『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年7月6日(日)

 今日でドイツと別れてオーストリアに入る。
 カナダ人やドイツ人に、自国民と他のヨーロッパ人との見分けがつくか、と尋ねると、たいてい見分けがつくという。しかしこれはなによりもプライドの問題だろう。ドイツ人は太っているから分かる、という答えは当を得ているように思われた。マルクスがトリアーで生まれたのが世界史の冗談なら、ヒトラーがミュンヘンで旗あげしたのも冗談の1つだろう。彼が理想とした金髪碧眼の純正アーリア人種は南ドイツには見られないからだ。
 ドイツ側かオーストリア側か分からないが、車内を係官が2人、疾風のように通り過ぎた。ために国境越えの実感がわかない。
モーツァルトのヴァイオリン ザルツブルクでは古城とモーツァルトの生家を見る。古城の方に拷問の道具が陳列されてあったが、もっともっと残酷なものがあるはずだと思った。内側に棘のついている「鉄の処女」の甲冑はどこで見られるのだろう。モーツァルトの生家では、ケッヘルの大事業である古芭蒼然としたモーツァルト全集が壮観であった。
ザルツブルグのユースホステル ふり返ってみれば、日本にくる外人観光客が歌舞伎とか舞子とか、京都の祇園祭などをカメラにおさめて、変に日本的なものばかり見ているように思われるが、こちらも史跡や古城、美術館、博物館と、できるだけヨーロッパらしいものを飛び石的に取り上げて旅行しているのがわかる。大都市の寺院やドーム、旧庁舎は、やはり日常生活とかけ離れた観光名所として位置しているし、生活に目をむければ、空き地の資材置き場やマーケットの横に積まれたダンボールの山に、変わりようのない人間の営みの一鱗がうかがえる。

1975年7月7日(月)

サウンド・オブ・ミュージック 待望のウィーンに迂回して入ることにする。ノルウェー以来久しく見なかった山らしい山をザルツブルクの古城の望楼から南の方角に発見し、思い立って山岳地帯のローカル線を利用することにした。映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、チロル越えしてスイスに亡命したオーストリアの音楽一家をしのぶ。
  ザルツカンマーグートと呼ばれるこの地帯の風光は、フィヨルドやラインとは趣を異にしてまた明眉である。フィヨルドやラインは期待や先入観が先にたって、実見しても「そうだろう」とうなずく程度だが、「もしかしたら」という推測がこうして実現するのは嬉しい。これはオデンセのアンデルセン博物館でキルケゴールの画像をみたときにも実感したことである。
 5時にウィーン入りし、駅で会ったデンマーク人2人とドン・ボスコ教会の鐘楼内にあるユースに行く。
 横浜からの手紙が待っていた。

1975年7月8日(火)

