『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)
今日は朝から雲もないすばらしい天気である。もう一度ユングフラウの山々を見たい気持ちもあったが、それを堪えてツェルマットヘ向かう。そこにはマッターホルンがそびえ立っている。
今日で横浜を出てから85日目だが、まだ飛行機を使ってないせいか、ジューヌ・ベルヌの 「80日間世界一周」の主人公を、すごいなあ、よくやったなあという気持ちで思い直せる。
ツェルマットの町は狭い谷あいにあり、自動車が乗り入れ禁止になっっているので、たくさんの馬車がタクシー代わりに闊歩している。
昼間に到着して夕方5時まで、ユース前に日本人の若いのがゾロッと芝生に寝そべり、歌を歌ったりして気勢をあげる。風邪気味で久しくシャワーを浴びなかったので、ここでのシャワーは爽快であった。
屋根裏部屋の窓から、闇に浮かぶ夜のマッターホルンをみる。
朝起きて部屋は暗かったが、これは窓が小さいからで、矩形の窓からは青空にくっきりとマッターホルンがみえた。
駅に荷物を置いてから、登山電車でゴルナグラートまで向かう。ユースの若い連中はそこまで7,8時間かけて往復しているが、私にはその気力がないので下りだけ歩くことにする。ゴルナグラートから望遠鏡でマッターホルンの頂上を見続ける。下りは女の子2人と一緒に降りることになり、彼女らから、今井みち子というアルピニストがアイガーや目の前のマッターホルンなど三大北壁を制覇したと聞く。石を拾ったり押し花をしたり、紺青色の池に映えるマッターホルンを撮ったり、「サウンド・オブ・ミュージック」の話をしたりで、降りるのに4時間もかかってしまったが、迂回しながらの下り道は、見上げるマッターホルンの山容も変えてくれ、降りるにしたがって山頂がますます先鋭にそびえ立っていくようにも感じられた。
今晩はシャモニーに泊まるつもりだったが、ジュネーブに予定を変えてその列車に乗り、満員の場合をおそれて列車内でさらに気持ちを変えて、片田舎のマルティニで下車し、そこのユースヘ行く。学校の地下がユースになっていた。食堂もシャワーもなくガランとしたユースで、さいわい台所があったので久しぶりにスパゲッティ・ラーメンを作る。
ここはもうフランス語圏内で、女主人は英語はもちろん、スイス最大の公用語であるドイツ語も解さない。テレビ放送などどうなってるのだろうか。
ユングフラウ、マッターホルン、モンブランのアルプス三山を巡るのにユーレイル・パスが効かず、かなりの出費となる。ためにモンブランの基地シャモニまでヒッチで行こうと思ったが、いざやろうとすると、気恥ずかしくてどうもいけない。道端に坐り込んで中途半端な角度を向いてタバコを1本吸って、結局試みは終わった。
これがあったがために、絶好のシャモ二行の登山電車を乗り逃がし、遅れ遅れの各駅停車で昼過ぎに着く。車内でアルプス登山にきたという日本人青年とあい、その心意気に感嘆する。日本にいたときからスイスの山岳地図を取り寄せて詳細に研究しており、車中より山の名前をいろいろ教わる。マルティニに戻る最終電車6時25分を確かめてから、シディまでのロープウェイの切符を買うが、たいへんな混みようで、乗れたのは7回目に函が降りてきたときであった。しかのみならず、さきほどまでは雲もさほど目立たなかったのに、突然四方、白乳色の霧に包まれ、まったく視界がきかなくなり、何しにきたのか分からなくなってガックリし、最頂上のエレベーターに乗る気も失せて直ちに戻ろうとすると、シャモニーに戻る人はこの階段を登れ、という合図。それは面妖な、と思いつつもハッと氷解したことは、戻る人の長蛇の列が延々と続いて建物の最上階に達し、そこで折り返してまさに一巡せんとしているのではないかということ。只でさえ混んでいるところに視界がきかなくなって、帰りを急ぐ客がドッと並んだのだ。馬鹿みたいにひたすら立って待たされる経験はベネツィア以来で、最終電車にも間にあわぬこと必至で、怒り、絶望し、生理的にも精神衛生的にも最悪となりかけたが、客のほとんどはこの事態を一種の冗談として受け止めており、係員たちもこの事態に張り合いをもって楽しくてきぱきと処理しているので気が紛れ、さいわい電車にも間に合ったので、こういう日もあるさ、ということで締めくくる。
