『旅 行 記』  
                          
ローマ聖年祭 (点描ローマ1975年12月)


1975 聖年祭 1975年は、カトリック教会で25年目ごとの<聖なる年>にあたっており、昨年のクリスマス・イブ以来、ラチラノやサン・ピエトロの大きな教会(バジリカ)の<聖なる門>が開かれている。4週間の漠然とした印象では納まらないので、逐一書いていくことにする。
 ローマの終着駅テルミニのすぐ裏にペンションを借りた。きわめて便利である。

【国立近代美術館】ジェンナー
 先ずローマらしからぬ所から、ということで最初にここを選んだ。19世紀のリアリズムと20世紀のアブストラクトのみの美術館。ジェンナーが我が子に種痘を施している彫刻を見る。どこで何がみつかるか、分かったものではない。もっとも後の調べでは、ジェンナーは下男の息子を実験台にしたという。イルミネーションを使った仰々しい現代抽象美術は、遊園地のビックリハウスと異ならない。

【ジュリア博物館】

 古代ローマの遺跡からの出土品が陳列されてある。まるで潮干狩りである。掘ったら出てきちゃったので、しょうがないから展示する、といった感じである。ケルンのローマ博物館で最初にローマ帝国の物量に驚き、大英博物館を見るに及んで、もう肝心の地元ローマはもぬけの殼ではないのだろうかという危惧があったが、まったくの杞憂であった。逆にいくら分配してもビクともしない、といった方が正しい。この博物館もローマ近郊の各所から出土した壷などを、ひたすらなんとか人が見られる程度に整理して並べてある、というぐらいの無尽蔵ぶりであった。

【聖ピエトロ寺院】
 バスと市電が市内一律25円である。路線地図を入手したのでバチカンヘ行ってみた。ついに来たぞ、という感じ。今年のクリスマスはこのサン・ピエトロ広場に早くから待機して教皇ミサに預かる予定。しかしファチマ大寺院の広場の方もこれぐらい広かったのではないだろうか。寺院そのものはやはりミラノのドゥオモやロンドンのセント・ポール寺院より大きかった。まるでビルディングのようで、教会の感じがしない。屋上に公衆便所や土産物店がある程度の規模である。ガラス越しにピエタを見る。ルーブルの同じくガラス越しのモナリザとまったく同時代の作品とは、げに恐ろしき時代である。
 ドームに登って、ローマ市内を眼下におさめる。バチカン博物館がすぐ下にみえるが、まだ体調を整えてないから我慢我慢、美術品が逃げる訳ではないから、と思う。大寺院裏のバチカン市国は、まるで人影がなくひっそりしていたが、急に一隅で少年たちがボール遊びをはじめた。小神学校の休み時間になったのかと思う。エリート中のエリート、未来の枢機卿たちであろう。鉄道の引き込み線や無線塔などがあって、国としての体裁を整えているかのよう。

【ボルゲーゼ美術館】

 ベルニーニの<アポロとダフネ>が意外と大味であった。特にローマで感ずることはキリスト教の聖地ローマと、いわゆるギリシャ・ローマとしてのローマが渾然として通りすがりの者につい錯覚をおこさせること。いってみればヘレニズムの時代と大ローマ帝国と、いっぺんに時代が飛んでルネサンス期のローマと現代とが同じ土俵で時間を越えて平らかになってしまっている。ふつうの大きな博物館だとメソポタミア、エジプト、ギリシャ・ローマ、ルネサンス、近代と分かれているのに、この巨大なローマという名の博物館は、遺跡と教会が無数にあって渾然一体としている。

【ローマ国立博物館】
円盤投げ ここはギリシャ・ローマのローマである。絵葉書も置いてなくて、守衛がいなくて人がいないと、何が大事なのかさっぱり分からない。通りすがりの目の隅に入ったものがなんとなく気になってひょっとしたら、と確かめたら、やはり<ビーナス誕生>のレリーフであった。ボッチチェリのそれとも比較される重要な作品である。ケースにでも入れて守衛が頑張っていればすぐ分かるのである。それから<円盤投げ>もあった。壊れていない完璧な大理石でコピーならではの扱いだったが、空いていてしかも無料だったりすると、何か見落としているのではないかという気苦労が多い。ルーブルで見たヘルムアフロディテがここにもあったが、こちらのは大分欠けていた。
 ギリシャ・ローマという呼称も面白いと思う。アテネ・ローマでもなく、ギリシャ・イタリアでもないのだから。

