『旅 行 記』 (1975年5月3日〜1976年3月20日)

1975年5月10日(土)

シベリア鉄道

 今日は穏やかな日であった。しょっぱなから「雪が積もっている」といって5時半に起こされはしたが。夜のあいだに難所といわれる山岳地帯を通り抜け、列車は大ユーラシア大陸の中央を平野部に向けて下っている。
 今日はギリシャ生まれのニュージーランド婦人が完全に鶴の折り紙を覚えたいというので教えてあげ、ついでにチェスに勝ち、女教師にも下手の横好きなのでやってあげる。マーレイには、昨日チェスにも<殺し屋>にも勝ったので、今日は敬遠してやろうとしないだろう。英国青年
 イルクーツクでグループがさらに減ってから、だいたい中島とマーレイと私、女教師と英国青年、それに助教授とNZ日本青年とNZ夫妻の夫婦(→)と婦人、 最後になかなか人と交わろうとしない日本人青年の10人が、グループを構成しているメンバーである。英国青年は2度目のシベリア旅行で、ピンポン玉を1つ持っている。この列車の洗面台には栓がないので代わりにするのだという。列車にはシャワーもなく、洗面台には茶色くて臭い石鹸が置いてある。トイレット・ペーパーが切れると、代わりに新聞紙になる。
 乗務員で感じのいいのは食堂車のメイド、可愛いのは隣の車両の車掌、感じの悪いのはここの車両の婆さん車掌。助教授は47才で17の娘がいるのに、隣の車掌が可愛い可愛いと言って、ついに今日、
 「英語ができますか」と話しかけていた。しかし概して乗務員は官僚的で、品のない同胞を外国人に接触させないようにとかなり気を配っている。毎朝掃除機で車内のじゅうたんを掃除しにくる。また頼めば紅茶をサービスしてくれる。
  中国との緊張関係のためか東部シベリアに多くみられた軍服姿も、平野部に移ってほとんどみかけない。
  白樺林のひと所にカラスの巣が密集していることがある。雪解けであちこちに水たまりが見られ、住宅地の庭も道路もぬかるんでいる。助教授は「宇宙船を飛ばしている国なのに」と言う。確かに大きな駅の周辺には五ヶ年計画的アパート群が林立しているが、一歩離れて肩寄せ合っている木造家屋の外観はきわめて貧しい。ノボシビルスク近辺で、 ハバロフスク以来久しぶりの舗装道路を見たが、概ね西に向かうに従い文化の波が押し寄せている感じで、それに従い、雄大な大自然の景観は東の方が優れているといえる。進行方向、右も左も地平線が果てしなく続く時は、実に列車を追いやって独り線路上に取り残されてみたい衝動にかられる。

1975年5月11日(日)

 今日はウラルを越えてヨーロッパ入りする日である。7時間から始まったモスクワ時間との時差が、今日で2時間となる。地球の自転に逆らって1日1時間ずつ時を詐取しているようなもので、こうして徐々に慣らされるのは体調によい。
  大きな駅に着く度に、われわれは、はしゃぎながら降りて、走ってみたり、郵便物を投函したり、キオスクを覗いたりして気分転換をはかる。わが黒髪と髭と服装は偉容(異様か)を誇るらしく、なにかと注視を浴びる。
  今日は日曜なので朝からこどもの遊ぶ姿がみられる。
  マーレイは決してロシア語の簡単な挨拶も覚えようとしない。ロシア人のメイドにも英語が通じて当然であるという態度で喋りまくっているが、フランス語だけは今から殊勝に勉強しているのも面白い。
 「あんたは学校で賭け事を教えているのか」と言うので、
 「いや、寮で教えているだけだ」と言うと、
 「倫理の先生が、か」といって笑う。一般に私が倫理の教師であることはすぐには分かってもらえないので、教えている科目まで言う時は、
 「で、あなたは信ずるか」と付け足すことにしている。
  キーロフ駅にてはじめてネオンサインを1つみる。駅名だけ記した点滅しないネオンである。
  マーレイとチェスをしていると、彼が昼間知り合ったカスピ海の西に住むという2人のジョルジア人が入ってくる。酔っているせいか、聞いていたとおり中島の英語よりひどくて < 放蕩息子とその従僕 > といった感じがする。ソビエト連邦の一員でありながら、ソビエトをよく思っていないのがみてとれたが、民族主義者というよりも単に自堕落したプレイボーイのようにみえた。食券
  食堂車の食べ物では、米粒を砕いて牛乳で煮、バターを添えたものが美味だった。メニューは露、英、仏、独、中の5ヶ国語で書かれており、この食べ物は中国語では「牛?(女+乃)砕麦米飯」となる。キャビアはそれだけで食券の金額をオーバーしてしまうので、誰も注文しようとしない。

