『旅 行 記』  (1975年5月3日〜1976年3月20日)


1975年8月2日(土)

 ここら辺はもう田舎で、モン・サン・ミッシェルヘ行く便は日に2本しかなく、必然的に昨夜の30歳のティーナ嬢と一緒に行くことになる。こんな田舎の一等車も満席に近いので、いまやバカンスは全欧に真っ盛りと思われる。モン・サン・ミッシェル
 目的のモン・サン・ミッシェルは、かくも観光地化されていなければ、まさにルブランの「奇巌城」はかくならんと思わせるに足る奇観を呈していた。修道院の受付入り口で10フラン拾って、ちょうど彼女と2人分の入場料となった。周囲は広大な干潟であったが、大潮の時ここに海水が押し寄せてくる様はおそらく壮観の一語に尽きるだろう。
フランクル「夜と霧」 駅に戻るバスに乗るとき、目の前のなんでもない小母さんの左腕に 73390 の数字が入れ墨されてあった。なんだろうと思った次の瞬間、アウシュビッツ強制収容所での <囚人> 番号だと分かった。写真で見たものがこの日常に現実に息づいていた。<入れ墨をした人が完全に死に絶えるまで、次の戦争は始まってはならないな> という、突拍子もない感想を抱く。
 サン・ブリュックのユースを予約しておいたが、鉄道の便がなく、ユースのある隣り町サン・モルヘ行く列車も早や店じまいし、彼女の『ヨーロッパ1日10ドル』の本に載ってる安ホテルも満員で、結局9時10分発の最終列車でレンヌという町に行くことになる。
 鄙びた駅で列車を待ちながらとりとめもない話をし、昨日アンケートを書いてもらった時に彼女が言った言葉を思い出し、
 「なぜあんたはクリスチャンでないのか、神を信じてないのか」と尋ねると、彼女は、
 「なぜ?」といぶかし気に聞き返して、その意が分からないのかという顔つきをする。先の入れ墨の婦人のことを話しておいたのが導火線になったのか、
 「なぜなら私は Jew だからよ」と言いはなった。私はアッと思ってそれで一切が分かったように思えた。なにか固いものの感じられていた彼女は、ユダヤ人宣告で以後やにわに饒舌になった。
 ----ではヤーベを信じているのか。
 「そのとおり」
 ----ではキリストをどうみるのか。
 「モーゼたちと同じ預言者たちの1人である。キリストは救世主に祭り上げられたけれど、私たちはメシヤはまだ来ていないと考えるし、神はキリストのように偶像化されてはならないもので、十字架や蝋燭や葡萄酒の儀式は愚かしいものである」と、まあこれはユダヤ人のキリスト教に対する一般見解と異ならない。ユダヤ教の燭台
 「しかしあなたがたの使っているダビデの星も1つのシンボルではないか」と言いかえすと、とたんに弱腰になって、
 「その通りで歴史的な詳しいことはよく分からない」とかなんとか...
 今度の旅行でイスラエルヘは行かないのか、と尋ねると、かつて3年そこに住んで6ヶ月間キブツで働いた経験があるという。イスラエルは美しい所だ、とつぶやいたが、この30歳の独身女性は、そうすると小銃の扱いも心得ているということだ。「エキソダス」
 シオニズム運動(ザイオニズムと言い直された)とハガナー機関についても尋ねてみる。かつて映画『エクソダス』を観た、と言うと、あれには非常に興奮し感動した、と言う。自分たちの国家が成立していく過程を追った映画だから、違いない。イスラエル承認をめぐる国連の採決が、ラジオから逐次流れる感動的なラスト・シーンでは、観客の彼女たちも拍手し怒号したという。映画の筋としては私も感動したが、 ただ部外者として私たちはアラブ世界のまったく逆の反応にも同情し、理解できるということだ。近くは国連の座を奪われた台湾中国もそうだが、 その蒋介石の国民党軍に蹴ちらされた台湾民族独立運動の志士たちが日本に亡命していることを考え合わせると、まったく弱肉強食の域を一歩も出ていないことがあからさまになる。
 ダッハウ強制収容所へ行ったが、あそこは今では簡素化されてしまっている、と彼女に言うと、あそこはアウシュビィッツと違って強制労働だけのキャンプではなかったか、と聞いてくる。はじめはそうだったが、戦争末期にはやはりガス室と焼却炉が設置された、というと、彼女は「ああ」とため息をついた。
 夜10時半にレンヌに着いて、タクシーでユースに,駆けつけたが、満員で断わられ、若者用のツーリスト・ホテルらしきものを紹介される。久しぶりの個室で真夜中の洗濯をする。

