『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年5月3日(土)

お見送り 横浜・大桟橋より出航する。前夜より見送りのために我が家に泊り込んだ生徒と徹夜で麻雀をしたので、かなりもうろうとして結果的には有効な鎮静剤となった。三十人を越える人に波止場まで見送りに来てもらい、どうしてよいか分からず、甲板上に投げられたテープを丹念に拾い集めて志に応える。船が動き出す頃、雨がまた降り出して一瞬心細くなったが、送迎デッキの三十人が厚い壁となって渡航の事実を決定づけ、私の弱気を笑いながら拒否する励ましとなっている。
 相部屋のつもりだった船室はさいわい個室と分かり、安心して一時間ぐらい熟睡し、起きたところで、置かれた状況を把握する < これはなんだろう > 行動に移る。スピーカーだろうと思ったものがやはりスピーカーで、音量を上げるとモスクワ放送の英語版が流れてきた。一日のメイ・デーのニュースに今さらなるディナーは7時からほどと思う。聞こえる分には米軍の極東放送< FEN > と大差ない。
 7時までとろとろ眠るが、7時になっても放送がないので食堂へ出かけるともう閉まっていた。後で分かったことだが、熟睡中に時計を一時間早める放送があったらしい。事情が通じて片隅で食餌をもらう格好で、海草と水とパンを食べる。<パン>そのものと、本当の <水> そのもの。
 ・・・割り切ってはみたが、こうして外国旅行最初の晩餐が始まった。

1975年5月4日(日)

 7時前にきわめて快適に目覚める。後甲板に出て一服する。船は朝霧を突いてしきりに霧笛を鳴らす。ひとつ上の甲板で早起きの老人が体操をしていたので、こちらもくわえ煙草ながら体を動かす。<今日は喰うぞ> と思う。
 8時半の朝食に真っ先に馳せ参ずる。同じテーブルの三人は日本人で、一人は東欧から南北ヨーロッパを通り、南米に渡るという中島青年で、二人連れの女の子の方は、イタリア・スペインに1ヶ月間遊ぶという。話題はやはりこれから先の情報交換が中心になる。女の子たちが船酔い模様なので、その分も腹いっぱい食べて幸福な気持ちになる。
 その一人が碁を知っているというので、サロンで星目碁を二局打つ。その後オランダの中年とチェスをやり、きわどいながらこれにも勝つ。外人が中押し負けとなって自分のキングを倒すときのムッとした形相は、かつて経験ずみながらやはりヒヤッとする。夕食後、ハイライトがあるとどうしてもそれを喫うので、ソ連の煙草を買ってみる。
 今日は一日中雨模様で、天気図を見ると中国大陸からの低気圧が日本海を東北東に進んでいる。太平洋側は白い波頭もそう目立たなかったが、午後六時すぎにバイカル号が日本海に入ったので、ベッドに横臥すると昨夜よりも揺れが大きく感じられる。夜半過ぎてうねりはいっそうひどくなり、洗面台に張った水がこぼれ、机上の小物が床にばら撒かれ、椅子が右に左に移動し、ベッドのカーテンがカーテン・レールを走る。
イメージ このベッドは船腹に足を向ける方向に取り付けられているので、リズミカルなローリングに胃袋がシーソーと化し、加えてふかふかのマットレスなので、 エレベーターが動く時と止まる時の、あの羽化登仙と楽園失墜を繰り返す。個室の気楽さから、椅子を持ち出してベッドから足を出して船首に向けて船体と平行に寝てみると、今度はピストンに連結したクランクのような円運動となり、先のシーソー+エレベーターよりはしのぎやすくなる。どちらにしても映画の二重撮りのように、まどろみつつある体内をくり抜いて波打ち際が移ってき、ザブン、ドドーンをくり返している。船乗りだった父が退職金で不動産を買ったのも宜なる哉だ。

1975年5月5日(月)  

 悪夢の夜がすぎて朝食に集まったのは乗客の半分もいなかった。ローリングは午前中一杯続き、食卓のナイフ、フォークも見事に滑り落ちて壮快。オランダ人とのチェスの方は、今日はこちらの緩手をつけこまれて完敗する。
 便箋からふと顔をあげて午後3時20分、いつのまに見えていたのか、船窓から遼々たるユーラシア大陸東端の崖っぷちに、今はじめての他国ロシアをみる。ナホトカ港湾港
 船を降りて、ナホトカの港町に厚手の服を着込んで家路を急ぐ人々、< 太平洋 > という名の駅頭、七時過ぎて陽はまだ落ちず、冷たい空気に白い駅舎が映えている。率直にいって、まわりがロシアばかりとはなんとスリリングな話だろう。
ナホトカ〜ハバロフスク ハバロフスク行き一等客室は、商用帰りらしいハンガリー人と一緒になった。船中で知り合った二人の女の子たちほとんどは、みな四人部屋のツーリスト・クラスで船室も私の方が上室だったので、一目置かれる。もっともその分、危なっかし気な女の子の面倒をみてあげていると自分では思う。


