『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)
オリンピック航空9時40分の早出。ローマ空港にもアテネ市内にもたくさんの日本人団体客がいる。<お正月を海外で過ごす人たち> なのである。 ♪ トントントンカラリの隣組
リュックの荷重は16キロ、日本を出た時は13キロ。内容は完全に変わってしまっている。
アテネはまだ用心の対象ではない。海運国ギリシャの文字は、横浜港に停泊するギリシャ船で旅心を掻き立てられたものである。当然ながらその文字が街中に氾濫している。この先、ラテン文字が懐かしくなるだろう。観光案内所もアメリカン・エキスプレスも銀行も軒並み休業で、これはこたえる。
ホテルを決めてから、ためらうことなくアクロポリスに登った。心理的にはシスティナの
<天地創造> と緩むことなく直結している。高みにあって眼下を睥睨する神々しさは、マッターホルンとはまた異なった清々しさを与える。この透徹した迫力はディオニソスの激情でなく、アポロンの高潔さである。そして何よりもそこには
<やはり> 西欧文明ここに始まる、という人文史の礎となった重さがある。そこには再建を号令した名宰相ペリクレスに率いられた、古典期自由アテネ人たちの高揚した精神の潮がある。だからこそ様々な時代の混迷に術を失った多くの偉人が、その明晰さを求めてアクロポリスに立返り立返りしたのであろう。ヨーロッパここに始まり、私にとってはここに尽きる。この現実は少し厳しいなあ。この先は紀元前35世紀などという、SFじみた超想像力の要請される古代文化に迷っていくわけである。
アクロポリスの向こう側の丘に、ソクラテスの牢屋というのがある、となっているので訪ねたが、地図の指定された地点に立っても、辺りは灌木の傾斜面でしかない。すぐそばにギリシャ文字で判読できないが、ローマ属国時代のカタコンブ(コンスタンティヌス帝時代?)らしきものがあり、それがそうなのかも知れないが、誰もいないから分からない。
ソクラテス。----キルケゴールが尊敬したソクラテスを、キルケゴールを尊敬する私がどうして尊敬しないことがありえよう。詩人プラトンの、師に語らせるあの調子の高さはもちろん、ダビッドの描く「毒杯を仰ぐソクラテス」の荘厳な死にざまは忘れがたい。かつて一度、自分がまったくソクラテスになりきった夢を見たことがある。地下の洞窟のような所でやはり毒杯を仰ぎ、周りの人を慰め、従容として石棺に身を横たえたのだが、目が覚めてみるとそのカタルシスに全身すっかり疲れ果て、しばらく自分の見た夢に呆然と感動し続けたのを覚えている。
アテネ国立博物館に急ぐ。入ってすぐの正面がミケーネの大広間、やったなシュリーマン、である。真っ先に至宝、黄金のマスクが展示されてあるのも、いい。シュリーマンはこれをアガメムノンと信じ切っていたそうだが、トロイを信じ、ミケーネを信じた信念の人だったから、それも構わないのだろう。もっともこのホールは、アッチカの各地から出土したミケーネ文明全体の展示室であった。一見鉄製の剣があったが、錆びていて長く埋もれていたからだろう、よく見ると赤銅であった。いったい鉄と青銅の違いなど、原爆と竹槍ほどの違いもなかろうに、その違いが確実に一つの文明を消失させた、というのは恐ろしい。
幾何学模様時代の壷はつまらなく、アルカイック・スマイルにはこちらも微笑む。海中から発見されたポセイドンのブロンズは感動的である。巨根のサティロスは人が多くてちょっと撮りにくい。でもひっそりと絵葉書になっていたから狙いは同じ。ローマ属国時代の彫刻もあり、ハドリアン帝に寵愛されたアンチノスの胸像がここにもあった。バチカンでも見たが、彼は神格化されてアポロンなみの扱いをうけており、胸像を見ると、さもありなんと首肯ける凛々しさである。
この博物館で、夏のあいだ、オスロとナルビクとハンブルクで出会った、料亭の息子と再会した。顔を見あわせて「まだいたのか」と言い合う。こちらは4ヶ月間停滞していたのに、向こうはその間、北アフリカと東ヨーロッパを回っていて、今また中央アフリカを試みるのだという。5分ぐらい立ち話をして別れる。
午後はケーブルカーで、リカベットス山に登る。風が冷たい。アクロポリスを下に見るのは畏れ多いが、その向こうにサロニコス湾が広がり、右手にサラミス島を見、厚い雲のあいだから放射状の陽射しが湾内を覆っている。ここをペルシャの大艦隊(といっても現代的感覚からみれば輸送船団なみか)が白波蹴って(のろのろと)湾内に突入したのであった。ギリシャ人の書いたギリシャ史を読むと、「これでパン・ヘレニックが敗れていたら、歴史の流れも大きく変わって、現西洋文明もどうなっていたか分からない」と書いてある。今のギリシャをみると、そこにいくら誇っても誇り足りないものがある。オリンピック入場行進の一番手ぐらいの栄誉はいくらでも与えたい。