【サンタ・マリア・デラ・ビットリア教会】
サンタ・マリア・デラ・ビットリア教会 この教会は国立美術館へ行く途中にあるので、何気なく立ち寄ったのだが、ここにベルニーニの<聖テレサの法悦>があった。これはローマで必ず見ようと思っていたものだが、すっかり忘れていたのでたいへんな僥倖だった。聖具室に入って絵葉書と写真を買う。
恍惚の聖女テレジア 聖女テレサのエクスタシーに対して、黄金の矢で彼女の心を傷つける天使のその独特の笑顔----要するにこの天使と聖女の関係はとてもエロティックなのである。いったいそういうことを想ってはいけないのか、あるいはそういうことに気がついていて、その上でそれを秘そやかに想うのか、あるいはそんなことは公然たる宗教的エロチシズムとして看做されていたのか、そこら辺が気になる。
 この教会はかなり小さいが、装飾も華美で透き間なくゴタゴタしており、旅行中もっとも気にいった教会といえる。

【コロッセオ】

 大きさに驚くだけなら、国立競技場の方が大きい(もっともマドリッドの闘牛場よりは小さい)。しかし国立競技場だって山全体を彫刻しようとしたミケランジェロの気宇よりは小さい。要するにこのような遺跡では、視覚より想像力が要求される。時間をかけて、ああでもない、こおでもないと考えながら目の前にそれがある、というのが楽しい。

【サン・ピエトロ・イン・ビンコリ教会】
 ミケランジェロのモーゼはともかく、ペトロが獄にあったとき繋がれていた鎖、というのがあった。またサンタ・マリア・マジョーレ教会には、キリストが生まれた時の馬小屋の飼馬桶の破片、というのがあった。キリスト御幼少のみぎりの頭骸骨というのはなかった。こういった話は何処らへんから信用できなくなるのか分からないが、シャルトルのノートルダム寺院にはキリストが死んだときに聖母マリアが着ていた白衣、というのがあった。もっともこれはかつて焼けたか何かで、今あるのは偽物、と分かっているそうだが、それでも麗々しく飾ってあるから、あと十世紀ぐらいたったら本物になるだろう。
 飼馬桶の破片を、だれがなんのつもりでその当時保存していたのか果てしなく怪しいが、それでもウィーンでみかけたペロニカの布や、どこにあるのか調べ損なった聖骸布は本物だと信じたい。白骨のカプチン僧

【サンタ・マリア・ディ・カップチーニ教会】

 今日はたぶん日曜日だろうと思って街にでたら、店屋が閉まっていてやはり日曜日だった。ここの教会で、四千体のカプチーン僧のどくろや骨を見る。人骨を部屋の壁や天井の装飾に使うとは、南洋の食人種にも似て割り切った話である。カトリックの真骨頂ここにありで、滑稽ですらあった。これはカニバリズムにも通ずる発想であり、また突拍子もないが芭蕉の <軽み> とも一脈通じる。ペスト大流行で斃れた人骨の山には怨念を感じたが、ここでは変に渇いた陽気なものが感じとられた。

【カピトリーノ博物館 コンセルバトーリ博物館】
 カンピドリオ広場の左右にある博物館。ローマ彫刻の立像は、ほとんどみな健全なポースで、ロマンがない。公衆浴場や徴兵検査の会場を思わせる。もちろん自分の部屋にそのうちの一体でもあれば、その曲線美に果てしなく魅せられるのだろうが、鶴も掃きダメでなく千羽の仲間に混ざってしまえば、どうということはない。美は個にあって、全体には決してないのだから。全体に対して <荘厳> だとか <雄大> だといえても、美しいという表現は決してあてはまらない。

