『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日

 

1976年1月3日(土)

 コリントの遺跡は町から約6キロ奥でバス利用。この遺跡にはデルフォイやオリンピア、ミケーネといった華々しさはない。パウロがローマ執政官ガリオに一札いれられた所である。アポロンの神殿のそびえる町角で、<愛は寛容にして情あつく> とやって、ギリシャ人の耳に愚かしく響いたのだった。ピレウス港
 そこからアテネまでバスで帰る。運賃が軒並みガイドブック (「アジアを歩く」 昭和49年発行) の倍近く上がっている。作られたオイル・ショックのせいだ。この分だと石油産出国の運賃は値下がりを続けているだろう。
 夜7時、アテネのピレウス港から船でクレタ島へ向かう。デッキ・クラスは厳しいのでベッド付にしたが、おかげで久々に湯水の溢れ出るシャワーらしいシャワーを浴びることができた。

1976年1月4日(日)

 朝7時、まだ明けやらぬうす暗い中を、イラクリオンの港に到着。クノッソスの遺跡ヘバスで行くが、もちろんまだ閉まっている。で、遺跡の周辺をブラブラと金網を乗り越えて立ち入ったりして一周して戻ると、ちょうど門が開いたところだった。最初に博物館、それから遺跡という原則を破ったためか、あまりピンとこない。紀元前20世紀というと、ギリシャでみた他のどの遺跡よりも古いのだが、セメントなんかが使われていたためか線文字Bどの遺跡よりも立派だった。1886年、シュリーマンは、ここを発掘せんとトルコ政府に願い出て、拒否されている。時に64歳、彼の執念はトロヤだけに留まっていない。博物館でクノッソス宮殿の復元模型を見ると、宮殿というより楼閣に近い。高層なので <クノッソスの迷宮> といえないこともない。またこの宮殿には城壁がなくて、クレタ文明がきわめて平和的であった証左となっている。この博物館で LinearB型文字をはじめて見る。イルカの壁画や、蛸の描かれている壷、これらはまさにクレタである。
 それで<仕事>は、午前中で滞りなく終わってしまった。夜行の船便でアテネに舞い戻るあいだ、何もすることがない。往復6000円近くもかけてバカバカしいが、見ないとまた気が済まない。棋譜を並べ、釣り人にジックリつき合い、国語辞典を読む。来た時と同じ船が港に待機している。昨晩は寝るとき、毛布と救命具が日本製なのに気がついたが、今度は<膨張式救命いかだ>と書かれている代物をみた。自動車、鉄鋼、船舶はわが国三大輸出業界というから、船全体が中古の日本製やも知れぬ。帰りはデッキ・クラスにする。消灯と同時に、使用済みの碁罫紙を床に並べてゴロ寝する。リクライニング・チェアーよりはるかに寝心地がいい。

1976年1月5日(月)

 朝7時、アテネに到着。そのまま今度は、8時半発ミコノス行の船に乗り換える。本日、天気晴朗なれど波高し。観光案内というものは、本当によく僻地まで網羅してあると思う。ヨーロッパから日本に来た旅行者が、伊豆諸島の神津島を訪れるようなものである。
アポロンの島に陽が沈む 波高きが故に、2時間遅れて到着、本船からはしけに乗り換える。アポロンの島デロスに日輪が沈む。黒雲たなびく中、マグネット描くような三日が出ている。風が強くて風車は回っていないが、在ることはうなずける。砂糖菓子みたいな家並みは面白い。でも波の音を聞いていると、能登半島の先端に来たみたいである。泊まった民宿は、家の中に石段がある。若奥さんは美人である。

1976年1月6日(火)

 民宿の婆さんから、今日は祭日で、デロスヘ渡るボートもアテネに戻る船もない、と教わる。明日のイスタンブール行き飛行便がなくて明後日のを予約しておいたのが、いま幸いした。それでミコノス島の地図を写しとり、島を一周するつもりで宿を出ると、松浦さんという新婚夫婦に会った。やはりデロスヘの船は出ない、と言う。今日は <主の御公現の祝日> で、ギリシャ全土で十字架を海に投げる行事がある、と彼らの本で知る。正午頃になるとその通りになって、総出の島民の見守るなか、6、7人の若者が海に跳び込んでその十字架を拾った。
 松浦さんたちと昼食を共にし、鯛の塩焼きを食べる。私は明日の午前中デロスに行き、午後の便でアテネに戻ればいいのだが、彼らは明日の朝出発なので、デロスに行けない。せっかくここまで来て、と非常に残念がるので、一肌脱ぐ。同じ境遇のフランス人のカップルを誘ってから、船主と交渉し、5人ではしけを1隻チャーターする。1万5千円。私は明日の定期便(320円)に乗ればいいのだが、行きがかり上つきあうと、松浦さんが悪がって2千円分持ってくれた。2組のカップルから感謝される。旅の重さ。
デロス島 ミケーネもよかったが、デロスはギリシャのどの遺跡よりも感動的だった。小さな起伏の多い岩肌の露出した島に、たくさんの遺跡が広がっている。キクラデスの象徴となりつつある白亜のライオン像(しかし竪髪がないのにライオンとは解しかねる。牝ばかりというのも可笑しいではないか)、またアポロンがまさにそのほとりでレトから産み落とされた(分娩は木にもたれかかっての立位だった)聖なる池。不毛の小さな島が、貿易・商業の地として栄えたのは、この宗教的一事に因るに他ならない。今日訪れたのが私たち5人だけ、というのも嬉しい一事。帰りのはしけで、ギリシャの海が本当の紺碧----黒みを帯びた深い紺色なのに驚く。北氷洋の同じく澄みきったナルビクの、茶を帯びた海水とはまた異なって、誘惑的である。この旅が終われば、次は海の中が私の夢を満たすだろう。

