『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年7月12日(土)

 8時半まで熟睡し、サン・マルコ広場でパキスタン学生と別れて、4つぐらい教会と美術館をみて回る。美術アカデミアが改装かなにかで半分しか開放しておらず、さしたる収穫なし。ただペサーロ宮のベネツィア・ビエンナーレ展の作品には共感をおぼえるものが多かった。
リドの海水浴場 暑くなってきたのでリド島の海水浴場に行って泳ぐ。浅い砂浜が続いて岩場がみあたらないのは残念である。水は澄んでいるとは言い難いが、波もなく穏やかでベニスに死すおそれはない。アサリを捕る。サン・マルコに戻って鐘楼より全市を一望し、日没をみる。路地裏水路
 ベネツィアには、他のどこの都市とも比較できない独特の風情がある。だいたい建物を出ると玄関正面の足元の階段を海水がピチャピチャ洗っているという光景は、それがどうして可能なのかと不思議がらせる。こんな所に、と思うような路地裏にまで運河が入り込んでいて、しかもそれが潮の干満と鯨が棲むという、あの海なのである。みはるかす水平線と大海原を、部分的とはいえ路地裏に押し込めて、こどもがオシッコをしているのは痛快である。
 土曜日だからだろうか、夜中12時を過ぎても人々が河岸にテーブルと椅子をだしてワインを飲み、声高にさんざめき、子供が騒ぎ、犬が鳴いている。なかなか寝つかれなかったが「これがイタリアなのだ」とわりきる。

1975年7月13日(日)

オリビア・ハッセイ 今日は列車でベローナとパドバヘ往復する。ベネツィア〜ベロナ間は東京〜小田原間ぐらいか。そこでもっとも完全な形で残っているという円形劇場をみる。ついでジュリエッタの中庭でバルコニーをみる。オリビア・ハッセイ演ずるジュリエッタが窓から顔をのぞかせたシーンは、世にこれほどあどけない乙女がいたのかと、腰を抜かさんばかりに驚いたものだった。
 パドバでは、肝心のジオットのスクロベーニ礼拝堂が日曜午後で閉館なので、聖アントニオ寺院とパドバ大学を訪れる。聖アントニオの歯や舌が聖櫃のようなものに安置されており、参拝者の目に晒されている。端的にどぎつい。それでもいまだに御利益があるとみえて、要らなくなった杖などが奉献されてある。奇跡は信仰にいっそう磨きをかけるものなのか。無作為な奇跡は自然界の、たとえば太陽の黒点とも、いかなる関係も結んでいないのか。
  夜10時半ごろユースの3階の窓辺に腰掛けて、今日も岸壁につどうている人々を飽かず見ていると、イタリアという国が映画でいうならば 、『8 1/2 』や『テオレマ』、あるいはシリアスな政治・経済の内幕もので考え込むよりも、やはり『鉄道員』や『自転車泥棒』や『昨日・今日・明日』で 想像したとおりの世界として実現されてくる。

1975年7月14日(月)

 朝いちばんでフィレンツェヘ向かう。ベネツィア〜フィレンツェ間に長大なトンネルがたて続けに2つもあった。地図でみるとともに15キロぐらいの長さか。マーキュリー像
 街をぶらつきながら燭台を2つ買う。7000円だからきわめて安い。違う店でパドバでみかけた銅製の4体の天使像を発見し、値段をきくと1体4500リラだという。パドバでは2000リラだったとハッタリをかますと、そんなバカな、という身振り。それでも功を奏して4体18000(9000円)を14000にするという。一挙に値をさげて腰を抜かすような安さだが、さらに12000にして、と紙に書いてみる。しばらく日本語とイタリア語でやりとりしてから向こうは仕方がない、とばかり13000にしてくる。こちらはその間、よそ見をしたりして、それなら12000でいいじやないか、とダメ押しすると、結局その言い値でおちついた。馬鹿みたいな話である。
 今日は月曜日で多くの美術館が休む日だが、パラティーナは開いているはずなのでそこへ行く。どこの都市でもそうだが、初日は土地勘がなかなか掴めなくて苦労する。バスや市電を乗り違えることも珍しくなく、気がついて起点に戻れば問題はないが、道路が一方通行だったりすると、逆方向の道路と停留所を探し出すのに難儀する。
 ベッキオ橋を渡ってアルノ川の対岸へ出るが、川は夏枯れで水も少なく、9年前の大氾濫で橋の上まで水がきて、市内が洪水の大被害を蒙けたというのはちょっと考えられない。ダンテの家から彼がベアトリーチェと邂逅したこのベッキオ橋まで、直線距離にして500メートルぐらいしかない。ダンテとベアトリーチェにしろ、ゲーテとロッテにしろ、あるいはキルケゴールとレギーネにせよ、実にスケールの小さい卑近な現実から、途方もなくスケールの大きい仕事をしている。なんとはなし勇気付けられる話である。
 結局パルティータは閉館(これはあとで勘違いと分かった)で、疲れた体に、重い荷物を背負ってユースにはいる。

