『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1976年2月28日(土)

若かりし周恩来 自転車を借りてから、博物館を覗く。若かりし周恩来の肖像画があった。小高い山のスリヤンプ・ナート寺からカトマンズ盆地を見下ろす。こどもの物売り相手に、襟巻きとスナッフを入れる容器とを交換する。
一見「大運動会」 街の大きな広場で国王臨席の閲兵式があった。祝砲が鳴らされ、整列した兵隊による小銃の一斉撃ちを見る。今日は祝日で、こどもたちが路地に紐を使って通せんぼをし、通りがかった大人たちから金をせびっている。今日は祭りだからか、インドで見たより遊んでいるこどもが多い。ビー玉や縄跳びをやっている。夜になると迎え火だか送り火だか、通りで篝り火が焚かれた。
 いつもいつも人のハッシシを喫うのは悪いので、買ってみる。 怪しげな部屋で天秤で正確に量って6グラム13ルピー(320円)。同室の男はギターに長けていて、トリップしながら様々な即興のリズムを創り出す。弦をチタール風にチューニングして、東洋的な旋律をかき鳴らす。父親は駒沢大学で中国哲学を教えているという。

1976年2月29日(日)

 カトマンズは盆地の中央にあるので、ヒマラヤ山脈は周囲の山の端に少し見えるだけである。それで30キロ離れたドゥリケルという峠までガタガタ・バスで行く。道中の農村風景は日本と同じ。黄色い菜の花や、青々とした陸稲のような草が畑に植えられていて、春先の微風が頬を撫でる。この道は中国領チベットヘと続いている。
 峠で対面したヒマラヤは、<世界の屋根> というより、屏風か壁に近い。手前に深い谷があり、段々畑が下まで続き、向こうに小高い山がいくつもあって、いちばん向こう遥か遠くに、ヒマラヤ山脈が壁のように視界を遮っている。SFに、周囲をツルツルした高い壁に囲まれている町の少年が、なんとかして壁の向こうの世界を見届けようとする小説があったのを思い出す。あそこまで行って、さらにそこから酸素吸入器など付けて山頂へ至るというのは、想像を越えている。
 行きも帰りもバスは混んでいて、いきおい屋根に人間を満載したバスとすれ違う。村道を裸足の少年が教科書を両手に抱えて歩いている。それを見ると心が安らぎ、感動する。親がちゃんと教育を理解し、期待しているかどうかは知らないが、本当に「知ることは力である」ということを実感させて清々しい。
 インドでもネパールでも街路樹を育てようと、道路沿いに苗木を植えているが、ノラ牛などに若芽をついばまれないよう、穴あきドラム缶で囲ったり、煉瓦を積んだり、周囲を壕のように掘ったりして、工夫している。

1976年3月1日(月)

アンナプルナ 早朝、バスでポカラヘ向かう。いちばん前の席を予約しておいたから壮快だが、不必要に大きな警笛を鳴らすので神経に触る。それでも新しいバスは、人々に希望を与えるエリート・バスなのだ。 「来たぞ来たぞ」という合図でもある。
 山また山の山ぱかり。植物の分布状況はきわめて日本的で、段々畑が頂まで続き、日本の農村風景と異ならない。ここがネパールのカトマンズからポカラへ向かう途中だから我慢できるが、日本だったらもうのんびり田舎を旅行する、などという心境ではないので、イライラするばかりだろう。道路は中国の援助によって作られ、その起点と終点にネパール語・中国語・英語の記念碑があり、中国語では
  普力斯車公路----尼泊弥国王陛下政府和中華人民共和国政府合作修建1973
と書かれている。
 ポカラは湖に映えるヒマラヤの山容を楽しむところ、とあるのだが、雲が厚くてそのヒマラヤがまったく見えない。それでも自転車を借りて湖畔に向かうと、こどもが3人来て丸木舟に乗れ、という。乗ったけれども漕ぐのは面倒だから、日記をつけたりピーナツやパパイヤをかじったりしていると、風でだいぶ流されてしまって、戻るのに無駄な労力を使わされた挙句、彼らに紅茶をおごらされた。連中バクシーシを言うので、
 「それは悪い言葉だ、使ってはいけない」と言うと、ウンウンうなずく。学校でも言われているらしい。
 帰り道、自転車をこいでいると、向こうに煙があがって人が走っている。火事らしいが、外人なので急いでははしたないから、現場にゆったり駆けつける。途中、前を走っているこどもが「乗っけてくれ」と言ってきた。そりゃあ走りづめだから疲れるよな。
 燃えているのは見た目には納屋と物置である。火元被害者に10ルピーぐらいお見舞いする心得だったが、そう貧相な造りではないので止めた。すでにヨーロッパの若い連中もだいぶ来ている。リュックを背負ったままだったりして、彼らもそうとう暇なのだ。写真を撮っている不埒者がいたが、私もカメラを持っていたら撮っていただろう。水気が全然ないから野次馬が土や石を投げている。そこヘ ♪ カンカンカン、と消防自動車が一台来た。迅速迅速。シャーッと水が掛けられる。ジープに乗った警官隊も来た。警官といっても彼らの制服はセーターなので、臨場感に欠ける。消防自動車の水がなくなった。それでホースをそのままにして、水を汲みにまた出かけて行った。その間、警官の指導でまた野次馬が土や泥を投げつける。化学繊維やプラスチックなど皆無だから、黒煙も有毒ガスも出ない、ひと昔の火事である。消防自動車一台、ジープ四〜五台、タクシー二台、乗用車二台、バイク五〜六台、自転車三十台、見物人二百五十人ぐらいの規模だった。
 宿の泊まり客のインド人が、
 「日本は平和国家であると思う。電子工学の技術を軍事面でなく、日用品に活用している」と、話してくれるのを傾聴しながら寝る。

