『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日

1976年1月24日(土)

 貸し自転車と貸しロバと、値段にあまり差がない。自転車の方が早いのでそちらを選び、再度ナイルを渡って、<王家の谷> を試みる。切り立った岩山の懐に抱かれているハチューストの神殿脇から山越えをする。6日前は小アジアの大雪原にあって、今はエジプトに、シャツ一枚で赤茶けた岩肌と照りつける太陽、真っ青な空をみている。この一帯、おもしろい鳥がいる。小走り鳥というか、道路横切り鳥というか、鰐の歯を掃除する手合いだろうか。
カルナックの大神殿と広場 ルクソールは遺跡や墳墓より、やはり自然である。ここがかつて、テーベという名の古代エジプト中・新王国の首都だったと思われたのは、カルナックの大規模な神殿を見たときであった。ロンドンのより大きく、コンコルド広場のより所を得た一枚岩のオベリスクが、辺りにふさわしい構えで屹立している。
 河口君より一足先に、カイロヘとって返す。夜行の寝台車は満席だったので、再度食堂車で粘ってから2等車へ行く。今日のはきれいな車両だった。寝台車はハンガリー製。浮き浮きしている若いグループが乗っていて、うるさい。

1976年1月25日(日)

 朝また食堂車へ行く。カイロ大学の女子大生が2人乗り込んでくる。学生証を見せて年老いた給仕をあしらい、勉強を始める。
 午前中に駅からタクシーで博物館へ。 基本料金40円で、5円ずつ上がっていく。博物館2階で、ツタンカーメンの黄金のマスクを見る。モナリザもミロのビーナスも、ツタンカーメンも、日本を通過すると通俗的にされてしまう。古王国から新王国まで。途中、エキナートン朝のとがった顎、大きな唇、突き出た後頭部の、末端肥大近親相姦後遺症群をみる。ここにもローマ帝国期の彫刻がある。ローマ、ローマ、ローマ。
 2時にユースに戻ってデレデレする。今さらながらルクソールの雄大さが思い出される。あそこではもう1日欲しかった。

1976年1月26日(月)

 ヒルトン・ホテル前のバス発着所から、河口君に見送られてカイロ空港へ行く。 ヒルトン・ホテルでトイレット・ペーパーを増補した。来た時は夜だったが、昼間みるとカイロ空港は無秩序で騒然としていて、たとえば本島と離島を結ぶ連絡船発着所待合室をそのまま拡大したようで、ほっとけば鶏を小脇に抱えてヒコーキに乗りかねない。アナウンスひとつで発着を捌いているが、よく聞き取れず、ダマスカス行きが30分ぐらい遅れていると分かるのも、こちらが努力すればこそ。
 シリア航空の、やや使い古した飛行機に乗る。食後大きなオレンジが配られて、これは嬉しかった。
 ダマスカス空港でビザ代金6ドルを払っていると、横合いから、
 「1ドルが3、6シリア・ポンド、ちょうど前の日本円と同じ」と、中年の日本人が教えてくれ、そのまま彼のタクシーに同乗する。ホテルを所望するも、レバノンからの難民で予約してないと無理だろう。自分もレバノンを締め出されて中近東を商用でうろうろしている、と言う。  きわめて流暢なアラブ語でタクシーの運転手とやり取りし、冗談を言って笑わせている。ノロノロ運転の車内で、おおむね次のような話を伺う。
 バクシーシについて。その必然性を理解しなければならない。感傷的になるのはナンセンスである。小銭をたくさん用意してばらまくこと。それだけのことはしなければならない。
 中東問題についてユダヤを迫害したキリスト教徒が、アラブに尻拭いさせているという前提を忘れないこと。
 日本の経済復興について。結果論だが、いちど壊滅状態になって一新したから高度成長を遂げた。ドイツも同じである。イギリスは自分で古いものを壊して新しくすることが出来ないから、現在落ち込んでいる。日本人が勤勉・優秀というが、単にその機会を与えられているだけのことを忘れてはならない。後進国は怠惰・劣等でなくて、たんに仕事がないということである。原料から製品へ、というその過程の仕事を先進国が奪っている。しかしパリ辺りに優秀なアラブ人がたくさんいて、現在彼らが祖国に帰りつつある。
 石油について。(仕事は石油か?と問うと、その無知を一喝された)彼らにとって石油はどうでもいいのであって、それは先進国が欲しがっているにすぎない。それで足許をすくわれたのだが、彼らが望むのは、日用品と食糧である。
 (言葉と仕事とどちらが先だったか、と聞いて)----仕事である。言葉とは所詮もの真似である。<語学> という日本語は、嫌いな言葉である。その他、この街(ダマスカス)は四千年間、人の絶えることのなかった商業都市だから、掘れば凄いものが出てくるだろう、乾燥した土地柄だし、よく.残っているに違いない。
 ----別れる時に、もっと話が聞きたいと思ったのはこの人が最初である。かつての大陸浪人がこうだったのか。
 タクシーはその後、彼の計らいでユースに横付してくれた。寒々しいこの部屋には、カナダ人、アメリカ人、フランス人、スペイン人二人、ヨルダン人、日本人の私、それに
 「どちらから?」と問うたら「パレスチナ----今はイスラエルになっている」と応えたアラブ人。
 ----遺跡見物はどうでもいいのかもしれない。国際色豊かなユースでも、各国ばらばらというのは珍しいので、卓を囲んでの国際会議となった。私はおもに日本の物価が高いことを、バス料金やホテルの宿泊代を引き合いに出して解説、あたりを脅かす。

