『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日

1976年2月7日(土)

パーレビ国王一家 近代化を急いでいるテヘランには、大きなデパートもあり、郵便局もしっかりしている大きな街なので、たまった資料を航空便で送る。近代化を急ぐ、とは、例えてみればモダンな建物はあるが、車通りとのあいだがぬかるんでいるということか。大都市を一歩出れば、昔ながら、ということでもある。小学生の頃に車窓から見た、中国地方の土蔵や生子壁、藁ぶきの屋根に、おぼろ気ながら <文化のずれ> を実感したことと相通じる。
 長髪を残して、2時半のメシェッド行きに速石君と乗る。長距離だから、どうしても車内で夜を過ごすことになる。同じメシェッドヘ行くフランス人青年フィリッポと、猫をつれたドイツ人4人で行動する。行程900キロ、約18時間、夜行バスはこれで5度目。頃合を見計らって床にビニールを敷いて、寝袋でゴロ寝する。汚さに耐えるか眠気に耐えるかで、汚さを選んだ。

1976年2月8日(日)

アジア・ハイウェイ一号線 真っ直ぐ伸びた道路を、バスは東へ東へとひた走る。空が白み雲が焼けて、太陽が顔を出し、夜明けとなる。「ツァラトストラかく語りき」の導入---暁光
 朝8時半メシェッド着、そのまま4人、タクシーでアフガニスタン領事館へ。6ドルの現なま支払いは痛い。正午すぎ発給なので、チャイハナで粘っていると、親切なイラン人青年が行動をともにしてくれて、領事館へ戻ってから安ホテルを紹介し、さらに安食堂とバザールヘと案内する。掌(パート)夕方一睡してから、バザールに出かけ、ポールの先端につける手の甲の形をした代物を買う。そのあと父がイラン人、母が蒙古人という青年の案内で、茶を喫する。サークラインの蛍光灯が大量輸入されたらしく、あちこちの町の商店街に氾濫しているが、笠のほうは出回っていないので、裸のまま天井から吊下がっている。びっくりするほど小さな子供が、町角でスープの一杯売りをしていたり、床屋で大人の髪をあたっていたりする。
 徴兵を忌避して奉仕活動に従事し、再度アフガニスタンヘハッシシを喫いに行くという猫連れドイツ人から大麻の効能を諄々と教わる。

1976年2月9日(月)

 朝7時、4人で国境行きバスに乗る。その発着所で、日本人三人組に会う。マドリッドから一緒、というから独立心のない人たちである。
ゴミため場 イラン側国境事務所にガラス・ケースがあって、ハッシシを隠匿しておいた鏡やラジエター、パイ缶、リュックのアルミ・パイプ、靴、タイヤ、石鹸、チョコレート、バッテリーなどが展示されてある。英・仏・独・米、カナダ、デンマーク、日本など、各国1人ずつ見本のように捕まっている。隠す方も見つける方も、たいした努力である。私たちは何も見られなかったが、アフガニスタンから出国する、アメリカの男女4人組の乗ったスポーツカー(フォードのコプラ)は、解体されんばかりに徹底的に調べられていた。
 国境事務所は砂漠の真ん中、風が強く、動作ののろいフナムシみたいなのがたくさん地をうごめいている。
消え入りそうな乗り物 アフガニスタンの国境の集落イスラムカラーから、ヘラートまでミニ・バス、地に這いつくばらんばかりに、荷と人間を満載したバスが、東へ東へと転がっていくと、ヒコーキなどという利器は化け物のように思われてくる。
 アフガニスタンには4つの村(行政上は都市)しかない。その第三の村ヘラートに夜着いたが、灯火管制とはこういうものか、というぐらいの町の暗さ。薪を燃やしてシャワーを浴びる。ドイツ人がさっそくハッシシを買ってきたので、4人一室にこもって試みる。まぜた煙草がパキスタンの「K2」という辛い煙草だったためか、何も感じない。

1976年2月10日(火)

