『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1976年2月21日(土)

 インド国内航空の会社が開くあいだ、二人のカッタイと一人の子どもの乞食に囲まれた。分け方が不均衡になってしまったので、カッタイ少年の缶から10パイサ取り上げ、、こどもの方にやり、逆にオーストラリア・コインをカッタイ少年からもらう。ライ病の乞食から貨幣をもらうなんて、あまりない話ではないか。パキスタン・コインの方は、持っていると警察に捕まるといって受け取りたがらない。これは他所の乞食少年もそうだった。
インド国産タバコのパッケージ さいわいデリー行きの今日の便が取れたので、アメリカン・エクスプレスで両替してから(冷房つきだったので、休息してから)、バスで空港へ向かう。海岸で泳いでいる人々。水がきれいでシャワーがあって、もう少し体力を戻していたら、私も泳いでいただろう。ところでこの先の海岸線で、本当に嬉しいものを見た。岸壁から300メートルほど沖に小さな島があって、そこまでの舗装道路が、完全に海面に覆われて、波が洗っているのである。この情景は、何回も夢で見たことがある。車を走らせていると、道路が大海原に続いていて、波の下にかろうじて道路が認められる程度に見えている。横波を食わないかとヒヤヒヤしながら、なんの目標もない海面を車を走らせるのは、(夢の中で)かなり不安なことであった。目撃した道路は、50メ−トル置きぐらいに外灯柱が立っていて、こどもたちが手前の方で、バチャバチャさせながら徒渉したり、水浴びをしている。プールよりも浅いが、波があるので、一歩踏み外せば奈落の底だ。島までの300メートルを歩いていく勇気はないとみた。しかしなんのために中途半端な役立たずの道路を作ったのだろう。設計ミスか、地盤沈下か、はたまた超大潮か軍事的理由か。
 She stood between order and chaos. ----ガンジー首相迎合ポスターの1つ。<秩序> 以外は <混乱> なのだから、その間といえどもやはり <混乱> であろう。都市部を取り巻く密集した掘立て小屋に溢れるこどもは、掃き溜に右往左往JAL 鶴丸するゴキブリに、絵としては似通っている。あちこちに産児制限奨励の大看板。野原が整地されて建物が建ち、引揚者寮が取り壊されて小奇麗な住宅群となる----私を取り巻く環境は、十年ぐらい(昭和25〜35年)でこの変化を見せている。その間にも私たち低所得者層の預かり知らぬところで、東京国際空港などがあって、世界のひのき舞台で日航がおずおず活躍していたのだろうか----裸足の子ども、飛び立つヒコーキを見送る。
 トルコで一緒だった竹沢君の郷里は、四国山脈の高知県側の山の中、物部村という名だたる過疎の僻村地帯で、かつてNHKの『現代の映像』で取り上げられたことがあるという。「20年目の疎開」とかいう題で、いわく、ここにいてもどうにもならないとする改革派の村長が、南米移住を皆に説いてまわる、というもの。演出家は悲壮に悲壮に、を心がけ、放映された日は、村の者は一杯機嫌でTVを囲み、
 「おお、やっちょる、やっちょる」とワイワイ騒ぎながら、
 「うまいもんだなあ」と感心していた由。
映画「大地のうた」 学生時代、サタジット・レイ監督のインド映画「大地のうた」を観たときは、撮影機材を通過していることに疑問を感じたが、それはそのままインド(バングラデシュ・パキスタンも)の都市部・農村部の格差であったのだ。物部村はヤラセの演技だったが、「大地のうた」は、同じ状況がいまだ果てしなく広がっている。
 インド国内航空でボンベイからデリーヘ。ボンベイからエローラ、アジャンタ、ゴアヘ行くつもりだったが、すべて断念。首都デリーヘ向かう。かなり長い飛行距離(1時間40分)だったが、国内線なので軽食しかでない。コンノート広場近くのホテルに宿をとる。

1976年2月22日(日)

