『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)
朝一番で東京銀行に行ったが、土曜日で休みであった。月曜日まで待たねばならぬ。やむなく御守りの1万円札を両替する。レートが少しあがっていて21,300リラもらい、その1,300リラが有難くみえたのは話が小さくなってきた。
サンタ・マリア・デレ・グラチエ教会へ行って、ダ・ピンチのフレスコ壁画「最後の晩餐」を見る。今次大戦で灰塵のなかに埋まってしまったためか、画集で見るよりも全体がくすんでみえる。感慨はあまりない。
午前中はこれだけでつぶれてしまい、昼休みになったので公園の芝生に寝そべって蟻と戯れ、仮眠する。
2時半になってスフォルシェスコ城を訪ね、ミケランジェロの、完成途中なるが故にいっそう意義深い「ロンダニーニのピエタ」をみる。そこからは老いてなお盛んといった感じの、エネルギッシュなピカソの晩年とはまったく異なった、孤老の静謐な精神性が伝わってくる。まったく突拍子もない連想だが、芭蕉もミケランジェロも、たがいに人物を交換しても共通の精神力をもって同じ仕事をなしえたに違いない、と思えてくる。偉大な人々には、もう彼でなければ、という当たり前の感想を通り越した、共通の気高い精神性のみが想われる。
次いで大聖堂に行く途中、アンブロジオ美術館へよってみたが、このようなガイドブックにも載っていない美術館で、思わぬ収穫があったときは嬉しい。そこでラファエロが描いた「アテネの学堂」のデッサン壁画を見る。色を使わずにカートンだけの粗いタッチだけに、とりすました完成品には見られない腕の確かさが読み取れる。またコピーではあるが、ダ・ピンチの工作メモも丹念に集められており、手鏡を持参していたので、彼の暗号めいたイタリア語の逆字を写してみる。
ゴシック様式ではイタリア最大、というミラノの大聖堂では、あまた林立する塔を伽藍に登って見下してみる。下からではとうてい見ることのできない死角の部分にも彫刻が施されてあり、このような規模の大きい教会を見るたびに、なぜバベルの塔だといけなくて、教会ならばいいのか、と思う。
美術館が日曜日で午前中しかやっていないので、朝食もとらずにブレラ絵画舘に駆けつける。残念なことにナントカのために三分の一しか部屋を公開していない。それでもグレコの「聖フランシスコ」とマンテーニャの「死せるキリスト」を見る。グレコの絵は、人物の上まぶたが垂れているのが多い。敬虔深そうに描くとそうなるのだろうか。マンテーニャの絵は、ダリの「湖上のキリスト」とともに、突拍子もない角度からキリストを扱っている。
自然科学博物館と近代美術館をザッと見てから公園で昼寝をする。暑さと食欲減退と倹約励行で全身だるく、このままではいけないなと思う。駅のプラットホームに行って1時間半、行き交う人の群れを見る。1時間半もいると固定客というか、単に通り過ぎるだけの人々の他に、行ったり来たりしている人や列車待ちの人や出迎えの人の顔を覚えてしまう。イタリア人の容姿や歩き方は子供は別にして、北欧に較べるとまるでなってない。
ユースが5時に開くまで、スペインの女の子2人とオランダ青年と道端にだらしなく寝そべって、話をする。女の子にオルテガと危篤状態のフランコ死後について聞いてみる。かなり進歩的な女の子たちだったが、外国旅行をする若者は多くそうなのかもしれない。
夕食をとっても何か満腹感をおぼえず、9時ごろからベッドで過ごす。
東京銀行へ行ってお金を受け取る。係が帳簿を調べているあいだ、届けられているかどうか緊張の一瞬であった。10万円が1,400フランス・フランと少しだけ、というのは感覚的になにか危なっかしい。それでもお金が手に入ったし、スイスは高地で気候もよさそうだし、この先フランスでの強行軍は思いやられるが、あとひと月なんとか頑張ろうと思う。