スイスでは日本人の家族連れなども見かけて、いよよバカンス突入の感深く、いわゆる行楽地は騒然としてきたようだ。
マルティニまでの最終電車は、墨絵的な深山幽谷とはまたことなった、夕闇立ち込める断崖絶壁を縫って降りていく。
スイスは見るべきものなしとして、3日間で通り抜ける予定でいたが、何より涼しいし、こちらに来てアルプスの名山を巡りたくなったので、10日間の滞在となった。ふたたび焦熱地獄のイタリアに戻るつもりはないし、ニースからは満員の連絡があり、マルセイユからは返答がなかったので、明日のリヨン泊でふたたび当初のスケジュール通りに戻る。
マルティニは何もない所だが、もう1泊することに決め、ローザンヌヘ行く。そこは思ったより大きい町なので失望し、湖岸の通りに出ると、たまたま観光船の発着所があり、モントルーのシオン城まで船で行くことにする。久々にユーレイル・パスがオールマイティとして効く。レマン湖は晴れているが、あいにくもやがかかって遠景は見えない。
シオン城は、見えた瞬間、あ、帰ろうと思ったぐらい小さな城だったが、死角を探ったり、排煙口の大きさをみたり、便所からの侵入の不可なるを知ったり、寝室から側壁へ抜ける脱出通路を通ったりして内部をじっくりみて回ると、小さな城ゆえかえって愛着が湧いてきた。城というよりも城舘にふさわしく、このぐらいの規模だと買い取るために下見に来た、ぐらいの心根がふさわしい。地下ボニバールの牢獄のバイロンの落書が嬉しい。
各国でとうもろこし畑を見る。はやく実がならないかと思う。真っ先に食べるだけの心の用意がある。(後記。結局店頭に並ぶのを一度も見なかったが、とうもろこしが飼料用だとはまったく思いつかなかった。)
スパゲッティ・ラーメン類を食べてから、夕方、腹ごなしにマルティニ唯一の目玉商品である、バチア城まで登る。昨夜イルミネーションに照らし出された古城をみて登ろうと思っていたが、扉に鍵がかかっていて説明もなく、公開されていない廃虚だと分かった。さいわい銃眼の一部が崩れていたので、よじ登ってそこから内部に入る。塔の見張り台まで螺旋状の石段が続いているので、持参の懐中電燈をたよりに、また落ちている煙草の吸殻を味方に登るが、外は明るいとはいえ、中は真っ暗だし、もう午後の7時半なのでいい気持ちはしなかった。
寝ころがって空を見上げると、無数の燕が天高く舞っている。糞の1つでも落ちてこないかと思ったが、落ちてこない。無数にみえても顔に糞がかかる確率は稀少なのか、あるいはおやすみ前の糞をしない時間帯なのか、実際にかかったら嫌だなと思う。
城があるぐらいだから、ここからの見晴らしは絶好である。下の幹線道路にガソリン・スタンドがあって、そのそばでヒッチ・ハイカーが1人、車を止めようと合図している。丘の上から彼の一挙手一投足を観察する。人の好意を旅行の手段にするのは正道でない、という気持ちだったが、あまり車が素通りするので、片足をブラブラさせたり、リュックを背負ったりおろしたり、橋の方まで移動してみたりしている。<無力さ>がさらけだされている。結局ガソリン・スタンドに止まった車と交渉して乗っていったが、惨めだとか恥ずかしいとか、あるいは口惜しいとか言ってる間はまだ1人前のヒッチ・ハイカーとはいえないと言うから、これは別の世界なのかも知れない。彼らは移動にかなりの勢力を削がれるとはいえ、実際に旅行しているし、食事を御馳走になったとか泊めてもらったとかいう思い出を大切にして、日本に帰って車を運転しててヒッチハイカーがいたら絶対に乗せてやる、という言葉からも、その世界特有のしみじみしたものがあるようだ。
丘を降りる途中、何気なく葉っぱをつかんだら蜂か毒虫に刺された。小便をつけても痛むので酸性の毒ではないとみた。
ジュネーブで途中下車し、世界一という大噴水をみる。世界一ならなんでも見たいが、これは消防署のデモンストレーションを思わせる大噴水ならぬ大放水である。角度によっては落下する水しか見えないので、真昼の空中魔術ショーともいえる。