【サッカー、ナポリ vs ラッチオ】
 ローマの街をナポリ・ナンバーのたくさんの貸し切りバスや自家用車が警笛を鳴らし、旗をなびかせて騒々しく闖入してきて、それでサッカーの試合があると分かった。見当をつけてローマ・オリンピック会場のスタジアムヘ行ってみると、やはりそこが舞台だった。サッカーの試合はハノーバーとマドリッドでそれぞれみたが、今度は血の気の多いナポリなので期待していたところ、軍警が出動してたいへんな警戒ぶりであり、入るとき持ち物を検査された。
 収容能力十万人のスタジアムだが、怖いぐらいの超満員だったから、それ以上は確実にいただろう。観客席とグラウンドの間には深い濠があって柵があって、さらに兵隊が警戒していたが、虎視耽々と狙っていたナポリの少年がついにそれを突破、大観衆の見守るなか、試合開始前の無人のサッカーグラウンドをナポリの応援旗を持って走り込み、たいへんな喝采をうけた。彼は大地に膝まずき、両手を広げてナポリの勝利を祈るドラマを演じ、そして英雄となった。

【再び聖ピエトロ寺院】
広場の大群衆 今日12月8日は、聖母マリアの祝日である。聖ピエトロ寺院に行くとたくさんの信者が寺院を埋めつくしていた。彫刻の台座に登って見ていたら、祭檀下に枢機卿が勢ぞろいしており、10時半、歓声と拍手に迎えられて玉座に乗ったローマ教皇が現われた。小さな女の子が台座から落っこちないように片腕を支えてあげながら見たが、本当にチャンスに恵まれていると思った。
 今日のことにしても、教育修士会の本部を午前中訪ねるつもりでバチカン行きのバスに乗り、途中下車して乗り換える予定だったが、バチカン行きのバスに臨時便が多く、修道女たちの姿が多かったので、何かある、と思って寺院まで行ってみたのだ。台座に登っていた時も、祭檀下の枢機卿しかみえないので、いったん降りて出口まで行き、なんとなくまた人をかき分け戻った直後に教皇が現われたのである。要するに教皇ミサだったが、テレビ中継もしており、聖母マリアの祝日でこれだとクリスマスの騒ぎはどうなるのだろうと思われた。
 教皇というヒエラルキーの頂点を見て、これは死ねる、と直感した。教皇擁護のためならば、である。祖国のために死んだ若者が多かったのだから、今みたいな平和な時代で死ねる対象をみつけたのも悪くなかろう。

【教育修士会訪問】
関係各位 12月8日、その日の午後、教育修士会本部を訪問した。ローマ市郊外の閑静な分かりにくい場所にある。この旅行中唯一の公式訪問で、ただの挨拶だから気が重かったが、人懐かしくもなっていたので行く気になった。教皇を見た直後なので総長に会ってもなんの感慨も起こらないが、彼とは3、4年前、日本で会って京都まで校長たちと一緒に付き添ったことがある。
 旅行中、あんなに積極的に英語をしゃべりまくったのは初めてである。しゃべりながらこれは文法的にメチャクチャ、あっ、間違えた、また間違えた、あっ思い出せない、とよく反芻した。向こうはイキのいいのが跳び込んできた、と思ったことだろう。市内男子中学校への紹介状を書いてもらった。

【点描】  
  ローマの12月はパリの11月よりも暖かい。気候や風土が国民性に影響を与えている、というよりは、長い目でみれば国民性を形作っていると考えた方が正しいかもしれない。暖かい陽気の冬のローマは、懸念していた以上に落ち着いていた。ジプシー・スタイルの乞食の母娘は多いが、観光客目当ての物売りやポン引きもいなく、買い物の際の値段のチョンボにもそう出くわさない。観光シーズンのイタリアの評判の悪さは、おそらくいやが上にも暑くてそこへ観光客が殺到して国全体がヒステリックになるからだろう。
 遺跡と教会は本当にふんだんにある。7つのバジリカと293の教会が市内にあるという。そのうちの17,8をみることにしている。そして遺跡には野良猫が棲みついている。ローマの街路樹はプラタナスなどの落葉樹よりも、松や杉の常緑樹が圧倒的に多い。遺跡に松がよく似合う。