1975年5月6日(火)

 6時にベッドを抜け出し飽かず景色をながめて悦にいる。ハンガリー人とは「ア」「オッ」の関係で、別れる時は、「じゃあ」で済んだ。
ハバロフスク駅頭 ハバロフスクの駅前広場にしゃがんでいると、ロシアの青年が近寄ってきて、私の服を3ル−ブルで買いたいと言う。換算すると3ルーブルは馬鹿にしている。
 「私は日本で12ルーブルで買った」と言って物別れになる。
 13時15分、ハバロフスクからのモスクワ行き大シベリア鉄道列車が動き出した。ナホトカ〜モスクワ間はシベリ助教授ア横断鉄道で162時間かかる。モスクワヘ向かう列車は1日25時間で、すれ違うナホトカ行きが1日23時間という鉄道、これはロマンである。
 一等車室の相客は、先ほど昼食をともにしたアメリカに住むオランダ籍の大学助教授で、彼は図書館学を専攻し、日蘭交渉史を研究する学者であり、三度目の来日の帰りという。この、ユーバートという物静かな学者とこの先1週間、寝起きをともにすることになる。女の子たち、少なくなった同胞は車両の違う四人部屋で、日本人は私を含めて5人となる。どうやらシベリアを鉄道で横断しようというグループは、インツーリストの計らいでナホトカ航路の食卓から一緒になるように決められていたらしい。中島青年
 南米に行く中島青年(←)は一見フィリピン人ふうで、極端に外向的であり和製英語を使って意思を図っている。女の子たちは辞書片手にロシア語を一生懸命勉強しているが、ロシア語ぐらいに英語が危なく、外国人たちから、
 「ボーイフレンドがいなければヨーロッパで必ずトラブルを起こすであろう」と折紙をつけられている。それでも、
 「私たちどうなるんだろう、どうなるんだろう」などと言いながらシャアシャアとしている。
 「中島モ女ノ子タチモ、日本人ニハ珍シイ性格デハアリマセンカ」と助教授が私に言う。彼女ら2人だけイルクーツクで途中下車し、飛行機でモスクワヘ飛ぶというのも面白い。
 助教授と遊びにきた中島とコンパートメントで話していると、ロシア人の酔っ払いが2人突然闖入してきて、ドアを締め鍵をかけた。怒鳴るようにロシア語を喋り続けて一瞬度胆を抜かれたが、悪意のないのが分かって中島と2人であしらいはじめる。持参の日ソ会話が少しばかり役に立つが、向こうは対話する誠意をみせずに一方的に喋り続けるので話にならない。ウオッカを1瓶持っていて「飲め」というので飲む。1度は飲みたい火酒だったので、願ってもないので飲む。そのうちの1人が私の黒髪がすばらしいと言って(そう言ったに違いない)突然私を引き寄せ、ほかならぬわがみどりの黒髪に接吻したのは唖然の一瞬であった。うんざりした助教授が私たちを夕食に誘って、その場を逃れる。
 夜半、火酒で頭痛がする。

1975年5月7日(水)

 食堂車では献立票を見て注文するのだが、私たち15,6人のグループはいまだに注文したものと出された現実とが一致しない。
 たくさんのロシア人の中に私たちのグループは孤立マーレイした島のようになり、必然的に親密度が増す。花札やチェス、そろばん、折り紙、カードととlこかく何かがあればそれが活躍する。カナダの新妻とやったチェスは楽勝だったが、オーストラリアの少年に習った< 殺人者 >というカードには1勝3敗で負ける。この、一人旅をしている19才のマーレイというのは、中年夫婦にも適当に話しかけるような気持ちのいい青年である。
 車窓から見る大自然の様は、とにかく < あるがままにある > と私に教える。あるいは、ただ< あるからある > という無意味さ、無定見を。また、これだけあってしかも何もない、ということを。四方見遥かすところ、人の手が加わっているのは足元の鉄路だけであり、「存在」を考えるには広がりすぎている広がりようである。

1975年5月8日(木)