1976年1月7日(水)

 羊肉を煮込んだ代物は臭味があって、運ばれた途端に食欲を失う。夜のパルテノン
 午後3時の便でアテネに戻る。夕方、デッキから暗い波間をみる。雨が降ってきた。水平線にそって宵の明星のようにまたたく街の灯、それが二つ、三つと数を増し、やがてアテネが近づくにつれて光の帯となり、海上からみる首都の街明かりは、巨大な光のアミーバーとなった。サンテックスの世界にちょっと浸る。

1976年1月8日(木)

 トルコへ発つ日。午前中再度アクロポリスに登った。前の時は夕方で、博物館が閉まった後だったので、再訪した次第。
 午後のエア・フランスでイスタンブールヘ向かう。イスラム教圏突入である。テサロニキを通り、ブルガリアのソフィア上空を通る。ロシア民謡では ♪ ここは遠きブルガリア、ドナウの彼方  であるが、上から見ると、集落と呼ぶにふさわしい村々が、即かず離れず点在している。
 ちゃんとした機内食にはいつも助かる。飛行機を降りるたびに、飛行場が田舎じみてくる。それがかえって、いい加減な設備でもヒコーキは飛ぶんだなあ、という安心感lこなる。両替を済ますと、
 「タクシー?」と客引きが来る。
 「バス!」と言うと、
 「バスなんてない、タクシーに乗れ」と言う。
 「96番のバスで、スルタンアーミットヘ行く」と言うと、今度はあらたまってバス停はあそこ、と教えてくれる。親切なのか不親切なのか分からない。
空港で買ったガム イスラム圏といってもアラブ系でないので、まだ実感がわかない。バスの中で、靴磨きの2人の少年に、アテネ空港で買ったガムをふるまう。冷たそうな真っ黒な手をみて、自分も手袋をはずす。占領当時の米兵の心情と、いまの自分がダブッている。
 ホテルを探すうちに、偶然トルコの学生連盟事務所にぶつかったので、国内向け学生証を作ってもらう。胡蝶の夢に似て、いつしか学生だと思うようになってきた。安ホテルの泊まる先々で、照明が暗いので、電灯の笠を外すのが習慣になった。
トルコ国旗 外に出て、いよいよ <水を買う> というやりきれないことをする。それでも魚を4匹食べて200円だから、この先ボラれたり盗られたりしない限り、経済の心配はないだろう。
 夜空を見上げると、上弦の月に星1つ----この国の国旗みたいだった。

1976年1月9日(金)

 コレラの有効期限が切れて久しいので、ガラタ橋を渡った港の検疫所みたいなところで注射を打ってもらう。消毒はアルコールでなくて、ヨーチンをサッと一塗り。 バザールで水煙管を買う。言い値の半額で落ち着いたが、日本の感覚できわめて安ければ、あとは力まず、その国その国にお金を落としていってもいいと思うようになった。
トプカピ 午後は、元の聖ソフィア教会へ行く。外観より、内部に入ってドームを見上げたほうが大きさに驚く。隣接のスルタン廟はイスラム様式なので、スペインのアルハンブラ宮殿との類似を見た。そのあとトプカピ宮殿へ行く。もっともっとキラキラケバケバした外装だと思っていた。博物館でスルタンの着た宝石だらけの鎖かたびらや、86カラットのダイヤモンド、モハメッドの持っていた杖に、口髭から採った毛1本、そして驚かされたことに、洗者ヨハネの頭骸骨の一部と、手の骨が展示されてあった。肝心の明朝を中心とした世界に冠たる陶磁器のコレクションは、日頃、欠けた瀬戸物茶わんで馴染んでいるせいか、まったく審美の力が働かない。製法が謎だから神秘とされたのか、見る人が見れば本当に魅せられるのか、いったい焼物に惹かれる気持ちは分からない。くれるというなら、青磁のそれらしいのを貰っておくけど。
 注射のせいでだるいので、早めに引き揚げ休養をとる。

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