1975年8月3日(日)

 蚊が3匹いてあまり寝られなかった。ユースのベッドなら血を吸われる対象が拡散するが、個室だと集中攻撃である。
 旅行としてはこの辺り、どうしても見ておきたいものもなく、見たいもの----たとえばオルレアンから数キロばかりロワーヌ川を遡ったジェルミニー・デ・プレの小さな礼拝堂や、ナントから40キロのマッシュクールという所にあるかもしれないジル・ド・レイ侯の居城ティフォージュ城の廃虚などは、ガイド・ブックにも載っていないし、インフォメーションでも埒が開かないだろうし、単なる小都市をまわるだけならドイツで経験したことなので、いささか憂欝である。
 ブロアに泊まる予定であったが、乗り換えが面倒なので、手前のトゥールに泊まるつもりで駅前からバスに乗ると、途中のバス停から今朝先に出立したはずのティーナ嬢が乗り込んでくる。偶然にはもう驚かなくなっているから、
 「どこ行くの」などと話しかける。
 こんな田舎のユースに、ときおり階下から日本語らしいものが聞こえてきていぶかったが、35、6人の日本YH主催の団体とわかった。明日、近辺の城めぐりをするのだという。そのうちの1人に、日本のユースはミーティングなどあってつまらない、と話したら、その人がツァーのボスで、下関ユースのペアレントだと後で知る。その人に秋山という若い英語教師を紹介されたが、彼は静岡榛原の在で、実はこの3月、静岡のわが勤務先にくる話があったのだという。どんな所にきても何かあるな、と思う。 その時は断わったそうだが、私が気楽な格好でこんな所にいるので、また気持ちを動かされたようだ。
バックギャモンとマスターマインド 夜、英国青年とバックギャモンをする。私がバックギャモンを知っているのに驚いていたが、なぜあのゲームがそんなに面白いのか私には分からない、と言って、一戦交えることになった。これは西洋すごろくの一種だが、ルールは私の知っていたとおりで、負けてはしまったがやはり退屈なゲームでしかない。それよりももう1つ、 彼が持参していたマスター・マインドというゲームの方が、教わってみるとはるかに論理的知的であり、これはぜひ買わなければならないと思った。

1975年8月4日(月)