夜は映画を見る。ドイツ作成のサッカーの歴史と、喜劇の2本立て。去年のワールド・サッカーのために作られたものらしく、ペレは活躍していたが、ミュラーはまだ登場していない。
ホテルに荷物を預けて、ペロポネソスと地中海島巡りに出発。観光案内所で各地のガイドマップをもらい、アメリカン・エキスプレスで中近東・アジアのための小額ドル紙幣を入手し、銀行で両替してもらって人心地つく。
今日は、牧神と水の精が戯れたパルナッソスの麓、聖なる神域デルフォイを訪れる。アテネからバスで4時間。運転席上方、右側には救急薬品、左側に聖画類。バスはオイディプスがデルフォイからの帰途、神託通りに実父を殺したという三叉路で小休止する。これはそこで「網走から鹿児島まで旅行し、穂高に登った」というギリシャ人が、流暢な日本語で話しかけてきて、彼に確かめたもの。横浜に<
ΣΠAPTA >というバーがある、と言うと、
「あ、ヒデ子さん」と嬉しそうにする。別れる時、私は握手しようとし、向こうは深々とお辞儀をして、変な具合だった。
雲を頂いている、まさに高踏的なパルナッソスが、彼方にそびえている。バスはそこから起伏の多い山中に入り、アラコバを経てデルフォイに至る。眼下の入り江にイテナの街灯りが点っている。
博物館をのぞいてから、デルフォイの遺跡を訪ねる。「汝ほど賢い者はいない」という神託に、ソクラテスは畏れた。キリストに近いのはアブラハムやモーゼ、エレミアよりも、ソクラテスではないか。ギリシャの碧い空に驚く。
対岸のペロポネソス半島、エギオンの街に渡るためにイテナまで降りると、フェリーボートは運休であった。で、コリント湾沿いにナフパクトスまでバスで行き、そこからパトラスに渡ることになった。バス待つあいだ、イテナで日向ぼっこをする。ここはかつてクレタを出発したアポロンが、イルカの背に乗って上陸した入り江である。こんな話はけっして嘘であってはならない。
バスは波打ち際すれすれを走ったり、小さな入り江をなぞっていったりで、楽しい。道中はじめてレモンの木を見た。サンキストのスタンプのない実がたわわに成っている。ナフパクトスからフェリーの発着所アンティリオンまでさらにバス、船着場リオンからパトラスまで、またバス。途中バスの発着を人に尋ねたら、相手は唖であった。しかしこれが実によく分かった。つまり心配ないこと、バスは10分後に来ること、料金は6ドラクマであることなど。人類はエスペラント語を使わないのなら、全員唖であるべきか。
パトラスで海に落ちる入り日をチラッと見る。かつて象潟でもチラリ見たことがある。いつかジックリ見てみたい。
安ホテルで番頭と値段を交渉していたら、イタリアから船でいま着いたという、自転車旅行の日本人大学生が飛び込んできて一緒になる。
深夜と昼ごろ、軽い地震があった。パトラスからオリンピアまで列車に乗る。トロッコなみの狭軌道だが、言われていたほど遅くはない。スペインはバルセロナ〜バレンシア間の
<時速30キロ特別急行列車> を覚悟していたから助かった。おかげでその日のうちに、オリンピアの遺跡と博物館を訪ねることができた。大英やルーブルのような大博物館で、いろんな時代と場所の陳列物に攻められてボンヤリするより、前もってよく本を読んで現地へ行って、何もない遺跡と隣接してある博物館の、<隣りから出ました>
といった感じの陳列物を見るほうが、実感が湧く。(それでもどちらかを選べといわれれば、世界的規模の大博物館を択る)
ゼウス神殿脇の、オリーブの小枝を3本ほどむしり採る。オリーブの木は南ヨーロッパに雲海・樹海ぐらい生えているが、このオリーブは、かつて月桂冠に使われた聖なる木の生えていた跡あたりのもので、雲海・樹海とは格が違う。(もっとも月桂冠というからには、クスノキ科の月桂冠だが、ギリシャ人の書いた解説書にはオリーブ(もくせい科)となっている。そしてオリーブは橄欖と訳されるが、そのカンランはカンラン科である。私は何科を採ったのだろう)
オリンピアの遺跡に大晦日の夕陽が落ちる。フィデアスの仕事場跡で小便を放る。1975年はこともなげに暮れていく。
明けて元旦、といった感じはない。大使館へ行けば紅白のお餅ぐらい呉れるだろうが、それでは里心がついてしまうのである。天婦羅と刺身は、ローマの料理屋「日本橋」で食べた。寿司は台湾で目一杯食べるつもり。
トリポリス行のバスは、早朝7時発とホテルの女の子に聞かされて、それは怪しいと思いつつも、真っ暗な中バス停まで行き、早出の通行人に9時である、と聞かされてホテルに戻って寝直す。9時になって待っていると、反対方向からバスが来た。方向はともかく、バスが来ただけで嬉しいぐらいのひと気のなさ。車内から運転手と車掌が2人して、グルウッと回って戻ってくるから待っていろ、という身振り。フランスはレンヌの町でも駅行きのバスを待っていると、駅方向から来たバスの運転手が同じ仕草をしてくれた。