1975年7月15日(火)

 駅前のサンタ・マリア・ノベーラ教会で、ステンド・グラスというのは美しいものだなあと思う。今までたくさんの教会で多くのステンド・グラスを見てきたが、この教会で今さらのようにそれを感じたのは、イタリアの強烈な夏の光のせいか。ムワッと包み込むような真夏の暑熱をベネツィアのサン・マルコ広場で感じとって以来、毎日その暑さが続いている。フラ・アンジェリコ 『受胎告知』
  次にサン・マルコ修道院へ向かう。敬虔な僧侶画家フラ・アンジェリコと、熱血漢サボナローラの組み合わせが面白い。『受胎告知』のお告げの天使に、「謹んでここに申告致します」というみなぎりを感じとり、画家のしたたかな表現力を知る。『キリストの洗礼』や『復活』や『我に触るな』など、それら祈りながら描きながらの純粋さに、やや気押される。
  次のアカデミア美術館は、単にミケランジェロの『ダビデ像』だけの建物だが、数多あるコピーを見てきた果ての本物は、やはりここにミケランジェロの鑿が入り、鉄槌が下されたのか、という感慨が湧く。正面入り口に立つと、左右に5体の、なんというべきか、混沌と明晰さがあい争っているような未完成の彫刻群があり、それらを通して中央奥に屹立している完璧な1体のダビデ像があり、無比の理想的男性像を創りきった芸術家の執念が、それら未完成の彫刻群を越えてこちらまで伝わってくる。
  昼食を学生食室でとる。フルコース350円という馬鹿馬鹿しいほどの安さにひどく感激し、幸福な気持ちになる。芸術家ミケランジェロが大理石の採掘現場まで行って人夫を督促し、天井画作成にあたっては先ず足場作りを指揮するという日常性を否定できなかったように、花の都フィレンツェで感動し、幸福な気持ちになるのは、なにも芸術的事柄に接してばかりではないのである。
  一服してから訪れたメディチ家では、主題がはっきり分からないミケランジェロの『昼と夜』よりも、旧廟の大理石細工の方に感嘆する。これはドゥオモでも感じ入ったことだが、こうも色とりどりの大理石があるのかという驚きと、彩色が大理石自体の色なので、削れば剥がれるような二次元的表面的な彩色でなく、奥の方から連続して発してくる重厚さが感じられる。メディチ家の紋章は真田家の六文銭に似ているが、財力の方は比較にならない。
 ドゥオモの内部で未完成のピエタを見てから、シニョーリア広場のサボナローラ処刑跡をカメラにおさめる。そのあと彫刻群の林立している集会場で午睡をとる。最後にサンタ・クローチェ教会でミケランジェロたちの墓をみるが、ダッハウで感じたとおり、慰霊碑、記念碑、墓のたぐいはすべて後手に回っているだけだという認識を再確認するに留まる。
 夕食後は洗濯と、きのう買った燭台と天使の置物の荷作りをする。

1975年7月16日(水)

