『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1976年3月13日(土)

  朝の便でタイに発つ。バンコックの空港で、日本のヤクザみたいな連中が、殊勝な顔をして入国手続きを待っており、日本から簡単に来られる所まで来たな、と思う。この国はビルマと違って、自由経済で物が溢れていて、バンコックは日本の都市なみである。タイ語と中国語と英語の看板が目を引いて、日本商品が氾濫している。中国語は横書きの場合、右からだったり左からだったりで、統一されていない。
ルンピニ公園周辺地図 さっそく日航で香港行きを予約するが、月曜は便がないというので、ルフトハンザにしてもらう。マドリッド以来ヒコーキは19回目になるが、日航の切符なのに、まだJALに乗る機会がない。また、どの空港でも気をつけていたのに、いかなる空港でも日航機をみかけなかった。
 ルンピニ公園で今がシーズンの凧上げを見たりして、キック・ボクシングのスタジアムヘ行く。これを観れば、タイ入国の目的は達したことになる。土曜の夜なのに人出が少なく、しかもダラけた観客ばかりいて、リング・サイドには例のヤーさんや西洋人、B席、C席には男ばかりで、試合の最中、派手に賭をやって一回戦ごとに現ナマが乱れ飛んでいる。C席から金網にしがみついて観たが、軽量級はまるで子供の体躯で、大人が必死の形相でシャモをけしかけるように罵声をあげているのを見ると、リング上の二人が痛々しい。八回戦のうちには、回し蹴りが相手の顔面に命中して、1発でKOになる場面などもあった。
 部屋に戻ってシャワーを浴びていると、ノックがあって、
 「クーニャン?」と訊いてきた。いろんな安宿に泊まったが、こんなのは初めてで、さすがバンコックというのだろうか。

1976年3月14日(日)

 街中を歩くと、中国人とタイ人の区別がつかず、漢字ばかり目について、物が豊富で、なにか <華僑> とか <新開地> といった感じで、シャム王国のイメージがまるでない。
川と家と水浴びと 水上バスでチャオプラヤ河を遡る。どこで降りるか決めかねたが、現地女を連れた西洋人が降りたところで、倣って降りる。支流に沿って青物・肉類・魚貝類の大市場があって壮観である。市内いたる所に食べ物屋があるが、茹でトウモロコシやバナナ、きし麺を食べてご機嫌。
 ビルマ国2泊3日は10ドルで済ませたが、タイ国2泊3日は10ドルをちょっと出そうになったので、番頭に免税タバコを2箱売って足しにする。 3000円のうち、キック・ボクシング450円、宿泊費1200円、出国税600円だから、どだい無理か。出国税とかビザ代というのは意外と気がかりなものである。

1976年3月15日(月)

 ルフトハンザは、DC−10という横9列の大きなヒコーキだった。この機種はかつて飛行中、荷物置き場のドアが外れてフランスに落っこちたことがある。全員死亡。ヘルシンキ〜ストックホルム間の客船のTVでその特集をやっていた。しかし機内食は立派。イヤホーンでクラシックが聴ける仕掛けもあって、なかなか。インドシナ上空を通らずに、海の方を迂回して行くので、3時間半という大飛行であった。香港政庁の入国カードに「出生地・横濱」「職業・學生」などと書いてみる。
 やがていくつもの島が墨絵的にみえ、香港島が一望され、九竜市上空を滑って、海に突出た啓徳空港に着陸。なにか、見えたからもういいや、帰ろう、という気分だが、まだまだ土曜日になっていないので、ここにも立ち寄ってウンコをしていかなければならない。
 いちぱん安いYMCAホテルが2700円で、度肝を抜かれた。今まで一泊600円で張り込んだなあ、という感覚だったから、<東洋の真珠> が敵意をむき出しにしているような錯覚を覚えた。探せば安宿もあるのだろうが、香港の安宿というと、なにか不気味である。香港ドル紙幣がゆっくり眺める暇もなく飛んでいった。もっともYMCAは九竜の桟橋近くにあって、対岸の<東洋のホタル篭> が部屋の窓から見える。あ、なるほど、あ、なるほど、といった感じで、夜間、海上からアテネ市内に感動したことに比べれば、すこし霧が出ていたせいか、香港も
ナポリもアテネに一歩ゆずる。
 夜、ネーザン通りを中心に横丁や裏道を選んで歩いてみたが、ネオンサインの大看板の群れにまた度肝を抜かれた。赤色中国だって創価学会だって、人海戦術で派手なデモンストレーションをやるだろうが、自然発生的に、これでもかこれでもか、と目を奪うような光の洪水を創りあげたエネルギーは、中国四千年のしたたかさに因るのだろうか。ただ規制されているのだろうが、点滅するネオンサインはまったく一つもない。これで一斉にチカチカしていたら、真っ先に運転手の神経がやられるだろう。せいぜい動いているのは床屋の(といっても、やけに多い怪しげなマッサージ付 <女子理髪屋> の)動脈・静脈のシンボルだけ。
 雀荘もいくつかあって、店先などでゲタ牌を使って気持ちよさそうに打っている。クッソオッ!
 去年10月のロンドン以来、久々に湯槽に浸かってアカを落とした。