ツール大聖堂のステンドグラス 下関ユースの主人に哀れまれたのか、残り物の菓子をもらって意気揚々とツゥール駅に行く。ちょうど絶好のオルレアン行列車が出発した直後だったので、やむなく時間つぶしに市内の美術館とサン・ガティアン寺院を訪れたが、これがとてもよかった。気紛れは何がさいわいするか分からない。美術館にルネ・デカルトの肖像画があって、こんなものがこんな所に、と驚かされるし、カザンという画家の絵のモチーフにも共感を覚える。 寺院のほうは翼堂のバラ窓やステンドグラスが今次大戦にもやられてなくて、ゆっくり一巡すると万華鏡の中にどっぷり漬かっている感がする。
 オルレアンは、偶々そこにシャルル・ペギーの博物館があるのを知って、ぜひ行ってみたくなったところだ。博物館があるぐらいに彼は認められているのか、という気持ちである。学生時代、ジャック・マリタン夫人の交友録を読んで、マリタンやレオン・ブロア、シャルル・ペギーらの交際を羨ましく思い、上智の聖三木図書館で、『半月手帳抄』を借りて読んだことがあったが、 その時はキルケゴールに没頭していて、ビアイオーム的な <人々のなかに> といった思潮や運動には消極的であった。
ジャンヌ・ダルクのサイン オルレアンのインフォメーションでジェルミニー・デ・プレを確かめると、数キロならぬ30数キロ先と分かり、バスの便が悪いので断念する。そこはスペインを経由したビザンチン様式の回教的モザイクで名のある礼拝室で、スペインにはこれから行くし、回教圏にも来年入るから、ま、いいか、と思う。
 シャルル・ペギー博物館は、博物館というより資料室といった感じで、訪れた人も私しかなく、彼のリセ時代の写真や成績表が多く、他には彼の戯曲『ジャンヌ・ダルク』の広告ポスターや、ドレフェス事件の顛末、ビュリオンへの手紙、『半月手帳』の古新聞等が展示されてあった。
 美術館にも立ち寄ったが、切符を買って入ろうとすると、横手の塔をまず登れ、という。察するに陳列品に見るべきもボルテール・ルソー・モリエールのがないので、おまけとして市内を一望しなさい、ということらしい。確かにたいしたものはなかったが、教材用にボルテール、ルソー、モリエールの胸像があったので、その絵葉書を買っておく。ベザスという人物のポートレートがあり、 解剖学者ウェサリウスだと分かって写真に撮ったら、守衛がとんできて50サンチーム(35円)取られる。 撮ったら取られる。
 トゥールヘ帰る時刻表をみたら、17時14分にオムニバスとあり、バスで帰るのも一興と思い、駅の切符売り場と市営バス、長距離バスの案内所と、駅のインフォメーション、それに改札口と渡り歩き、もともと誰ひとり英語を解さないので埒が開かず、結局、鈍行列車のことと合点がいったが、オムニバス(乗り合い自動車)に各駅停車なんて意味があったのかと思う。だいたい観光案内所とYH以外ではめったに英語が通じないし、英語のパンフレットもまだ1つも見ていない。 フランス人でも英語を知っていればもちろん英語で話してくれる。フランスがもっとも英語の通じない国とされるのは、 実際にフランス語が酒落ていることと、それにプラスして彼らの言葉に対する中華思想と、その結果として行きつく、要するに無教養、ということになる。
 鈍行らしい鈍行に乗ったのはこれが初めてなので、だれ1人乗り降りしない辺鄙な停車場で、ワンピースの奥さんが1人だけ赤旗を持って突っ立っているのを見る。
 夜は、ひょんなことから外人相手に2時間にわたる日本語の大講習会となった。メランコリイは日本語でこう書くのだといって、<憂欝> と二度書きすると、ため息ともつかぬどよめきが起きるので、 You just write letters, but we Japanese MAKE letters  とダメを押す。ひょうきんなオランダ青年がとくに日本語を知ろうと熱心なので、張り合いがある。象形文字なら分かりやすいので、山や月、日、木を説明し、日と木で、毎朝木の向こうの太陽を拝むから<東>になるのだ、というと感心する。手品をやっているようなものである。日本語を覚えるのに何年ぐらいかかるだろうか、と聞いてくるので、話すようになるにはそれほど難しくないだろうが、日本語を書くことは永遠にできないだろう、といっておどかす。言いたい放題であった。

1975年8月5日(火)

 きのう今日にかけて市内の幹線道路の7ヶ所で、ヒッチを試みている若者たちを見る。そのうち2人連れの女の子 (これはもっとも効率がいいとされている) を見ていると、やがて高級車に乗った初老の人が車を停めた。悠然と当たり前に車を停めるといった感じで、女の子の1人も当たり前な顔で乗ったが、もう1人の方は本当に嬉しそうに乗り込んだ。
 今日はナントを経由してサンテまで行くつもりで列車に乗ったが、ウトウトしていたら、乗っている車両が切り離されて支線にはいってしまった。気が緩んでいて、車両自体の行く先を確かめなかった初歩的ミスのために、もしかしたらマッシュクールが分かるかもしれない、というナント経由の夢はついえてしまった。
 サンテも当初の予定になく、見るべきものとてない小さな町だが、旅行中にここのユースの主人が碁気違いで碁盤がズラリ並べてある、という話を聞いたので、スケジュールをやりくりして2泊とったのである。
 確かに碁盤はあったが、話とだいぶ違っていて、主人はもうだいぶの年寄りで、なんでもフランスで最初にゴ・クラブを作り、解説書も出して、目の前の碁盤も木製の碁石も自分で作ったものだそうだが、実力は「20級」でも川端康成「名人」う忘れてしまったといってやろうとしない。せっかく私がやりに来たのだから、とやや無理強いに挑んで星目置いてやってみたが、途中で難しい、分からない、といって放棄してしまった。英語がぜんぜんダメだったが、 川端康成の碁の小説『名人』のフランス語訳を持っているというので、私もあれは読んだ、よかったよかったと言うものの、拍子抜けの感なきにしもあらず。
 去年ここで働いていた日本人の蔵書というのが数冊あって、森鴎外を借りて読む。『舞姫』や『うたかたの記』を新鮮な感覚で読む。鴎外28歳の時の作である。