世界に冠たるスイス銀行のきわめつけを写真に撮ろうと思ったが、あまりに近代的な商業銀行が多すぎて、それらしい風格をもった銀行が見当たらない。
美術館が午後2時からなので、宗教改革記念碑をみてから、大噴水のそばで泳ぐ。水中メガネを使うも淡水湖はやはり単調である。稚魚を7匹手ですくい捕ったが、処置に困って公園の小さな噴水に放す。
美術歴史博物館では、ギロチンとエジプトの壊れていない完全なミイラ一体が光っていた。
ジュネーブからリヨンヘ行く列車では、きのう日本から来たという家族連れと一緒になり、両切りのピースを7箱もらう。たくさん持ってきすぎたというので有り難く受け取る。
リヨンのユースは郊外にあって、団地を抜け、工場の引っ込み線を伝って到達する。近道をしたせいだ。荷物を背負ってのユース探しがいちばん辛い。
夏の夜空にひときわ目立つはずのサソリ座がみえないのは、緯度が高いせいか。
今日はリヨンからパリを経由してルーアンまで高跳びする。途中、迂回して支線に入り、ヌベールのサン・ジルダール修道院に聖女ベルナデッタの遺骸を拝むつもりであったが、時間的に無理なので断念する。
ヨーロッパのあちこちの都市で、壁などにスプレーのペンキで吹きつけた丸Aのサインをみかける。聞いてみるとアナキズムを標榜しているのだという。<丸A>にしても<Z>にしても、政治的効果は別にして、思想なりイズムを丸ごと表わすのほど無思想な話はない。
北欧は英語がよく通じたし、ドイツ語圈は心配がなく、イタリアは観光地だけ回ったので問題はなかったが、これからのフランスの地方都市巡りはかなり不安である。言葉が通じない場合には、最高の状況判断が要求される。時刻表や値段表を瞬時にそれと認めて読み取る力や、駅からバスの発着所らしき方へ流れる人を観る力、歩くほどに街の中心から離れていく雰囲気を臭ぎとる力、理解した1つ2つの単語を最大限に拡大解釈する能力など、与えられた情報、環境、状況をこねくりまわして効率的に最高のものを抽き出していく一種の知的ゲームであり、ゲームに敗れた場合は肉体的疲労と思わぬ出費が控えている。
リヨンでは、ふたたび美術館の昼休みを恨みながら急ぎ足で見てまわったが、グレコの「捕えられたキリスト」にきわめて強く惹かれた。キリストの絵はそれこそ浴びせかけられるほど観てきたが、あのように表現されたキリストの眼を他に知らない。画家自身がため息をつき、涙を浮かべながら描いたはずの、万感をこめたまなざしであり、まわりの野卑な群衆との通常のコントラストを越え去った、限りない神格性すらキャンバスから発せられている。このような
<創られたもの> でなく、<語りかけてくるもの> を表現する芸術家はおそろしく思う。
この美術館では、他に、名を知らぬ甘いロマン派の一連の作品が気にいった。<チルチルミチル>みたいな主人公が天使や魔女と不思議な旅をする一連の絵物語である。このような作品は絵葉書にもなってないし、あいにく写真にも撮れないほど部屋を暗くして効果をねらっている。
スイスの山岳地帯からジュネーブに入ったときにまた暑さを感じとり、このリヨン〜パリ間の急行列車はうだるような暑さの中を走っている。ここは一等車だからまだゆとりがあるが、人々でごったがえしているはずの二等車はさぞかしと思われる。小学校6年のときに、鹿児島から8月の末か9月のはじめ、超満員の急行列車に乗ってデッキに立ち尽くしたまま、母と私は人いきれとむし暑さに耐え切れなくなって広島で途中下車し、兄だけが頑張って横須賀の自宅まで帰ったことがある。もちろん新幹線も冷房車もない頃だ。このような理不尽で不手際な満員や行列の状態には不合理なるがゆえに無性に腹がたつが、いつの頃からか、そのような状態の真只中にはまった場合、「はい並んで並んで、押さないで」などと銃剣で突かれながら、折り目正しくガス室に運ばれ、殺されていったユダヤの群れ人を想起するようになった。高校時代、毎朝ラッシュにもまれながら、満員電車で通勤するような人間には決して決してならないと誓ったことも、そのような羽目に陥らぬようにするためだったかも知れぬ。