【動物園】
 哺乳類で珍獣奇獣に出くわすことはもうないが、水族館や昆虫舘では、日本でみられない生物をみることができる。しかしローマのは、付属の水族館も昆虫館もなくて管理が悪く、野良猫ばかり棲みついていた。鳩や雀でなくて、猫のバッコする動物園なんてこれはローマ的である。
 食事をしている山猫のオリの前に野良猫が待機していて、折りあらば手を伸ばして奪おうとしている。最終的にそれが成功して、餌をくわえた野良猫は悠々と立ち去った。一幅の絵だったが、残念ながらフィルムを切らしていた。

【バチカン博物館】

 遂にバチカン博物館を踏査する。聞きしにまさる恐ろしい博物館であった。大館内は完全な一方通行になっていて、24の各セクションを全部回っていったら4時間かかった。入場時間は朝9時から昼1時までだから、朝一番に入館しなければならない道理となる。ちょうど半ばごろにシスティナ礼拝堂が来る仕組みになっており、システィナヘシスティナヘと草木もなびく感じである。途中通路が二手に分かれていて、かたや <システィナ直行便>、かたや <近代宗教美術経由システィナ行き> となっていたりする。この近代宗教美術館にルオーやシャガール、ユトリロ、ダリ、藤田、ピアズレーなどが置かれているが、これには100ページ近い博物館解説書の2ページが割かれているぐらい。まず何よりもギリシャ・ローマの圧倒的彫刻群(まるで非宗教的な)に度胆を抜かれる。権勢並ぶものなき歴代教皇の威光がそれを可能にしたのだろうが、まるで彫刻複製工場の作業現場なみの部屋が延々と続いている。
「華麗なる激情」 システィナ礼拝堂の、天地創造から最後の審判にいたる一連の作品は、端的に<第九>交響曲に匹敵すると思えばそれで済むんだろうか。問題はそういった英雄的創造の、どこいら辺まで登っていけるか、ということだ。ラファエロが死力を尽くして描いた「変容のキリスト」より、ミケランジェロが仰向けに描いたアダムの方が、エホバとアダム数段高貴さに溢れているように見えるのは信念の違いか。このシスティナを舞台に、ミケランジェロをチャールトン・ヘストン、ユリウスU世をリチャード・バートンが演じた、大きくて激しい性格のぶつかりあいの映画があった。真っ先にあの、まさに生命の息吹が吹き込まれて惹かれなんとするアダムの指とエホバの指が大写しになり、徐々に徐々にカメラがさがって、雲に乗ったエホバと半身を起こしたアダムが現われるという感動的なファースト・シーンだった。(あるいはこれは、「天地創造」のファースト・シーンだったか?)

【ファンタジア】「2001年宇宙の旅」
 映画は各国でよく見たが、今日見たウォルト・ディズニーの「ファンタジア」と、ベルリンで見た「2001年宇宙の旅」がとてもよかった。2001年は二度目だったが、70ミリの大画面で、しかも前部中央の最高の位置でパノラマ大詩篇を堪能した。はじめて見た時はたしか難解なあまり、退屈して途中で寝てしまうという、生まれてはじめての不手際をおかした奴だ。今回はジックリ丁寧に見たので、ラストシーンの宇宙を遊泳する巨大な胎児が眼をバッチリ見開いているのに気がついた。音楽もよかった。パリでオーウェルの「1984年」を再読した直後でもあった。アーサー・C・クラークはともかく、監督のキュービィックの方は、「博士の異常な愛情」や「時計じかけのオレンジ」など、好みのテーマをよくとりあげる。
 今日のディズニーの映画は、「田園交響楽」や、チャイコフスキーのワルツ、「トッカータとフーガ」「はげ山の一夜」、シューベルトの「アベ・マリア」など、音楽の視覚化映像化であった。画面が古くて小さいのが残念だったが、音楽を聴いているだけでもいいので二度続けて見た。いい映画だなあ、いい映画だなあと見ながら思った。オスカーを2つとっている作品である。ディズニーはノーベル平和賞をもらっていたかどうか。