1975年8月6日(水)

 ボルドーまで往復する。終日碁をやるつもりでいたのに、主人がもうろくしてしまっているので、鴎外片手にあまり関心のないボルドーへ行く。美術館もたいしたことはなかった。公園でモンテニューとモンテスキューの銅像をみて絵葉書を買おうと思ったが、絵葉書にもなってない。
 ラスコーの壁画のある洞窟は、カビのため絵が剥落しかかっており、数年来公開されてないことを知る。
 鴎外の『雁』を読む。心理分析が鮮やかで、名作には違いなかろうが、何かもの足りない。
 夕食に冷やしスパゲッティ・ラーメンと胡瓜の塩もみを作る。美味。夜、泊まり客が昨日より減ったので、蚊の来襲を蒙けて寝られず、蚊帳を思う。

1975年8月7日(木)

 ボルドー、ダックスと乗り換えてルルドヘ向かう。ダックスから一等車室に乗り込むと、いつかは言われるだろうと半ば期待していたことだったが、先客のベトナム人から「ここは一等車だけどいいのか」と念を押される。他ならぬ東洋の人からいわれてニヤリとする。ルルド
 ポ−を過ぎると、車窓右手にピレネーの小高い山々がみえてきた。ルルドが近づいたので気をつけて見ていると、教会の尖塔がみえてそれに違いないと直感する間もなく、教会の脇下に見覚えのあるベルナデッタの洞窟と、参詣する大勢の人々が車窓より見えた。
 案内所で日本語のテープを聴いて由来をいま一度確認してから、飲み水場と洞窟と、その先の冷水浴場を一巡する。ちょうど婦人患者が入浴する時間帯で、対岸の病棟とここと病院、地下聖堂を結ぶ手押し車の列が引きも切らず移動しており、巡礼者や観光客にまじりあって、混雑していながら一種異様な静けさが支配している。
 1つの洞窟とそこから湧き出る泉をめぐって、これはなんという機能性の高い秩序正しさであろう。病院があり、浴場があり、駅から教会まで無数の土産物屋があり、それらどうしようもなくへばり着いた日常性が、かつて聖母がベルナデッタに語ったという言葉、
 「泉の水を飲み、浴びなさい」のひとことに基づいている。当時突拍子もない話は今も突拍子もないはずなのに、いったん権威づけられ、教会が建ち、奇蹟が実証されはじめると、突拍子もないことが当たり前になる。重症患者や奇形の人が、治療過程のどこで泉水を浴びるのか分からないが、この <無茶はもとより> の医療体系が、実に突拍子もない綱渡りの上に存しているにもかかわらず、淡々と事が運ばれている。神話はいったん崩れればもろいが、これは神話でなく、 単に <突拍子もない> というだけの事実であり、それをこちら側の日常性に体系的に組み込んでいるだけのことである。
 数多くのGパンに頬髭の若者や、まだ少年少女と呼べる人たちが、手押し車を押したりして甲斐甲斐しく患者の世話をしている。地下の大聖堂
 地下の大聖堂に降りると、おりしも聖体降福式の最中で、荘重なパイプオルガンの響きと会堂を埋めつくしている信者の数に圧倒され、「主よみもとに」の旋律に思わずして唱和している自分を知る。典礼は仏、西、独、英の4ヶ国語で行なわれており、遠国からの巡礼団を示す幟があちこちに見られ、一隅を担架や手押し車がズラリ占めている。
 いったんは躊躇していたが、喉も渇いてきたので泉からひいた水を飲む。それは干天の慈雨にも似てみょうに嬉しいことだった。水は水でしかなく、洞窟の泉も溝にこぼれ落ちて下水となり、ポー川に流れ込む。しかしその水は聖母マリアの導かれた泉であり、時に奇蹟の治癒をもたらすただの水である。
