『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年6月22日(日)

 時計が止まっていたせいもあって、朝は10時ごろまでベッドでグズグズしていたことになる。よってきわめて爽快で風邪気味は治まった。下宿屋のおかみに今晩はユーゲント・ヘルバーゲ(YH)に泊まるのだというと、そこは幾らかと聞く。朝食こみで7マルクだというと、朝食ぬきで7マルクでもう一晩どうかという。鈴をプレゼントしたせいもあってか、好条件なので二つ返事で承諾する。
 今日は日曜日ゆえ、駅で食料を仕入れてから美術館へ行く。この街のように小さなところの美術館は、水族館や博物館を兼ねていて、動物の剥製や鉱石の標本も備えているので、似たりよったりだがついのぞきたくなる。
 ユースに行って台所を借り、デュッセルドルフの八百政で買った冷やし中華を食べる。美味これに優るなし。
 下宿に戻ってビールを飲んだがちっとも酔わない。疲れがとれると酔いもしないのか。

1975年6月23日(月)

 ウィスバーデンよりフランクフルトに出て昼食をとり、フルダヘ向かう。なぜフルダヘ行くことになっているのか、これも分からない。東独との国境20キロという小都市で、ユースはバスを降りてからさらに奥まった片田舎にあった。
 1時半に着いて、女の子が2人いたので卓球をやり、3人に増えて折り紙を教え、はじめてミルドイツ語でミューレ(ドイツ語でミューレ)の面白さを知って熱中する。彼女らは11〜13才の三人姉妹で両親もいたが、東洋人に親しく会えて熱狂気味である。四角い箱のサッカーゲームでは反則をしあってともども笑いころげたが、旅行中こんなに腹を抱えて笑ったのは初めてである。ユースで出た夕食は浅ましくも5人分だと思ったところ、私1人分だとわかって感激する。旅行者ずれした大都会では見られないもてなしである。寝る前、三人姉妹とドイツや日本の歌を歌う。

1975年6月24日(火)

フルダの大聖堂内部 ユースを別れて街に出て、18世紀バロック・ロココ調の市城内の宮廷広間を見る。部屋部屋にバロック音楽を流していたのは嬉しかった。そこでフルダのパンフレットをみて、はじめてフルダが聖ボニフェイスの死没したドイツ・カトリックゆかりの地であると知る。カテドラルヘ赴き、シュトルミウスの頭骸骨を見るが、きらびやかな聖櫃に入れられた司教冠を推戴した骸骨は露悪の一語につきる。
 フランクフルトに戻り、そこからマインツヘ向かう。この先ジワジワとライン河を下るわけである。グーテンベルク聖書
 マインツのグーテンベルク博物館では彼の印刷した聖書と、どういうわけかベートーベンの手紙と、1555年バーゼルで出版されたベサリウスの解剖書その他を見る。
 <姦淫聖書> が一冊ぐらいこちらにあるのではないかと思って係員に尋ねたが、昨夜地下の展示室が浸水してどうのこうのと要領を得なかった。
  ヨーロッパの家庭は蛍光灯を使わない。街路の水銀灯は冷ややかだが、アパートの窓から洩れる明かりは暖かい。

1975年6月25日(水)

Winde (ひるがお) ライン河を少し下ってリューデスハイムに着く。ブドウ畑の中をドイツ統一祈願の記念塔まで歩いていく。野生のサクランボをやや真剣に食べる。なにげなく摘んだ白い花の香をかぎ、そこに西洋の匂いをかぎわけた。あとで通りがかりの人に名前を聞くと、Winde だと教えてくれた。
  ケルン、フルダあたりから修道女の姿をみかけるようになり、カトリック勢力圏に入ったのかと思う。
  ライン河のほとりでメダカを獲っている子どもたちの手伝いをする。
  主にドイツに入ってからだが、時おり空中を綿のようなものが風に運ばれており、吹き溜まりには真っ白な綿ぼこりがちりばめられている。その元凶となっている木を見たが、柳のわたとは違って実でなく花のように思える。ヨーロッパ風物詩の一つに違いあるまい。
  女の子が「ボビ・ハバト・ホビ・アントン」を連呼しているので教わったが、別に意味はないらしい。
  ドイツ人が勤勉なのは充分認められる。しかしナチの言うようにアーリア人種が最優秀であるかどうかは疑わしい。民族的な美しさの意味では金髪碧眼の北欧人の方がまさる。

1975年6月26日(木)

 免税タバコが切れたのでローラーと紙を買い、手巻きタバコを始める。風情があってなかなかいい。日本では禁制品だというが、なんとかして持ち帰りたい。
  雪解けのためかどうか理由はわからないが、ライン河の水かさは増しているように思われる。岸辺や中ノ島あたりに水草でない草木が水面から頭を出している。
  今日は少し下がってザン・ゴアまで行くが、船中でオスロで別れた男ら三人の日本人と会い、ともにローレライの岩を見る。昨日と違って快晴に恵まれ、デッキは満員であった。興奮が相乗作用を生む。
 ユースに日本人青年が働いており、こんなに来たのは珍しいと懐かしがり、管理人の男の子を連れてともに山の上のプールへ行く。水中メガネとシュノーケルを持参したので、子どもらがまといつき戯れる。プールサイドで座禅と剣道の極意を教えている最中、プールに突き落とされて隙だらけなのが暴露される。ビールを飲んで上機嫌となる。
コースター 夜は先着の三名と計8人の日本人が食卓を囲み、食事も豪勢で満足し、夜は連れ立ってビアホールへ行く。ひとしきり情報交換に花が咲く。ユースで働いている青年は早く日本に帰りたがっており、10月に友達が来ることを心の支えとしていた。その彼の部屋で二次会となる。

1975年6月27日(金)