フマユーン廟 快食快眠快便、健康体を味わう。カトマンズヘの便を予約してから、フマユーン廟へ行くと、 「土屋さん!」と声をかけられた。去年の5月にオスロで一緒になって、8月ドイツでライン下りをしたときにまた会った学生さん。今は三人で行動しているそうだが、そのうちの一人は私がローマで下宿していたとき、学生食堂で会って本を貸してあげた相手で、アジア行きを非常に不安がっていた男。アテネの国立博物館でかつてオスロで一緒だった男と再会した、と話したら、その男は今デリー市内にいる、という。カトマンズでいろんな人に再会するだろうと思っていたが、アジアを1本の大きな動脈が走っていて、トラベラーの即いたり離れたりしながら東へと流れているのが、目にみえるようである。日本に帰ったら、まずもう会えない人たちである。 聞いてみると私もそうだが、彼ももう浮き足だっている、という。見物する雰囲気なんぞまるでなく、<あと何日> と数えている、という。デリーから初めて家へ電話した、ともいう。住所不定で1年も動いているとそうなる。
 「毎日寝る場所が違うというのは、いいなあ」と言ってた男も、今はそうであろう。
 フマユーン廟も今更であり、建物に感動するには多くのものを見すぎてしまった。動物園へ入って時間をつぶす。入り□が分からなくてイライラしたが、こどもが鉄柵を乗り越えて入るので真似して入る。帰りにいくら得したかと入場料を見ると、大人18円、こどもが3、5円。白虎を見たが、あれは遠くから見るべきものだろう。近くで見ると、縞馬みたいに模様の残っている白熊の色をした虎である。
赤砦で踊る物乞い、投げられるコイン ラール・キラ(赤砦)を見る。アフガン人の出稼ぎが庭の手いれをし、昼休みに相撲をとっている。見合わないで、直接ガップリ四つから始めている。
 チャンドラ・チョウクを歩く。病原菌の巣窟。人がたくさんいるのでなんだろうと思うと、ただたくさんいるだけ----インド風景。
 夜は三人組の宿を訪問する。
 「いよいよですねえ」「帰れますねえ」「あとひと息ですねえ」

1976年2月23日(月)

 ビルマ大使館ヘビザ申請に行く。博物館は休み。爽やかな初夏の陽射し、広々とした道路、四つ辻の大きなロータリー、国会議事室からインド門にかけては永田町界隈よりゆったりしている。電信局から横浜へ電話をかける。日本語で<円也> と書くように、英語でも正式には数字を < TEN ONLY > などと書くのを知る。ここでイスタンブールのグンゴーで一緒だった臨済宗の雲水・後藤さんと再会し、インド風日本料理屋でスキヤキをともに食べる。自分の体で一番清潔な部分は現在肛門である(水で洗うから)とか、カイロのヒルトン・ホテルヘは便所を借りに毎日通ったとか、共通の話題にこと欠かぬ。
 三輪車でクトゥブ・ミナーレヘ行くと、久々にアテネ以来の日本人団体客と接したが、全員がなにか恐ろしいほど農村部的顔立ちをしている。
 「ああいう人たちが週刊誌持ってるんですよ」
 「あ、なるほど」
 「ハイライトなんか喫ってたりね」----そう雲水をけしかけると、彼はさっそく話しかけていき、結局デリー最高のアショカ・ホテルのロビーで週刊誌をもらうことになったが、この一団は「おまかせ」という愛知県の新興宗教巡礼団で、もと小学校教頭みたいな腹の出た教祖が、釈尊の生まれ変わりということである。古めかしい錆びない鉄柱に頭を打ちつけながら、怪しげな言葉を操り、陶酔から覚めて、
 「いま釈尊の言葉が私の口からそのまま出た」などと言っている。インドまで一緒についてくるぐらいだから皆さん熱心な信者で、教祖の言葉をテープに録音したりしている。どうしてこういう絶好のシャッター・チャンスの度にフィルムを切らしているのか、まったく情けない。
 ロビーで女性週刊誌2冊と「週刊新潮」をもらってから、イルミネーションでけばだたせた小屋がけの物産共振博覧会を覗く。漱石の小説によく出てくる明治時代の博覧会がこうだったか。インドのヘラクレスを名乗る男が、舞台で銀盆を手で2つに割いたりしている。
 夜は食堂で偶々会った建築家のとぼけた夫婦と雲水と、腹を抱えるような会話を楽しんだ。

1976年2月24日(火)

 ビルマ大使館でビザを貰ってから、博物館へ。ハリハラの彫刻や西域出土の「黙佑西土」と書かれた看板、17世紀ゴアの聖像など。明日のアグラ行き日帰り観光バス(早朝6時発)を予約してから、夜は私の部屋で、後藤雲水と村松建築家夫妻、早大生、それにアフガン人も一時加わって、人生を徹夜で論じ合った。雲水は花園大学を出てから4年間僧堂で只管打坐に励んだあと、跳び出している。何度目かの <隻手の音声> で破れかぶれに老師の頬を「こうだあッ!」とひっぱたくと、老師騒がず「そうかあッ!」と殴りかえして、この公案は通ったと言う。中国禅の気脈いまだ衰えず。