 洞窟に戻り、だいぶん人出が減ったのでそばまで寄り、ベルナデッタがそこに膝まづいた辺りの椅子に腰掛けて、マリア像をみつめた。あそこに二千年前に実在した人が現われたとは、なんという不思議ではないか。<見ずして信ずる> とは、もしかしたら信じがたきものを <見てなお信ずる> ことより容易いかもしれない。
 洞窟をみながら、ひたすら突拍子もないことだと思う。信ずる信じない以前に、信じがたい「事実」が先にある。こんな突拍子もないことを信ずるには、その突拍子もなさに賭けなければならない。突拍子もなくはないかのごとく当たり前に信ずるのでは、突拍子もなさが失われている。それならばいっそう「そんな馬鹿な」と一蹴するほうが立場としては鮮明であろう。あるいは初めから「そんなこともありえます」と、いまさら何をいうかとばかり平然としているかのどちらかである。どちらにせよ、たとえばテレビの臨時ニュースで 「このたび宇宙人が地球に到着しました」と知らされて、「それは大変だ、で、それはさておき、今晩のおかずは」と最後には視線を戻す情けなさがある。 ベルナデッタ
 超自然とは人間が現われたり消えたりすること、あるいは死んだ人が蘇えること、という感覚そのものが自然的である。だからそういうことが起こればまさに超自然であると、自然的に締め括る。ベルナデッタから話をきいたターベの司教ローランスが目に涙を浮かべたのは、その瞬間、超自然を自然の範疇からでなく、<超自然として> 知って感動したからだろう。しかしその彼も日頃のミサ聖祭の聖体変化の奇蹟には、超自然を超自然とすることなく、したがって日々感動して涙することもない。 もっとも彼もまた一朝ことあらば殉教する普段の人であるとは----聖霊の働きとか <為されたる業に由りて> とかが取り交わされてくる所以である。
 ルールドの教会敷地内にも若者のための宿泊施設があると知ったが、駅のロッカーに荷物を預けておいたので、二つ三つ先のターベのユースに泊まることにする。駅までの道に迷い、7時18分の列車に乗り遅れると10時すぎになるので焦ったが、ギリギリまにあう。小走りの私の形相を見て、道端にいた大きな犬がワッと肩のあたりまで跳びかかってきたが、<忙しいのになんだお前> と犬の顔をみやると、黙って引き退った。
 ターペの小さな町にはもうバスの便がなく、ユースまでの長い道のりは大儀であった。

1975年8月8日(金)

巡礼の少年 再度ルールドヘ赴く。行ってどうこうするというより、雰囲気に浸りながら、英語版のルールド解説を辞書で確かめながら読んでみたり、思いついたことを書き記したりする。昼過ぎからベルナデッタの伝記映画を観るが、後半の修道院での出来事はフランス語だし、字幕はスペイン語だしで退屈する。
 ルールドはミステリアスな所だ。行く川の流れのように、日常性が逆まき渦巻いているが、心を沈ませ、耳を傾け、目を見開けば、その底に動かざる川床が横たわっているのを知る。
 夜、雨の中をツールーズヘ向かう。9時すぎに到着したが、ユースの住所も乗るべきバスの番号も控えてあるので心配ないと思ったところ、バスの便がすでにない。夜行列車でどこかへ行ってもよかったが、そこまで堕ちたくないと変な矜持でタクシーに乗り、なけなしの金を払う。遅く到着するのは問題である。知らない街は歩いてみたいが、知らない街に夜半到着したくはない。とくに懐のさむい時。
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