1976年3月2日(火)

 早朝同じバスでカトマンズヘ戻る。車掌も昨日と同じだから、
 「一泊しかしなかったのか」と聞いてくる。朝方、雲間よりヒマラヤの一部が顔を覗かせた。あの高さ、あの近さで湖面に映えれば、なるほど絶景であろう。
 昼すぎ、カトマンズの三人組のいるホテルに舞い戻ったが、体調を崩してしまった。原因は、朝早いための寝不足と、朝晩の気温差のはげしい故か。三人組のひ弱な一人が下痢で寝込んでいたのが回復し、変わってこちらが病臥に伏す。自覚症状は頭痛発熱。ギター弾きより非常用にクロマイ三錠をもらう。また寝込むのか、といささかうんざりである。

1976年3月3日(水)

部品 体調はまだすっきりしないが、すでにパトナへの便を予約済みなので出発する。ここでプロペラ機が登場する。翼は胴体の窓より高い位置にあって、エンジンはロールス・ロイス社のフレンドシップ機。ワクワクするが、ヒコーキはどうしても好きになれない。そろそろ好い加減落ちてしまうんじゃないか、と思えたりする。緊急時に際して、こちらが全く無力なのも不気味である。曇っていたからヒマラヤが見えなかったが、プロペラ機がたかく舞い上がると、遥か雲の上をヒマラヤ山脈が連なっている。これらは八千メートル級だから、ヒコーキより高くそびえているかも知れない。
 ビザなしのインド再入国を、予定どおりパトナ空港の係員から指摘されるが、デリーから出国の際に確認済なので、抗弁してケリがつく。パトナはビハール州の州都、ビハールはかつて飢餓宣言のあったところ。それをあとで確かめると、71年に東パキスタンから溢れた避難民のための飢餓宣言であって、我々インド人は飢えていなかったと強調される。しかしだからとて、満腹もしていないやせ細ったその愛国心に、応えるべきなんの言葉も出てこない。
 泊まった安宿は、窓が破れていて蚊の猛襲に遭う。4,50匹は殺したか、いい加減飽きたのでセロテープと紙で窓を繕って、何気なく天井の扇風機を回すと、留まっていたのが一斉にムワッと舞立って、さすがに恐怖にかられ、ホテルマンに殺虫剤を噴霧してもらう。
 頭痛発熱でそのまま臥す。どうも中近東・アジアは体調崩しの旅である。  得体の知れない下痢とか急性肝炎とか、マラリヤ、チフスといった恐ろしい病気でなく、全部原因の分かる風邪(と信じている)なのでまだ救われる。ミカンとバナナを食べて、腹の足しにする。「週刊新潮」を繰り返し読む。これは10日前、デリーで雲水がおまかせ教団の信者さんから貰ったのを、大切に取っといたもの。
 <失恋・入獄・大患> は男を創る三要素、という勝手な話を聞いたことがあるが、カラチでもボンベイでも、ここパトナでも、ぜいたくな牢獄・大病のイミテーションをしているのだと割切っている。殺虫剤といっても、機械油を散布したようなものなので、しばらく経つと、また破れ窓からさんざん蚊が来襲してくる。獲った!逃がした!と釣り人の心境で柏手を打つが、殺らないと刺されるので趣味にもならない。羽をむしった生け捕りを二、三匹こしらえてサディスティックにいじめてみたりする。こんなことで男が偉くなるのか。