ウフィッツ美術館内 今日は3つの美術館めぐりである。3日目にもなると道に迷うこともなくなる。最初のウフィッツィはエルミタージュ以来の混みようで、名のある美術館はやはり混みあうな。ボッティチェリの「春」と「ビーナスの誕生」に<われフィレンツェにあり>の感を深めるが、回廊の古代ローマ彫刻群にも「刺を抜く少年」などみるべきものが多かった。「ダビデ像」ドナテロ
  国立バルジェロ美術館では、ドナテルロのダビデ像を圧巻とする。オスロ美術館でそのコピーを見て、<今に本物と出会います> と思ったことが実現された。オリジナルとそのコピーの見分けはとうていつかないが、然るべき場所でオリジナルに接して、他ならぬこれが芸術家の手から生み出されたのだ、と想いをはせる時の感慨を大切にしたい。横浜を出る前にこの美術館で他に見るべきものとして、チェルニーの「ペルセウス」をメモしておいたが、それがどんなものか忘れ、館内を観てまわるうち、あ、これはいいな、と思って2度目に標題と作者を確かめてまわると、それが果たしてチェルニーの「ペルセウス」であると知る。こういうのは嬉しい。
  3つめのパラティーナ美術館はおととい行ったところで今日も閉まっており、はじめて場所違いと知り、ようよう辿りついた時は閉館まで40分だけで、まったくゆとりを失ってしまった。それでも一巡してソドマの「聖セバスチアンの殉教」に焦点をさだめる。聖セバスチアンの殉教は、稚拙な木彫りから絵画、イコン、彫刻、モザイクに至るまでそれこそ無数に見てきたが、やはりソドマのそれを最高のものとする。 ところでソドマのこれは、驚いたことに目に涙をうかべて、うっすらとその涙が頬を伝わっていた。殉教図もまたあまた見てきたが、 まわりの者がでなく、当人が泣いている図はこれが初めてである。実に泣いてこそ殉教であり、ほほえんでいたり、恍惚然として矢を射ぬかれたり乳房を切り取られたり刎首されるのは、あまりに人間ばなれしていて近寄りがたい。<強い人間>はおそらく最初から強かったのだろう、という疎外感を<弱い人間>に抱かせる。 だからといって手放しであさましく泣き叫ぶのでなく、ひたすら目に涙をうかべて、時には矜恃をかなぐり捨てて「ノド渇イタ」と訴えてこそ、 それでもあえて殉教することの重い意味が発せられるのである。実に青年セバスチンは目に涙をうかべてこそ、またその涙が頬を伝わってこそ、それでも耐えていることが 観る者をして万感の想いに至らしめるのである。

1975年7月17日(木)

   フィレンツェから鉄道で1時間半のシエナヘ往復する。聖ドメニコ教会で、メモしておいたベネディト・ダ・マイアーノの『灯架をもつ天使』を見るためである。2両編成の列車が単線を行く。聖女カテリナの首
 着いたシエナの教会では、目当てだった食傷気味の天使像よりも、聖女カテリーナの首に肝を冷やす。奇跡の1つなのだろうが、白骨化していない代わりに、目がくぼみ、鼻が落ち、歯がむき出しになっていて、それが麗々しく修道女のベールをかぶって箱に納まり、崇拝されている。この感覚に馴染むことはとうていできない。
 カンポ広場というスロープのついた扇形の広場の日蔭で、ひたすら美術館が開くのを待つ。時間の貴重な旅行者には昼休みがつらい。レストランやタバコ屋、スタンドを除いてみな閉まる。ドアに「引く」とか「押す」の標示がないかぎり、ドアが開いているか閉まっているかが1つの意思表示となっている。ためにいきおいチャチなドアは使われない。
 シエナのドゥオモは外観・内部ともたいへんな聖堂だった。鐘楼に登って市街を一望する。坂の多い、こじんまりした気持ちのよい街なみである。
 帰りの列車の運転手は、無帽で色柄の開襟シャツを着ている。この国にかぎらず、一般に市電やバスの運転手であごヒゲやサングラスは当たり前で、 ガムをかんでいたり口笛を吹いたり、中には運転しながら煙草を吸っているのも目撃した。

1975年7月18日(金)

