『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)
ツールーズの貧弱な美術館を見てから、カルカソンヌヘ向かう。そこに中世最大の完璧なシテ(城塞)がある。シテ行きのバスはシテとまったく反対の方向へ行き、住宅街を一巡してから駅前のさっきと全く同じ停留所に停まり、そしておもむろにシテに向かった。それでも宿泊場所が見物場所の内部にあるのほど、ありがたく嬉しいことはない。
日暮れを待って城下に降り、城塞全体のイルミネーションに灯が点るのを待つ。堅固な要塞である。夜襲か、機略をもちいるか、あるいは正攻法ならば戦車のようなもので攻め入らねば容易に落ちないと思う。映画『大将軍』では、城壁と同じ高さの車のついた建造物で、壁に横付けて乗り込んだ。雨が降ってきたので傘をさして20分もひとり待っていると、かすかに水銀灯が点ぜられたのが分かり、さらに5分ぐらい経て見る間に光の輝きが増し、数秒間のうちに夜目あざやかに城全体が夜空に浮かび上がった。坐っていたが思わず立ち上がる。
昨日はルルドにあって奇蹟を思い、今日は中世の城塞にあって城攻めを練る。衣食も最小限ながら足りており、精神的にかくも豊かな贅沢な旅をしている。
今日でフランスの旅を終えるが、印象は要のパリを通り抜けただけのせいか、何かとりとめもない。
朝、駅まで行くバスがなかなか来ないので歩く。きのうバスの通ったコースをその通り戻れるかどうか、重い荷物を背負って歩ける範囲内に駅があったかどうか、列車の発車時刻とにらみあわせながら、歩くべきか待つべきかと小さな決断一つ下すにも、判断はなかなか容易でない。
ナルボンヌで乗り換えて、待望の物価が安いといわれるスペインに入る。赤茶けた岩肌の露出した山に緑濃い灌木がへばりついている。ポート・ポーで入国検査を受け、広軌のスペイン列車に乗り換え、そこでカルカソンヌのシテで会った慈恵の医学生・村井君と一緒になる。
バルセロナ駅で物価が安いことを信じてホテルまでタクシーで行く。300円。中級ホテルに村井君と泊まる。1700円。高級レストランでフル・コースをとる。1800円。
今から思えばかなり高いが、それでもいい気持ちになってカタルナ広場でのんびりしていると、詐欺に遭った。口惜しいが書かねばならぬ。隣の椅子に腰掛けていたスペイン青年が、ホテルで私たちを見かけたと英語で話しかけてき、身分証明書をみせて自分の父がホテルのレセプションで働いているのだという。それから今日はバルセロナで年に一度の大きな祭りがあって、入場料は1800ペセタ(9000円)で高いが、フラメンコあり闘牛ありで、9時にホテルの前からバスが出るという。スペインの他の都市からも外国からもこの祭りのために人々が集まり、あなた方がそれを見ると一生忘れない思い出となり、ベリー・ベリー・ハッピィとなるだろう、と言う。
祭りに入場料があるのは変な話だし、スペインの感覚からみても9000円は異常に高いし、私はまだ両替をしていないからペセタを持っていないと言って一旦打ち切ったが、その間もタバコを勧め、椅子の坐り賃を払ってくれる。しばらくしてまたその話をぶり返し、ベリー・ベリー・ハッピィを繰り返し、両替は私が手数料のいらない所を知っているという。2つの手口を抱き合わせている訳だ。あまりに熱心だし、その異常な熱心さが嫌だったが、つい村井君と行ってみようか、とその気になった。時間がない、と私たちをせかせ、3人して公園から5分ぐらい歩いた所にあるという切符売り場に向かう途中、先ほどから理解しがたいことをまた繰り返す。すなわち自分は上席の切符を持っているが、貴方たちは外人だから同じ料金でも売り子が安い席にしてしまうであろう、というような理不尽なことを真剣に言う。そして私が君たちの代わりに買ってきてあげる、「いや、一緒に行く」というとダメだ、と言う。さすがに村井君が、
「しかし私たちは貴方をまだよく知らない」と言うと、父があなたがたのホテルのレセプションにいること、自分がクリスチャンであること、さらに身分証明書をまた見せて、「なぜ疑うのか」と苦笑する。あなたの切符というものを見せろ、というとホテルに置いてあって今はない、という。ではホテルに一緒に行こう、というと、それでは切符を買う時間がなくなるという。それで煩わしくなって、これで盗まれたら詐欺であると承知のうえで、キリストがユダに <することをせよ> といった心境で、あるいはクリスチャンなら責任をとって罪をかぶれ、といった擦りつける心境で、
