『旅 行 記』  (1975年5月3日〜1976年3月20日

1976年1月10日(土)

 イラクの領事館へ行ったが、ホリデーだと言われた。こんな所で日本はよい、アメリカはダメ、などと言われると、だれに向かってお蔭さまで、とお礼申し上げればいいのか分からない。<敗戦国日本の高度成長の原因は何か> などという、思ってもみなかった大それた問題を時おり考えるようになった。外国へ行ったからといって、すぐ「日本は・・外国は・・」と大上段に話すのはよそう、と出発前に決めておいたが、戦争になったら喜んで武器をとろう、などという変な愛国心が芽生えつつある。
 KLMで、20日のカイロヘ発つ便を予約する。日本紹介の英語版パンフレットをもらって読む。
ネズミ男 午後ブルーモスクヘ行くと、ミコノス島で一緒になった芸大建築科の研究室にいる人と再会した。自分でデザインしたという毛布で作った服を着ているが、鬼太郎の乾分ネズミ男の着ている代物にそっくり。靴を脱いで、じゅうたんを踏みしめて正座すると、回教寺院でありながら、仏教のお寺さんにも似た安堵惑がある。モスクには、御神体や御本尊、御聖体といった核となるものがなく、偶像崇拝も行なわれない純粋な礼拝堂・集会場なので、ブルータイルやステンドグラスを見ると、まさにイエレバタン・サライイスラム文化は模様にあり、の感を強める。
 外へ出ると、裕福そうな2人の少年が、暇つぶしにローマ時代の地下貯水場へ案内してくれる。江利チエミの  ウシュクダラ はるばる訪ねてみれば〜 を歌ってみると果たして知っていて、一緒に歌った。「月の砂漠」と「青い目の人形」を別格とすれば、「枯葉」と「ウシュクダラ」と「上海帰りのリル」、これが私のエキゾチシズムを掻き立てた歌である。
 地下貯水場はこれから先、何かの拍子に夢のなかで見る舞台になるだろう。夢でよく大捕り物や活劇の際、鍾乳洞のような幾枝にも分かれた地下道に、曲がりくねった線路があって、怪しげな機関車が驀進する光景を見る。J・ベルヌの「地底探検」のような、子供の夢を満たすものがこの貯水場にはある。
 そのあと考古学博物館へ行く。トルコ語とフランス語のみの表記のせいか、エーゲ文明からヒッタイト、グレコ・ローマンまでの長大な歴史のせいか、さらにペルシャ、エジプト、地中海の地理的影響のせいか、焦点の定まらない見学であった。
 夜は旅行者の溜まり場、 ホテル・グンゴーで5人の日本人と情報を交換し、読み古しの「週刊現代」を借りる。

1976年1月11日(日)

