『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日

1976年1月31日(土)

 朝一番でイラク大使館へ行くと、偉そうな人からビザ発給に20日間かかるといわれた。今日出立のバグダッド行きチケットを見せると、そのバス会社の係員にこちらへ電話するよう、と言われる。それでイラク入国を完全に断念して、直接イランヘ行くことにし、念のためにイラン大使館を探す。イラクの大使館員はまったくでたらめな場所を教えてくれて、イラン・イラク両国関係は領土問題でこじれているからな、と勘ぐる。(※ 1980年9月、イラン・イラク戦争勃発)  ここら辺は高級大使館街なので、十数ヶ国の国旗があちこちの建物にはためいている。やっと捜し当てたイラン大使館では、ビザは要りません、と言われる。今こそコスモポリタニズムの立ち上がるとき。
 その後シリア航空で、テヘラン行きのいちばん早い便が明後日と知り、これ以上待機するのはもう我慢できないし、また70ドル払うのは適わないから、ビザ不要のトルコまで北上し、そこからイランヘ東進する陸路を択ることに決め、バス会社でアレッポ行きを予約し(満席だったが1つだけキャンセルがあって命拾い)、返す刀でバス会社ネイルから10シリア・ポンド(3200円)を取り返すという獅子奮迅の活躍ぶり、しかしここら辺、空回りの感がしないでもない。心の準備がなかったが、思いもかけず今日からパキスタンのカラチまで、乗り継ぎ乗り継ぎの陸路の旅に立つことになった。
古都アレッポ アレッポはトルコとの国境近く、歴史的な交通の要衝で、現在もなお栄えている大きな街である。すなわち長安を発したシルク・ロードが、クテシフォン(バグダッド脇)を経て、チグリス川沿いlこ、メソポタミアを通ってローマ帝国の東方中心地アンチオキアに達せんとするとき、その13キロ手前のここアレッポの地で、南方のペトラ、ダマスカス、パルミラ・ルートを経てきたアラビア・エジプトの文化と合流するのである。
 そのアレッポのインフォメーショシの女性は、優しくて親切であった。トルコ経由でイランヘ抜けるのなら、鉄道でなくやはりバスがよかろうとのこと。
 「ヨーロッパヘは?」
 「終った」
 「帰り道ネ」
 「そう、アジアを通って----難しいと思う」
 「そんなことないワ」
 ----なにか物足りなかったな。ホテルの部屋にシャワーがついていて、ふんだんにお湯を使って洗濯に勤しむ。コッヘルの便い初め、久々にインスタント・コーヒーを味わう。

1976年2月1日(日)

 ホテルと道路を隔てた博物館へ。説明書きが、アラビア語と英語だったり、フランス語だったり、ドイツ語だったり、つまり各国発掘調査隊の故である。ヒッタイトのヒエログラフの碑文がある。目の部分だけ違う石をはめ込んだアル・ハッサケ(メソポタミア北方)出土の彫像は、マーフィと関係あるのだろうか。博物館を出て、世界最大の(と、市作成のガイド・マップに書いてあるところの)シタデル(城塞)に登るが、カルカッソンヌの方がちっと大きいのではないか。両替所でシリア・ポンドからトルコ・リラヘの交換を頼んだが、受け入れられ.ない。これを称して、行きはよいよい帰りは怖い。思案にくれたが、小さな店屋の汚いガラス・ケースの中に小鉢がたくさんあって、コインが一杯詰まっている。もしやと思ったらやはり私設両替屋で、こちらの計算よりいい率で交換してくれた。
シリアから雪の舞い散るトルコへ アレッポより乗り合いタクシーで、アザスなる村を経て国境通過、どんな片田舎へ連れていかれても、人がいて日が照っている限りはのんびりできる。静かな村道に国境地帯、遮断機にバリケード、警備隊。税関で待たされたが、ザッと済ませて(丁寧にみられたら、バナナとオレンジを没収されるところだった)、カラテをやっているトルコ青年の道案内で、なつかしいミニ・バスに乗車、超アンティック・カーでタイヤがついていたかどうか。キリスなる大きな村まで行って、そこからさらにインタップというちょっとした町まで行く。ここでやっと一級国道に出る次第。なんとなく結構運ばれていく。インタップからエルズラムまで走って、そこからテヘランヘの直通バスを捕まえるつもりだったが、ドイツ語で話しかけてくる親切な兵隊アルティンタス君の話だと、豪雪で通行不能であり、アダナ経由でカイセリまで行って(カイセリは2週間前に通った所)、そこからエルズラムヘ行くのがいい、という。 それで取り合えずアダナまでの切符を買う。アンカラからイスタンブールヘ帰ったときの車中にも、兵役を終えて故郷へ帰るという、同じ21歳のドイツで働いていた青年が話しかけてきた。歴史は繰り返す。アルティンタス君から トルコ軍の配給タバコを一箱もらったが、ぐさぐさのスースーで、ポケットに入れておいたら葉っぱが半分こぼれだしていた。
 粘着力の強い飴をかんでいたら、歯の銀冠が外れてしまったので嵌め直す。
 バス・ガレージの安宿で一泊。