荒野の礼拝 町唯一の銀行は、中に入るとガランとしていて、カウンターの向こう側に机とタイプライターが二つ三つあるぐらい。昼食はお座敷レストランで(畳とじゅうたんの違いである)。午後はホテルで、私の買った小さい方の水煙管を使って、再度ハッシシを試みる。要するに睡眠薬をかがされるようなもので、あの寝しなの眠りに惹き込まれる時の快感が、周期的に訪れるようなものなので、ベッドに戻ってウトウトしながら、小学校のときピンタをはられたのが、生きるうえで意外に大きな後遺症になっているのかも知れない、とか、「たまらない」とは一番わいせつな言葉だろう、とか、フィリッポが部屋に入ってきて、8時半からまた喫おう、といってきたのを夢うつつに応答したり、起きてからガイドブックを借りて写すのと、アフガン・コートの店屋にセーターを持っていくのを忘れないようにと、それらのことを思い出し思い出ししながら熟睡した。
 夕方目覚めてスッキリし、ドイツ人の部屋でまた喫ってみる。フロイトやランボー、ボードレールの本を置き、蝋燭を点けたりガソリンを燃やしたり、鏡を持ち出したりの小道具は、雰囲気作りに役立つのだろうが、習慣性があるもないも、想像していた快感が得られないので焦り気味である。ハッシシ、ハッシシと騒ぐからには、小学校6年の時、おできの手術で全身麻酔をされたときの、あの未だなお再経験していない、神経網をジーンと伝わっていく痺れるような快感以上のものが味わえると思っていたのに、こんども眠くなるばかりなので、速石君と夕食をとりにまたお座敷レストランヘ行く。夜はチタールと壷の半分に皮をかぶせた太鼓で、歌と演奏をサービスしてくれた。
アフガン第三の都市ヘラート 昨日も今日も停電があった。ガイドブックには蝋燭を持参するように、とある。電力が弱くて、光が消え入りそうになったりする。町には街灯がない。信号もない。20燭光ぐらいの電球が所々についている。時おり不釣合いな蛍光灯や、石油を圧縮ガスにして燃やすランプの明るさが、だだっ広い道路を横切り、歩く人の長い影を作る。水の都ベニスが、他とまったく趣を異にした街作りだとすれば、ヘラートは陽が落ちるにしたがい暗くなる、ということで、一昔を再現させている町である。
 イランからアフガニスタンに入って、なにかがガタンと落ちたような感じを受ける。

1976年2月11日(水)

 夜は夜でまた熟睡できた。私のセーターとアフガン・コートの交換がうまくいかない。うまく行ったらうまくいき過ぎるので、やはり無理である。ドイツ人はアフガン衣装と総入れ替えしてしまって、少しハッシシにやられている気がある。この町で300円食べる、というのはたいへんな豪遊である。300円で一日生活できる。快食快便だが、二日酔いのようなだるさがある。
 昼2時、ドイツ人を残して三人で出発、カンダハールへ向かう。  時おり小雨が降っている。アフガニスタンの年間総雨量250ミリ、エカフェの援助によるアジア・ハイウェイ一号線は、あたりと不釣合いな完全舗装で非常によいのだが、バスが中古で非常に悪い。新しいバスは料金が高いが、早く着く。かつて衣笠駅から平作まで<五十鈴>と<フソウ>と<日野>の京急バスが走っていた。ほとんど<フソウ>だったが、ときたま乗る<五十鈴>は、トラックみたいに前部が出ている中古でうんざりし、<日野>は新車で張り切って乗った。今から思えば、自力復興の国産バスで頑張っていたのだなと思う。
 夕食は部落の茶飲み場で、土間に敷いた埃だらけのゴザに坐って食べたが、食器を拭いている真っ黒な布巾(正確には雑巾)を見ると、食欲を失う。
荒野の向こうの山並み カンダハールまで新車で9時間、中古で11時間のはずだったが、アルプスにも比肩するような山並みを見、夕食を済ませて平坦な道路に入ってから、2,3キロ走っては止まる故障がいくども続き、この国では珍しいのに、私の席は止まるたびに溜まった雨が天井からジャバジャバ落ちてくる。速石君はトルコこのかた、不平や文句、悪口、呪いを並べるが、4年間ヨーロッパにいた感覚(エルサレムはたいへんな近代都市である)から発せられるので、聞きづらい。文句を言うために中近東・アジアを通っているわけでなく、彼らも好き好んで故障続きの払い下げバスを使っているのではない。悪戦苦闘の運転手と車掌を一服させてねぎらう乗客、これがありうべき、そして実際にあった光景である。
 車中でもハッシシを喫ったり、パンに巻いて飲み込んだりしたが、眠くなるばかり。雨で月は出ていないが、地平線の広がりようは見てとれる。夜の底は黒い。どこまでも続く地平線は航海を思わせる。山は島。ヘラート〜カンダハール間などは、シルクロード全行程からみれば、安全無類な大通りほどのものだったのだろうか。

1976年2月12日(木)