トリポリスまではバスで4時間、行き交う車もなく山また山の谷あいを縫っていく。これだけ山が多いと、都市国家の成立も分かるような気がする。途中、山間の部落でパンクしたタイヤを取替える。
ギリシャのあちこちの村で、マツダやイスズ、ダイハツ、ヒノ、トヨタ、ダットサンの古いトラックやバスをみかけた。トリポリスからアルゴスまで、さらにバスに乗る。
ヨーロッパでみかけない、運転席の上にペタペタ貼られたシール類とギリシャの音楽には、小アジア・中近東の影響がある。ロンドンの本屋で、様々な象徴として使われる「目」の歴史を扱った本を見たが、その中にアフガニスタンのバスの前面に、大きな目が描かれている写真があった。ギリシャのバスにも、この目のシールが貼ってある。すなわち一種の魔よけ、叡知の光、交通安全のお守りである。
アルゴスはスパルタ、テーベと共に、アルカイック期の中心的都市国家であったが、コリントが台頭し、一方でスパルタに敗れて、俄然落ち目になった。只でさえそうなのに、元旦で休日だからか、国旗だけが目立つ死んだような街なみである。ミケーネ探訪の足溜りとして一泊する。夜は三流映画を見る。
ミケーネ行のバスは8時、10時、12時とホテルの人に教わり、7時45分に発着所へ行くと、7時半、10時半、12時、2時と分かる。ホテル情報はあてにならない。それで予定を変更し、先にナフプリオン経由エピダウロスの遺跡へ行く。ここはアポロンの息子、医療の神アスクレピオスの神域跡で、あまり彼が病人を治すので、冥の神プルートが怒ってゼウスに訴え、ゼウスはその願いを聞き入れて、アスクレピオスをサンダーボルトで殺してしまうという節操のなさ。
実際ここは大医療センターだった所で、当時の治療器具などが博物館に展示されている。アペラの治療に関する石碑を見ていると、守衛の人が15行目の<MEΛIE>は牛乳、<ΓAΛA>は胃で、「牛乳は胃によい」と書いてあると教えてくれた。聞いたことがあると思ったら、自分の倫理の授業で使った例だった。すなわちこれは,下痢の時には通用しない
<条件付の真理> なのである。古代ギリシャの論理学の古典的例えを、私は節操なく使っていたのであった。
野外劇場で、ステージの真ん中にコインを落とす音をテッペンから聞く。この遺跡で櫛を拾った。買うつもりだったから、いい拾い物をした。
同じ道をナフプリオン経由でアルゴスに戻ると、2時のミケーネ行は出発した後だったので、ミケーネ近くに行くバスに乗る。そこから歩き出すと、同じ道を歩いていたオーストリアの姉妹が写真を撮ってくれたので、気張って通りがかりのタクシーを奮発する。
ミケーネは2つの高い山にはさまれた丘の上にあった。獅子の門とアガメムノンの墓----それをこの目で確めるのは、日本を出る前からの望みであった。
シュリーマンの蓄積された財力があったればこその発見だろうが、人生の前半で夢を蓄えて、後半でそれを満たすとは,格好いい生き方をしたものである。
帰る道すがら、水を汲みに行く途中のロバに乗った裸足の少年を写真に撮る。
「私たち、こんな生活を想像できないわね」と、オーストリアの姉さんが言う。この先の旅行で、それをさらに痛感していくのだろうが、のどかとか、素朴と思うのはこちらの勝手で、金持ちの旅行者が通過するのは、結局罪作りなのである。モロッコ帰りの男が、
「追い剥ぎに遭ったら、本当に一切合財盗っていく、ということが分かった。こちらの持ち物すべてが、彼らにとっては貴重なんだから」と話してくれた。
道中、エピダウロスの遺跡で一緒だった英語圈の即席グループが、向こうから小走りで走ってきて、すれちがう。
「早いなあ、どうやって来たんだ」
「ン、バスで来た」
「閉まる時間、知ってるか」
「知らない、でもたぶん日没までだろう」
遺跡までざっと2キロ、お陽さまは山の端まであと10センチぐらいだったな。
国道に出て、姉妹はナフプリオンヘ、私は逆方向のコリントヘ。バスのなかで、1人のギリシャ人が話しかけてくる。のっけから「私は英語を話すのが好きです」と言って、英会話の練習台にされる。こういったことは陽気なアメリカ人か、辛抱強いイギリス人とやってもらいたい。彼らなら
work を <ウォルク> と発音されてもなんとかこなせるだろう。もっともこちらもロンドンの食料品屋で、塩を
<サルト> と発音してなかなか分かってもらえなくて情けなかった。
コリントでは東宝映画「ゴジラの息子」の看板につられて映画館に入ったが、予告篇に留まった。信じられないことに、これを日本で見たことがある。きっと何かとの併映だったのだろうが、その何かのほうは思い出せない。予告篇の映画はアメリカ版で、それにギリシャ語の字幕が出て、なにか質流れのようである。適当にお茶を濁されているなとも思う。
20年前、並木座とか坂本劇場、あるいは小学校の校庭へと歩いて映画を見に行った記憶が蘇える。