1976年2月2日(月)

 カイセリまで行こうとしたら、ここからエルズラムへの便があるという。ルートを聞いたら、昨日通行不能と言われた道路である。ちゃんとチェーンを巻くか、と聞けば、大丈夫、と言って懐中時計の鎖を見せる。これすべて地図と図解による会話。夜6時半出発、明日の昼2時半着という( しかしこれは客を逃がさないための簡単な嘘で、実際は8時半出発であった)。それならば、と銀行で両替しようとすると、もっと大きな銀行を紹介してくれて、そこへ行くといちばん大きい銀行を教えてくれた。そこで旅行小切手を現金化、インフォメーションを教えてもらって、モスク内部
 「この街アダナの見所は?」 と聞くと、
 「ローマ時代の橋とモスク
 ----で、それを見るとすることがなくなったので、バスの事務所で机を借りて日記を清書し、ときどき好奇心でうずうずしているトルコの人たちの相手をする。皮膚の色は彼らと同じである。カラテの話の出ない土地はひとつもない。カン・フーはワン・キューと呼ばれている。50ぐらいに見える年配の男が、実は4つ上の31歳と知って言葉を失う。黒ずんだ手、刻まれた皺----
 いちばん後ろの席を予約しておいたので、なんとか横になれた。

1976年2月3日(火)

トルコ国内地図 朝5時半、アダナ〜エルズラムのちょうど真ん中のエルジヒ着。底冷えがする。ここでバスを乗り換える手はずだが、エルズラムヘの一級国道はやはり積雪で通行不能だという。それで二級道路を遠回りにムスなる村(行政上は県庁所在地、標高1500メートル)まで行って、そこから別の会社のバスでエルズラムまで行ってもらいたい、夕方には着くだろう、といわれる。地図で見ると、一級国道を遠く離れたムスなど、それこそ雪でかき消えてしまいそうな所にある。エルジヒのバス発着所
 エルジヒのバス発着所は、<なまり懐かし停車場の>といった感じで、渇いた雪がチラチラ舞っている。バスはすぐ雪の山中に入った。軍隊が雪壕を掘って、冬山演習をしている。中世の古城みたいなふざけたのもあったが、あれでいいのかな。田舎ではたびたびパキスタン人と間違えられる。トルコとパキスタンはお互い最恵国待遇でも結んでいるのか。
 ムスに昼すぎ着くと、エルズラム行きは明日の朝8時発だという。同じエルズラムヘ行くサンセル君が、そんな馬鹿な、と怒っていたから間違いないが、チェーンも全然巻かないしで、どうもアダナのバス会社にしてやられた感じだ。便意を催していたので、すぐホテルをとる。唐辛子をそのまま煮込んだような、もの凄く辛いのを昼に食べたので、下痢になるかもしれない。安食堂にはオガ屑が敷き詰めてある。後でサッと掃きとる仕掛け。

1976年2月4日(水)

雪中の黒山羊さん 下痢にはならずにすんだ。チャイハナで、夏のあいだ1人の日本人がここを通ったという話を聞く。日がな一日、また雪面とにらめっこ。アダナからエルズラムまで一緒のサンセル君が、朝も昼も食事をおごってくれる。ムスから8時間乗って、目的のエルズラム着。ここはイスタンブールとテヘランを結ぶ、大動脈の中間にある宿場町。標高二千メートル近く、新潟県の高田のような豪雪地帯だが、もちろん雪は山間部のほうが圧倒的に多い。
 日本人がいるのではないか、と思ったら、やはり同じ安宿にいた。東洋大で哲学をやってから、キブツを中心に外国をブラブラしている速石君と、東大文学部を詐称する長髪の針金師。別れるところまで同行することにする。彼らはイスタンブールからここまで鉄道で来たそうだが、3、4駅のあいだ、ずっと犬が一緒についてきたぐらいのスピードだったという。