1976年3月16日(火)

 フェリーで香港島へ渡り、中華旅行社でビザを申請し、中華航空で明日の台北行きを予約する。午後、バスで新開地の元朗へ往復する。
 バスの二階前部に坐ってネーザン通りを行くと、広告の海の下を泳いでいる感じがする。英語と中国語の列記は、読んでいて飽きない。「気をつけろ」は「小心」、「ゆっくり」は「慢」、コカ・コーラは「可口可楽」 etc.
 漢字表記は、平仮名・片仮名と異なり、一つ一つ意思表示と説得力を持って、見る者に迫ってくる。痔の病院・薬局が目立つ。食事や生活様式は日本と変わらないから、「生涯<ぢ>一筋」の久屋大黒堂が進出しているのも納得できる。ちなみに、九竜側から対岸の香港島の、目にはいる広告塔を左から右へ順に追っていくと、
 キャノン、パイオニア、NEC、富士フィルム、シチズン、コニカ、味の素、ソニー、メルセデス・ベンツ、オリエント、サンスイ、バイヤー、東芝、マルボロ、帝人、ローレックス、ラドー。
 下校時にぶつかって、あちこちの学校の制服を着込んだユーフクそうな生徒さんが、家路を急いだり、一膳飯屋でとぐろを巻いたりしている。天主大中学などというミッション・スクールもあって、松本零士の大予備校を思い出す。所々のお役所に、ユニオン・ジャックがはためいているのを見ると、なんとまあイギリスという国は、と絶句する思い。
インチュンホワ 新開地は竹や松、笹にまじって桃が盛りで、夏の暑さからようやく春先・三月に戻ったようだ。 
♪ インチュンホワが咲いたなら、お嫁にゆきます隣村、王さん待ってて頂戴ネ
 夕方、ビザ取得のため再び香港島に渡り、ビクトリア・ピークまでバスで登る。曇り日で山頂は霧が流れている。登山電車で降りるが、崖を削って高層建築が続くような街ははじめてなので、上ばかり見上げて、よく建ってるなあ、材料を運び上げるのが大変だったろうなあ、と感心した。

1976年3月17日(水)

