『旅 行 記』  (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年8月16日(土)

「死と生の記録」 朝マドリッドのアトーチャ駅に到着、地下鉄でシャマルタン駅へ行って、パリlこ戻るという村井君に見送られて、こちらは一足先lこリスボンヘ向かう。政情不安な国というのがどんなものか見たいためであるが、1日2本しかないこの2両編成の急行に、私のほかに2人の日本の若者がいる。そのうちの1人に新書版の『死と生の記録』を借りて読ん,だり、たまった日記を書いたりして11時間を送る。
 車内での入国手続きはスペインと同じぐらいの調べ方で、ソビエト出国の際の異常な厳しさを経た者には問題でない。それよりもその後、ヨレヨレの服を着た両替商が車内を回ってきたのには驚いた。両替してしまってからあわてて、
 「あなたはオフィシャルか、身分証明書を見せてくれ」と言っても言葉が通じない。レシートもくれないので自分で計算してみると、それほど手数料は取られてないのでやや安堵する。
 本を借りたその沖縄の人と、2ツ星ホテルヘタクシーで行く。PCP(共産党)とPCSD (キリスト教社会民主党)のポスターやスプレー・ペンキの落書が町中に氾濫しており、土曜の夜だというのにひと気が少ない。ホテルは予算より高かったので、近辺のペンションを軒並み探すが、みな満員ということで断わられ、意気おおいに消沈す。気力をなくして再びホテル泊と決め、10時すぎロッシオ広場に食事に行く。レンタカーの中や列車内での夜明かしが続いたので、久しぶりの風呂は蘇生の感が深い。


1975年8月17日(日)

 リスボンはこれが一国の首府かと思うほど町が汚く、人々が野暮ったい。地下鉄のプラットフォームは捨てられた切符の花吹雪であり、歩道と車道の段差のところにはゴミがずっと続いており、石壁から街路樹の幹に至るまで、書ける所はみなプロパガンダの活躍するところとなっている。タクシーの車型は古く、運転は荒っぼい。
 聖ジョルジュ城から市街を見下ろすと、対岸の丘の上に突拍子もなく高い塔があり、きわめて大きなキリスト像が両手を広げている。にもかかわらず日曜なので10時からと11時からと二箇所の教会でミサをのぞいてみたが、だだっ広い会堂の前の方に老人連がチョボチョボいるだけだった。熱烈なミサ聖祭を目撃したのは、ルルドを別にすればモスクワが第一である。
聖母目撃の子どもら 約束の時間に沖縄の人が戻って来なかったので、1人でファティマを通る鈍行列車に乗る。ファティマを訪れることこそがポルトガル入国の最大目的であった。2時間ほど車内で熟睡し、気がついたところで手元に11エスクード(120円)しかなくて食事もできず、日曜日で両替もできず、いつもなんとかなったが今度はどうにもならないかもしれないと思ったところ、そこに沖縄の人が違う車両からやってきた。ギリギリ間に合って、この列車に乗っていたのだという。なんとかなるかもしれないなと思い直す。
 ファティマ駅はルルドと違ってまったくの田舎駅であり、タクシーの運転手が近寄ってきて、ファティマの大寺院はここからさらに30キロ奥で、180なにがしかでどうかと言ってくる。沖縄人と2人併せても40なにがしかしかなく、大寺院行きの長距離田舎バスの片道運賃分にやっとである。これには運転手の方が驚いたとみえて、スペイン・ペセタを両替してあげてもよいという話になり、さいわい沖縄人が1000ペセタ紙幣(5000円)を持っていたので、手数料抜きで両替してもらい、私はその半分をお借りする。借り癖がついたようだ。2人して、
 「これで食事ができますね」----使えるお金があると心が豊かになって、40分のバスの乗り心地はきわめて快適であった。
 「道は舗装されているのによく揺れますね」
 「バスの車体が古いのでしょう」 
オリーブ畑 まわりはスペインの荒地より緑があって、オリーブとコルクの木々が丘という丘に植えられているが、鉄道も通らぬ田舎であることにはかわりない。聖母マリアは突拍子もないところに現われたなと思う。それがしかしなぜ幻影でなくて、最高潮では七万人にも達した目撃者の前に現われるのだろう。そして現われて、それがなんなのだろうか。なぜ世界はそのことで動揺し続けないのか。そしてルルド以来ファティマまでのインターバルにはなんの意味があるのだろう。
 ファティマの大寺院は、それこそ聖母が突拍子もないところに出現したが故に、遅ればせながら突拍子もなく不便な所に建てられた、ものすごい広場付きの教会であった。肝心の <柵で囲まれた樫の老木> を絵葉書でみて、教会からは離れた所にあるらしいと分かったが、時間がなくて断念せざるを得なかったのは画竜点睛を欠く思いであった。それというのも、リスボン〜マドリッドを予約その晩のうちにリスボン発マドリッド行の夜行列車に、エントロンカメントなる駅から途中乗車するつもりであったところ、ファティマ駅からエントロン駅までの列車はすでに1本もなく、まったく辺鄙な大寺院からエントロン駅までの数十キロを220エスクード(2500円〉出してタクシーに乗らざるを得なかったからである。
 「私はともかく、あなたはどうしてファティマに行ってみようと思ったのですか」と沖縄の人に聞いてみると、
 「話を聞いてみて面白そうだったから」と答える。彼も並の観光では済まない人であった。
 エントロン駅前の食堂で夜行を待つあいだ、今晩は無理と思っていた食事にありつき空き腹を満たす
 「本当にこういうときがいちばん私は幸福なんです」
 「私もそうですよ、そういうものじゃあないんですか」
 ----名前もおたがい聞かなかったが、食前に頭を下げて頂戴してから食べる沖縄の人だった。

