抱くものと似ているのだろうか。サッカー国内リーグ戦
  午後は人々の流れに従って州立競技場に入り、雨の中、西独ナショナル・リーグ、ハノーバー対バーンベックのサッカーの試合を見る。内容は5対2で、ディフェンスのクリアーが味方のゴールに入ってしまうような乱戦だったが、試合よりも沸き立つ応援が楽しかった。
  ユースに戻ると、コペンハーゲンでデンマーク語の勉強をしているという韓国人学生、文奎栄と知り合いになる。KCIAと文鮮明について聞いてみるが、飢えの体験と兵役の経験があるだけ、政治的発言は私よりも彼のほうが重かった。彼が abstract の意味が分からなくて漢字で書けというので、「抽象的」と書くと理解した。同義異音である。碁を知っていて7級ぐらいだというので私の白番ではじめたが、布石の段階で私のほうが圧倒的に優勢であったため、侮って中押しで負けてしまった。ねじるようなケンカ碁である。しかし2度やれば負けないと思う。

1975年6月16日(月)

 朝のうちに文からハングル文字を教わる。この文字には前から関心があったので面白かった。彼はヒッチでオズナブリュックまで行くというので、市電で郊外に出る彼を、駅頭で見送った。英語を通じてではあるが、それは日本人と別れるよりも東洋的な別れであった。
 昼間のうちに、列車で3時間離れたデュッセルドルフに向かう。YHにナルビクからの会員証が無事送り届けられていたので安堵する。ラーメンふうスパゲティと御飯を作る。疲れていたので夜8時ごろから熟睡した。

1975年6月17日(火)

フランツ・リストゲーテのシルエット 今日は東西ドイツの統一を願う記念日で休みである。市立博物館と州立経済博物館をみてから、ゲーテ記念館に赴く。そこの一室が『ファウスト』関係の資料舘となっており、16世紀以降のファウスト伝説の数々や、レンブラント、ドラクロワ、サルバドル・ダリらのファウストやメフィスト像、またフランツ・リストが『ファウスト』第2部の「天使の合唱」のために作曲した原譜や出版当時の扉絵をみる。
  また幸いなことに、生誕百年を記念してトーマス・マンの資料も揃えており、そこで『トニオ・クレーゲル』の初版本をみることができた。トニオらしい青年が手前にいて悩ましげに後ろをふり向いており、後ろには故郷リューベックの町並みがある、といった表紙だった。また、ボーンという画家の画いた『ベニスに死す』では、浜辺で考えごとにふけるアッシェンバッハと、浅瀬で独り戯れているタッジウとが、美と精神の象徴的な葛藤として描かれていた。
  午後からはずっと雷をともなう激しい雨となり、ユースに早々と引き揚げて洗濯にいそしむ。
  日本人が飛び込んできたので、御飯とスパゲッティ・ラーメンをふるまうと感激してくれる。

1975年6月18日(水)

 午前中も雨であった。昨日の日本人青年と街に出て、折りたたみ傘を買う。日本から持参した傘はリューベックの駅に置き忘れてしまった。シャープ・ペンはリューベックのユースに忘れた。
「人間の限界」  デュッセルドルフには日本の企業が200社ぐらい進出しており、日本書籍専門の本屋もあったので、霜山徳爾の『人間の限界』(岩波新書)を5マルク(650円)で買い、八百政デュッセルドルフ支店でお茶漬け海苔と冷やしラーメンを買う。日本商工会議所で職を探すという彼と別れて、デパートのおもちゃ売り場をのぞく。ミニチュアの碁盤が売られていた。
ネアンデルタール人  バスで15キロ離れたネアンデルタールの博物館と発掘現場に出かける。博物館は雨で濡れる渓谷の野性味溢れる林道の脇にあり、今日の参観者は私一人だけとみた。要するに発掘された肝心の人骨だけで保っている博物館である。
  市内に戻るころは雨もあがり、現代美術館でピカソをみるが、ピカソの絵はそれがピカソでなかったら若手群像の1つに埋もれて仕方がないのではないか。ダリ、シャガー.ル、モジリアニ、クレー、モンドリアン、キリコと錚々たる画家の作品群であった。シャガールの色彩感覚に迷い、ルオーの黒に白隠禅師の墨跡をみる。
 夕食は、今度は昨夜の青年がおかずを買ってきた。商工会議所では、
 「日本に帰って真面目な職に就きなさい」と諭されたという。

1975年6月19日(木)