1976年3月4日(木)

 あまり寝られなかった。栄養を補給しなければならない。ここでも食事ができる、とシーク教徒のホテルマンは言うが、汚いので遠慮して外に出る。インド国内航空で、月曜日のカルカッタ行きを予約してから、隣りの高級レストランヘ行く。キチンとした格好のインド人の若い一団が金を払って出ていったが、「無理しちゃったわ」という表情は否めない。私の場合で食べたいだけ食べて、600円ぐらいなのである。デリーで児玉誉志夫が表紙になっている「ニューズ・ウィーク」を見かけたので、買おうとしたが、もう今週号ばかりで先週のはないという。ロッキード事件はパキスタンの英字新聞で最初に知った。
 また殺風景な暑苦しい狭い部屋に閉じこもって、体力の回復を待ちながら蚊と戦う。掌につぶれている蚊をピッとはじくと、ときどき壁にビチャッと付く場合がある。それで壁に模様ができた。ハエも一匹だけいるが、これは無害だから観戦武官のようなものだ。

1976年3月5日(金)

 朝起きて、今日1日もう一回静養すれば治るな、と思ったが、動いたらどのくらい悪くなるかも知りたいしで、ホテルに荷物を預けてブッダ・ガヤヘ旅立った。結果的にはフラフラのダウン寸前になったが、いろいろある一日になった。
 リキシャで駅に行くと、出札窓口がどこにあるか分からない。駅員に聞くと、列車がもう出るからとにかく乗れ、と言う。デッキにうずくまっている母子3人は、動き出した列車にこども二人が好奇心を見せて立ち上がったのと、二、三、言葉を発しあっていたという人間らしい行為によって、はじめてこちらが救われるほど、なにか消え入りそうなゴミみたいな存在だった。車内の荷物置場に登って、横になり、少し寝た。
 ガヤに着いたので、皆のあとに付いていくと、線路伝いにどんどんプラットフォームから離れていく。そのうち放射状に人々が散っていくので、貨車の下をくぐって踏切りを渡って、リキシャに乗って、ブッダ・ガヤ行きのバス溜り場まで行った。靴磨きのこどもが私のスリッパを指差して、「磨かせろ」と言う。トルコではこどもの靴磨きが溢れていて、それでも商売が成り立っていたが、インドでは靴を磨くなどという生業は難しいのではないか、と思っていたら、サンダルを磨かせているので、なるほどスリッパも充分対象になるのだと知った。ささやかな労働を通じて、お金が動けばいいのだ。
 ガヤからブッダ・ガヤまでバスで85パイサ。旧式のバスは不相応なかん高い警笛を鳴らすが、路が狭くて人が多く、リキシャや牛が群れているから、ヒステリックにピィーッ、ピィーッ、と鳴らしても仕方がない。5年や10年では変わりようのない景色に、人の営み----なにか、政府が産児制限をいくら奨励しても駄目なのではないか、と思える。天敵の多い動物ほど卵の数が多いのと同じで、親たちは本能的に少数のこどもでは不安を抱くのではないか。裕福な階級はともかく、何かの拍子に人はコトッと死んでしまう、と知っているのだから。
 ブッダ・ガヤ部落で降りると、10歳の少年ゴパールがたくみな日本語で話しかけてきた。
 「お金要らないョ、日本人の友達たくさん作るネ、そして少し経ったらパスポート作って日本へ行く」
 ----日本寺の坊さんや旅行者に習ったのだという。リキシャに乗ると彼も乗る。パトナからガヤまで90キロをタダ乗りした、と話したら、それはとても難しくて滅多にできないことだ、と言った。利発な子である。
 日本寺に行くと、パトナの飛行場で会った日本人がいたが、彼はここの人間であった。宿舎が満員だったので、近くのツーリスト・バンガローに宿を決めてから、ゴパールの案内で世尊が沐浴したという蓮の池を見る。
 「昨日、おじいさん、死んだネ」
 「あ、そう」
 「あそこヨ」
 ----指差した方向、土手を登りつめた所に、黒い老人が行倒れて死んでいた。すでに蠅が舞っている。しかし脱水状態というより渇水状態に近いので、この暑さでもさほど腐乱してないのが見てとれる。
 「あの人、このあとどうなる?」
 「知らないヨ」