1975年8月18日(月)

  朝マドリッドに舞い戻る。ここを起点にして、ユーレイル・パスが切れる22日まで夜行を利用して放射状に行き来することにする。
 ソル広場近くの電話局から横浜に送金と荷物の確認をしてから、時間つぶしに2本立ての喜劇映画を観たが、映画館であれほど寝ては覚め、覚めては寝ての惰眠をむさぼり続けたのは初めてである。
 夜11時10分発の夜行でアルタミラ洞窟を見にサンタンデルヘ向かう。もっともアルタミラがなんであったかすっかり忘れてしまっているのが心細い。ラスコーのような壁画があるのだったか。一等車はコンパートメントに私1人で、独占熟睡する。
1975年8月19日(火)>
 そろそろ起きようかと思ったら、もうサンタンデルであった。中継地点でもないこの行き止まりの駅に、日本人女性が1人おり、声をかけたらアルタミラの洞窟を見にきたのだという。大学の地理学科を卒業しているというので納得する。駅前の売店でアルタミラの絵葉書をみて「あ、これを見に来たのか」と合点がいく。それは美術史書の巻頭をかならず飾っている野牛の洞窟壁画であった。
 1日3本しかないバスに乗って彼女と洞窟へ行くと、中に入れるのは4時間後だという。1回の見学に20人ぐらいで1日1000人ぐらいしか観られないらしい。アルタミラはサンティラナ・デル・マールという地名の所にあり、きっと海に近いだろうということで泳ぐ用意もしてきたが、海もみえない山の中にあり、詮方なく草の上にシーツを敷いて彼女と無駄話をして時間をつぶす。ロンドンに2年間いて、日本に帰る前にヨーロッパ旅行をしてまわっているのだという。アルタミラ洞窟壁画
 4時間あとに見ることのできた壁画は感動的であった。はじめからそこに在るもの、と当然のように決めてかかるのでなく、ア、あそこにあるのはなんだろう、と気がついて発見するような接し方をするのである。壁画に限らず絵葉書や写真について言えることは、匂いと風に欠けていること、それと「対象物と全体との関連が欠如している」ことである。光をもたぬ洞窟のなかで、ヒンヤリした空気に包まれて見上げる野牛の群れは、覚えずして私たち見る者を沈黙させ、立ち尽くさせる。壁画を四角く取り出したのでは失われてしまう太古の夢が、ここに眠っている。いまでこそ舗装道路が敷かれて駐車場があり、人を捌く柵と建物と従業員がこの洞窟を他ならぬものとして際立たせてしまっているが、まったく変哲もない起伏の多い牧歌的田園風景の地下に、これはまた驚くべきサンティラナ・デル・マール人類の夢が潜んでいたものと思う。
 ここの駐車場に、がっしりした体格の日本人青年が2人、車で来ていて、彼らは来てみたらもう満員で入れないのだという。そのうちの1人はサンタンデルで柔道を教えている東洋大のOBで、私たちを5万円で買ったという車に乗せてくれ、サンティラナ・デル・マールのひなびた中世風のたたずまいを見せる街なみに案内してくれた。そこは木曽の馬籠や妻と同じに、改築が法律によって規制されているという由緒ある街道宿で、そこの土産物屋で見た貝の首飾りがあまりに安い(450円)ので、いったん出てまた舞い戻って値段を確かめてから買ったほどである。