「ではあなたを信ずる」と、村井君は2000ペセタ(10000円)、私は200フラン(14000円)を渡す。
彼が私たちのお金を持って角を曲がるまでの歩き方は、不自然なまでにゆったりしており、それも私たちに充分疑われていることを知っているからそうなっているのである。
「これで戻ってこないと詐欺ですね」
「そうですね」
----ここがイタリアならば絶対乗らない話で、警察国家スペインに入って低料金でフルコースを腹一杯食べた感激と満足感が私たちを緩ませていた。やはり戻ってこないので二手に分かれて彼を捜し、ホテルに戻って確認し、
「いちおう警察に行ってみますか」
「そうですね」と警察へ行くと、丁寧に日本領事館を紹介される。持ち金の半分を盗られたのだから口惜しいことは口惜しいが、とうとう体験してしまったか、という感慨深いものがある。
ホテルのバスに浸かって、バルコニーに出て、
「あ、夜景がきれいですよ」などと言いながらビールを痛飲して、やがて前後不覚になる。
熟睡の果て目が覚めるが、今までにない虚脱感がある。領事館行きを断念し、二泊の予定でいたが、村井君と相談して荷物をホテルに預け、今晩の夜行でバレンシアに行くことにする。駅で行列して予約をとることに半日かかる。
街がシェスタに入ったので、海パンに水中メガネ、シュノーケルを持って駅から海岸沿いの支線に乗り、適当な海水浴場で降りて泳ぐ。岩礁がないからつまらない。貸しバンガローのシャワーを無断借用してから、バルセロナの少年らと街に戻り、大寺院を参観するも、村井君は半ズボンなので入場が許されない。フェデリコ・マレース美術館ではルネサンス・ゴシック期の稚拙なキリスト教関係ばかしの木彫りと、写真術発明初期の怪しげな茶色い肖像や踊り子の写真を見る。ピカソ美術館では、彼が大家となってからの作品よりも、習作時代のデッサンや落書が豊富に取り揃えてあって、彼も絵を描くのが好きでたまらない少年の1人であったことが分かる。漫画家となるも画家となるも、出発点は同じである。
ホテル近くのバーで、夕食代わりにビール1本と、ナスや魚のフライなど酒の付き出しをたくさん食べて安くあげる。フランシア駅前の石段で村井君と23時45分発の列車を待っていると、日本人の若い即席グループが100ペセタ(500円)のホテルを探して健闘している。
一等のコンパートメントを二人で独占できて安心する。
もっと寝ていたかったが、気がついてみると列車はすでにバレンシア駅に到着していた。近くのカステロンに一泊する必然性もなかったので、そのまま朝9時発グラナダ行に「予約行列式」を経て乗車、快適な冷房車だったにもかかわらず、2両編成で支線を時速30キロでゆったり走る。
荒涼たる不毛の土壌はシベリアを思い出させる。シベリアは氷が、スペインは太陽が作り出した人為を許さぬ自然である。こちらはサソリがいても可笑しくない灼熱の大地であった。
村井君から新書版の『血液型の話』(古畑種基)と『癌』を借りて読む。さすが医者の卵である.。一緒に詐欺にあってから共通の被害者意識、連帯感をおたがい持ち合わせている。途中から同じ車両に、男1人、女2人の若くて珍奇なふざけてばかりいる日本人が同乗していたのを知る。女の子たちの方は、私がツェルマットのユースの芝生で他の連中とだらしなく寝そべっているところに来て、満員で断わられた人たちだと分かる。
グラナダ近くになって降りる用意をはじめると、お婆さんが近寄ってきて、自分はグラナダのペンションの者だが、1人80ペセタでどうか、とスペイン語で商談をはじめてきた。願ってもないので皆して即決、列車は結局400キロを10時間かけて到着、タクシー2台に分乗して件のペンションに着くと、お婆さんは張り切って嫁に「客をたくさん連れてきたよ」とでも報告、
「またですか、お母さん、もう満員なんですよ」とか言われてしょげるのが、私たちにもよく分かる。結局近くの、より立派な商売敵のペンションに案内されてから、5人うち揃ってレストランに行き、名物料理に貪婪な彼女らからパエラなる混ぜご飯を入れ知恵されて、それを食べる。彼女らはサングリラなるやはり名物の飲み物も注文したが、前知識で知ったオレンジとレモンの輪切りが入ってないと不満顔であった。