1976年2月5日(木)

 朝、彼らと国境近くのドウバヤジットまで行く。  途中、雪の山岳地帯を抜け、一睡して目覚めたら雪のない平野部を走っていた。ドウバヤジットから国境事務所までミニ・バス。2人はエルズラムで国境までの料金を払ったはずだ、と怒るが、バス会社の客あしらいを知っているこちらはさほど怒れない。それよりも曇天で(晴れ間を望むのが無理だろうが)、ノアの方舟が漂着したというアララット山が、分厚い雲に覆われて麓しか見えないのが残念。
トルコ・イラン国境事務所の中庭 国境近く、殺風景な荒野に、長距離輸送トラックが延々数珠つなぎになって、国境通過を待っているのが壮観。これはイラン側も同じであった。ブルガリアやルーマニア、デンマークなどのトラックが見られる。シリア〜トルコの国境では緩衝地帯があって、鉄条網のあいだを50メートルぐらい歩かされたが、トルコ〜イランの国境では、同じ建物を二つに割って事務を執っている。トルコ時間3時20分が、イラン事務所に入ると4時50分、1時間半の時差である。
 バスの運転手が話しかけてきて、テヘラン行きの長距離バスに2人はホイホイ乗ったが、外国に長くいることと、旅行技術を身につけていることとは別である。この場合、相手の言い値にそのまま従ったので認識不足といえる。バス代を500リアル払ったが、実際は300が相場、と後で知って、貧乏な2人はガックリする。  実際この2人は、地図もガイドも持たない非能率な旅の仕方で、私の貸した唯一のガイドブックを、前のバスの中に置き忘れるという不手際さ。
 バーゼル大学でドイツ語を勉強しているという、隣席のインテリ・アフガン人から、このバスがダマスカス発テヘラン行きで、イラクを通れないからトルコを経由しているのだと聞く。私の試みとまったく同じことを、このバスはやっている。乗客はほとんどアフガン人とパキスタン人で、それに数人のイラン人がいるみたいだ、という。日用品を満載させて、出稼ぎの帰りとみた。インド・アーリア族とセム族と、私たちを含む蒙古族の混成部隊である。車内は、各自が毛布類を持ち込んで、何かすぐにでも生活を始めかねない混乱ぶり。家庭的といえばそうもいえるが、屋根には物置を3つ揃えたぐらいの荷物を積み込み、車内には洗面器やヤカンやミカン、オレンジ、木の実の皮がちりばめられ、痰をカーッ、ペッ!と床に吐く。子どもや風邪を引いている人が、紫煙の沼にむせている。文明とは洗練、野蛮とは無神経、ということか。
 暗いので外の景色は分からないが、イランに入って急に道がよくなった。アジア・ハイウェイ一号線である。

1976年2月6日(金)

 昼すぎテヘランに着く。ダマスカスで陸路伝いを決めてから、4泊5日であった。さらにカラチまで行かねばならぬ。途中、トルコの雪原や高地を通ったため、また鼻が痛み、鼻炎となる。牛乳は胃によく、雪は鼻に悪い。熱風熱砂の真夏の中近東・アジアなど、想像するだに鼻から逃げ出す。
 三人してアミール・カビール・ホテルに宿泊。ここはイスタンブールのホテル・グンゴーに似て、インドへ行くヨーロッパの若者が泊まって、情報を交換するところ。
 『テヘラン・ジャーナル』という英字新聞が、このホテルを記事にしていて、その切抜きがロビーに貼ってある。見出しは、
 <ただ通過するだけ----JUST PASSING THROUGH ----> そのとおりなので気の毒でもある。
 便所の落書に英語で、
 <知的国民ナンバー5、 @日本、Aフランス、Bドイツ、Cオランダ、Dインド----最後はアメリカ> とあるのを見る。一方グンゴーの便所には < Fuck you, Japanese ! >
 速石君より中東問題について詳しく聞く。この男、イスラエルに1年、ベルリンに2年、パリに1年いたという。田舎から上京した彼にとっては、東京で暮らすのも外国で暮らすのも感覚的に同じであり、自分の大学では就職不可能なので、日仏会館に通ってフランス語を勉強したのだという。

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