『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1976年3月6日(土)

 すっかり回復して、ブッダ・ガヤはきわめて平和な朝であった。夜明けを迎えた釈尊の心境に倣う。近くの日本寺から鐘の音が響く。白いヤモリはカトマンズのホテルにも、パトナにもここにもいるが、この広い部屋には、さらに窓から雀が幾度も出入りして、軒下でなく部屋のなか、天井の扇風機の取りつけ部分に巣作りをする小田実「何でも見てやろう」。こどもたちは日本人を <センセー> と呼ぶ。誰かがサーの和訳を「先生」としたのだろうか。予定では今日バラナシ(ベナレス)へ行って、喧騒なヒンズー教徒の沐浴風景を見るつもりだったが、ここ仏教の里の平和が体を休めるのにふさわしく、もう一日滞在することにした。前の部屋の日本人たちから、『般若心経講義』や『なんでも見てやろう』を借りて読む。小田実の時代と変わったもの変わらないもの、例えばテヘランは彼の頃よりまったく近代化されており、インドはまったく変わっていない、など。
 賑やかな方へ果物を買いに行く方々、釈尊大悟の菩提樹を見る。気根つらなるバニヤンツリーのような、いかにもインド的な木を考えていたが、釈迦の菩提樹と『冬の旅』のリンデンバウムという、相反するイメージを繋げるための約数として、要するに平凡な木であった。リキシャで宿に戻る途中、自転車に乗ったゴパールたちとすれ違い、彼らターンして一緒に宿に来る。穏やかな夕暮れに入相の瞳、近くにはタイ寺もビルマ寺もあるが、日本寺の簡素な様式がやはり清々しい。窓辺からきわめて爽やかな夜風が入ってくる。クロマイ一錠服んで早めに寝る。

1976年3月7日(日)

 蚊に刺され刺されの夜だったが、壮快な朝である。ゴパールの店屋で、着古した服と仏足を型どった銅製の装飾品を交換する。彼ら、しきりにパトナヘ連れていけ、と言う。ガヤまでなら往復の足代を持つ、と言ったが、パトナヘ、パトナヘ、というのを振り切って別れる。来るときは無賃乗車だったが、帰りは出札口に並ぶ。三等がなくなって、二等の駅舎ほどインド的な所はないだろう。うす暗くて、人がたむろし、物売りがいて、牛が迷い込んでいて、「インド的非能率さ!」と声に出しても、自分のその声が聞き取れない喧しさで、勝手にペッ、ペッと唾を吐いて、それが香辛料か何かの実で真っ赤な唾で、裸足の人々がその上を踏んで行って、この暑いのに行列を乱されまいと、みな遊んでるみたいにピッタリ体を押しつけあって・・・
シヴァ神と妻パールヴァティー しかし夕方5時発の満員列車は、吹込む爽やかな風と、緑溢れる田園風景できわめて快適であった。日本まであとタッタ2週間、と気がついて、浮き浮きしていたせいもある。
 「日本はどちらの方向ですか」と尋ねて、家族の写真を抱き、そちらを向いて死んでいった南方の日本兵。途中、演習帰りの兵隊が多数乗り込んできた。民間人より栄養がついていて、はるかに体格がいい。大きな携帯ラジオを持っている兵がいたが、銃と日本製ラジオの組み合わせは奇異である。
 陽が落ちて暗くなって、それでも飽かず外を眺めていると、線路に沿った小川の蔭や草木に、目をみはるような蛍の群舞が続いた。クリスマス・ツリーのイルミネーションとも、身を焦がす恋慕の炎とも違って、本当に不思議を思わせるページェントである。清水川へ蛍狩りに行った頃を思い出し、蚊帳に蛍を放したことを憶い出し、ある朝、障子越しに吹き寄った秋風に驚いたことを思い出し、そして車窓から頸を突出して夜空を眺めれば、これは中空に真冬のオリオン。

1976年3月8日(月)