村井君はセゾン・ド・ノンノの <ヨーロッパ特集> を持っており、それにスペインではドライブ旅行が快適で安いとあり、私が国際免許を持っていると知って、3日間ぐらいレンタ・カーに乗ってみることになった。私はもちろんお金がまるでないので、持って来すぎた彼に借り、横浜経由で返済することになる。1975年8月14日(木)
ヘルツの営業所の感じのいい係員に、ハエンヘ行ってベロニカの聖顔布をみるのだというと、クリスチャンかと聞く。そうだと言うと、ニヤッとして自分はクリスチャンでないという。スペインは圧倒的なカトリック国ではないか、と聞くと、公式的にはそうだが、ほとんどの若者は教会へなぞ行かない、と知らされる。各国の青少年に実施しているアンケート調査からもうすうす分かっていたが、汎ヨーロッバ的に若者は<教会>を離れてしまっている。感激も交わりもない教会のミサを疎んずるのは当然の傾向であるが、その代わりに何か絶対的なものを模索しているのでもなく、離れたままで平にして凡なる良識だけの相対人間が、若者のあいだに定着しつつあるのではないか、という危惧がある。
「あなたのアンケートは書く人に偽善を強要することになると思う」といわれたこともある。東洋の教師がキリスト教教育の実体を知るためにヨーロッパでアンケートを実施しているので、皆は書いてくれているのだろうが、そこに疾しさを持たずに素直な気持ちで書く者は少なかろう、という謂であった。言ってくれなければ分からない指摘であり、それ以後、書き込む時の人の表情も努めて見るようになった。
レンタカーはすこし大きめのバンである。4ヶ月ぶりの運転だが、前輪駆動で左ハンドル、右側通行というスリリングなドライブがはじまる。予想以上にレンタル料が高いので、アルハンブラ庭園で腹痛をおこした村井君を車に残して、もう1人相棒となる日本人をそれとなく探す。
アルハンブラは、砂漠の民がこれを作った、ということで納得がいく。緑と水を自由にする、ということが彼らにとって最大の贅沢であったことは、イザヤ・ペンダサンの『日本人とユダヤ人』にもあったことだが、アルハンブラでそれが分かった。石段の両側のおばしまの部分にまで、樋のように水を導き流しているのを見て、その執念のきわまりを知る。
その庭園で結局、小川君という大学4年生が、マラガの先で泳ぎたいからといって付いて来た。車を運転しながら彼が剣道三段だと分かり、私の態度も豹変する。混雑するグラナダ市街からハエンに出る街道を捜し当てたが、往復すると7000円の出費と分かり、引き返して一路マラガに向かう。
貧乏でかつぜいたくなバランスの崩れたドライブ旅行がはじまった。小川君は村井君を「お医者さん」、私を「先生」とあだ名する。彼は松坂屋に就職が決まっていて、自分をノーマルすぎるほどノーマルな男と自称するが、それにしては弁がたって女好きである。「剣道は強いも弱いもなくて、ただハッタリである」と教わる。体育会系の学生にふさわしい単純さを持ち合わせていて、それまで体育会系の学生となぞ言葉を交したことすらないというインテリ風の村井君といい対照をなしている。
着いたマラガも大きな海港都市でしかなく、丘の上のヒブラルファーロ城から市街を望見して、一路 <太陽の海岸> をひた走る。ここはレンタカーの係員が素晴らしいから是非行け、と薦められて来たものだが、ワイキキ海岸も適うまいと思われる延々70キロにわたる高級避暑地的リゾート地帯は、人が多くて高そうでとうてい泳げる雰囲気でなく、二つ三つのキャンプ場に立ち寄っても、満員だったり、すれていたりでそれらしさが見当たらない。8時すぎたのでもう夕食がとれるだろうと食堂に入ると、8時半からだという。そこで夕食を食べ終わったのは10時すぎだったが、サマータイムとはいえ、だいぶ暗くなったので、泳ぐのは明日にまわして、 幹線道路を外した一般道路脇の森蔭と崖のあいだに車を留めて車内に一泊、月をみながらビールで乾杯、私は前の座席に屈葬の形で寝る。車の座席に寝ることは今までにも2、3回体験しているが、やはり寝つかれるものでなく、夜中に何回か起きて姿勢をかえる。