東西の接点イスタンブールトルコ地図 小アジア・エーゲ海沿いのトロイ、ベルガモ、エフェソスの遺跡巡りに出発、ホテルにリュックを預けて、パンと水とサラミを買い、フェリーに乗ってアジア側ウシュクダラ地区の長距離バス・ターミナル <ハーレム・ガレージ> に行くと、チャナカレ行のバスは、ヨーロッパ側の <トプカピ・ガレージ> から出るという。地図を見ると、確かにヨーロッパ岸を走って、マルマレ湾の先をチャナカレに渡った方が近いので納得し、またアジアからヨーロッパにフェリーで渡る。そんなこんなで結構忙しい毎日を送っている。
 バスは昼1時にイスタンブールを出発、約6時間の行程である。各バス会社が乱立しているからか、飴やチャイ(紅茶)が出て、飲料水は只であった。
 なんとも茫漠とした景色、とりとめもない風景の中をバスは走る。要所要所の町外れには、必ず軍事施設がある。1つの部隊で国旗降納をしていたが、国旗に敬礼するとは、分かったようで分からなくて、その漠然としたところで納得できる。イスタンブール市内の1つの食堂には、<キプロス奪還> の檄が貼ってあった。
 男たちが器用に手鼻をかむのは、要するに紙がないからで、私がその技術を身につけてないということは、舌で舐め取って吐いたり、紙を使っていたということだ。(持参のトイレット・ペーパーが貴重になってきたので、タオルを切って洟汁用ハンカチを作る)
 人のいる所の風景や文化程度は、日本の昭和20年代から30年代にかけての頃に相当し、従って子供の時の心象風景が、とんでもない所で蘇ったりする。テレビのある家を見ると(もちろん白黒だが)<あ、いいな> と思ったり、空き家が1軒あると怖くなったりする。心理学でいう退行現象である。奇妙な旅になった。薄らいだ記憶や、忘れられた心象、思い出せない夢がフイに蘇る可能性がある。学校の生徒には見いだせない共感をギリシャ・トルコの子供に抱くのは、その文化程度の時に自分も子供だったからだ。仕事をしたり工夫したり、心得顔で大人の手伝いをしたり、何か役に立つことをしようとする機運、また、カストリ雑誌やガムの包み紙の漫画に魅入る子、走っているトラックの荷台につかまって楽賃楽賃の少年、居坐っている押し売りの品が、歯ブラシとゴム紐で、今ならカリカチュアとされるそれらが、ちっとも不自然でなかった時代。<しょいこ> だとか天秤、リヤカーだのに智恵が満載され、息ずいていた時代、不便なものが何一つなく、あるものすべてが便利だった時代----高度成長という画一化、合理化を突走る敗戦国日本と、勝とうが負けようが、なんとなく変わらず貧しくて、不均衡で力まない国----また大それた問題にぶつかってしまいそうである。
 再度ヨーロッパ側からアジアに渡って、チャナカレは船着き場の安ホテルに一泊する。注射この方鼻水が止まらない。

1976年1月12日(月)

 本格的な鼻風邪になった。チャナカレのバス・ターミナルを探し尋ねるうち、乗れ乗れ、ということになって、一気にヨーロッパ・ハイウエイー24号線(といっても簡易舗装の山道)を突走って、トロイとの分岐点まで運んでくれた。その気はなかったが、結果的には初めてのヒッチハイクだった。トロイの遺跡はさらに5キロ奥で、風邪気味ゆえとても歩く気がせず、日向ぼっこをしながらどんな乗り物でも来たら乗ろうと決めてパンとサラミをかじっていると、乗り合いバスが来た。
トロイ遺跡 遺跡には誰もいない。ヒッサリックの丘からエーゲ海を望む。海から眺めた古代丘と丘から見た海、その地理的条件とホメロスの風景描写の相関関係のみが決め手であったとは。----水行陸行で倭の国を分断させてしまったわが国考古学会が情けない。遺跡の一隅にローマ時代の劇場跡があって、これはなんともそぐわない。ヘレンやガニメデの美貌が、本当に移ろいゆくものにみえる目前の瓦礫の山である。遺跡のそばに大きな完成途中の木馬があった。梯子を登って腹部に入ると、まだ蝶番や木材が置いてあって、木目も新しい。そのまだ出来上がっていない客寄せの木馬に、1つだけ日本人の落書があった。 20日ぐらい前の日付である。やるなあ、と思ったし、なるほどこうしてバカバカしいぐらいに落書が溢れるのか、と尻馬に乗りながら思った。土産物屋に各国語で、< かの有名なトロイの木馬の端くれ > というのがデンと置いてあって、いつ頃から置いてあるのだろうと思う。
トルコ地方地図 道端に坐って、また乗り物を待っていると、ミニ・バスが来た。これは部落への物資の運搬を兼ねている。チャイハナ(溜り場)のおっさんに、運転手が映画のポスターを渡したりしている幼い野次馬。国道に出て、今度はベルガモヘ行くちゃんとしたバスを待つ。近くの校庭で遊んでいた小学校低学年の一団が、ゾロゾロ道路を渡ってこちらの顔をみに来る。やがてイズミール行のバスが来た。道路の右手、西側が海、左側が荒野の向こうに山。陽が落ちてきて車体の影が長くなり、あの、影法師がみるみる大きくなって天に達するテレビのコマーシャルの物理的背景がはじめて分かった。
 ベルガモとの分岐点で降ろされる。ベルガモ経由イズミール行きかと思っていたが、分岐点から街まで7キロ、今度はその気になって後続の小型トラックを止めて、タイミングよく乗せてもらう。行商人相手の旅籠屋に一泊し、200円。