 列車で1時間半離れたアーヘンヘ行く。今日の宿泊地はそこであるが、なぜそこを選んでおいたのか今になって分からない。アーヘン大聖堂
天使の音楽師 典型的なロマネスク様式の寺院ドームを見、壮麗なステンド・グラスに驚き、天使のオーケストラ像を買う。
 この街はまた、北欧随一の温泉涌出地とあるので、温泉につかることに決める。ある程度予想はしていたが、浴場のガラス戸をあけると、硫黄のきつい臭いはするものの、病院の待合室みたいな感じで、爺さん婆さんがたむろしている。受付みたいなところで他の人が処方箋か診断書みたいなものを提出しているので、拙ないドイツ語で、
 「医者の書類は持ってないが」と言ってみる。
 結局800円払って入れることになったが、経験のためとはいえ、おおきな出費である。案内されたところはタイル張りの個室で、スチール製の湯槽にメーターなぞ取りつけられてあり、病院の温浴療法室そのままである。湯もきわめてぬるく、白衣のヘルパーが様子を覗きに来たりしてまさにサナトリウムであった。<湖畔の宿で温泉につかる> という心境にはほど遠く、風邪もひかない健康体なので早々引き揚げる。
 夕食後、地図をみるとユースから歩いて片道40分ぐらいの隣り町がベルギーと国境を接しているので、様子を見にいく。鉄道や一般道路でなく、森の中の小道が国境ではどうなっているのか、そこに興味があった。鳥が啼き、兎が跳ねる森の奥に分けいっても、それらしい標識はなく、地図上では私は紛れもなくベルギー国内に不法侵入しているはずであった。
 東独との国境には延々、鉄条網と地雷原と哨兵塔があり、ベルギーとの国境には標識すらない----政治とはかくも恐ろしい化けものである。
 帰りは雨に降られた。

1975年6月20日(金)

 朝起きて鼻水が止まらず、体調の変化を知る。ぬるま湯の温泉がたたった。薬をのむ。
 急行で40分のケルンヘ移動する。ケルンの大寺院。凝縮した物量が地底に潜んでおり、その一角が地表に突き抜け露われている。そんな感じの大寺院を見る。昼食の際に、飲までもよいビールを飲んで、さらに全身だるく、寺院前広場の一隅に腰かけてぐったりしているのは、あの大寺院を前にしてこれでは駄目だと思わせた。
 寺院脇の博物館でローマ時代の遺品をみる。ケルンはローマ人の手で作られた町だったとはいえ、帝都ローマから1000キロも離れた草深いガリアの地にあったはずで、にもかかわらずそこから出土した物量の豊富さ、確実さ、精巧さに、ローマ帝国とはこうだったのかと思い知らされる。バル・リヒ博物館パンフ
バル・リヒ博物館 ドイツ最大の美術品を陳列しているバルラーフ・リヒアルツ博物館では、レンブラントやルノアール、モンドリアンのタブロー、ゴッホの「跳ね橋」などを見るが、中世後期のキリスト教絵画にはいくぶん食傷気味となる。限られた題材の宗教画は、同時代の画家たちの筆致まで似通わせている。美術館の一室でレンブラントを腰かけてみていたらそのまま寝てしまい、係員に起こされたのは不覚だった。旅の胸つき八丁か、全身がだるい。
 インフォメーションで教えてくれた場所にユースがなく、もっと先だと知らされて暗然となる。重い荷物を背負っての、もっとも嫌な時である。体を気遣うことにかなり神経質になっている。

1975年6月21日(土)