日航スチュワーデス初見参 昼の啓徳空港で、はじめて日航ジャンボ機をみる。出国手続きのところに「ホテルの鍵はここへ」という箱が置いてあって、こういうのは持っていかれると困るんだよなあ。日本語で書いてあるのが、いかにも曰くありげではないか。アナウンスは英語、日本語、中国語。しかのみならず、運動会や学園祭並に日本人団体客の誘導員がマイクをがなり立てている。また日本航空717便バンコック・シンガポール行きの団体客で、洩れた日本人が2人いるらしく、ファイナル・コールをなんども繰り返している。喧騒喧騒。日航のスチュワーデスが10人ぐらい目の前を通った。濃紺色のユニフォームをはじめて見た。嬉し泣きしたいぐらいだった。
日本観光指南 中華航空機内に置いてあった17日付け「毎朝南華新聞」とでもいうのか、South China Morning Post(香港発行)に載っていた記事、
 「地下鉄になぜ日本語式中国語を使うのか」という見出し、すなわち <Hongkong lron >は中国語でなく日本語(起源は中国語にもかかわらず)であり、日本式に装いをこらした言葉である。香港はかつて奇怪な英語式中国語でどこの中国人にも笑われたが、いまや日本語式中国語にとって代わろうとしているのか、といった内容であった。スチュワーデスの1人はとても可愛くて、今までのピカ一。
 台北の税関はきわめて厳しく、包装紙がどんどん破られたり、週刊誌がポンポン捨てられたり----しかしどこの国の人々も土産物を満載して入国するのに驚かされる。こちらはニヤニしながら見ていたが、リュックをボンドにして布袋1つで入台したので、
  Nothing to declair!と怒鳴ったらフリーパスだった。
晴天白日旗 台湾のガイド・ブックをみると、晴天白日旗があって開口一番、「中国は世界最大の人口と第二の国土の広さをもち、合衆国よりも広いが、共産主義者が大陸を占拠しているので正確な人口は不明である」と書いてある。地図をみると、中華人民民主主義共和国がすっぽり中華民国の版図となっている。100年や200年の占拠は漢民族にとってなんでもないのだろうが、この場合は同一民族だからなあ。
 ホテルの客引きが流暢な日本語で話しかけてくる。自分で安いのを探す、といっても付いてくる。むこうは勉強したつもりで、
 「10ドルぐらいならどうか」という。こちらはビックリして、
 「とんでもない」と言ったら、サッと離れていった。その退け際よし。駅行きの市内バスで、座席のお嬢さんが宿屋「全民旅社」「わたしは がくせいです。わたしは 一つきまえに とうきょうに つきました」と始まる <日語教本> を読んでいる。なにか面映ゆい。駅近くに1泊2ドルの安宿をみつけた。ここの主人は日本語を話す。台湾生まれのこの人もかつて日本兵として出征したのだろうか。
 夜ブラブラ街を歩く。香港ほどのすさまじい広告ラッシュはない。この国が最初の外国だったら、新奇さに目を見張っただろうが、ビルマあたりから日本的なものばかり見ようとしているから、台北などはもう <戻った戻った> という感じである。

1976年3月18日(木)