1975年5月12日(月)

 モスクワに近づくに従い、内陸部よりも春先らしい緑の様相を呈し、タンポボも数多くみられるようになった。町の至るところ、また人のいる所レーニンの肖像で、いちどそれが福助足袋の商標にみえた。
 モスクワまで350キロという大きな駅で、はじめてプラットフォーム付となる。NZの婦人が車掌に向かって大げさに喜んでみせるのは嫌味である。
 12時15分、定刻にモスクワ・ヤロスラウリ駅に着き、社交家・中島の音頭でおたがいの記念写真を撮る。インツーリストの手配で各自ホテルがばらばらになってタクシーで四散するも、赤の広場で偶然みな出くわして、それもありうる話であった。
  赤の広場を散策中、マーレイに話しかける者があり、オーストラリアの旅行者かと思ったが、レニングラードから来た生粋のロシアの若者で、Gパンをはき、ガムなど噛みながらきわめてアメリカナイズされており、マーレイがルパシカを買いたいというとグム百貨店まで案内して買わせてやり、私が電熱器のついてない昔ふうのサモワールが欲しいと言うと、食器売り場に案内して売り子と渡りあう。結局、希望のサモワールはなかったが、あまりに調子がよいので何か魂胆があると思ったら、やはり私の服を買いたいといってくる。これ以上余分なお金は要らないので断わると、20ルーブル、30ルーブルと値をあげていき、ついに40ルーブル(1万6千円)で買いたいというので、少し可哀そうにもなる。しかし結局はアメリカ風俗に憧れる浅薄な若者でしかないので断る。
  歴史博物館でグループと離ればなれになり、私は予定していた「子供の世界(デッキー・ミール)」という百貨店に行く。そこで各種のゲームを買うつもりだったが、知的なものはチェスしかなかった。
  疲れたのでホテルに戻り、独りレストランで食事をとる。このホテルは観光案内にも載っている著名なウクライナ・ホテルで、レストランも豪奢だったが、格式高いはずのボーイが来て、私のハイライトを1本くれという。もう1人のボーイは私の200円の安物のライターに食指をのばす。まだライターを使うロシア人を一度もみかけていない。
  隣の食卓に2人の年配の日本人がおり、その1人に見覚えがあるので、席をたつ時に、
 「失礼ですが、監督ですか」と尋ねると、そうだという。それでややかしこまって、
 「映画ができあがるのをたいへん待ち遠しく思っております」と挨拶すると、黒澤監督は二、三度軽くうなずいてみせた。

1975年5月13日(火)