 6時半からサンタンデルで子どもたちに柔道を教えるというので、拝見させてもらう。15、6人の子どもたちに、流暢なスペイン語を操って日本の武道を堂々と伝えている彼の姿は、すがすがしさを感じさせた。スペイン語はまったくこちらに来てから覚えたそうだが、子どもたちに教えている間、付き添いの母親に「脇腹を締める」の <締める> をスペイン語でなんと言うか尋ねているところをみる。
 酒場で彼女と付き出しを食べてから、夜行でマドリッドまでトンボ帰りする。がらがらの一等車だったが彼女は当たり前のように私と同じコンパートメントに寝ようとする。気丈な彼女でも1人はやはり不安とみえる。
<>1975年8月20日(水)
 起こされて、列車がシャマルタン駅に戻っているのを知る。彼女は電話でマドリッドに住んでいる土井さんという女友達を呼び出す。私はユーレイル・パスが切れるまでのあと一往復の猶予を、ザビエルのパンプローナにしようか、ベロニカのハエンにしようかと迷う。あさってからの下宿探しをインフォメーションに頼むと、郊外の閑静な所という私の条件とは裏腹に、街のド真ん中ソル広場近くの下宿を紹介してくれ、おまけに、
 「日本人がたくさんいますよ」とつけ足してくれる。
 土井さんが来て、タルゴでバルセロナヘ行くという地理学科の彼女を一緒に見送り、もっといい下宿を知っているという土井さんについて地下鉄でそこへ行く。マドリッドの地下鉄は潜水艦の内部のようである。鋲も出ていて突起物が多く、ゴツゴツしている。彼女はスベイン語が堪能で、下宿屋ではトントン拍子で話がまとまり、インフォメーションとは半分の値段で折り合いがつく。そこに荷物を置き、彼女から日本大使館や安い食堂街、日本料理屋などの貴重な情報を得る。幸運である。今晩の夜行まで時間がたっぷりあるので、私の家に来ませんか、ということになり、空手を教えているお兄さんと一緒に住んでいるという彼女のアパートで、7月の新聞や女性週刊誌を耽読し、メロンやラーメンを馳走になってから、時事通信社の『チェコの<勝利>と悲劇』という本を借りて辞す。
 下宿も決まってみれば、今度は二等車しかない夜行でハエンヘ往復するのは億劫であるが、下宿の個室が空くのは明後日からだというし、このヨーロッパ旅行第一段階の締めくくりとして <最後のご奉公> といった心境である。
  二等のコンパートメントは座席が固定していてベッドのようにならず、私の他に中年男が2人いて思うように寝れなかった。

1975年8月21日(木)

   ベロニカの聖顔布 駅前のタクシーの運転手に、ベロニカの聖顔布の絵を描いてみせ、ここに行きたいというと、小さな教会に案内してくれた。しかしそこの人々はカテドラルヘ行け、と言う。なんだか分からないがカテドラル内の博物館に入ると、それがあった。見た途端に、後世の作り絵であることが分かった。本物はやはりウィーンのハプスブルク家所蔵の方である。こちらの方は絵葉書があったが、あちらは写真撮影も複製も教皇名で禁じられており、目をつぶって思い出すしかない。
 とにかくこれでハエンに来た目的は達っせられてしまった。グラナダのヘルツの係員が教えてくれたとおり、<ハエンは何もないところ> なので、とても夜まで間がもてない。時間つぶしに国鉄バスに乗って隣の町まで食事に行く。するとそこはハエンよりも何もなくて、肝心の食堂すら駅周辺に見当たらない。それでそこから特急列車を待ってもう1つ先の駅まで行く。これではじわじわとマドリッドまで戻ってしまう。着いた所は1週間ぐらい前の夜行列車で夜3時半に目が覚めて、老人が子供に接吻しているのを見たリナレス駅だっ特急タルゴのロゴた。真夜中見たときは大きな駅だと思ったが、真昼間着いて知ったことは、たんなる荒野の乗り換え駅であるということ。食事もとれず馬鹿馬鹿しくもなり、ついに次のレストランつき特急列車タルゴでマドリッドまで戻る。
 今晩の宿泊探しもまたバカバカしいかぎりなので、夜10時、郊外電車に乗ってユースに行ってみる。途中から重いリュックを背負ったドイツ人2人、オランダ人1人の若者たちと一緒になったので、4ヶ月間近く私はこれをやってきたのか、と今さらのように思う。着いたユースは閉鎖されており、町中の別のユースを紹介される。ここは広い森林公園の中なのでタクシーがなかなか来ない。通り過ぎた白バイが戻ってきて私たちを怪しんだりする。やっとタクシーをつかまえて乗りつけると、受付にはもう誰もいなくて満員と知る。よってとがめる人もいないので、フロアーに直にシーツを敷いて寝る。タダで泊まれるなんて幸せである。
 かくして旅の第一段階は終わった。横浜を出発してから110日目であった。

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