 郵便局から横浜へ電話をし、荷物と送金の確認をしてから、日本航空ウィーン支店で切符の変更を依頼する。そのあとレコード店で同僚に依頼されたモーツァルトのレコードを買う。美術史館
 美術史舘ではハプスブルク家の贅を尽くした細工ものを見る。純金や真珠、宝石が使われるべくしてふんだんに使われており、飽かず眺めていると妖しの気配がたちのぼる。こういった手間暇が人々の生活の基調となっていた時代には、今から思うとめまいすら感じられる。
 2階の泰西画ではあいかわらず、あ、この絵はここにあるのですか、あ、これはここで観れるのですか、といった悦びが先立つ。ぶよぶよしたピンクの肉体を描くルーベンスが、『メドゥサの首』では、一転して暗い色調を使っている。メドゥサの頭髪に両頭ながら文字通り蛇足----足のついた蛇を発見する。
 美術史舘前に日本人男女がおり、火を借りるために言葉をかわして、男の方が新進カメラマンで奥さんの方がウィーンでソプラノを勉強しており、学生時代の教会仲間だった女友達と同級生だったと分かり、あらまあ、となる。シュティファン寺院奥さんを先に帰してカメラマンとシュティファン寺院に入り、偶然聖堂地下のカタコンブが見られる時間帯だったので、カタコンブの奥深くの覗き窓から、17世紀ペスト大流行の際に大量死した人々の白骨と頭骸骨の山をみる。ダッハウのガス室で感じとった寒々しさがここでもいっそう包み込んでくる。今までヒエロニムスやフランシスコが髑髏を手にして冥想にふける絵を多数みてきたが、はじめてそれが実感として納得できた。
 田中長徳(カメラマン)さんの案内で、カタコンブの延長のような地下の洞窟酒場で地酒のワインを飲んでから、彼のアパートにお邪魔し、奥さんの作ったご飯にみそ汁、キュウリの漬けものとハンバーグを頂く。ピューリッツァ賞やブレッソン、キャパ、エイゼンシュタインのポチョムキンなどの話に花を咲かせ、9時すぎおいとましたが、彼のアパートも私の帰る教会も、ともに市街地図をはみでた所にあり、結局道に迷って、ドナウ運河沿いに微醺を帯びて2時間も歩き続けてしまった。しかしこの帰途、同期生の博士号取得の知らせや、ウィーンで活躍している同世代のカメラマン、ドイツの片田舎で出あったかつての級友などの刺激で、私の人生に感ずるところ大であった。
 ユースで夜、こそ泥の未遂が発見される。私のロッカーの2つ隣をあけているところだった。

1975年7月9日(水)

 朝、郊外電車でハイリゲンシュタットヘ向かう。地図も標識もなく、しかもベートーベンの散歩道と彼が遺書を認めた家は丘の上、という先入観があったため、途中でたまたま通りの名を記しておいたメモに気がつくまで、たいへんな回り道をしてしまった。ベートーベンの遺書と原譜の直筆をみて、符を書きつける作業が文字を書き綴る作業とまったく同じ感情の抑揚に基づいているのを知る。シェーンブルン宮殿
  そのあとの <会議は踊る> のシェーンブルン宮殿では期待していたほどの豪奢な贅が見られず、女帝マリア・テレジアと幼女マリー・アントワネット、それに少年モーツァルトが同席しているオペラ鑑賞のタペストリーにいくぶん興をおぼえた程度だった。目のさめるような宮廷広間も、一瞬の息苦しさがすぎて子細に観察し飽かず眺めていると、人の目が闇に慣れるように落ち着いてくる。天井や壁、シャンデリア、鏡、家具の装飾だけでは、人を惹きつけ虜にさせるだけの説得力を持たないからだろう。ホールで夜の音楽会のリハーサルにピアノを弾いている若者が、GパンにTシャツの軽装でいるのが格好よくて羨ましかった。
  夜、公園で芝生に寝そべりながらウィンナ・ワルツの演奏を聴く。これはウィーンでやりたかったことであり、流れてくる「美しき青きドナウ」の調べはきわめつけであった。もっとも入場料を払わなくていい芝生の上なので、ステレオを左の耳だけで聴くようなきらいはあった。

1975年7月10日(木)

