『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年6月29日(日)        

 駅に荷物を預けてからハイデルベルク城に登ると、地下の大酒蔵でまた英語教師と会った。 彼はロンドンに長くいたドイツ人で、母国語が完全でないので夏季休暇中、ドイツ語学校に通うのだという。昼食をともにすることを約束してから、城内の薬物博物館をみて回る。錬金術 や不老不死薬研究の時代を下った、18世紀のものが主だったが、それでも <龍の血> と称する怪しげな血粉も展示されていた。
ハイデルベルグ 通りで知り合いのホステラーに会い、ともに学生牢を見る。牢といっても格子なき懲罰部屋で、明治30年ぐらいまでの話である。
 聖霊教会の前で落ちあわせた英語教師と3人して、イタリアン・レストランでピザとスパゲティをとり、簡単な美術館をかんたんに見てから、別れて対岸の哲学者の道を登る。こちらか らみるハイデルベルクの街並こそ、かつて写真や映画で「こんなに美しい街があるのか」と驚嘆させられた情景であった。今日はデモも収まって市電も正常どおり運行されており、とにか くハイデルベルクに満足して、夕刻シュトットガルトヘ向かう。
 シュトットガルトのような大都市は、駅の名前もだいぶ遠くからその名を冠してある。たとえば横浜・戸塚駅、横浜・保土ケ谷駅、横浜・中央駅といった具合である。それで駅名をみる と,SGはずれ駅、SGもうすぐ駅、SG南駅、SG中央駅といった感じである。
  ここの駅のインフォメーション嬢は、今まででもっとも親切丁寧であり、ユースの主人も、
 「家内ガ日本人ナノデ」と言って、宿泊費を払うと、
 「有難ウゴザイマシタ」と言う。 シャワーを浴び、持参の缶ビールを飲み干し、アメリカの黒人兄弟と言葉を交したりして快適である。カン・フーの人気はすさまじく、東洋人はみな子供たちから空手の達人とみなされる。

1975年6月30日(月)

 シュトットガルトの北西40キロにあるはずのマウルブロン修道院を訪れる。ヘッセの『車輪の下』の舞台となった所である。列車を乗り換えて支線の奥へ分け入っていく。ユーレイル・パスを見せると、老車掌が若い車掌にそのパスを説明する。マウルブロン駅は荷物の一時預かりもない辺鄙な駅で、修道院はそこからさらに修道院裏手バスで行ったところにあった。今でさえ何もないところだから、80年前は息もつまるような寄宿生活だったに違いない。神学校と寄宿舎と、裏手の、小説では友達が自殺したという池をみる。修道院の内部そのものは昼休みで参観できなかったが、ファウスト博士が2年間閉じこもって練金術にいそしんだといわれる塔の内部は、なんとも見たかった。
 今日は終日雨でときおり雷をともない、ニュルンベルクまでの列車の長旅は結構な話である。そこのユースはカイザーブルグという古城の中にあり、シュトットガルト近くから来たドイツの女の子たちのグループがいたので、マウルブロンを知っているか、と聞くと知らない、と言う。ではヘルマン・ヘッセを知っているか、というと、知っていると言う。ヘッセはそこで学んだのだというと、ア、ほんと、と言う。悪くない気持ちである。モスクワで黒澤明監督に会った話も、日本人よりも <> の外人のほうが反応が大きい。
 「えっ、本当か!それで?」といった感じである。

1975年7月1日(火)

突然、雛壇にであう 古城の内部を見てから、ノリカマというニュルンベルグを紹介したマルチ方式の映画を見る。プラグの教授が考案して万博で好評だったものである。おもちや博物館では日本の雛檀が堂々と一角を占めていて快い。
 市内の2つの教会を見たが、この街は大戦でケルンに次ぐ大被害を蒙ったといわれ、教会も例外でなく、奇麗なステンド・グラスも下半分に留まって上の方はふつうの曇りガラスなのが痛々しい。メランコリア
 そのあとのゲルマニア博物館で強く感じたことだが、中世のキリスト教は端的にどぎつい。聖人の殉教図や、「死を想え」式の教訓画は、ボッシュをさほど極端に思わせない。デューラーのメランコリアをここで見たが、聖ヒエロニムスの方は絵葉書のみあって実物がなく、聞いてみるとベルリンの展覧会に出してあるということだった。彼の生家そのものでは銅版画や油絵はほとんどなかった。
 ニュルンベルグ裁判が行なわれた建物も見たかったが、インフォメーションで聞き落としたので場所が分からない。よってバイロイトヘ移動する。
 そこのユースは住宅街の中のふつうより少し大きめの家で、宿泊者は私を含めて3人しかいなかった。オペラが大好きだというドイツの若者と、ドイツ語を勉強しているアメリカの学生で、ひさしぶりに静かな環境で翌朝8時半まで熟睡した

1975年7月2日(水)