1976年1月13日(火)

 町の博物館へ行く途中、タクシーの運転手が来て交渉、アクロポリスとアスクレピオンの両遺跡は、町からそれぞれ反対方向に離れていてタクシーが必要なのだが、ふっかけてくるので博物館へ行って戻ってくると、安くなっていた。今度は食堂へ行って戻ってくると変わらないので、タクシーを使う。
 エーゲ海文明やヘレニズム文化を経てローマ帝国の遺跡を見ると、地方文化に留まらない、しっかりした国力に基づく強大な一時代があったことが確認できる。標高335メートルの山頂にあるアクロポリスは、一周して回ると、ちょっとした山歩きになるほどの規模の大きさ。運転手は入り□に待機していて、遺跡には誰もいない。で、野糞を放る。山の斜面の、急な傾斜を見物席にした野外劇場は、ちょうど舞台背景に向かいの山並や眼下の平野部がくる勘定で、ローマ帝国的スケールの借景である。東ベルリンの、ペルガモン博物館で見た神殿の花びらのレリーフがたった2つ、かろうじて残っているのは無残やな。
 ローマ時代の遺跡の方は、まわりに山野しかなく、タクシーの待ち時間(1時間)が足りなくなるぐらいの広大な規模で、本家イタリアの首都ローマよりも、よほど当時の賑わいが忍ばれる。出口のところで、若者がここから出たコインを買え、と言ってくる。アルテミスの銅貨や、ビザンチン時代のコインを4つ、大切そうに持っている。偽物にしては数も少なく貧弱すぎるし、75T L (1500円)だというのを20T L (400円)なら買う、と言うと、プラス煙草一箱でOKという。値段はどうでもいいみたいだから、本当に拾ったものかもしれない。確かに丹念に見ていけば、掘り出し物がありそうな遺跡だった。しかしもちろん偽物かもしれない。
 町に戻って、イズミール行のバスに乗る。イスタンブールこの方、バスの接続が非常によい。ガイドブックより料金が上がって、その代わり本数が増えている----これ、押し寄せる<文化>の波か。
 気のつくこといくつか。部屋のドアの鍵は、一回まわして半分、二回まわして一杯にかかる。トイレの紙のあるべき所に水道の蛇口がある。たまに洋式だと、便器の中にニュッと水道の管がつき出している。水を使うのはローマ時代も同じで、紙で拭くから文化的ともいえない。長距離バスでは、お手拭き代わりに、香料入り揮発油をピュッピュッと滴たらせてくれる。日めくり式のカレンダーに、毎日時計の絵が2つ書き入れてあり、日によって違う礼拝時間を示している。お盆に小さなカップのチャイの出前持ちは風物詩である。食堂の調理人も靴磨きも、運ばれたチャイで一息いれている。子供の物売りが多い。押しつけがましくなく、さりとて卑屈でもなく、けなげで気持ちがよい。10円のガムを買ったら、まったく味のないゴムだった。
タブリー 「よい」という表現は、手の指をすぼめて「イーッ」と言う。最初はなにかと思った。ギリシャでもトルコでも賭けバッグギャモン(タブリ−と呼ばれている)をみかける。つまらなそうなゲームなのに、年季が入るとピシッピシッと牌を打つみたいに瞬間的に駒を進めて、やはり決まっている。

1976年1月14日(水)