 午前中にパトナからカルカッタへ飛ぶ。軽食を期待していたのに、ビスケット4枚とシロップ1杯で、禅寺のおやつ並み。アメリカ人カップルと安宿街へ行くが、彼らはインドは今日が初めてなので、安い安いとばかり高級ホテルへ。私はさらに安い安い向かいの救世軍へ。デンマークで結婚式を挙げたこのカップル、ジョンとパームは、おそらく私の学校に訪ねて来そうな気配である。数えてみれば、日本人、外人、そんな人たちが十指にのぼる。
ガンジスの支流、フーグリ川 カルカッタ----ひと昔は最悪な街だったろうと思わせる所。 ビルマ航空では木曜日のラングーン行きを、州観光案内所では水曜日の市内観光バスを予約する。
 「お泊まりは?」 「救世軍」
 全快したので久々にシャワーを浴び、日記を清書する。夜は映画『トム・ソーヤ』を観る。30円。自然児トムの行動が、懐かしく古き良き時代といえるためには、いちおう満ち足りた物質文明にわが身を置いていなければならない。ここインドでそれを観ると、裸足のトムが強烈な皮肉になる。しかし映画を観る連中はいちおう満ち足りているから、アメリカ人と同じ感覚になれるのか、と館内でいろいろ揣摩憶測した。町の者が総出でピクニックに行き、記念写真を撮るシーンは、憶い出せば昔、平作の町内から大楠山へ総出で行って、山頂で写真を撮った時代へと繋がる。<アメリカ> に組み込まれていくトムと、淀んだままの野性児ハックと、これは演出家もハッキリ対比させようとしたものとみた。

1976年3月9日(火)

「卒業」 何もすることのない日。例のアメリカ人カップル、いそいそと救世軍に移ってくる。昼間、映画『卒業』を観る。内容よりも、それを観ている英語を使う満員のインド人が、ひと握りの階層でしかないことに思いをいたす。格差・格差、不均衡・不均衡。ニュース映画のガンジー首相が悲壮にみえる。彼女はこんなにやつれて年老いてしまっていたのか。

1976年3月10日(水)

ラマクリシュナ 8時発、カルカッタ市内観光バス・一日コースに乗る。考えてみればこの旅行で、市内だけの純然たる観光バスを使うのは初めてである。カルカッタでは、植物園のバニヤンの大樹だけ見たかったのだが、その植物園が街中から少し離れているので、尋ね尋ね行くのがもう億劫となり、だいいち暑いので、観光バスに委ねた次第。余禄として、ラマクリシュナとビビナカンダの活躍していた寺院を訪れたが、ガンジーの居間の方がなお質素であった。他に博物館2階で、奇形の羊の胎児(足8本や、頭1つに胴体2つなど)のアルコール漬け。動物園で白虎とタイゴン(西ベンガルの牡虎とアフリカ・ライオンとの合いの子)を見る。どこかの動物園には逆の組合わせもいる筈。
 救世軍には日本人が多い。カルカッタまで流れてきて、あとは安い航空切符を探して飛ぶだけ、ヤレヤレという感じである。ビルマとタイが陸路の入国を認めてないので、カルカッタから東京までは、どうしてもヒコーキになる。隣のベッドに新しく来た男が、後藤雲水と一緒だったことが分かる。また、隣の部屋の男は、インドの夜行列車で、枕にしていた旅行書類(パスポート、航空券など)を一切盗られて、ブラブラ再発行待ちをしている。意外にサバサバした表情で毎晩映画館に通っているのは、とにもかくにも終着カルカッタに来ているからだ。

1976年3月11日(木)