【学校訪問】 
教室、左手前トム・ロックウェル 小中学校あわせて360人の小さな学校を訪問する。校長がとても気さくで、英語をゆっくり思い出しながら話すので気楽だった。中1と中3の授業を中断して、校長が私を紹介し、旅行ルートを詳しく解説してくれて質疑応答にはいった。質問が続出して、黒板に名前を書いてみたり剣道の型をやったりで、大盤振舞いをした。おもな質問は以下のとおり。

----喧嘩のとき、日本の子供はカラテを使うか
 「日本の子供は平和的なので、口論だけで暴力は使わない」
----どこの都市がいちばん印象深かったか
 「フィレンツェとベネチィアである」
----どこの国の言葉がいちばん難しいか
  「私は日本語と英語、それにドイツ語を少し、さらにフランス語を話すが(ハッタリ)、いちばん難しい言葉は日本語である」
----あなたはカラテかジュドー、アイキドーをやるか
  「私はカラテの達人ではないが、剣道の達人である(これもハッタリ)」(そのあと型をやってくれ、ということになった)
学食の食券----こどもが好きか
  「もちろんである。だから教師になったのである」
----スパゲッティはうまいか
  「好きである。メンサという学生食堂で毎日食べている。ピッツァも好きである」
----ヨーロッパの印象は
  「文化発祥の地と思っている」(できている答弁だなあ)

 お昼になってブラザーたちと昼食をともにした。彼らも珍来の客にとても親切にしてくれた。日本製品が出回っている話から、イタリアから日本へ輸出しているものがあるか、ということになり、必死に思い出してなんとか「マーブル」と答えて、一同ホッとなった。
 そのあと英語が話せるというので、ローマ生まれのアメリカ少年トムと、その友達ダンテという生徒を相手に、今度はこちらから状況倫理の問題を5、6題出して考えさせた。ダンテがピッツァを一緒に食べようというので、土曜の夕方またこの2人と会うことになった。

【二人の水先案内人】
 12月13日、土曜の夕方は、サン・イボ中学校のアメリカ少年トム・ロックウェルと、イタリア少年マシモ・ダンテの案内でピッツァを食べた。近辺ではちょっと名の知れたピッツァ屋だそうだが、満腹だったのであまり入らなかった。マシモと私はビール、トムはコーラだったが、私は顔が赤くなったのにマシモは平然としている。トムとの英語が長引くと、マシモがすぐ「ケ?ケ?」(何?)と聞いてくる。トムはマシモの中1程度の英語をよく助けて本当に気持ちよく通訳する。彼は英語になると途端にどもる。
 ピッツァを食べてから、サンタ・マリア・イン・トラステベレ教会を見、近所の吹き替えなしのアメリカ映画専門館というのを教えてもらった。
ノーマン・ロックウェル マシモが、今から(7時ごろ)エウルのルナ・パークという遊園地へ行こうと言い出し、トムの家にその旨伝えに一緒に行く。彼の母は美術家で、祖父のノルマン・ロックウェルはアメリカではたいへん有名なアーチストだという。(後記。ロンドンで購入した本の中に <Norman Rockwell's Americana ABC> があった。当時知らずにアーリーアメリカンの図柄が気に入って買ったものだった。その家でロックウェルの絵を見せてもらっていれば、東洋の一青年の心も動かした画家だとそのとき伝えられた)
 トムは4人兄弟の次男で面倒みがいい。マシモは社会問題に強い関心をもっており、運動神経も発達していて甘いが凛々しい顔立ちをしている。2人とも13歳。
 ルナ・パークは、コペンのチボリやウィーンのプラーターのような大がかりな遊園地だが、土曜の夜というのに何かの祭りあけらしく、きわめて少ない人出であった。まず観覧車に乗ってあたりを俯瞰してから、ゴーカートで競争をする。遠心力の部屋で壁にへばりついてから、ジェット・コースターを試みる。トムは乗る前から怖がっていたが、これは怖い乗り物である。ついで足元に様々な仕掛けのある部屋に入ってから、ホッケーや電子ピンポン、サッカーなどの室内ゲームをやる。大型ブランコではトムと私はへたばったのに、マシモは一回転させるまでこぎつけた。トムはイタリアではトマス、マシモは英語でマックスである。鏡の家に入ってから、マシモがコンピューター・クイズを試みて、イタリア全般のセクションを選び、自信満々押すボタンがみな外れて思わず吹き出す。
 夜なので彼らの写真を撮れなかったのが残念だったが、極東からの孤客を慰めようとする私心のない彼らの態度には素直に感謝したいと思った。別れる時は心惜しかったが、別れるのがまた <この人の世の常なるを> なのだろう。