崖の上の古城 ユース近くの崖の上にある古城を探訪する。懐中電灯を持参して暗い所や立ち入り禁止の所もくまなく見たが、作られてあるものにはみな合理的な意味があり、無駄な迷路らしきものがないのは、当たり前とはいえ残念である。
  ラインをさらに下ってコブレンツまで行き、そこから列車に乗り換え、モーゼル河沿いにトリアーまで行く。ドイツ最古の町で、ケルン、マインツとともに神聖ローマ帝国時代の重要な中心地であり、カール・マルクスの生まれた街でもある。
  その街で兵役に就く青年たちが下士官に引率されて軍用トラックに向かうところを目撃した。週末には帰省できるのであろうか、トランク一つで見送る人もなく、変に陽気である。この変に浮ついた雰囲気はソビエトの駅でも見た。隣りの列車に丸坊主の青年が鈴なりで、こちらに向かって手を振ったり歓声を上げたりしていた。列車の周辺には銃を持った兵が警戒していたので、はじめはてっきり囚人列車だと思った。
  国を守るために軍隊が要るというのは、あまりに即物的な発想であろう。文字通り < 体を張って > 国を守るなどとは、だいいち比重が違いすぎるし、体と国とでは同じ名詞でも現実存在と抽象的用語ということで、較べることすら出来ない。
 モーゼル河畔のユースでは台所のガスが故障していたので、やむなく鍋を借りて石を利用し、岸辺でスパゲッティ・ラーメンを作る。大型の観光船が通って子どもに手を振ったりしたが、その船の波で河岸が洗われ、焚き火のところまできて消えてしまった。
  夜10時すぎても隣りの部屋の高校生グループがあまりにうるさいので怒鳴り込んだ。日本語で、
 「10時すぎたんだからいい加減に静かにしろ、そのラジオを消せ」と指さしたらラジオを消した。英語で言ってくれというので、
 「10時すぎたら寝なければならない、わかったか」というと、こちらが KARATE でもやりかねない剣幕だったのか、平謝りだった。

1975年6月28日(土)

 ドイツ最古の大寺院を訪ねる。17世紀の増築部分を除けばやはり簡素でローマの質実さがしのばれる。近隣からユースに遊びに来ている姉弟にドームで出会ったので、4世紀から7世紀までかけて作られたんだぞと説明してあげる。彼女らは英語はダメだがフランス語は話せる。国境近くに住んでいるためである。これからマルクスの生家へ行くのだと言ってもマルクスを知らない。哲学者であり経済学者でありコミュニストであるというと、
 「マルキシズムのマルクスか」といって納得した。マルクスの生家
  そのマルクスの生家でエンゲルスへの直筆の手紙を見る。神経質そうな細字が意外であった。1855年の息子エドガーが死亡した際の役所の書類には <哲学博士カール・マルクスの息子> となっていたが、81年の妻ジェニーと83年の本人の死亡の際にはたんに「著述業」となっていた。その生家に突然、東洋人のグループが来館、背広を着ていたがその髪かたちと女性のズボンから北鮮か共産中国のグループとみた。むこうも私を見て一瞬ギョッとする。敵を持つ国民の哀れである。おりをみて、
 「国はどちらか」と聞いてみたが、首を横に振って答えない。私よりも同国人の注視があってのことだろう。そのうえ選ばれてきているので、筋金入りとみられる。北鮮の人民とみた。数次旅券の渡航先には「北鮮を除くあらゆる国」と書き込まれてある。一足先に出て広場で待機し、彼らがマイクロバスに乗るのを見届ける。そのバスはボンから来ており、プレートは <0ナンバー> だった。マルクスがトリアーで生まれたこと自体が世界史の冗談なのに、そこで北鮮か共産中国の異様な一団を見たのは出来すぎていた。

デモの新聞見出し 街の広場で学生たちがハイデルベルクに関する何かでアピールしていたのを気にもとめなかったが、ハイデルベルクに向かう車中に置いてあった新聞を見、たぶん昨日、そこで学生と 機動隊の衝突があったのを知る。もともとハイデルベルクは一度は留学を夢みた憧れの大学都市であり、街の美しさは『あの胸にもう一度』という映画で喫驚していた。
 ユースの受付で例の新聞を見せ、
 「いつ起きたのか」と問うと、「昨日だ」と言い、
 「たぶん今日も」とつけ加える。
 「大学でか」とさらに尋ねると、「ビスマルク広場でだ」という返事。来る途中、大学方面の上空をヘリコプターが1機舞っていたのを、上目に見ていた。夕食 をそそくさと済ませて、万一に備えて地図1枚だけを身につけ、バスに乗ると、北ドイツの片田舎の英語教師と一緒になった。救急車や固まっている機動隊員を見かけたが、今晩はもう騒動ははねたらしく、歩行者天国と化した市電通りを若者がたくさん行き来しているだけだった。原因は市電を1マルクから1、5マルクに値上げしようとする当局に反対するデモが、機動隊の催涙ガスに見舞われたりしてこじれたらしい。日の丸をつけた車が多く目につき、英語教師に聞いてみると、市電代わりの市民による自発的白タクだという。パブでビールをともに飲む。日本の教師は尊敬されているか、と聞くので、
 「すくなくとも私は尊敬されている」と答える。そう思い込まなければやっていられない。
 もっと由緒あるパブにいこうと行きつ戻りつし、結局ユースに帰る時間がなくなる。途中、 同じユースに戻るマレーシア人と一緒になり、バスの便もないので、3人して迷いながら暗い夜道を急ぐ。英語教師は腰が軽くて足が速く、マレーシア人はゆったりとしてのろく、私は中庸をとる。道に迷って病院のひと気のない構内に入ったり、意見が衝突したりで面白かった。
 夜11時に到着する。


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