ホテル23階より  私同様、6時前に早起きした中島と散歩してから、マーレイ、イギリス青年らとツァーに乗る。
 「今日のお前の仕事はガイドの英語をゆっくり繰り返すことだ」とマーレイに言うと、彼は要所要所で的確にそれをしてくれた。ガイド嬢の説明にプロパガンダが多いので彼にそれを言うと、
 「プロパガンダの時は彼女は英語をミスらない」といって笑う。
 クレムリンの広場で先に出立する中島ら3人と別れる。「ヨーロッパのどこかでまた会おう」という、ロマンチックな言葉となった。
 彼らが昨晩予約なしで直接行って見てきたというサーカスを見に行くが、今日は定休日らしいとわかる。窓口のおばさんが大声で叫べば叫ぶほど、こちらの反応は比例して鈍くなるが、見かねて掃除夫の爺さんが、ポスターの踊り子を指さして眠っている真似をしてくれたのは秀逸であった。しかしとにかくそこで肉体的疲労がどっといや増す。赤いネッカチーフの少年ら
  町の老人は胸に戦時功労章をつけている。たくさんの勲章を飾っている老人はそれを誇りにしている。ピオニールの一団が指導者に案内されて赤の広場を行き来している。レーニン廟の儀杖兵にダビデのような兵士を見、男はやはり軍服姿がいちばんと思う。若い女性はミニで闊歩している。奇形の人、不具の人を多くみかけるが、本当に多いのかそれとも昼日中堂々と出歩いているので多いのかは分からない。今日はおそらく20度を越す暑さで、街角にあるあちこちの自動販売機でソーダ水をガブ飲みする。
 疲れたので行先不明のバスに乗って成り行きにまかせる。勝っていた好奇心に不安が生じて、不安と好奇心が葛藤してついに不安が勝ったところで下車した。市内と様相が一変している郊外のアパート群の真ん中であった。空き地でやっているこどもたちの遊びは、私も幼い時にやったのと同じものだ。しばらく歩いていくと場違いなイスラム風モスクがあり、ドアから人が溢れているので市場かと思って近寄ると、信じられないことにそこは本物の教会で、中はミサの真最中であった。ホテルで正装したロシア正教の司教をみかけてはいたが、現実に行なわれているミサは大きなショックだった。私が入った時は聖体拝領が終わって司祭の祝福に移るところで、子供は1人もいなくてほとんど老人が占めていた。ミサはラテン語でなくロシア語で行なわれており、私は共産圏ソビエトで司祭の祝福に十字を切った。

1975年5月14日(水)

 今日は地下鉄に乗って5つ6つの駅をみる。昨日の飲料水の飲みすぎで全身だるく、トレチャコフ美術館までの徒歩ドナテロ「ダビデ像」は苦痛であった。題名と作者がロシア文字でしか書かれてないのを呪う。立入禁止のところに入って見ているとやはり見つかって怒られたが、ロシア語で叱られるから応えない。
  時間があまりなかったが、プーシキン美術館にも足をのばす。そこで模像ではあったが、ドナテロのダビデ像をみて驚く。
  帰りのバス賃は小銭がないので払わなかった。車内のピオニールの連中からメキシコ人と間違えられ、間違えられてなるほどと思う。
  1時50分発のレニングラード行きに乗るため、1時にホテルに戻ってインツーリストに申し出ると怖い顔をされた。
 「Too early ? 」と訊くと、「Too late ! 」という。そのあと英語で叱られたのは応えた。結局自腹を切ってタクシーで駅に駆け込み、事なきを得る。
 列車内の温度は30度に近い。今月の平均気温11度というのが信じられない。杖を持ったどこにでもいそうな痴呆症気味の老人が近寄って来、訳の分からぬ演説をぶち、私と握手をし、結局吸いかけの煙草を取っていく。刺青をした船員たちがチェッカーをやっていたので、覗きこんでワインを馳走になる。ルールが違うので見て覚え込み、1回目は弱そうなのと対戦し、3対2で優勢だったが勝ち方が分からず引き分けかと思われたところ、加勢を得て勝つ。2回目はその強いのと対戦してルール上の勘違いから中押し負けを喫するも、3回戦はこちらにみごとな三段眺びが出て中押勝ちとなる。信じられない顔つきの船員を残して食堂車に向かい、昨夜街の食堂で隣のロシア人に貰ったサラミを食べながら紅茶を喫する。
アストリア・ホテル  レニングラード駅におりるとインツーリストの手下がおり、タクシーまでの案内方々「煙草はないか」とさっそく訊いてきた。ザックの底に眠るハイライトがますますいとおしくなり、
 「お国の煙草しかもってない」と答えてしまう。
 北極圏に近づいたために街は夜9時半過ぎてなお明るく、繁華街に人通りは激しく、モスクワにないネオンが通りを彩り、運転手はラジオのボリュームをあげてセカンドをいっぱい吹かしてタクシーらしく走り、ホテル・アストリアはウクライナほどの格式はないものの、あか抜けた小気味よい感じで、トイレット・ペーパーもロール巻の本物がおかれてあった。