Arcadian Wayトルコ地方地図 イズミールからデニズリ行のバスに乗って、セルジュクで途中下車、タクシーが待ち受けている。エフェソスの遺跡と、聖母マリアの家の両方で75T L (1500円)、これは適正価格である、と印刷された表をみせてくれ、野次馬も同意。高いのでモヤモヤしていると、60T Lになったので決心。
 使徒ヨハネはキリストからマリアを託され、迫害募るエルサレムを逃れて、小アジアを伝道の地と定めて聖母を伴った。エフェソスに最初の教会が建てられ、彼はこの地で死んだ。聖母が余生を送ったアラダッグ山頂の家は、19世紀に、ドイツの修道女が見たビジョンがきっかけになって発見された。431年、同地で公会議が開かれ、ネストリウス派は異端となった。(これは中国共産党創立当時の、陳独秀を失脚させた九江会議を思わせる)現教皇が、このかくも辺鄙な土地を訪問している。ルルドと同様、奇跡の泉があるが、賑わい方は雲泥の差で、こちらには年老いた1人の番人しかいない。
アルテミスピリオプスくん セルジュクの町の博物館で、久々にローマ帝国期の彫刻を見る。豊穣の女神アルテミスの、葡萄状鬼胎症状にも似たグロテスクな装備は、異質文化の流入にも思える。ピリオプスなる大巨根の彫塑がないので係員に伺うと、壁に吊り下がっている紐を引っ張って、柱にはめ込まれてある秘密の空間を開けてくれ、そこにそれがあった。こういうのは怖いもの見たさとも違うし、なんというのだろう。
 ケマル・パシャ決起の町、イズミールにとって返し、夜行のバスでイスタンプールに戻る。バス会社が30社ぐらい乱立し、ターミナルはものすごい客引き合戦である。車種はほとんどメルセデス・ベンツ。夜更けて、煌々たる月影が不毛の大地を青白く浮かび上がらせている。旅を重ねても、芭蕉の境涯とは無縁である。「幾山河越え去りゆかば」という心境にもならない。さればとてセンチメンタル・ジャーニーの浮わついたくすぐりもない。なんとか体裁を保っている日頃の煮こごりのような生活時間、それが一掃されて、綱渡りのような一期一会の時間感覚が露わにされているだけである。

1976年1月15日(木)

 個室800円が高く思えてきたので、朝のうちに隣のホテル・グンゴーのドミトリーに移る。300円。日本人旅行者もいて気楽である。20日の出発まで、イスタンブールでのんびりするつもりでいたが、誰かが置いていった山と渓谷社の「シルクロード・U」を借りて読むと、トルコ中央部のカッパドキア(ユルギップ)に俄然行きたくなった。それでスウェーデンで二年間働いていたという北田君と、キブツで奉仕していた京都産業大学三回生の竹沢君を誘って、明日行くことにする。午後、ブルーモスクと地下貯水場を再訪し、夜はアメリカ青年と久々にチェスを2回やり、いずれも負ける。

1976年1月16日(金)

 朝は雨であった。寒い。2人を伴いパンを買い、フェリーでアジア岸に渡り、まずアンカラ行の長距離バスに乗る。行程9時間のところ、接触事故をおこして一悶着、さらに内陸部に入るにつれ、雨がみぞれとなり雪となり、積雪地帯となってノロノロ運転をしたりで11時間かかる。
「カスバの女」 車中、竹沢君より「カスバの女」を教わる。アルジェリアやモロッコヘ行かなかったのは悔やまれるが、ここ小アジア辺りで歌ってみると、歌詞二番の、
 ♪ セーヌのたそがれ、まぶたの都、花はマロニエ、シャンゼリゼ、という望郷の念が分からぬでもない。今さらのように、パリが粋な花の都だったことに驚かされる。
 バスは列車と違って、自由が利かないし落ち着かないので、話し相手がいると非常に助かる。長大な尻取り合戦をやったり、同じく退屈しているトルコの乗客と会話学校を開いたりして、夜9時、アンカラに着く。首都なので、安ホテルも高い。私のトルコ学生証がやっと物をいって、25パーセント値引きとなる。太ったペルシャ系雑種ネコがいた。

                              Home  Top