【カラカラ浴場】

 あまり印象に残らなかった。パンテオンを見てもそうである。ちんまりまとまっているパンテオンよりは、ハリウッド的に破廉恥な19世紀の建築物ビットリオの方が八方破れで楽しい。パンテオンのもつ簡素化は、現代ではコンピューター的にはじき出されすぎている。

【カタコンベ】
カタコンベ ガイド付で、数ある中の1つ、サン・カリストのカタコンベを掻い撫でただけだが、原始キリスト教時代のシンボルである魚と、その文字イクトゥスを見ることができた。カタコンベよりも、近くの旧アッピア街道との分岐点にある小さな教会クォ・バデスの方がよかった。そうか、ペトロはここまで逃げてきたのか、そしてキリストのビジョンに捕まえられたのか。かつて三度否んで鶏に告げられて、今また聖霊降臨にもかかわらず、脱出するところをキリストに見透かされて、まったく初代教皇は多難な人だったんだなあ、と思われた。小説の「クォ・バデス」は、つまらなくなって途中で放棄した本だが、中学生のときだったから無理もない。
 この教会にキリストの足跡があった。仏陀の足跡なら珍しくないが、あまりうまくない彫り方なので実感がわかない。

【国立美術館】
 食傷気味のルネサンス絵画に留まった。同じ画題、同じ手法、ブームに乗った月並みな人々。

【再びバチカン博物館】

 今回は詳細なカタログを買って、一点豪華主義的にギリシャ・ローマ彫刻部門(これも主にピオ・クレメンテ博物館とグレゴリアン・プロフェイン博物館に分かれている)とシスティナ礼拝堂、それにピテナコークに的を紋ったが、全部見切れなかった。
 とかげを殺そうとしているアポロン像は、左手から右足にかけて重心がかかっており、力を抜いた左下肢の膝がすばらしい。ギリシャのブロンズをローマ時代にコピーしたもの。この過程を踏んだ彫刻が多い。
 見ごたえのある博物館をあとにした時の、高揚した充実感----今回の旅行でなんども味わった貴重な感情である。

【ポンペイ】
ナポリ行切符 ポンペイ訪問のためナポリヘ行く。毎日ローマ市内だったので、海をみ、山をみ、気分転換によい。小奇麗なユースで夕食をとったが、10人ぐらいの泊まり客のうち6人までが若い日本人だった。食後ナポリの夜景を見るためボメロの丘まで登山電車で行く。ちょうど雨があがって強い風が吹いていたので、街の灯がチカチカまたたいていて奇麗であった。熱海ぐらいか。
アンティノス像 翌朝一番で国立博物館に入り、イッススの戦いにおけるアレキサンドロスのモザイクなど、ポンペイの出土品をみる。彫刻部門が立入禁止だったがかまわず入り、ディオニソスを肩車にしているサティロスなど好みの被写体をパチパチ撮る。家族連れが真似して入ろうとしたら、こんどは守衛に見つかって可哀そう。
ポンペイ 午後私鉄でポンペイに行く。地図でみるとベスビオ火山とポンペイの遺跡は約8キロ離れている。実際にみるともっと遠くに山があるようにみえるが、それでも8キロ離れていたにもかかわらず、完璧に火山灰に埋もれてしまったというのは恐ろしい。遺跡は鬼ゴッコに格好の場所である。しかし火山の爆発に隠れることはできても、逃れることはできなかったのだ。その些かの例外もない、というところにソドムとゴモラにも似たすさまじさが感じられる。
 爆発の7年前に大地震があったというが、7年間という歳月は、充分天災を忘れさせるに足る長さであったのだろう。その結果、今度は出直しのきかない終止符となった。
天地創造 小さな画面の「ポンペイ最後の日」より、「天地創造」というハリウッド映画で、アブラハムとイサアクが原爆の落ちたあとのような廃虚の街、ソドムを二人して歩いていくシーンの方が、実感をもって思い出される。あの山がこの街を、ボタ山が小学校を、その時身ごもれる若き母は不幸である----聖書はただ淡々と指摘するのみ。