1976年1月27日(火)

 ユースは今日が満杯で一泊だけ、ということだったので、ヨルダン人の案内で安ホテルへ移り、朝食を馳走になる。小奇麗なレストランだと思ったら、ファースト・クラスとのこと。彼から、アラブの若者できちんとモスクへ礼拝に行っているのは、シリアで40%強、ヨルダンで30%ぐらいと聞く。彼自身はコミュニストに近いが、もちろんアラーを信じているという。
 銀行でエジプト・ポンドが両替できて一安心。エジプト入国の際、ビザがないので110ドルもの両替を義務づけられたが、使い切れるはずもなく、両替証明書を提出しても、5日間を過ぎているので再両替には応じない、という理不尽さ。5日間なんて誰も説明してくれず、紙幣が紙切れと化すと思われた瞬間、シリアでエジプト・ポンドが両替できると分かったので、臀部に隠し持って出国した次第。免税店でも自国貨幣は使わせないから、発展途上国は徹底したドル保有策をとっている。両替のたびに派手に目減りするが、当然と弁えれば済むことである。
 シリア航空であさってのバグダッド行きを予約するが、早朝6時発という気ちがいじみた時間。カルナックというバス会社で、明日のパルミラ行き長距離バスを予約してから、アル・スラマニア寺院を訪れる。建築学的な美しさはよく分からない。それよりいつかは、と狙っていたマーフィという掌に目が描いてある魔よけのシールを手に入れたのがうれしい。ソーク・ハミディ・バザールというアーケード街を突っ切って、オヤマッド寺院を訪問、その後、こちらに来て事跡が分かったところの聖パウロ教会を訪れる。
聖パウロ教会 インテリ徴税吏パウロは、ここら辺の出だったか、とにかくダマスカスは7世紀までキリスト教の地であった。使徒行録にダマスカスの名が出てくる。ローマ人とユダヤ人の迫害を受けたパウロは、この教会の二階正面から籠で下ろされて逃亡したのである。小アジアも中近東も現在はイスラム教圏で、キリスト教関係の事跡はなおざりにされており、それがかえってなお残されている、という生々しさになっている。
 子どもたちの仕事----靴磨き、宝くじ売り、ビニール袋・ガム・マッチ・スポンジなどあらゆる小物売り、渋滞している車のフロント・ガラス拭き、体重計を置いて体重など測らせる仕事そのほか。夜はダマスカス映画劇場で15年前のアメリカ版白黒喜劇映画を見る。アラビア語とフランス語の字幕が出るが、文盲が少なくないせいか、分かりやすいところでドッとくる。