  夜中の3時半に助教授に起こされて、
 「どうやらバイカル湖がみえる」といわれる。どうやらも何も真っ暗でよくわからないが、凝視す女教師ると目の前いっぱいにぼんやりと白く広がるのがそれらしい。やがてかわたれの微妙な光のなかに、凍結した湖バイカルを見た。
 今日もチェスの話になるが、風邪をひいているアメリカの女教師(←)(鼻ばかりかんでいるので「おはなはん )には楽勝----この小学校教師と一緒にいると、踊ったり、接吻したり、笑いころげたりということが実に簡単にできそうな気分になる。そのおはなはんに私が < ホーチミン > と呼ばれているのが、助教授から聞いてわかる。一対一。折り鶴
 昼食後、外人連中の若いのを集めて折り紙を講義すると、
 「学校で教わったのか」と聞かれる。悔しいことに私は船中で覚えたツルしか知らなかったが、マーレイは他に二つ三つ知っていてお株をとられた。
 夜になって願わくば、と思っていたことが実現し、チェス王国ロシアの水兵と一戦交えることになった。前半は向こうが気を緩めていたために優勢だったが、彼もすぐ非を悟ってジリジリと追い上げ、ついにこちらがビショップとポーン1つ、向こうがポーン2つ残したまま引き分けとなった。食後もう1回やることにしたが、向こうに用ができて流局。再戦したら完敗したと思う。

1975年5月9日(金)

 白樺林の中に小道が延々と続いていて、何が通るのだろうと思ってずっと見ていると、やっと犬が1匹、列車を横目に見ながら < 通ってるョ > という感じのトロットで走っていく。今度はどこへ行くのだろうと気になって、またずっと見ていたが、見飽きるまで家らしい家に出会わなかった。
チェス相手の水兵さん 食堂車にはいつも助教授と行くが、昼食の席で偶然昨夜のロシアの水兵(←)と、彼の連れらしい年配のモンゴル系の人が前の席に坐り、チェスの再戦を約束したが、そのモンゴル系の年寄りが突然、
 「あなたは日本の方ですか」と聞いてきた。驚いて、
 「日本語を話すのですか」と尋ねると、彼は
 「三十年前に覚えました。懐かしいです。私は朝鮮人です」と一気に言った。瞬間、私は五味川純平の『人間の条件』を思い出した。私の口をついて出た言葉は、
 「昔、いやな、思い出、ありましたか」だった。彼は情ないような照れているような顔をして、笑いながら、
 「ひどい、でした」と言った。そのとき私はかつて戦争というドラマがあったのを実感した。
 そのあと若い水兵と絵を描きながら意思疏通を図っているあいだ、私は彼の横の年老いた朝鮮人からずっと注視され続けているのを感じとっていた。二回ぐらい目をあわせると、懐かしむような、慈しむような目に出会った。それで私は、終戦による立場の逆転というドラマもあったのを知った。別れる時彼が申し訳なさそうに、
 「昔のこと、もう日本語、だいぶ忘れました」というので、私は「忘れた方がいい」と言い、その出過ぎた言葉をすぐ後悔した。
 今になって思えばこの出会いは偶然でなく、作られたものだろう。昨夜、水兵が一日本人とチェスをやったという話を聞いて、機会を作ったのだろう。最初に話された一気呵成の日本語は、準備されていたに違いない。そうでなければどうしてノボシビルスク近辺出身の若いロシア人水兵と、朝鮮北部か満州から流れて東部ロシアに住みついた朝鮮人とのあいだに、関係を見いだすことができるだろうか。
xxx周年 今日は5月9日、ソビエトがナチス・ドイツに勝った戦勝記念日で、駅にも < 1945-1975 > と「30」の入った作り物が数多くみられて、私と同様、戦争を知らない若い水兵が誇らし気にそれを説明したのであった。
 その水兵と三局たて続けにチェスをやって、いづれもリザインを強いられた。彼は身振りで < 防御しないでただ攻撃あるのみ > と示すので、将棋を図解して、< 陣形を整えてから攻撃するのが日本のチェスのセオリーなのだ >NZ婦人 と伝えてみるが、こう負けるのでは説得力に欠ける。暇な女教師がいちいち、
 「勝った?負けた?」と見にくるので、
 「あなたのような弱いのとやりたい」と言ってみる。
ピンキー ロシア人が少しずつ拙ない英単語を思い出すので、だいぶ意思が通じあい、助教授やニュージーランド婦人(→)も加わって < 政治と哲学は提携しあうものか > とか、< なぜ同じ共産圏でたとえば中国と争うのか > といった、一度は聞いてみたい問題を論じあうが、それらはおたがいに腹ふくるる業であったに違いない。水兵はピンキーとキラーズの「恋の季節」と、三島由紀夫の切腹事件を知っていた。また彼が誇らし気に、
 「私は唯物論者だがあなた達はどうか」といちいち尋ね、それぞれから強く否定されて心外な顔をするのが哀れにもみえた。
 ひなびた停車場に日米の貨車が止まっていて、助教授とニ人して感激する。彼は新幹線に心酔していて、なにかにつけ今乗っている東ドイツ製のこの列車と比較する。
 ここらへん一帯は一面の冬景色で、底冷えを感じさせる湿った雪が大地にこびりついている。

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