今日でスイス入りする。焦熱地獄のイタリアを出た列車は、1時間ぐらいではや、残雪を戴いた山岳地帯の谷あいを走っている。うだるような暑さだったのがどんどん涼しくなってきて、ちょっとした離れ業である。
スイスの国語は4つあり、駅のアナウンスもはじめはイタリア語、そのうちドイツ語、そして粋な車掌はフランス語という具合。チューリッヒの街はドイツ語圏で、かつて知ったる調子でソーセージを立ち食いし、スーパーで買い物をする。清潔な街なので、ゴミ芥が落ちているとかえって目につく。
リュックにしまっておいた上着を出して着込むが、体が変にほてって頭が痛く、体調が思わしくない。
朝起きてまだ頭が痛く、薬をのむ。駅に荷物を預けてから、チューリッヒ湖から流れ出る川を渡る。川は町中を通っていて流れが速く、きわめて澄んでおり、たくさんの魚がみえ、淀みに浮かぶ白鳥が水面下に首を突っこんでも何をしているのかがよく分かる。 チューリッヒが誇る大寺院は、町自体が小さいので今まで見てきたものに較べると小さな変哲もない教会で、そのうえカルビン派なので内部は殺風景そのものである。
美術館の入場料は高かったが、それに見合うものであった。ジャコメッティのひょろ長い彫刻よりも、「夜」や「アダムとイブ」といった絵画の方に気にいったものをみつける。
チューリッヒ工科大学も訪ねたかったが、全身だるく断念し、ベルンヘ向かう。 ベルンのユースでは話に聞いていたとおり、日本人が昼間からたむろして麻雀をしており、仲間にいれてもらう。半荘流してマイナー1、1/2フラン(55円)の支払いは妥当なところ。彼らは総計で15人ぐらいか、「キンちゃん」とか「プロフェッサー」とかあだ名で呼びあっており、ネックレスや腕輪、細工物を売って生活している針金師と呼ばれる彼らの生態はまさに一般論や抽象論にはもはや耳をかさず、身辺の情報にのみ耳ざといデラシネの男たちのそれであった。ツー・テン・ジャックの賭けトランプもやっており、ぜひ参加したかったが、疲労困憊して体がいうことをきかず、8時ごろから薬を飲んでベッドにもぐりデレデレする。
一つの国に公用語が3つ、ロマンシュ語を加えて国語が4つ、しかも永世中立国として成立存続している、というのは途方もない一大事業が行なわれているように思えてくる。加えてこの国の宗教事情は複雑であり、国民性は保守固陋である。直接民主制の形態が進歩的でも実験的でもなく、単に解決に必要な措置であるから、と分かる。一国の歴史を調べてみたくなったなどという好奇心は、学生時代の中国現代史以来久々のことである。
12時間寝床にいたためか、かなりサッパリしたが、それでも大事をとって今日1日、ユースの周辺でデレデレすることにする。今日は快晴なので、できればインターラーケンまで行って登山列車に乗り、ユングフラウやアイガーの威容を拝みたかったが、じっと我慢する。
午後から日本人がまた麻雀をはじめたので、本を借りて芝生に寝ころがって読む。それまで実用一点張りのガイドブックと、学習のための国語辞典と碁の本しか読んでなかったので、高木彬光の推理小説『密告者』は、充分すぎるほど読みごたえがあった。夜になって今度は『オール読物』を借りて読む。普段なら読みもしない雑誌だが、丹念に拾い読みして感動的な内容の小説すら発見したのは、やはり日本語にかつえていたためか。
ユースの周辺から一歩も出なかったのは、今日がはじめてである。
今朝も頭だけが痛い。風邪だとは思うが、自分の風邪の症状は、鼻水鼻づまりノドの痛みと決まっていて、頭痛発熱のタイプは珍しいのが気になる。1人でアフリカを1周してきた日本の女の子が、手持ち100ドルだけで今度はオーストラリアヘ行くという話を聞き、御身大事とばかり言っていられない。
今日はインターラーケンヘと向かう。スイス滞在を予定より延ばしたのは、ひとえにアルプスの山容を見たくなったためで、小さな首府ベルン(バーンと現代的に発音されている)は、駅とユースを往復しただけになる。
