『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1976年2月14日(土)

現役SL 朝、シャワーを浴びる(湯は、朝しか出さないというので)。習慣に外れたことなので、体調の変化が心配。パキスタン・ルピーが足りなくなったので、銀行ヘミニ・タクで往復してから、駅の学割事務所に駆けつける。12時半発の列車で、事務の終わったのが12時半。心中呪いながら出札窓口に向かうと、結局列車は40分ぐらい遅れて発車。ディーゼル機関である。カラチまで860キロ、21時間。学割が効いたとはいえ、ニ等車で700円とは恐るべき安さである。
 インダス文明の遺跡モヘンジョ・ダロには、真夜中ごろ通過なので、途中下車を断念。遺跡訪問に対する情熱を失っている。バーミヤン(アフガニスタン)もタクシラ、ハラッパ(パキスタン)も訪れることができなかったが、過去のものでしかない、という気持ちが生じている。
貴公子然のヒトコブラクダ 雨の中を農耕ラクダが活躍している。ラクダは貴公子を装う村夫子。雨の日は長靴が履けるから好きだ、という同級生がいたな。駅近くで列車が徐行すると、待ち受けた子供の物売りが乗ってくる。草で編んだ籠に入ったナッツを、申し訳ないような値段で買う。私は外国人だから結構優遇されて、そこに甘えることができる。切符売り場や物売りがたいへんな混雑ぶりでも、相手がこちらを外人と認めると、まずその直後に私に番が回ってくる。航空会社や空港では外人だらけで通じない。
 デッキの方が居心地がいいので、便所のそばに陣どっていたが、便所管理人みたいに、
 「空いてます」「あ、いま人が入ってます」とやってるうち、とうとうたくさんのパキスタン人に来い来い、といわれて座席をあてがわれる。注視を浴びながら窮屈に畏まってるのは疲れるから、久々に折り鶴を一発やって、早々と寝袋の講釈をしたあと、床に寝そべる。真夜中ドッと人が増えたので、デッキにいなくてよかった。<身動きできない> というが、なんとか身動きを勝ち取る闘争を始める。暑いのにラクダの上下を着込んだまま寝袋に入ったので、ジットリ汗ばむが、時すでに遅く、儘ならない。

1976年2月15日(日)

. 朝方、東の空に夏のサソリ座を見たが、緯度的に(北緯25度)ありえる話か。昨日の風景はいつも通り、ショボショボいらくさが生えているだけの不毛の荒野と岩山だけだったが、南に下るに従い、樹木の生い茂っている緑濃い景色となった。これは実にエジプトのナイル河沿い以来である。砂漠は拒否感を与えるが、植物はきわめて近く親しみ易い存在である。緑とはかくも新鮮な色か!
 カラチは初夏であった。夏休みがやってくるような、入道雲を期待するような、あの開放感がジワジワ湧き起こってくる初夏である。シリアの首都ダマスカスからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンのカラチまで陸路を16日間でやってきた。80日間世界一周も夢ではない。
駅〜YMCA YMCAに居を定める。駅からここまでメーターを下ろさないまま来たので、タクシーの運転手が15ルピーとふっかけてくる。さんざんメーターを動かせ、といったのに聞こえないふりをするから、こちらも払うつもりは毛頭ない。運転手を待たせておいてYMCAの青年に、駅からここまでタクシーで幾らか、と聞くと、3ルピーぐらいだと言うので、彼に掛けあってもらう。現地のことは利害を持たぬ現地の人に任せるに限る。結局5ルピーで手を打った。
 YMCAは下手なホテルよりいい設備である。それでもやはりトイレット・ペーパーはついてない。こちらの習慣に従い、水で拭き取る。ヌルベチョッとしたその感触。YMCAに遊びにきている子供が部屋に来た。この国は禁酒国なのでブランデーをふるまうと、瓶ごと持って出ていき、戻ってきたら全部飲んでしまった、という。ま、いいか。
 外に出て中華料理屋をみつける。ロンドン以来である。しかし麺も飯も残念ながら納得できる代物ではない。映画『風とともに去りぬ』をみようとしたら、すでに満員であった。華々しく<5週連続>と書いてある。満席だから見せないのと、立ち見でも入場させるのと、どちらが良心的だろう。中華料理と映画で、久々に都市らしい都市に接したが、国境の村チャーマンとの文化ガラベィア(婦人用)的格差はすさまじい。
 昨日の朝シャワーを浴びたのと、寝袋の中で異常に暑苦しい夜を送ったので、喉が腫れ痛み、ガラベィアに着替えて早々寝る。

1976年2月16日(月)

 夜のあいだ中、本格的な喉の痛み、蚊の来襲で悩まされ、しかのみならず遂に下痢も併発して心細かった。朝のうちに薬局で痰切りドロップを買い、日航でボンベイ行きを予約し、うまい具合にオフィスの戸棚から「文芸春秋」や単行本を借りることができたので、早速戻って療養生活----「文春」なんかを心ゆくまでゆっくり読めれば、ここがカイロでもカラチでも構わない。栄養を摂るためフラフラしながら中華料理屋へ往復し、またベッドに臥す。

1976年2月17日(火)

 喉が潰れて、声を出そうにもほとんど発声できなくなったので、キャリアのサウジアラビア航空事務所での再確認は、筆談によった。日航へ行って本をまた4冊借り、あとは昨日とまったく同じ。下痢のほうは少しよくなったか。医者なしで入院しているようなものである。異国にあれば一人こうして病床にいるのも、それなりの意義がある。