 疲れが抜けないので今日はホテル住まいに決める。チェック・インの正午まで間が持てないので、雨も降っているし、待合室代わりに列車に乗る。空いている一等車はコンパートメントを独占できて寝ることもでき、くつろげる。この列車はミュンヘン行で、そこへは10日後に着く予定なので、早く行きたい気持ちと早く着いても日程を消化していないこととで、変な気持ちである。今日の宿泊予定地のボンには20分で着いてしまったので、もう少し先まで乗ってみる。
 私の旅がはじめから変調をきたしているのは、おそらく中途半端な年齢のせいだ。外国まで来てヒッチや野宿をするのも煩わしく、雨のなか、行方定めず重いリュックを背負ってトボトボ歩くことに意気を感ずることも、もはやない。さればとて中年夫婦らと団体旅行を試みるのも唾棄したく、駆け足旅行も寒々しく、ひと所に下宿住まいして留まり居るのも今は落ち着かない。その結果、少し若いヒッチ・ハイカーから、
 「ユースを前もって全部予約してある人なんて、はじめて見た」と言われる羽目になる。レマゲン鉄橋
 ミュンヘン行のこの列車は、思いもよらなかったがライン河に沿って走っているのに気がついた。レマゲンという小さな駅を通過したので、そこの鉄橋をめぐって大戦中、激しい攻防戦が行なわれたのを知る。
 私の年齢は旅をするには中途半端だが、しかし精神的にはその充実具合がやや下りはじめた丁度よい時期にあたっていると思っている。学生時代は、地理的ヨーロッパはまだまだ敬して遠ざけるべき対象であり、<ヨーロッパは前もって準備した分だけ見せてくれる> という考えが私を呪縛していた。そしてこれ以上蓄える機会もない今、執行猶予の休暇をもらって確認の旅に出たのである。
 しかしながらドイツにあって我が心は、はやトルコ以東、なかんずくインド亜大陸へと馳せている。アマゾン流域に生まれたブラジル国籍のインディオが、いみじくもハノーバーのユースでしみじみと語った言葉、
 「ヨーロッパに抱いていた幻想は、もう博物館でしか見られない。イギリスもフランスもドイツも、もう同様に均されてしまっている」と言った言葉は、滞在日数の浅い私にも的を得ているように思われる。彼と私は、アッティカ、マヤ、インカ文明の宇宙人播種説と、アメリカには何も見いだすべきものがないことにおいて意見の一致をみていただけに、ヨーロッパに2年間浮遊している彼の意見は、あるいはそうかも知れないと思わせるに充分だった。
 「シベリアヘ行かないのか」と聞いてみると、ブラジルはいま専制国家で共産圏には入れないのだという。
 「ではインドヘ行く必要があるだろう」と問うと、彼はつまらない伝染病の心配なんかをしていたが、充分その気があるとみた。
 実にシベリアの果てしなき地平線を飽かず見た者には、サハラやヒマラヤは別にして、フィヨルドもラインの岸辺も、おそらくアルプスさえも日本的な箱庭でしかない。ケルンの大寺院にしても、今やその高さに見合う地平を与えられず、足許まで商業的建築物が押し寄せて、見ようによっては町のコマーシャル・シンボルに納まっている。この先、フィレンツェやローマでも同様の無念さを味わうのではないかと危惧される。ならばいっそルーブルや大英博物館、プラド美術館に目標を定めて日参する作業は、的たがわぬ正鵠と思わねばならない。
  とまれ、東洋の神秘は私にとっても神秘となっている。町の営みを捨てて美術館を渉り歩き、比較して浮かび上がってくるオリエントヘの憧憬は今や侵しがたい。
 レニングラードのホテルで2人のインテリ女性と対したとき、彼女たちの1人キーラが、
 「私たちロシア人は、東洋的な心と西洋的な知性を持っている」と言った時、言下に、
 「西洋の知性は認めるが、東洋の心は断じて認めがたい」と言って、その理由を次の例えに委ねた。すなわち国家が兵隊をとる時に、志願兵を別にしてどのように徴兵すべきか、という例で、彼女たちは言葉を尽くして、青年の家族構成や恋人の有無、健康状態、家庭経済への影響などを慎重に考慮して決定すると述べたが、それに対して私も思いつくかぎりの英語を駆使して、あらまし次のような内容を述べた。
 「その話は私も充分知るところである。その方法はきわめて人事を尽くして合理的にみえるが、実際はきわめて非人道的である。その青年が長男であるか次男であるかは誰が決めたのか。恋人をもたぬ醜い青年から死んでいくのか。なぜ国家に反抗する思想犯が最前線へ行くのか。その方法は戦争という不条理を糊塗するまやかしではないか。東洋ではこういう話を聞いている。昔、中国で兵隊をとる時は、突然ある日、町の真ん中にロープを張って、その時たまたま片方の側にいた青年を一切の例外なく連れて行くのである。これが戦争という不条理にみあう東洋の方法であり、このやり方に私は深く共感を覚える」と。彼女たちは今次大戦では日本はどうだったかと問うたので、一歩後退せざるをえなかったが、後者のやり方が瞬間的に理解できない者は、東洋の心を持つとはいえないと言い切って、彼女たちに沈黙を強いた。
 実際はだが、私自身が東洋の心になりきっていないのもまた事実なのだ。ヒンズーの教えを理解し、深い共感を覚えることはあっても、いま現実に、インドで豊かな生活をしていた人々が、ある日ふと思い立って全てを捨て、遍歴の行者となり、生命の炎が燃え尽きて路上に往き斃れるようなその生き方が、生活していく上での1つの感覚として諾われているというのは、私の実感の及ばざるところである。
  インドに馴れ初むることが果たして出来るだろうか。輪廻転生に安住を見いだせるだろうか。沼津・原の臨済の老師が言ってくれた言葉、「そこがキリスト教との違いですね」というひとこと、つまり時間に、とくに瞬間に、意味が介在しているとする裏窓のかしないのかという一点だったが、時と所を越えて、生活様式あるいは形態がいかに酷似していようとも、その一点の理非によって人生を観照する眼は厳然とニ手に分かたれるのである。----熱くもなく冷たくもなく、ぬるいが故に私は捨てる----ブリダンのロバのように愚かしく何もせず、タレントを地中に埋め続けた使用人は、やはり雇い主から厳に罰せられるのか。
 ウィスバーデンの駅のそばの下宿屋に泊まる。トルコの少年にイタリア人と間違えられた。
 休養をとるため、午後3時ごろからベッドに臥して疲れをいやす。
 

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