【アメリカ映画専門館】
ローズバード」----ユダヤ人の大金持ちの孫娘とその女友達が、<黒い9月> というアラブ・ゲリラに誘拐されて、飄々としたCIA秘密要員ピータ・オトゥールがそれを解決するという筋。
サブウェイ・パ二ック」----<ペーレム123乗っ取り> という題だったが、「サブウェイ・パニック」であった。はじめの方で、4人の日本人が狂言回しとして登場してくる。英語を知らないと思われて <猿ども> よばわりをされた途端に、流暢に英語を喋り出すのだが、後味の悪い場面であった。
 (後記、日本で再度見たとき <yellow monkey> の科白はカットされていた)
盗聴」----<ポセイドン・アドベンチャー> で活躍したアクの強いハックマンが、忍び寄る老いの孤独感を演じている。
 最新のメカニックを駆使したCIA的アクションを期待していたのでつまらなかった。
ヤング・フランケンシュタイン」----喜劇。これだけ500円、他のは400円だった。

アメリカ映画

【クリスマス】
 真夜中の教皇ミサに預かるため、7時半にバチカンに行った。ミサが寺院の中なのか広場でやるのか分からなかったが、行ってみると寺院前の広場は噴水のところまでビッシリ椅子が敷き詰められていて、野外ミサと分かった。予約席以外のところにもう人が集まり出していたので、そのまま席に着き、4時間半待つ。立ったり坐ったり足踏みしたりできわめて寒いが、人が増え、照明が増え、さまざまな準備が続いてだんだん一大ページェントの雰囲気が盛り上がってきた。最終的には昼間のようなもの凄い照明になったので、カメラを持ってこなかったのが悔やまれる。アフリカからの巡礼団や、フィレンツェから徒歩で来た胸にゼッケンの大集団、着物姿の日本人一行が拍手を浴びたが、日本人は全員「南無妙法蓮華経」のたすきを掛けていた。なんだいこれ?12時ちょうど、パウルス6世のお出まし。凛と響くボーイソプラノのソロは、居並ぶ枢機卿にまさる。教皇の説教の英語の部分は、クリスマスに平和を祈るメッセージ。人々のあいだに平和の挨拶があり、聖体変化に続いて、200人の司祭団が階段を降りて群衆のあいだに分け入ってきた。こだわりなく拝領して、これは何年ぶりのことか。
 翌25日はローマ市内から突如、市バスが一斉に消えて、日頃の交通渋滞が嘘のよう。日本の元旦の夜ぐらいの静けさであった。

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 12月27日、旅行の最終段階に入る。ウラジオストックの埠頭に降り立った時の溢れるような好奇心は、エネルギッシュな夏のヨーロッパ回遊をもって一応鎮まり、4ヶ月間のマドリッド・ロンドン・パリ・ローマ滞在の試みも、月経るにしたがい淀みなく終え、いま、拠って立つべき国へと戻る。
 早く戻りはしたいが、旅程が尽きて戻れば終わってしまう。旅枕に熟睡はないが、過客の心は何ものにも替え難い。答案作成の被虐的な緊張感がいとおしくて、提出するのをためらう気持ちか、とまれ、時間はまだ残されており、問題を解く楽しみも、落とし穴に嵌らぬ用心も、この先の世界に待ち受けている。旅装時間が決められているならば、後はただそこに豊饒な内容を盛り込むだけだ。
 いったい信じられぬほど寒くて危険な旅なのか、バカ陽気な快適旅行なのか、かいもく見当のつかないのが不安材料。コッヘルや水筒、防寒具、強盗用の小銭入れ、それから越中富山の行商なみの薬箱、これらはちょうど外国にハイライトがないからと、1日一箱喫う人が、1週間の旅行に20箱持って出たりするようなものかもしれない。しかし用心のために腕時計をズボン裏に縫いつけてみると、それはそれで大げさなりに武者震いがする。
 いざや行かん、中近東・アジアの旅----