『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)
1975年5月17日(土)
人口50万の小都市ヘルシンキは、何もないところなので休養するにはふさわしいが、ユースを11時に出されるのは辛い。国立博物館に行ってもエルミタージュの余韻がまだ波打っているので、出がらしのお茶を飲まされている感じがする。それでも15世紀の拙い木彫りのヨブは面白かった。ロダンの考える人に似たポーズで、全身吹き出物で醜く、いとも情けない顔つきをしていた。
タイバラーデン教会に足を伸ばすとミサの最中なのでそれに授かる。席を立つ時10年ぶりに拝跪してみた。
3時半に早々とユースに戻ってリラックスするが、、ここはオリンピック・スタジアムの中にあり、近くには公共スポーツ施設がたくさんある。女の子が3人、段違い平行棒の練習をしていたので、私も鉄棒や平行棒、マット運動をし、後方回転なんかしてみたりする。彼女たちが習っている英語を使うときは、やはり緊張して恥かしがりながら話すので、可愛らしくて苛めているような気持ちになる。
絶好のマラソン・コースも近くにあり、ヌルミを出した国だけあって、日がな1日朝も夕方も走り込んでいる人が多い。木蔭にリスをみかける。
今日は日曜なので、波止場の近くのウスペンスキー寺院のミサに出る。典礼を誇るロシア正教だけあって、たっぷり2時間53分の大ミサであった。終わって一服してから、アテニューム美術館に足を伸ばす。15,6点の浮世絵がここヘルシンキまで来ていた。
町の映画館はふつう夜7時から始まるらしいが、今日は日曜なので4時から開かれていた。S・マックィーンの「タワーリング・インフェルノ」を観る。字幕は公用語のフィンランド語とスウェーデン語が同時に出る。活劇だから言葉は要らないが、後半肝心なところで<
explode >を< export >と聞き違えて混乱した。
ホステラーたちのほとんどは、いかに毎日を安くあげるかに賭けており、それに精力の大半を注いでいる。たしかに北欧は物価が高く、きのう今日のように店の多くが休日で閉まっているときは、公園で寝そべっているしかないようだ。旅行通から麻薬や警官の尋問や、書類偽造の話を間く。永谷園の豪華な口上書に写真を貼って在学証明書に代えたという話は、この世界では有名らしい。
ユ−スの便所は落書きが多い。性と政治と情報と----大学の便所と変わらない。横文字ばかりなので「日本語も1つぐらいあっていいだろう」と書いといたが。
朝市に出かけて果物を買い、大学校内の学生食堂で昼食をとる。途中レニングラードの美術館でみかけたカトリック神父にまた出会って挨拶する。
午後は念願のサウナ風呂へ行ったが、土・日曜は公共施設が休みなので、今日のこのプール付公共サウナは待ち望んでいたところである。シャワーを浴びて泳いでサウナに入って、それの繰返しで快適である。鼻で息をすると粘膜が痛いので、□でゆっくり呼吸する。フィンランド人も長くて5分ぐらいしかサウナに入っていないので納得する。
ソビエトの国境駅では深夜の厳しい検問でそのゆとりもなかったが、ヘルシンキの波止場からスウェーデンヘ向かう船上では、もうおそらく見ることもない町並みに一期一会の感慨を抱く。手が届きそうな近くの丘に、3時間もお邪魔したウスペンスキー寺院がそびえている。この先10ヶ月間の安全を素直な気持ちで祈る。
船内で免税のスコッチと煙草を1カートン買っておく。ストックホルム市内では1箱500円もするという。
チェスをやっていたので覗くと、試合時計を使ってすごく早い。正式の持ち時間はたった5分だという(担がれたのかもしれない)。日本の将棋は10時間だといって、傍らの船員と話し込んだ。私が道徳を教えていると言うと、町の女と遊んで寝て、それは道徳的にどうかと聞く。「授業ではそんな例は使わない」と危うくかわす。高等教育を受けていない、と言うので、でも外国語が話せるではないかと言うと、今度はところどころに日本語を挟み出し、その日本語が全然わからない。たとえば柔道をツドーと言う。三木首相は日本で与党で日本では右翼だから、三木と右手の右が似ているという冗談も、肝心の日本語をなんども聞き返さねばならなく、たいへん失礼に思った。あいま合間にテン、テンと言って、それが
then だと分かって心中なるほどと思う。
夜は他の多くの乗客と同様、リクライニング・シートで夜明かしをすることになったが、午前2時ころ、うとうとしているとスウェーデン人のアベックが横のシートに来てすこし話をする。程度が低いのがすぐ分かったが、やがて抱擁し、接吻しあい、「スウェーデンはセックスだけだ」とやけ気味に私に言って、睦言を交している。学生時代、同伴喫茶でアルバイトをして慣れているので、自律神経不感症に自らおとしいれるも、きわめて馬鹿馬鹿しく、やがて向こうもそう思ったらしい。