パリ・リヨン駅からルーアン方面へ行くサン・ラザール駅まで、地図も持たずに大都会パリをもっとも要領よく行ってみようと思ったが、駅間バスみたいなのがあって、それに乗って苦もなく運ばれてしまった。だいたいパリの都心部を南から北へと縦断したはずだが、混んだバス中央なかほどに立ったままなので、車と人の洪水しかみえず、セーヌ川に水が流れているのかどうかも分からぬまま、レーニンの封印列車なみに<花の都>を突き抜けてしまった。バスからみた第一印象では人の住む所ではない。
リヨンのユースには北ベトナム生まれの男がいて、ルーアンヘ向かうこのコンパートメントにはアルジェリアの男がいる。ともに元フランスが統治していた所だけに、英語はダメだがフランス語にはあかるい。北ベトナム生まれの男がなぜフランスにいるのか、彼は共産主義者なのか、サイゴン陥落をどうみるのか、いろいろ聞きたいが言葉が適わない。しかもこちらが北ベトナムの首府の名前を失念してしまっているので、会話を進めるのもためらわれた。またアルジェリアの男には、「アルジェの戦い」という映画をみた、という意思が
やっと通じたが、1958年の反乱は彼にとって原体験のはずで、それを映画でみた、などと臆面もなく言うところに、いい意味でも悪い意味でも現在の我々のもつ政治的無風状態、無色中立ぶりが暴露される。カナダやオーストラリアの若者もあけっぴろげで無思想・無防備に歩いているが、日本人の老若男女も遥かヨーロッパまで臆面もなく来て無やみに矮小な体躯を目立たせている。
あと3週間でヨーロッパ旅行の第一段階が終わる。簡単に振り返るならば、やはり一度は来なければならなかった所だ、と満足している。
ルーアンの美術館は写真撮影禁止なので、生々しいカメラ・バッグを開けてみせて書類しか入ってないことを確認してもらい、どうしても撮りたいものがあれば、書類の下に隠れているポケット・カメラで盗み撮りする。ここではベルグソンのポートレートがあったので1枚撮る。仕方がない。
美術館裏の骨董収集博物館は、1人のパリ貴族が集めた錠前や鍵、裁縫道具など、銑鉄中心の小細工物が展示されていて、似た趣味故ルパンもどきの心境になる。
サン・トゥ・アン教会はジャンヌ・ダルクが異端審問で焚刑を宣告された所で、今は聖堂内にチャペルが設けられている。異端であることと聖女であることが、同じ権威から発せられているのなら、好い加減なこと甚だしい。生きながら火あぶりにするその殺し方を通じて聖女になれるとするならば、恐ろしいことこの上ない。この発想法はしかもさほど珍しいことでもなく、魔女の疑いのある者は真偽など分かりようがないから、とにかく殺せ、もし間違っているなら神が哀れんで天国へ行くだろうし、本当に魔女なら火あぶりという贖罪を手伝ってあげたのだから、それこそ儲けものである、という考え方が異端審問を支配していた。この発想法は高所にたてば確かに理に適っていて、複雑な物事を一刀両断に平易簡明にする魅力を備えており、魅力的であればあるほど、極めて悪魔的発想法でもある。まったき自由に対して、権威や秩序で束縛されることにも束縛することにも同時に妖しく魅入られるのが、人間の置かれている綱渡り的存在様式であろう。
ジャンヌ・ダルク博物館では、アンデルセン博物館におけるキルケゴールのごとく、ジル・ド・レイ侯に関する何かを期待していた。1429年、17歳のジャンヌ・ダルクに依託された軍隊の指揮をとったのが、若干25歳のジル・ド・レイ元帥であった。富と勇気と決断力と、稀にみる軍事的才能をもって奔走した彼は、ジャンヌ・ダルクの栄光と悲惨の蔭に隠れてやがて人生の目標を失い、悪の化身となり、小児殺戮にあけくれるようになる。博物館では彼の印章が展示されてあるに留まったが、そこで幼きイエズスの聖テレジアがジャンヌ・ダルクに扮装している写真を見て驚いた。中学生の頃、彼女の自伝の扉に写真があったのを見た記憶があるが、あらためて「聖人」とはこういう顔をしているのか、とつくづく眺める。
時間があまったので古代美術館へも足をのばしたあと、ルーアンからカンヘ向かう。列車内は殺人的に暑い。冷房はおろか扇風機も取りつけられてない。カンの駅頭で一緒になった30歳のアメリカ女性とユースヘ行く。彼女も明日モン・サン・ミッシェルを訪れるのだという。アンケートを実施すると名前と年齢がすぐばれるから助かる。