 テヘランでは、歩道に倒れたまま、□から血を出して体をピクピク痙攣させている男を見た。東京のような雑踏の中で、やはり東京のように人垣もできず、人々は一瞥するだけであった。それは最初にテヘランに着いて、リュックを背負ってホテルを探している最中のことだったので、その街がひどく恐ろしいものにみえた。カトマンズのレストランでは、給仕の1人が、札を握ったままゴトン!と凄い音をたてて、棒のように失神昏倒したのを目撃した。今また、まったく散文的に遍路の老人が死んでおり、ゴパールは「知らないヨ」と言う。
 彼の店屋でダベッてから食事をおごるが、インド式なので食欲がでない。彼の友達が来たのをさいわい、食べさせる。その後こども3人連れて、だいぶ離れた河向こうのチベット寺に馬車で行くことになった。彼ら勇んで馭者と交渉、20ルピーで落ち着く。そこヘイスタンブールで会った男と再会し、彼も暇なので同乗する。思いのほか遠くなので、うんざりする。馬車だから優雅なはずだが、体が弱っているのでゴトゴト揺れて参った。
ゴパール(左)と友達 河のところに来て、降りろ、と言われる。河といっても雨季だけのもので、今は干上がっており、砂の河床が続いて河幅は一キロぐらいもある。つまり車輪が砂に食い込むから、馬のために降りて歩くのだが、この炎天下に遮るものもない砂床を衰弱した体でフラフラ歩かされたのは、アラビアのロレンスをして偉いなあ、と思わせるに充分であった。あ馬、ゴパールを蹴るまり疲れたのとバカバカしいのとで、山の中腹のチベット寺まで行くのを止めて、近くの木陰で休んでから帰ることにする。
 こども連中は近くの、樹木の幹を削って樹液を溜めてある壷を失敬しに行く。帰ってきたゴパール、餌を食べている馬のそばに行き、後ろ足で腹部を派手に蹴られて吹ッ飛ばされ悶絶、やがて息を吹き返し、者の介抱を得て元通りになる。何かこう、メチャメチャである。
  「酒飲むか」と言って、こどもの1人、地酒を買いに行く。すこし甘くて白くて、酢っぱいシロップにいくぶんアルコールを帯びている程度。壷に入っていて、それを布で漉して飲む。飲み終わると、壷に沈んでいたたくさんの蟻が布にビッシリ真黒く付着していて、蟻酸で酸っぱかったのかと知る。日射病のように頭が熱くなって、横臥していたところへ、微量とはいえアルコールが入って、頬は赤らみ、額はズキンズキンとして最悪。そのうちなんだか知らないが、大人が1人どこからか加わって、声高く言い合っているうち、見ると少年の1人が泣いている。壷に入った樹液の盗み飲みがバレたらしい。しかのみならず、泣いてる子がその壷を割ってしまったのだと知る。
 「ちゃんと謝ったか」
 「謝ったヨ」
 「じゃ心配するな」
 「1人10ルピーずつ払え、言ってる」
 「それは脅しだ、安心しろ」 ----件の大人は何か向こうの方に怒鳴っている。
 「縄持ってきて縛る、言ってる」
 そのうち、こどもがお金貸してくれ、というので、壷はふつう幾らだと聞くと、50パイサだという。大人の魂胆が日本人から金をせびることにあるのだと気がついて、急に腹立たしくなり、心底怒ってムックリ起き上がり、件の大人に怒鳴ってやると、こちらの剣幕に驚いて、こどもが皆泣き出した。ポケットから1ルピー取り出して大人に弁償しようとすると、大人は目顔で、
 「違う違う、懲らしめているだけだ、全部演技だ」という合図をする。それを見て、なにかこう急にガックリきた。いつも猜疑心に捉われて身構えているから、こんな子どもへの躾けにも気がつかず、本気にしてしまったのだ。大人の口調がだんだん和らいでいき、子供たちが泣きやみ、1人が私に「終わったネ」と確認する。こちらは恥ずかしくて、顔もあげられない。
 別れてまた、河床を馬車が行くころは、最初に泣いていた子はすっかりはしゃいでいて、
 「おまえ、泣いたな」というと、照れ笑いをする。帰りの道中はかったるくて朦朧となって、ようよう薬を服んでベッドにガバッと臥した。

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