1975年5月15日(木)

 早朝周辺を散策し、10時に決められた観光バスに乗るも、ドイツ人の乗客2人と私の3人だけ。それにドイツ語と日本語のガイドが2人乗り、運転手と計6人で出発。ありきたりのガイドをやめてもらい世間話を始め、モスクワでミサに預かったことを話すと、それがなぜ不思議なのかと居直られた。レニングラード大学の日本語科を出たインテリ女性で、宗教教育のアンケートに答えてもらい、倫理的アポリアをいくつか提出すると、
 「面白いです」を連発し、こういうことに関心をもっている私の友達にも会わせたいということで、6時にホテルのロビーで再び落ちあうことになった。ラスコリニコフの下宿と、アカーキ・アカーキエビッチのカニーリン橋訪問を断念して、夜の再会を楽しみにする。
  午後はエルミタージュ美術館に閉館まで埋没するも、心中穏やかならず、< ずるいよなあ > の心境であった。見るからに手間暇かけて作ってみましたという、贅を尽くした作品がところ狭く陳列されてあり、ルーブル、大英博物館と並び称せられるこの美術館に6時間しかいられないのを不覚に思う。ロシアの宮廷生活が再現されている部屋部屋には、天使やエロスが充満しており、それらの存在は<安心できる>故か、あるいは<無色である>ためか、こちら側で見る者は為す術なく色を失う。この美術館のために人が3人ぐらいなら殺されても見合うな、という不穏な感慨を抱く。
 西洋美術の部屋ではファルコネの<アモール>と、トルバルセンの<牧童>が完璧であったトルバルセン「牧童」。弓を射ようかどうしようかと小首をかしげて思案しているアモールのほほ笑みは、見る者をしてこれは叶わないと観念させる。「牧童」の方はそれがエルミタージュにあるとは知らず、発見して「ここにあったのか」と快哉を叫ぶ。彫像のまわりをゆっくり一周して、あらゆる角度からの微妙な曲線の起伏に間違いがないことを確認する。牧童は疲れ切って岩に羊皮を敷いてやや猫背に腰掛けている。放心した面持ちで眼は見るともなしにあらぬ方向を見、左手に杖をもち、右手を軽く膝にあてている。なんの虞もなく脚を広げて完全に開かれている心は、喜んでもいない代わりになにも疑うことをしない創られたままの存在であった。
  酔って疲れて、絵にすぎない、彫刻にすぎない、と美術館を総括してしまってはおしまいなので、館内の食堂へ向かった。煙草を吸いたかったが館内禁煙なので、便所を捜したが見つからない。
 「喫煙所はどこか」とあちこち尋ねて、結局案内された所がやはり便所だったのは <たしかに> と思った。ティッチアーノ「セバスチアン「
 一服して心機新たに美に立ち向かい、レンブラントのアブラハム、イサアクを燔祭に捧げる図や、数多く描かれているなかではソドマやグイド・レニに及ばぬものの肉感的なティッチアーノの聖セバスチアン殉教図、そしてダ・ピンチの聖母子像に対面する。圧倒的物量の前では、有名無名、うまい下手よりも、構図やモデル、描かれている物語の背景に魅きつけられる。1階のローマ時代の彫刻群にも出会ったが、腰掛けてただ放心するだけだった。くりかえし牧童の完璧さを見てから、最後にアモールの眼差しをまともに受けて別れを告げるつもりのところ、こちらの方は部屋が分からなくなって、閉館までの1時間、極端に多い部屋部屋を捜し回わったが見つからない。焦燥感がつのってそのことがまた馬鹿馬鹿しくもあり、しかし一方、係の老婆の老醜な顔に出会ってこれを最後にしてはならないなどと、まさに理性を失って美の虜となった敗残者の心境であった。
 カタルシスも得られず、くたくたに疲れ切って美術館を後にした。スモルニィのキーラ嬢
 6時になるとガイド嬢キーラは、友達イーラという才気走った英語専門の元ガイドを連れて来ていた。イーラは私とおない年で、知に優る彼女にアンチノミーを10題提出して解答をせまった。私が英単語を忘れているときは日〜露〜英の順となるが、キーラの日本語もこの方面には限度があるので、その時は和英辞典を使う。「堕胎」とか「妊娠」とか、「避妊」「ベビーコントロール」とかは、言葉を正確に定義することから始めたが、これは3人にとっても骨の折れる作業であった。
 私は4時間しか寝てないし、しかもエルミタージュで興奮して憔悴しきっていたが、この会話は素晴らしく、お互いいちどきに喋り立てて譲らないことも間々あった。彼女らは神を信じていたので、<神のゆえに> という隠れ蓑に入ってはならないとし、悟性のみで答えるように取り決めた。私には扱いなれた守備範囲だったので、反論、否定、逆証明などで彼女らは泥沼的状況に陥っていったが、よく持ちこたえ、私たちは知的スリルに酔った。
 4時間のぶっ通しの議論の果て、ついに私は、
 「ドストエフスキーにもあるとおり、ロシア人が議論を始めると、徹夜してでも終わらないことが分かった」と白状し、彼女らの大いなる同意を得て、私はヘルシンキ行列車に乗るためそこで別れを惜しんだ。
 23時発の夜行列車では、フィンランドの旅行業者と一緒になった。旅行専門のくせにパスポートをホテルに忘れて国境駅でそれが分かり、レニングラードに舞い戻っての帰りだという。ヘルシンキ市内の安いサウナ風呂と、いくつかのフィンランド語を聞く。深夜1時の国境駅での検問は非常に厳しいと脅されたが、疲れていたのですぐ眠った。 