朝、波止場にあると思った両替商がなくて、丘の上の銀行まで歩かされる。熟睡していないので、帆船のユースホステルに荷物をおろして近くの東洋博物館を覗いてから、その中庭のベンチで前後不覚に眠りこける。起きてみてさっぱりしたが、なにか板についてしまったようで情けなくもある。
隣のスウェーデン国立博物館へ行き、事前にその所在を調べておいたセルゲルの
<アモールとプシュケ > と対面する。意外に省略された線が多く、その構成は劇的なのに、光の加減のせいか、アモールの眼にもっと感情が籠っているはずだと思われた。それでむしろ、バン・デル・シャールトなる彫刻家のマーキュリ像に惹きつけられた。マーキュリィは一般に躍動感を身上とするが、下肢が前進しようとしているところを上半身がストップをかけられたように煽られ、反り身になって、そのあわやというギリギリ崩れる瞬間の線が、角度によって発見できた。他には1850年代に作られたという、蒸気機関車にまとわりつく4人の天使の置物が、ありうる話として面白かった。
そのあと百貨店の中にあるスーパー・マーケットで食糧を買い込む。ユースでは、同室のペルー人の英語で特にWと th の発音が悪いので、こちらも悪い癖が出て修正する。3ヶ月間この国で働くというが、スペイン語はまるで使われてないので彼も必死であった。アメリカ人があとで私をひやかす。
今日は曇り空で、風も強く肌寒い。スカンセンという明治村のような所へ行くが、明治村のような風格はなくて、いくぶん子供むけであった。その少し手前のノルディスカ博物館と、17世紀の戦艦バーサ号もみる。引き揚げられてから14年も経っているのに、330年間海底に沈んでいたためか、いまだに直射日光を避けて保存館内にあり、熱風をたえず送り込んで館内が湿気でジトジトしている。スカンセン内の煙草博物館で一度やってみたかった噛み煙草を買うが、手加減したつもりでも大量に噛んだらしく、激しくせき込み、呼吸困難がしばら
く続いた。
午後は渡し舟で旧市街へ赴き、骨董品店や画廊をみる。我が小鹿タミヤのプラモデルが売られていた。ここはスウェーデンなので、念のためポルノ・ショップにも入ってみたが、店を出る時ぐったりし、反省すれば気苦労ばかりしたようだ。
王宮の地下深くヨーロッパ屈指の宝物舘をみる。厚さ約1,5mのレンガに金庫のような出入り□が1つ、薄暗い照明の下で目を細め、首を左右に振って王冠や宝刀をみるが、<妖く惹かれる>
ほどまで至らなかったのは審美眼のないせいか。トルコのトプカピ宮殿が楽しみである。
今日は地下鉄を使って郊外まで足をのばし、ミレス彫刻美術館をみる。固い線でいくぶんデフォルメされているが、その分だけリズミカルな躍動感に溢れている。もっとも私は彼の習作時代の作品のほうに惹かれた。創ってみてから若い彼は「しかし動いていない」と察知したのだろう。
そのあと郊外のドロットニングホルム宮殿まで出る。赤坂離宮に似ているが、閑静な湖畔にあって内部を参観できるのがいい。宮殿の前庭は典型的なだだっ広い方形で、左右対称をなしている。広すぎて調和のとれた枯山水など作りようもないのだろう。あらためて知る京都。
今日は雨模様で肌寒い。冬の北欧のやりきれなさが感じとれる。夕方雨があがって市街の上空に虹をみる。はじめて就職のため静岡を訪れた時にも見事な虹をみた。
このユースには小学生の一団が地方から泊まり込んでいて、一緒にミル(ゲームの一種)をやったり、ボールペンで腕に入れ墨をしてあげたり、サインをしたりでなかなか楽しい。
今日は中部スウェーデンの湖畔にあるレクサンドなる町へ行くが、夕方4時半の急行なので、その間、食糧を買い込んだり、文化センターのレコード・ライブラリーで、「第九」を聴いたりスライドをみたりする。
このセンターは繁華街の真ん中にあって人の往来が激しく、開放的である。横浜の文化会館はいつも混んでいて、交響曲なら1つの楽章しか聴けない貧弱さだったが、ここにはヘッドホーンだけで150近くあり、「第九」も各指揮者のレコードが揃えてある。もっとも第三楽章の終わり近く、突然中近東の音楽に代わって、かけあってみても「どこかが狂った」とだけで、らちがあかなかった。
駅の便所でユースにいた男と鉢合わせになり、ついでに見送ってもらい、一等車の乗客となる。ユーレイル・パスの使い初めである。
変化に富んだ湖と沼沢と白樺と、菜の花畑の牧草地を車窓よりみる。シベリアの大平原を見た者にはきわめて牧歌的な田園風景に映る。
15分遅れで到着したレクサンドは、上高地のような高原駅でバスもなく、ぱらぱら降りた人々は迎えの自家用車にいそいそと乗る。白夜でその感覚はないが8時過ぎてもう遅いので、近くにいた人にタクシーを呼び出してもらう。あと一月もすれば夏至祭で賑わうはずのこのリゾート・タウンも、いまは季節はずれで閑散としている。
遅く着いたために、私には台所・居間・暖房付の一戸だての別荘が与えられ、腕をふるって久しぶりに温かい肉料理をとった。
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