インターラーケンには昼間に着いてしまったので、夕方の受付開始時間まで湖畔で釣りをする。小枝を払って竿とし、ミミズを捕って餌としたが、肝心の魚がいないのが見てとれる。
この湖の周辺の景観は < 高潔 > の一語に尽きる。今まで絵画や絵葉書、写真などを通じて知りえた情景----たとえば中世の面影を残す港町の路地裏や、ゴッホの描くヒマワリやひょろ長い糸杉などに出会って、「ああ、本当なんだなあ」と本物を確かめてきたが、ここインターラーケンで感じとった<高潔>は、事前の知識では捉えられない人格的なものですらあった。今日は曇り日で、陽が射したり雨が降ったりの変わりやすい天候だったが、それでも澄み切った空気と涼しげなる湖面と対岸にそそりたつ岩壁は、湖畔のベンチまでまきこんで、天候にかかわりない貴族的な興趣を醸し出している。
ここで働いている男が、日本人そっくりなので話しかけたらマレーシア人で、あとで<
I am not a Japanase >を日本語でなんと言うか教えてくれ、と言われる。頻繁に間違えられるらしいが、確かに覚えた方がいいほど日本的な顔立ちをしていた。
ワインの研究をしているというベネツィアで会った男と再会し、その男が置いておいたリュックを車で運び去られて、急いでナンバーを控えてイタリア警察に行って、数日後に戻ってくるまでのなかなか埒の開かなかった苦労話を聞く。丹念に集めたワインの資料は全部捨て去られてしまったそうで、犯人の三人組の、荷物が捨ててあったから拾ったというイタリア人らしい弁解には、人ごとながら腹がたつ。
朝のうちは全天曇り空で、ときおり晴れ間もみえて、ユングフラウヨッホヘ行くか行かざるか、判断に迷う。結局、グリンデルワルトまでとりあえず登山電車で行って、様子をみる。各山塊の中腹から上が厚い雲でおおわれており、そのほかは雲量も少なくて陽が射している。高い料金を払ってヨッホまで行ってユングフラウの中腹にとびこみ、霧中に寒い思いをするよりも、反対側のフィルストまでリフトで登って雲が切れるのを待つことにする。
ここは黒部アルペン・ルートの数層倍のスケールである。これがスイスだな、と思う。これらの山容に対するにヨーデルまで昂まらざるをえない調子の高さが分かる。昼食が終わったころ、まずアイガーの頂上が雲間にあらわれた。フィルストからはアイガーの北壁と東壁の稜のあたりが右方面にくる。次にベッターホーンがみえたが、これは近いせいもあって雲にもあまり邪魔されず、山容を真近に捉えることができる。
頂上を見ていると、なにか持っている人間の、登頂したいという衝動が分かってくるように思う。あるいはキリマンジャロに凍死している豹である。これほど人の世を呑んでかかっている迫力を他に知らない。これは端的に1つの人格である。そうであればこそ孤高の人は登山技術を駆使して生命をかけ、あるいは<超人>の霊感を得て山を降りるのだろう。
大シベリアの水平方向に見遥かす限りない平らかさと、ひたすら人の世を突き放すべく垂直方向にそそり立つアルプスの高潔さと、これらを一つの精神に二つながら併せ呑むことができるならば、もはや精神が自然に屈服し、ひるむことも生じるまい。だが人間が精神であり、自己であり、さらに自然を併呑する勢力であると断ずるには、
この旅行中に自然がみせつけてきた最高形態は、いまだ至らぬ者の精神を動揺させるに充分であった。
ヨブが神に抗弁し、ボードレールが天使を弾劾告発したように山塊に対峙して、汝れは両親が兵隊に撃ち殺された男の涙を見ているのか、と詰問してみても、自然は天使的ほほえみをもってそこにただ、屹立しているだけである。
防寒コートを借りてリフトで降りる途中、アルプスとグリンデルワルドの町並みをひたすら見つめながら、狭量であってはならない、いいものを残さなければならないと心に言い続けているうちに、素晴らしいものをみた感動も手伝って胸が一杯になってきた。
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