街道筋の早起きの酒場で熱いコーヒーを飲んでシャキッとなり、そのままジブラルタルの先まで突き抜けるが、その途中3人して、ああ凄い、と嘆声をあげた谷あいの白亜の町並みに立ち寄った。そのあと北アフリカに渡りたいという私の強い希望で二人ともその気になり、でも船はどこから出るのでしょう、などといってるうちにフェリーの標識があり、自分たちがモロッコヘ渡る港町アルヘイラスに入ったことを知る。切符売り場で料金を聞くと、人間ならきわめて安く、車ならきわめて高いことが分かってフェリーを断念、せめて海の向こうのアフリカを見ようということで、鉄道の通わないイベリア半島の最南端タリファの町に着く。1975年8月15日(金)
路地裏まで車を乗り入れると、さすがに人々が戸口や窓から顔をのぞかせる。白亜の家と曲がりくねった石畳の裏通り。強烈なソルとソンブラのコントラスト、抜けるような紺青色の空、警備兵が案内する廃虚の要塞、そこより地中海と大西洋を分かたつ海峡かなたに煙るアフリカ北端部を見る。----来た、という感じですね、の言葉そのまま、一様に同じ感慨を抱く。
大西洋側に、広大な人気のない砂浜と長大な海岸線を発見、私自身は岩礁で素潜りでなければ面白くないのだが、普通に泳ぐならここに尽きる、といった、降りしきる陽光、打ちつける白波の絶好の広がりようの浜辺である。勇んでそこへ向かうその手前で車が砂に潜って立ち往生、ロバにうちまたがった親子がブラブラ近寄ってきて手伝ってくれるが、らちがあかない。そのまま息子を引き乗せ、またブラブラどこかへ行ってしまった。途方にくれるとやはりこの海岸線に魅せられたらしい家族連れが波打ち際から戻ってきて手伝ってくれ、片方を皆で持ち上げ木片をかませ、次いで反対側をセーノで持ち上げ、次に車を前に後ろに反動をつけて機をみて一気に脱出、教本通りの鮮やかな手口をみせてくれた。これがイタリアはローマから来た家族連れで、イタリア人でスペインは南端までバカンスに来る家族はイタリア人らしくない人々であった。
2人の少年が向こうで凧をあげており、たまに水着姿の人が横切っていくだけの広々とした海岸線で、6時ごろまで陽を浴びる。立派な砂の要塞を作ったが、波打ち際より離れすぎていたため、
「敵はなかなか攻めてきませんねえ」
----パンツ1枚で快適な運転をさらに続ける。高い料金を払ってレンタカーを借りている身分なのに、ヒッチ・ハイカーを乗せてあげるゆとりも皆のあいだに生じ、英語が話せるならオーケイ、という条件でイタリアの学生をカディッツまで同乗させる。車が停まってくれるまで8時間待ち続けたという彼の話は、なんともいえない。
カディッツで食糧を買い込み、すこし手前の海水浴場に戻って車を止め、椅子を倒して車座になって夕食をとる。500円も出せばベッドもシャワーも可能なのにそれをせず、そのくせビールを8本も買い込むとは、バランスの崩れた旅である。他ならぬスペインで何処の国よりもお金を遣い込んでいることでは同じであった。
今夜もよい月明かりである。広場によく吠える野犬が4匹ぐらいたむろしており、剣道三段が小便に行くにも大丈夫かとヘッピリ腰になる。明け方近く、非常に寒くて服を着込む。
カディッツの市中をヘルツの営業所探しに行き来する。手間取った原因は東を向いているべき矢印が北を向いていたためである。カディッツからセビリアまでは田舎の二等列車で昼過ぎに到着、そこからバルセロナヘ戻る小川君を村井君と2人して見送り、私たちは闘牛場へ向かう。今日は聖母被昇天の祝日なので闘牛があるだろう、という予想が当たり、ダフ屋から額面より高いソル(日なた)側の入場券を買う。
闘牛は、最後のとどめの一突きで決まらなければ、きわめて見苦しいものである。しかも牛がドウと倒れるべき急所はきわめて狭い範囲らしく、それまで華麗に演じていたマタドールが、二突き三突きでも失敗して次第に焦りの色を濃くして非難の口笛と野次のなかで、早く殺せとばかり首をうな垂れている牛に何度も刺し直すのは、観衆を含めて後味の悪い私たち側の敗北である。オーレの掛け声もあまりかからず、興奮する観衆も全然いない白けた田舎の闘牛だった。どこかでもっと程度の高いのを見直さなければと思う。
駅前でビールと魚のフライを腹に入れてから、夜行でマドリッドヘ向かう。一等車は混んでいて、6人掛けに5人という状態で寝苦しい。夜中に目をさますと3時半で、列車はリナレスという駅に停車しており、水を買う。向こうのプラットフォームに列車が入ってきて、こども連れの一家族が、この時間に迎えに来ていた祖父母と再会の抱擁接吻をする。こどもや赤ん坊が老人夫婦の無遠慮な口づけを受けている。