1976年2月25日(水)

未使用 !チケット 気がついたらもう朝の7時でバスに乗り遅れ、口惜しい思いをする。午前中いっぱい熟睡してから、航空会社でカトマンズ行きを1日ずらしてもらって、再度アグラ行き観光バスを予約する。乗り遅れた分のお金は戻ってこなかったが、タージ・マハールはやはり見ておきたい。
 午後ガンジー記念館へ行く。輩出した独立運動の志士や民族主義者を丹念に写真で追っている。ビビナカンダやタゴールもみえる。そして頂点に立つ高潔の人ガンジー。彼のきわめて質素な部屋から庭へと歩み出たガンジー最後の足跡が、点々と盛り上がった石膏によって保存されている。見た目には滑稽だが、いっぽう涙ぐんでもいいほど感動的でもある。夜はまた雲水と夫婦、早大生、それに電子工学と建築の学生に、20歳のアフガン人(日本への留学を目論んでいるハンサムな秀才、超エリートである)が私の部屋に集まって深夜12時頃まで歓談する。

1976年2月26日(木)

ピカソ「らくだ」 アグラ行き日帰り観光バスに乗る。早朝6時発夜10時帰着のフルタイムで1000円ちょっと。デリーでもみかけたが、地方の村に来るとたくさんの野良牛がいる。野良仕事の農耕牛ではない。のら猫、のら犬のたぐいの野良牛である。水牛や馬、ろば、ラクダは使役に就いている。イノシシみたいな野良豚もいる。リスや猿もいる。樹の上には十数羽の禿鷹がヌワッと停まっている。尾の長い奇麗な青い鳥がいる。土ぼこりと蝿の競合し、群れ舞うところに食べ物屋がある。バスは砦や廟、離宮にも案内してくれたが、やはり見るべきはタージ・マハールであった。
 案内人に付いて行くのを止めて芝生に寝ころがり、目をつぶる。横浜や静岡の日常的な町並み、バス停やタバコ屋、町の郵便局といった情景を思い浮かべて辟易したところで目をあけると、そこにタージ・マハールがある。また目をつぶって日常の澱の中に沈んで、<外国へでも行くか> と漠然と思って目をあけると、そこにタージ・マハールがある。この廟はそうでしか見られない形である。帰って静岡でまた生活が始まると、今度は目をつぶらなければ見られないのか、と思うとひとしきり強い想いに駆られる。
 食事に立ち寄ったどこかの町で、乞食の母娘にコインを全部渡すと、紙幣をくれ、とうるさくつきまとってきた。施しはビジネスなのだから更にねだるのは違法である。憤りを発して、
 「それなら返してくれ」と母親の缶を取り上げて、自分のコインを回収しようとすると、彼女は唖然としてから悪態をついて去って行った。

1976年2月27日(金)

 午前中インド国内航空でカトマンズヘ発つ。うまい具合に左側窓際に席が取れたので、800キロにわたるヒマラヤ山脈の全貌がみえた。禁を犯して写真を撮る。カトマンズの空港に降り立つと、ヒコー場は要するに広ければ足りるのだなと知った。
 春休みを利用してきたという、コドモみたいな大学生三人を従えてホテルをとってから、町を歩く。静かで人の動きがゆったりしていて、言われるところの <時間が止まったような> 穏やかな雰囲気である。釈迦族のシッダルタが仏陀となりえた素地をここに見る。人種は入り乱れているが、概して蒙古系が多く、ヨーロッパの若い連中も(金髪は避け難いが)なんとか溶け込んでいる。
 ふりさけみればインドを <東洋> と考えていたのは間違えていた。あの暑さと苛烈な生き方は、静謐さや深山幽谷、墨絵といったイメージに程遠い。インドを心のふるさと、東洋の始原とするには <東洋> に対する感覚の切り換えを必要とする。
 連れの大学生の一人は、15,6の時から東京でハッシシを喫っていたという。開眼するためドンドン喫ってみるが、やはり寝てしまうのがいちばん楽なので、そのまま熟睡する。発狂した偉人を皆は哀れむが、偉人の頭脳はなお明晰という小説の筋が浮かんだ。

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