 ワグナーの設計したオペラ・ハウスと彼の墓を訪ねる。今はまるで聴く機会がないが、彼のドラマチックな音楽にはやがて心酔するにちがいないと今から思われる。いわば先取りの墓参である。アウトバーン
  ニュルンベルグヘ戻る適当な列車がなく、長距離バスで戻ったが、期待したとおりアウトバーンを使った。東名高速と40年間の開きがあるとは思えない。ただ通行区分帯に対向車のヘッドライトよけの植樹がなされていないぐらいか。軍用トラックの制限速度が80キロ、戦車が70キロという標識をみる。
  ニュルンベルグから予定を変更してビュルツブルクまで行く。地図で見るとデュッセルドルフからミュンヘンまで南下するのに、一歩後退二歩前進というぜいたくな進み方をしている。古都ビュルツブルクは、中世の街道筋を通ってミュンヘンまでいく長距離バスの発着地点である。
  町の広場でハンバーガーをかじり、ビールを飲んでいると、酔っ払いが来て前の席に座った。日本人か、と確かめてから、問わずがたりに自分がユーゴスラビア人で、両親がこの戦争で兵隊に撃ち殺されたと語り出した。こちらはどうしてよいか分からず、ただビールをすすめるだけだった。うるんだ瞳の酔っ払いだった。
 この街は公衆便所まで格式高く、HとDの目印がここではMとF、メンナーとフラウエンとなっている。

1975年7月3日(木)

 ミュンヘン行の長距離バス発着所で地べたに坐っていたら、驚いたことに中学高校時代の同期の中尾と偶然会った。銀行にはいって渡米したと聞いていたが、サンフランシスコの大学が夏休みにはいったので同僚と2人して旅行しているのだという。同じバスでミュンヘンヘ向かう。道中の牧歌的情景はすでにデンマークで満喫したところだが、それでも
ミュンヘン酒場 ♪ 緑の丘の赤い屋根、トンガリ帽子の時計台  といった風景そのままなのが嬉しい。道中通過する中世の街は、バス1台がやっと通過できるぐらいの城門を出入りしてひと区切りとなる。
  ミュンヘンのユースで横浜からの手紙を受け取ったが、ユースは満員なので3人してペンションヘ行く。9時ごろ本場ミュンヘンでビールを飲もうということになり、かつてヒトラーがそこで決起したという酒場で大ジョッキを痛飲し、12時すぎタクシーで戻る。

1975年7月4日(金)

「囚人」 地下鉄で郊外のダッハウヘ向かう。そこはかつてマイネッケ、アウシュビィッツなどとともにナチスの強制収容所のあったところだ。生々しい自国の歴史の恥部をえぐりだすのは、やはり限度があるのだろう。おそらくポーランド国内のアウシュビィッツよりは簡素化されているはずである。死体焼却炉よりもシャワー室(ガス室)の方にはっきりとした怨念が感じられた。
  展示してある写真のヒトラーをはじめとするナチの将兵の顔面が、ひとつの例外もなく切り刻まれてあった。
  百貨店の地下で昼食をとってから、世界七大美術館の1つアルテ・ピテナコークヘ行く。端的にみごたえがあったというべきか。
  駅前で中尾らと別れてユースに入る。ユースの若い係が職業欄の「教師」を「学生」になおせば安くなる、と暗示してくれたのが嬉しい。今日は非常に暑かったため激しい夕立ちとなった。

1975年7月5日(土)

 少女像(前面と背面) 朝10時からギリシャ・ローマ彫刻収集舘と骨董陳列舘を見る。これらの1つでもいいから、本物が手元にあればどんなに幸せだろうと思う。
  静岡からの狭量がここミュンヘンまで届き、昨夜は彼我一視の心境を得て安眠したが、今朝は故郷喪失の一人旅の感が深まる。ホフブロイハウスの酒場で老人が独りぼっちでテーブルにいて、ビールを飲みながらさも楽しそうにしていたが、彼が虚構に耐えられなくなって敗残者として肩を落とし、公園のベンチに坐って独り言をつぶやくに至るまで、そう時間はかからないとみた。
  孤独とか寂寥、落莫とよばれる残酷な存在様式を、ひとり我が身のこととして考えるのは、間違いの始まりであり、殼に籠る第一歩であろう。しかし目の前で両親が兵隊に撃ち殺されたと言って、手の甲で涙をぬぐったユーゴスラビアの季節労務者に、こちらは無力な慰めすら持ち続けなかった。慰め通し得ぬことのいらだたしさは、キリストの磔刑に尽くされているのではなかろうか。牧童(レンバッハ)
  市電に乗ってノイエ・ピテナコークとシャック・ギャラリーを見る。ノイエもアルテに劣らない充実した美術館であり、ギャラリーのほうは私の好む18,9世紀のロマン派美術館なので、画家の有名無名よりも画題やその構成を堪能する。ルノアールやセザンヌの風景・人物画なんかは、一時代を劃したのかもしれないが、変哲もなく面白くもない。
  そもそも、美は歴然と他を分かつことで悲劇的に完結する。涙腺が刺激されて鼻をつくような想いが走り、やるせなさと懐かしさが溢れ出る。その瞬間は世の勤しみの関与する幕ではない。しかし累々たる死体の戦場に手放しで泣く女が、我にかえって息を継ぎ、きびすをかえしてうなだれ歩むとき、間歇されていた生産と滑稽と慙愧と因縁の----とりこぼしの多い <試み> の、また、はじまる
  デパートで小包みの包装紙とちょっとした土産品を買う。デパートは美術館以上に歩くのが疲れる。一種の繁栄地獄である。
  夕方の空き時間ができたので、駅構内の映画館でドタバタ喜劇を観る。東宝映画の怪獣ものと特撮ものは、看板だけでまだ上映されていない。損した。
  ユースの隣のベッドの連中がうるさいので、今度はドイツ語で、
 「10時すぎたから寝なければならない」と言うと、いや、消灯は11時半だと言われて、しまらなかった。

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