1976年2月18日(水)

 声のほうはささやくように声帯を絞るので、我ながら凄みがある。痰の切れないしつこい咳は、肉体構造的に吐かすでもない嘔吐感を催すに至る。水を飲むも唾を飲むも、ゴクンとやれば痛むことに変わりはない,
 サウジアラビア航空午後5時発ボンベイ行きに乗る。空港の待合室で給仕の一人が「日本人か」と確かめてから、一月ぐらい前の『週刊朝日』をくれた。誰かが置き忘れたものらしいが、こういう好意は初めてなので、ラッキーを喜ぶ。
蛇行・干潟・デルタ 上空から見るカラチの東一帯は、広大な潟と蛇行している水路が続いて、今までに見ない光景であった。機内で入国カードに記入していると、うしろの席の文盲のお婆さんが、書いてくれ、といってパスポートともども渡してよこす。インド国籍だから公用語の14の言語のどれかを使うのだろうが、搭乗地点や今日までの滞在地などは確かめようもない。
 空港の税関でリュックの店開きをやらされる。前知識はあったが、陸路で出入りしていた国々でさえほとんど見なかったのだから、国際空港で派手にやることもあるまいに。飛行場から市内まで25キロもあって、今までで一番長い距離。途中、近代的高層ビルが続き、しっかりした店舗も多く、ここではじめて路上生活者群を見る。こればかりはどこの国でも見かけなかった。壮観である。歩道やビルの軒下に新聞か布を敷いて、薄い毛布を1枚かけてズラリ寝ている。犬なども一緒。これで寒いのなら可哀相だが、騒音と蚊とホコリを気にしなければ、夜でもムンムン暑いのだから(それでも2月だからまだ凌ぎやすいのだろう)、扇風機でもない限り、風通しのない建物内部で寝るほうが気違いじみているのか----しかし、こういった現象をどう捉えるかなどと考えるのもメンドーになっている。とんでもない解釈や、間違いだらけの皮相的な認識、一人よがりの了見が怖いからともいえる。
 訪ねたYMCAが満員で、教わった近辺のホテル群も軒並み満員、異様な風体の西洋ヒッピーがゴロゴロしている。彼らの天国、ゴアでの祭り事がすんで流れてきたためらしい。彼ら、中途半端でなにも構えていない感じをみせる安易な人たちよ。客引きに従いさらに移動するも、風邪で汗だくで重いリュックを背負って、「まだ先か、本当に空いてるのか」とだいぶ脅迫的になっていた。ゲストハウスに宿が決まってコーラを飲み干すと、すぐ渇きが襲った。

1976年2月19日(木)

 ボンベイ最高級とうたわれる近くのタジ・マハール・ホテルヘ、フラフラしながら両替を頼みに行く。泊まり客でないと駄目だ、と言われたが、病気でダウン寸前だと哀れみを乞うと、両替してくれて励ましてもくれた。カイロのヒルトン・ホテルに似て、町中の雰囲気を遠く離れて冷房も効いており、なんと落ち着くことか。東京やロンドンのヒルトンなら、入るのにも躊躇とさり気なさが必要だろうに、カイロやボンベイならば同じ設備でも入るとホッとする、その底にあるいやらしさよ。
 朝食に頼んだパンとオムレツが全然喉を通らなかったので、両替の帰り、ブドウやリンゴ、ビスケットなどを買う。房から落ちたブドウの粒が天秤の皿の上に十粒ぐらい。それをもらおうと手を出す二人の子ども。♪ ピカポン、ピカポン、ポンピカポン
 ----アジアに入って以来、ギラギラした気力、意欲が失われている。あと何十日、大過なくやっていこう、などという釈放間近い禁固刑の囚人心理か。これもまた旅情のバリエーション、<充実> の一つなのである。今日もベッドでゴロ寝の一日。朝、食い残したパンが微妙に動くと思ったら、小さな鼠がいるので、ビスケットの破片をばら撒いておく。

1976年2月20日(金)

 鼠を甘やかしたのはいけなかった。天井裏ならぬ床の上で、二匹の子鼠が運動会。隅に沿って走るべきを円形にグルグル競走するなんて習性慣れしていないのか。ついにはベッドの上まで登ってくる。他には動作の鈍い白いゴキブリとアリの行列。
インド門とタージ国際ホテル だいぶ体調が戻ったが、暑いのでどうしても水物ばかり摂ってしまう。いつまでもベッドでゴロゴロしていると病人癖がつくので、インド門脇からポンポン船に乗ってエレファンタ島へ行く。水、黄銅色にて汚なし。この島は国立公園に指定されていて、気根を垂らしたバニアンなど熱帯性植物が生い茂り、種々の鳥が鳴き、野生のサルがいる。ガイドにはヒンズー教の密院のことしか書いてないが、サルを相手にしている方がよほど面白い。目を見開き、眉を上下させるのは威嚇行為だと知った。エサをやりながらその仕草をしてみせると、サルはひどく狼狽し、戸惑う。
 町に戻ると、躄やカッタイの乞食がいるが、暑さでボウッとしているし、正常人間の方が圧倒的に多いので一緒くた扱いにしてしまう。町は簡単なサンダル履きかゴム草履がほとんどで、次いで裸足とステータス・シンボルの革靴履きとなる。私はスリッパを履く。夏物の用意が全然なかったので、コットンのTシャツを買う。
 夜は中華料理屋で栄養をつけて、正常復帰宣言。パリ以来久々にビールまで飲んで勇み足。禁酒国だからえらく高かった。

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