 デリーで「土屋さん!」と声をかけた学生さんが、朝方、カルカッタにまた出現した。彼は彼で別の知合いを見つけたらしく、私を見ると「あ、土屋さんもいる」と平気なものだ。彼はここから生まれて初めてヒコーキに乗るのである。怖いぞ、手続きが難しいぞ、とさんざん脅して楽しんだ。
 昼過ぎ、ビルマ航空でラングーンヘ立つ。カルカッタの税関の役人は暇らしく、3、4人がかわるがわる、
 「ネパールでハッシシを喫ったか」
 「本当に浮いた気持ちになるか」
 「女とやる気分か」、そして「サンプルを持ってるか」 ----おっとどっこい、役人なみに「ハッシシ所持は厳禁されている、警察に捕まる」と応えるとニヤニヤする。油断がならない。しかし彼らがハッシシを喫ったことがないのは本当かも知れない。他人はともかく、ただ眠くなるだけだ、と言ってみる。
 機内に入ると、飛び立つ前にビールが配られた。食後にはタバコが勧められて、こんなこまやかさが東洋に戻ったと実感させたビルマの民族衣装。ラングーンの空港から西洋人5人にくっついて、小型トラックの荷台を改造したバス・タクシーでYMCAへ行く。道中、インドからビルマに入って、彼らが一様にホッとしているのを知った。その思いはこちらも同じである。なにか急に穏やかになったのである。だいいち人が少ない。男女とも下半身に風呂敷みたいなのを巻いて、ゆったり歩いている。極端な統制経済で、商業広告がまるでない。モスクワや東ベルリンのようなコンクリートの大都市が殺風景だと死んだようだが、緑あふれるラングーンは自然の中に街があるので、ケバケバしい看板は、ないことでふさわしい。
 彼らが入国手続きの際の印象や、風景を通じてこの国を褒めると、自分ごとのように嬉しくなった。ビルマ国も日本国も、人間の顔立ちはまったくかわらないのだ。
 「東洋はインドからでなく、ビルマから始まる」と極言してみたが、荷台で窮屈そうにしているアメリカ人は、その通り、と同意した。
 「ビルマから日本までは1つの同じ国なのだ」
 「なるほど」
 「と、かつて日本の軍隊が言った」と付言する。
 YMCAの同室の先客は、その服装からてっきりビルマ人かと思ったら、日本人だった。流れ流れの旅行者でなくて、大阪外大ビルマ語科の学生さんで、小学生のときからビルマに執り憑かれており、外交官になってこの国に赴任するのが夢だという。対外政策が厳しくて海外資本が進出してないので、外交官になるしかテがないのだという。街中を走っている中古の日野自動車は、戦時賠償の一環である、とか、とにかくこの国のことをいろいろ教えてくれた。彼の場合はビルマ、ビルマの一点張りで、こちらの場合は通過しか念頭になくて(まったく、カルカッタの救世軍で「自分はラングーンに行かないから、代わりに白象を見てきてくれ」と言われて、はじめてビルマが際だったぐらいだった)、その齟齬が気になったが、実にいろんな人がいるのだな、と思われた。彼ぐらいにビルマ語が達者でも1週間のビザしかとれず、やむなく明日バンコックに行って、再入国するのだという。
 彼にくっついて、夜、この国の労働者新聞の編集長の家へ行く。そこの娘と文通していたのだという。4人姉妹に、婆さんに、その婆さんに、従兄弟に、別の従兄弟にと、とにかく沢山いた。娘がみな大学に行っているから、かなりな家だ。珍しいものや□に合わないものをいろいろ食べさせてもらった。キンマというのは、インド人の口の中を真っ赤に染めているやつで、いくつかの木の実や香辛料に、歯を駄目にする石灰が入っていて、その汁をペッと吐くと、血のようにみえるやつだ。従兄弟の1人にはポーランド人の奥さんがいて、国外にも通じており、ビルマはタイに比べて物がないくせに物価が高い、と、少し政府を非難していた。本気で非難すれば、たいへんなことになる。

1976年3月12日(金)

パゴダ ハイ、ちゃんと前むいて午前中、別の従兄弟とその友達がYMCAに来てくれて、ビルマ最大のシェエダグン・パゴダと、それがよく映えるという湖畔に案内してくれた。動物園の白象のほうは、なんでも陽射しが強すぎて茶色象になってしまったとかで、本当かどうか知らないが行く気だけはなくなった。
 午後、リキシャ・マンのヤミ両替屋が、タイの貨幣を1ドル35バーツ(公式レート20バーツ)でどうか、と言ってくる。その時は公式レートが分からなかったので、いったん別れ、アメリカ人に聞くといい話だというので、再度訪れる。彼の持参しているバーツが本物かどうか確かめるために、4時に再会することにし、その間、アメリカ人はタイ帰りの男からバーツを見せてもらって本物なのを確かめる。この話を聞いた連中が6人揃い、4時に7人して待ち合わせると、リキシャ・マンはあわてて1人でなければ、と言う。では1人ずつ、ということで最初に私がリキシャに乗って、ボスの事務所に行くことになったが、着いた所で私の金(15ドル=4500円)をよこせ、バーツを持ってくる、と言うので、それはできない、こちらは一度スペインで盗られているから信用できない、同時引き替えだ、と主張する。結局、彼のリキシャを担保にして待っていると、ダメだったようで、別のボスのところへ行く。ドルを持ったまま自転車のサイドに坐っていると、来い、といって30メートルぐらい歩いて横丁を曲がる。5チャットの手数料が要る、というので後で払う、と言ってドルを渡し、自転車のところに戻ると、その間に自転車がなくなっていて、詐欺だと知った。
 教訓。日本に着くまで、1日も油断してはならない。このテの詐欺の共通項。詐欺師はこちらの出発日を執拗に尋ねる。その間、商売にならないからである。6人にあわせる顔がなかったが、彼らは時間がかかりすぎるので怪しみ、もう待機してなかったから流石だな。二日しか滞在しないのにこの有様だから、BURMAへの心証は悪くなったに決まっている。ただ、自転車がなくなっているのを知ったとき、瞬間、詐欺だと分かったが、それでも盗まれたのではないか、彼が困るのではないか、と心配したのはいかなる心理か。

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