 日数的に、アフガニスタンの首都カブールへ北上してから、パキスタンを南下するというゆとりがなくなったため、正午前、カブールからインドへ向かう速石君とフィリッポに別れを告げ、ひとり直接パキスタンへ向かう。  カンダハールから国境の村スピンボルダードまでのガタガタ・バスは、昨日の雨でぬかるんだ道がそのまま再現された床に、板張りの長椅子、大人も子どももしゃがみ込んで和気藹々の世間話。カラテを知らない子どもたち、である。ここで再度スナッフを試みる。粉末の香辛料を指の腹に置いて、鼻の穴にフッと入れるが、立て続けにくしゃみし、乗客おおいに笑う。
アフガン〜パキスタン 陸路の国境越えはこれで最後。通訳と称するジイさんがまといついて親切にしてくれる。国境からパキスタン側の村里チャーマンまでは、三輪車のミニ・タクシー。トルコ以来、国境越えのたびに時差が縮まる。イルミネーションと装飾で派手に飾り立てた長距離輸送トラックが流行っているが、アフガニスタンのトラックやバスも、前部を風呂屋のペンキ絵なみに負けず劣らず飾り立てている。
 チャーマンの入国移民管理局(正確には小屋)の青年は人懐こくて、遊びに来ていた彼の友人マジッド・ロディ君(ロディは彼の属しているカースト名)ともども、チャーマンに一泊していけと言う。上司がいないから見せてあげる、と言って、重宗房子
 「見た顔があるか」と書類を持ち出したが、重宗房子をはじめとする日本赤軍の錚々たるブラックリストであった。インターポールは津々浦々、辺境の地に及ぶ。
 ちょっとした町クエタまでの最終バスに乗り込んだが、乗客が私一人なので取りやめになり、降ろされる。その気持ちは分からないでもないので、また移民管理小屋に行くと、二人は喜ぶ。マジッドは銀行員で、父親は判事。たくさんの旅行者が自分の家に泊まっていく、という。ガイドにはパキスタン北方は治安が悪く、危険である、とある。彼の後について路地をまわった時、無用心かなと思ったが、家に入って彼の両親や兄妹に会った時、これは大丈夫と思った。判事というからには上流階級だろうが、土間に布のじゅうたんを敷いて、いっぽうが流し、片隅に炉、棚に食器一列、広げた風呂敷に平たいパンが三枚、石油コンロでグツグツ煮た辛子入りのジャガイモ(これは唯一のおかずであった)。
 ----英語を話す父親は、日本の鉄道網や食べ物、給料を聞いてジャパン、ジャパンと駭嘆する。シンカンセンは承知していたが、それが15分おきに出発している過密ぶりに絶句する。ナショナルの旧大型ラジオが一台、マジッドの部屋にはハイスクールやカレッジ、大学の卒業証書と、自分の家族・親類の写真が飾ってある。蒐集しているという外国コインと家族のアルバム、逗留していった旅行者のビザ用写真(3,40人ぐらい)と絵葉書類、私も写真をあげてサイン帖に一筆、さらに日本人は私が最初なので、後続の人たちのために <この人は安全です> という客引き用保証書を書いてあげる。明日の朝、家族の写真を撮りましょう、というと大喜びする。旅行者を泊めるのは、刺激のない国境の村に生きるインテリ青年の慰めか。チェスを知っている、というと目を輝かし、彼の案内で友達の家へ行く。6,7人たむろしていて、農村の若衆宿の感じ。彼らの言葉はパシュトー語である。使い古しのチェス盤で二勝二敗の結果。
 マジッドの家に戻り、寝袋に入って寝る。この寝袋はまったくの必需品で、トルコ以来、宿の毛布やシーツは不潔の代名詞である。ちょっと小奇麗なグンゴー(イスタンブール)でさえ、気を許した速石君が寝袋なしで寝て虫に食われている。

1976年2月13日(金)

 朝、マジッド一家の写真を撮る。必ず送ってくれるよう何度も念を押される。ライターとマッチ2箱を交換する。
 クエタまでは100キロぐらいの道のりだが、草木ひとつない崩れやすい山を越えていくあいだ、4箇所で軍か警察か自警団の検問を受けた。時たますれ違う車を見て、久々に <車は左、人は右> の国になったのを知る。イギリス植民地時代の名残り。ロンドンの横断歩道に必ず矢印と、右を見ろ、のペンキ書きがあり、そのときは親切だなと思ったが、なんのことはない、人と違うことをやっているから面倒が増えているだけのことだったのだ。
 バスを降りて、小型三輪のミニ・タクシーで鉄道駅に駆けつけると、一日一本のカラチ行きはやはり出た後。今朝8時に目覚めたとき、なんとなく乗り遅れる予感があった。
 駅近くの高級ホテルに宿をとる。高級の規定は25ルピー(750円)という値段の高さによる。ストーブも扇風機もシャワーもトイレも、テーブルも椅子も、さらに化粧部屋すらもあって、それらが残念ながらクエタ市街全体に錆びて、旧式で剥がれシミつき、綻んでいてうす汚い。
 町に出ると、かつては欧米あたりでパノラマ・カーなどと喧伝されたであろう、足許までガラス張りの観光専用バスが、現地人を乗せて黒い煙を吐きながら市内を走っている。ヨーロッパではれっきとした <観光客> であった自分が、アジアでは <旅行者> となっている。その差を見る旅か。
 部屋は13号室、日記をつけようとしたら13日の金曜日。普段ならなんとも思わないのに嫌になる。夜は切ない夢を見た。今なら責任をとれるのに、と思うと、時機を得なかったことが悔やまれる。

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