1976年1月28日(水)

ダマスカス市内 ダマスカスは、力イロの街より一歩先んじて整っている感じ。カイロでみかけなかった、エアカーと呼ばれるサウジアラビア系の頭巾を多く見るようになる。チャドリ(黒いベール)で完全に顔を覆っている婦人を見たのもこちらに来てから。はじめはギョッとするが、慣れれば無害と分かる。
軍用トラックと地平線 朝7時のパルミラ行き長距離バス(行程235キロ)に乗る。途中のホルムの町はともかく、道中は完全な礫沙漠で、はるか向こう、道路でないところをジープが疾走していて、その砂煙が飛行機雲のようにもみえる。<神、太初に天と地を分け給ふ> 
 所々に軍事基地があって、戦車やシェルター、レーダーサイト、ドラム缶、それに十数基の近代兵器が西の方(レバノン)をハッシとにらんでいる。シリアは、レバノンの内戦介入に踏み切ったか。シリア作成の中東の地図を見ると、イスラエルのところがパレスチナになっている。
 パルミラはシリア沙漠の真ん中にあって、独自のアルファベットを持つパルミラ文明の彫刻は、切れ長の眼と細い眉毛で、ガンダーラやビザンチンに影響を与えているかとも思われる。遺跡そのものはローマ時代のもので、6平方キロに及ぶ広大な遺跡の上空を、爆音たててジェット戦闘機が幾度も通過し、遺跡の周辺には物欲しげな子供たちがいる。
 安食堂で、直径40センチのお好み焼き式ヌン(焼きパン)に羊肉を折り込んだのを食べる。そこの小さな給仕に中近東の地図をみせると、ジャパンはここか、と適当に指差すので、席を立って調理場の方まで行って、ここだ、と言うとビックリする。水は?と聞くので、日本地図を書いて周りが海だと教えると、心底羨ましそうにグッド、と言う、彼はホルムの町にはシネマがある、と嬉しそうにいった。そういえばヨコスカの町には <さいか屋> というデパートがあった。
 夕方5時に、同じバスでダマスカスヘ戻る。壮絶な砂漠の夕焼け。人類の月面到着が嘘のようである。

1976年1月29日(木)

 早朝4時半の出立。目覚まし時計がなくても、この時刻に起きると決めたら、5分と違わない。空港へ行くタクシー内で、♪ かあさんお出かけ手を振って、お土産買ってねグッドバイバイ  という童謡を思い出した。国際線では、機内食が義務づけられているのか、飛行距離が短いと、飛び立ってすぐ食事となる。身動きできないので、ブロイラーの鶏に似てきた。スチュワーデスは飼育係。
ユーフラテス⇔チグリス ユーフラテス川上空を通過してまもなく、緑濃い肥沃地帯を見て、チグリス川ほとりのバグタッドに到着。まさに世界史的旅行をしている。ここで時差が1時間縮まって、ジワジワ日本時間に近づく、と思いきや、入国ビザがないので大変なことになった。 カイロとダマスカスでは空港でビザが取れたのに、バグダッドでは不可であった。シリア航空で取れるかどうか確かめたときは、分からない、といってイラク大使館の所在地を教えてくれたが、面倒で行かなかった。ジャマイカの黒人ダンサーもビザなしだったが、これには迎えが来ていてOKだが、私はバグダッドに知り合いがいないから駄目という。ビザなしの旅行者が、自国の大使館へ電話するのも駄目だという。運の悪いことに、バグダッドから次の目的地テヘランヘの飛行便は、4日後の月曜日で、それまで空港内のトランジット・ホールでぶらぶらするか、あるいは、と中近東の地図を広げて、<アブダビ(アラブ首長国)へ飛ぶのはどうか> などと気楽に言ってくれるが、その国の空港でビザが取れるかどうかは分からない。そうこうしているうち、「乗れ乗れ」といわれて、発車寸前の(とは言わないか)、ダマスカス行きシリア航空機(たった今乗ってきたやつ)に、リュック抱えてノーチケットで跳び込むに至る。空港の係員たちは丁重に扱ってくれたが、要するに強制送還の一種でみっともない。さっきと同じ食事をさせられ、舞い戻ったダマスカス空港で、送還運賃70ドルを取られる。再入国のビザ代のほうは、前のが15日間有効ということで免れたが、ああ痛恨の70ドル!市内へのバスで、隣席のシリア人が外の景色を指さし、美しいか、と聞く。その変哲もない景色に、私は心から感動したようにうなずく。♪ この道はいつか来た道、ああそうだよ、今朝がた通ったばかりの道だよ。
 同じ安ホテルに舞い戻る。「ン?どうした」----早速ネイルなるバス会社でバグダッド行き長距離バスを予約するが、国境ではビザが取れず、やはりここの大使館へ赴く必要あり、とのこと。しかし明日は金曜でイスラム圈は休日、土曜日待ちとなる。
 夜はまた映画。アラブの国産物で、片岡千恵蔵みたいな時代がかった俳優の身振りや、大げさな音楽、カメラ・アングルを楽しむ。宿舎に戻るとホテルマンが来て、いま床屋が遊びに来ているが、お前の髪の毛を刈りたいといってる、と伝えてくれる。長髪は警察沙汰になるか、と聞くとそんなことはない、というから、せっかく伸びた髪の毛だし遠慮する。長髪の若者は町にいない。日本びいきのギリシャ人の泊まり客がいるので、ギリシャ産のブランデー(と称するもの)をふるまうと、あらかた飲んでしまったな。シリアやレバノンの田舎にギリシャ語を話す人が多くいて、それが古語なので若い自分には難しい、という話はおもしろかった。