1975年5月16日(金)

 夜中1時すぎソビエトの官憲に起こされた。英語の通訳を伴い、旅行の目的、フィンランドの立ち寄り先、職業などを訊く。教科まで聞かれたので誇りをもって、
 「倫理道徳」と答えたが、厳しい雰囲気の中ではやや場違いな返答であった。
えっ ! ええッ !!  官憲は、次に私の持ち物を一つ一つ徹底的に調べはじめ、途中からそれがあまりに厳しいので文書持ち出しかハッシシでも捜しているのかと思った。例えばポケットの中身や書類の1枚1枚、シーツの裏、ベッドの下はもとより、持参の石鹸はその重さを計り、土産に買ったサモワールはドライバーとペンチを持ってきて解体する。また横浜の港で卒業生にもらった缶入り日本茶は、中身を全部あけて取り出す。こうしてチェスの駒1つ1つに至るまで調べる執拗な検査が済み、フィンランド人の方はザッと見てオーケイと言われ、無罪放免かと思われたが、
 「もう一度調べに来ることがある」とフィンランド人に言われて、ベッドに山と積まれた携帯品のパッキングは、フィンランド領内に入ってからすることにした。結局スチームの裏に隠したコインは見つからずに済んだが、冷汗三斗の思いであった。(後記。ルーブルの持ち出しは厳禁されていたが、コイン程度は土産として申告すれば認められたと、あとで知った。) このスチームの裏という隠し場所は寮生から教わったものである。
ヘルシンキ中央駅 フィンランドに入ったので、ロシア文字で書かれた書類を全部整理してホッとする。列車の入替え作業などで眠れぬ夜があけて、カモメが群れ舞うヘルシンキの駅頭に立ったのは朝9時、市電の横腹に貼ってある富士フィルムのポスターや、町を走るダットサンの車に安堵する。日が長いので車は昼間もライトをつけていて、これはバッテリーの傷むのを防ぐためか。
  郵便局で小包みを出し、隣の電信局から横浜に電話をかけ、ユースは午後3時まで閉まっているので、郊外の庭園都市タピオラヘ日光浴に行く。
  4時にユースに入ると、イルクーツクで別れた例の女の子2人連れにバッタリ会って、頼られてまた町へ食事に行く。今朝の列車に大切な日記帳を置き忘れてしまっていたので、朝のうちに駅の遺失物案内所で、英語のわからない係に向かって、固有名詞とメモと手振りだけで渡りあった結果、夜7時に同じ列車が7番線に入線するらしいことが分かり、待ち受けたところその通りになり、ソビエトの女車掌も私を覚えていて、劇的に日記は我が手に戻った。

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