「第三の男」と大観覧車 南駅で、今晩11時のローマ行急行の2等簡易寝台をベネツィアまで予約し、郵便局からレコードを船便で出したあと、プラーター遊園地に行って大観覧車に乗る。映画『第三の男』で、小説家マーチンと旧友ハリーが劇的に再会した名場面の舞台である。ハリー役のオーソン・ウェルズのシニカルな屈折したマスクが浮かぶ。これでチタールが流れていれば申し分なかった。ホーフブルク王宮
 日航でマドリッドを起点とした場合の料金変更の報告をうけ、市内の宝石商のウィンドウを眺めてウォーミング・アップしてから、ホーフブルク王宮のハプスブルク家宝物舘をみる。黄金の刺繍も不気味であるが、やはり宝石、なかんづくダイヤモンドの光がうつくしい。内部から七彩色の光を発する白乳色のオパールもすばらしいものであると分かった。しかし何よりもこの宝物舘で、まったく突拍子もないことに「ベロニカの布」を発見して、ひどく驚愕する。しかのみならず、「架上のキリストを打ちつけた釘」といわれるものまであっていたく興奮し、受付の英語の解説書を立ち読みして、布の方は17世紀までイタリアにあったもので、諸方に伝わる布よりも放射能の測定などでまさにキリスト時代のものであり、教皇の命で複製を禁じられ、釘のほうは「といわれている」ものと分かる。しかし17,8センチの切先の鋭くとがった釘は生々しさ以外の何ものでもなく、あらためてハプスブルク朝の歴史をかき集め得た威光のほどを知る。
  王宮広場に各国青少年の鼓笛隊がたむろしており、やがてパレードがはじまった。今日が今年度ウィーン国際青少年ブラスバンド祭が終了するその打ち上げ日と知る。やはりアメリカが衣装も歩き方も派手で、バンド・ガールの笑顔が無邪気で可愛かった。しかし式途中ではげしい雷雨となって可哀そう。
  各国の硬貨を記念に一種類ずつ残す予定であったが、手元に残った6シリングのうち、荷物の預かり賃に5シリングと、ついに使用せざるをえなかった有料トイレに1シリングで、まったくの文なしとなった。
  夜行列車では、NASAでエンジンを研究しての帰りだという、東大宇宙航空研究所員の家族連れと一緒のコンパートメントになる。

1975年7月11日(金)

 イタリアでは夏時間を採用しているので、昼前の11時にベネツィアに到着する。デンマーク以来海を見ていないので、運河とはいえ、水の都は嬉しい。水上バスをおりると少年が寄ってきて、
 「ホステロ?」と聞くので案内させる。金をせびるかと思ったがしなかったので、もう少し親切にしてやればよかった。
  荷物を置いて散歩にでると、カナダでコンピューターを勉強しているパキスタンの若者と一緒になったので、サン・マルコ広場まで行く。広場での日光の照り返しはすさまじく、旅行に出て一番のむし暑さである。
  お金をくずすために煙草やフィルムを買って気がついたことだが、50リラ(25円)と100リラ(50円)の銀貨をなかなか払いたがらない。写真屋にコインでくれ、と言うと、日本人がイタリアのコインをみんな持っていってしまったからない、という。馬鹿馬鹿しいがありうる話なので断念する。確かにイタリアの紙幣はまるでモノポリをやっているようにチャチで、それに較べて銀貨の方は額面よりも重厚である。しかしこれは白銅貨だな。モネ「ドージェ宮」
  教会の金色のモザイク模様は、クリスマス・ミサなどで蝋燭をいっせいに点せば、燦然と輝き映るにちがいない。タイル職人の立場で見直してみると、尽くしきったすさまじい労作として映る。ドージェ宮では大枚しかなかったので入場料を払えず、あきらめようと思ったところ、パキスタン学生が700リラを貸してくれた。彼自身は入らないで広場で待っている、というから変わっている。大参議員室の壮大な天井を見上げて、ヨーロッパの核心に近づいてきた、という実感がせまる。ヨーロッパ文化史の感覚では、ペトログラードの冬宮を別として、北欧はやはり田舎でしかない。このドージェ宮ではじめて貞操帯をみる。説明も何もなくて刀や槍、甲冑と一緒にさりげなく1つだけ置いてあるので、仔細に観察していると人々が寄ってきて「なんだろう」と言っている。説明してあげるには語彙が不足しているので、ひとり <これなんですよ、貞操帯は>とほくそ笑む。
 ユースに戻ると、殺人的な順番待ちの混みようであった。パキスタン学生にナルビクで魚釣りした話をすると、私の釣りをみたいというので運河で釣りをしてみせるが、だいいち魚がいるのかいないのかも分からないので馬鹿馬鹿しかった。10時ごろになって激しい落雷とどしゃぶりの雨になって、対岸のイルミネーションに照らし出されたドームや鐘楼が篠つく雨に煙るように浮かび上がり、時おりまた全天真昼のように閃光が走って、その様きわめて壮観であった。

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