1976年1月30日(金)

マリ王国の王 博物館詣で。ラス・シャムラのくさび形文字やラッカの陶器など。それから軍事博物館へ。各国出揃ったピストルの群れ、1973年第5次中東戦争( <10月自由戦争> と呼ばれる)最初の3日間の戦利品、重火器類。そのあと国産歌謡映画を見る。
 暇なので、ダマスカスという現存する世界最古の商業都市の歴史をみてみると、
   紀元前13〜8世紀にアモリット人、アラム人が定着し、以下主権国としてダビデ・ソロモンのヘブライ王国(11〜10)、アッシリア(8〜6)、新バビロニア(7〜6)、ペルシャ帝国(6〜5)、アレキサンダー大王領(4)、セレウコス朝シリア王国(4〜ADI)、ローマ帝国(1〜7)、サラセン帝国(7〜11)、セルジューク・トルコ(11)、十字軍基地オスマン・トルコ(16〜20)となっている。
 文化的には旧約、ペルシャ、ヘレニズム、ビザンチン、イスラムと経てきたことになる。
 この街にも、碁会所や雀荘みたいなバックギャモン荘がある。噴水や寺院など、絵になるところにはお上りさん相手の写真屋がいる。ヨーロッパの観光客目当ての押しつけがましいインチキ写真屋と違って、自国民相手の堅気な商売である。
 宿舎に戻るとパレスチナの女性が訪ねてきて、PLO軍事部発行の英語版の月刊誌『レジスタンス』を置いていった。ヨルダン以外のアラブ圈を旅行するなら持っていてよい、と言う。なぜヨルダンなのか、イスラエルでないのか、と聞くと、ヨルダンとイスラエルである、ヨルダンでは現在パレスチナを認めてない、と言う。 不覚にも <ガザ> なる都市の顛末も知らなくて申し訳ないことをした。ちょうど読む本がないところだった。キブツで3ヶ月間ボランティア活動をしていた竹沢君の話を思い出す。そこは和気藹々としていて、ダンス・パーティや映画会があって、食券や煙草の配給があって、一方で厳重な警戒や避難訓練があって、などと話していた。きのうダマスカス空港に舞い戻った時、係員が「名前は?オカモトか?」と聞いてきた。日本が石油のためにPLO代表部の東京設置を承認したのと、私のパスポート発行日とが、同じ去年の2月3日。

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