 日航の身代わり会社、日本亜州航空で土曜の東京行を頼むが、昼頃発の便は各社軒並み満員といわれ、やむなく朝の中華航空にしてもらう。
 路地の屋台で甘い米のとぎ汁みたいなのを飲んでから、タクシーを奮発して故宮博物館へ。商代甲骨文よし。春秋・戦国など物語りの時代だったのに、その時代の鼎や壷・豆が展示されてある。明朝磁器はトプカピで感じたことと同じ。もっとも近しく心休まったのは書画であった。絶品と思われたのは掛け軸の顧安・倪□(Ni Zan)合作「古木竹石図」という墨画。顧安と朝張紳が笹と老木を書き、楊維禎が題を添えたものを、3年後の洪武6年(1373)、73歳の倪□(Ni Zan)が左下に苔むした岩を描き添えたもの。枯淡の筆致と構図の全一感は本来無一物そのまま。ただ数おおくの募集者の朱印が、小心な欲を主張している。
バスの切符裏面 夜は人殺し鮫の映画。あちこちの国で看板を見ていたので、いつかは、と狙っていたもの。キック・ボクシングの前に国歌があったのはおかしかったが、映画館で全員起立して国威発揚の国歌演奏フィルムを見せられたのは、背筋が寒くなる思いだった。かつて統制国家をして「パチンコ屋に入るのに身分証明書をみせること」と定義してみたことがあったが、それもまんざら戯画ではない。<亡国の遊び> 麻雀も禁じられている(台湾の麻雀は13牌でなく16牌)。映画そのものはテンポの早いスリリングな娯楽映画でよかった。英語を聞き、中国語訳を見ていると、画面をみる暇がなくなる。
 宿屋に戻って帳場のTVを観ると、堂々と人民公社の劇をやっている。高雄から高速道路の基礎工事に来ている年配の鄭福泉さんともう1人の人が、
 「アナタ、日本人?」と確かめてから、これは政府の宣伝だと教えてくれた。
 「つまり人民公社を悪く扱っているのですか」と聞くと、そうだ、と言う。そのあとお酒をご馳走してくれた。はじめは<米酒> という労働者用の、次いで<黄酒> という紳士用のを飲んだ。2人とも日本語教育を受けており、日本語を使うのが懐かしいと言う。日本語を使うことを通して子供時代が懐かしいのでは、と問うたら、それもあるが..と言葉をにごした。そのあと嫌な時代が続いたし、ということだろう。
安宿周辺 日本人団体客は高級ホテルに泊まるから、こんな安宿に来るのは珍しい、という。確かにインドまでたくさん出会った若い日本人トラベラーは、パタッと姿を消してしまっている。安い切符でダイレクトに東京に飛んでしまっているからだ。
 微妙な話しをいろいろ切り出してみた。
 「台湾ではネ、知らない人とは政治の話しないネ、ま、愉快に飲もう」と避けたがるが、それでも若い日本人相手だからか、言いたいことは言わなくても分かる。台湾生まれと大陸から来た人は、まったく離れていること、周恩来死亡の記事が短いけれど新聞に載ったこと、日本の大陸承認のあと、日本映画が姿を消したことなどを知る。こちらからは、大陸承認について蒋首相が「文芸春秋」に節度ある遺憾の記事を載せたこと、.台湾独立の民族主義者が日本に亡命していること、元日本兵の台湾原住民が発見されたとき、日本は戸惑いと後ろめたさの反応をみせたことなどを知らせる。彼らは感想を述べないが、真剣に耳を傾ける。国が統制すれば人は当然反発する、と述べたときだけ、ふた回りも歳の違う年配の彼らは強くうなずいた。
 そのあと日本語の本を持っている、というので借りてみたが、「リーダーズ・ダイジェスト」であった。なるほど無害である。その1冊のリンガフォンの広告に、勤め先の卒業生が顔写真入りで1ページものお世辞文を書いているのをみて、なにかこう、夢から覚めて現実に戻ったような驚きを覚えた。

1976年3月19日(金)

 南海学園の歴史博物館へ行く。紀元前6800年という世界最古の殷商期・縄文期。本来<容れ物>の出発点は雀の巣が泥の中に落ち、山火事で固くなったのが始まりだろうという。洛陽出土の漢・熹平石経残石(2世紀)は、今次大戦中、馬の腹に入れて隠匿し、台湾に運んだものという。唐三彩に開元通宝。原色にならされた者には分からない「玉」。清代、黄老奮という酔狂な人の、象牙を使って細工をし、さらに虫メガネでみるような微細な文字を書き込んだ作品群。
 歴史博物館隣りの科学博物館は、中学校の理科教材なみの陳列で気の毒であった。
拾圓紙幣 また映画をみようとしたが、手もとに残ったお金が(100元は出国税に取っておくので)22元しかなく、映画は大人35元、学生28元、軍警22元で軍警詐称は難しそうだし、結局、焼きトウモロコシ(5元)と大福2つ(6元)食べて10元札は記念として残し、宿に戻ると、
 「土屋さん、また井戸端会議しよ」と、きのうの人が言ってくる。
 

1976年3月20日(土)

3月20日台湾カレンダー 布袋1つの荷物は気楽である。空港で、ボンドのリュックはもうヒコーキに積んであると言われるが、現物を見てないのでちょっと不安である。中華航空----最後のこのヒコーキが落ちるんじやないか、といちばん怖かった。隣席は日本在住の台湾婦人、お姉さんを連れて東京見物だという。
 「富士山、あそこ、あそこよ、早く撮りなさい」とせかされて、アア、富士山!と写真に収める出入国スタンプ
 房総半島上空から東京湾を横切り、羽田に到着。空港内バスの日本語で書かれた注意書きをくりかえし読む。入管の係官がパスポートの写真と見比べて、
 「だいぶ顔が変わりましたね」と言った。                        <了>

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