 ピサを経由してミラノヘ行く。ベネツィアの駅で最後の旅行小切手を両替して、そのあと非常用の現金2万円にも半分手をつけて、 明日ミラノで横浜から届いているはずの10万円にスリリングな期待をよせる。ピサの斜塔
英和辞典 ピサの斜塔を見る。あまりに有名な斜塔が視界に納まっている、というのは、率直に「やっと実現したか」という夢のような気持ちにさせる。わが家にあった大部な英和辞典のうしろのページに、西欧の代表的建築物や美術、偉人たちの図版があり、中学生のときに、単語しらべに飽きてケルンやシャルトルの大寺院、コロッセウム、ピサの斜塔などに魅入った覚えがある。
 塔内の螺旋の石段は観光客によって擦り減らされており、全体が傾いていために、擦り減っている部分が内側になったり 外側になったりしている。
 隣りの大聖堂が昼休みなので、芝生で仮眠をとってから扉の前で待機していると、横にいた2人の青年がイタリア語で話しかけてくる。フランス語は話せるが英語はダメで、それでも彼らがイタリアの大学生で、1人が地理学、もう1人が医学を専攻している、ということがわかる。しばらく固有名詞の話をする。むこうはヤマハとかカラテとかいい、こちらはフェデリコ・フェリーニとかマルチェロ・マストロヤンニとか言う。しかし英語をまるで理解しない大学生にははじめて会った。向こうが一生懸命イタリア語でいうので辟易していると、反対側にいた小母さんが急に、
 「英語が話せるか」とドイツ語で言ってきた。分かる、というと、娘に自国語で何事か言い、娘が英語で、
 「ピサに泊まるのか」と聞いてくる。要するに彼らはハンガリーからの亡命家族で、ダンナと娘は英語が分かるが、イタリア語は分からない。奥さんはイタリア語が分かるが(といっても、イタリア青年とかなり突っかえ突っかえだったが)英語は分からない。ポンテ・ベッキオ次いでイタリア青年が聞いてきた質問は、ハンガリー経由で、
 「1人で旅行しているのか」というものだった。これだけ面倒臭いと世間話はやりとりされないはずだが、イタリア青年がおばさんに何事か教え込んでおり、その会話にダンテとフィレンツェという言葉がきこえたので、思わず
 「ダンテ!ポンテ・ベッキオ!ベアトリーチェ!」とさけぶと、青年は得たりとうなずき、また私に何事か話しかけてくる。それを奥さんが一生懸命聞き取って青年とやりとりし、その末了解したことをダンナさんに伝え、ダンナさんがエ−、では言いますぞ、といった感じで、
 「ダンテとベアトリーチェはサンタ・マリア・ノベーラ教会でも会ったそうです」と言ってくる。回りくどかったわりにはこちらの返事は、「あ、そう」だけで申し訳ない。
  そうこうしているうちに青銅の扉があき、中に入って天井から吊下げられたガリレオのランプを見る。ちっとやそっとでは揺れ動きそうもない大きな燭台を見て、なぜこれが揺れたんだろうと、そっちの方が気になった。
  ピサからジェノバ行きに乗る。ジェノバに近い東リベリア海岸は砂浜あり岩礁ありの典型的海水浴場地帯で、車窓から見る海水も澄んでおり、泳ぐんだったらここ、というような波打ち際がえんえんと続いていた。
  夜10時ミラノ駅に到着し、はげしい雷雨のなか、足早に行き交う人の群れにあって、僅々700リラ(350円)を握りしめて90番というバスを探す。 地下道におりる階段がドシャブリの雨で滝のようになっており、滑ってころんで尻餅をつく。リュアメリカ人カップルックを背負っていたので両手首と腰のあたりを痛打して、 空き腹をかかえて <落ち目> だな、と思う。やっと見つけて乗り込んだトロリーバスは落雷のために途中立ち往生し、11時すぎにユースに辿りつくと、 ベネツィアとフィレンツェでは後払いだったのにここは先払いで、金がないなら絶対にダメだと言う。部屋をまわって日本人を探してもおらず、 ダメというのはポーズでなく本当にダメと分かり、ガールフレンドとキスしおわったばかりのアメリカ青年に頼みこんで、千円の日本銀行券を1600リラと交換してもらう。 仕事に情熱を持っていない受付のまったく無愛想な男と差し違えるのも馬鹿馬鹿しい。
    
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