『旅 行 記』  
                    
巴里晩秋覚え書き (点描パリ1975年11月)


 ロンドン〜パリ間はわずか50分の飛行だったが、怖くてワクワクすることには変わりない。ヒコーキが船や列車と違って、止まったら後がない、というのは緊張させる話である。リュックサック
 着いた空港は、万博みたいな透明のチューブの動く歩道などがある、酒落れた新しい設計の空港だった。ここでとんでもないことに、預けたリュックサックが出てこなかった。それで悪名高いヒースロー空港の係員にやられたと知った。そのとき次いでに、この空港がオルリーでなく、最新のド・ゴール空港であるとも分かったが、ロンドンからパリという一流ラインを飛んで、荷物が紛失したとは唖然とする話である。手続きをとって数日待つことになったが、まず絶望的であろう。パスポートや旅行小切手、切符などは身につけていたので、失ったリュックはすべて買えるものばかり詰まっていたが、それでもロンドンで整えたアジア・中近東の資料を半分がとこ失ったのが痛い。旅行のはじめヘルシンキ辺りで、「荷物を盗まれたら、軽くなったぐらいに思え」と教えられていたので、軽くなったなあ、としみじみ思った。(後記。このリュックは数ヶ月後発見されて、横浜の自宅に無事届けられた)
 5月中旬、オスロ〜ストックホルム間の車内で知り合ったパリ在住の画学生、筒井君が、地下鉄を二回も乗り換えるような所で待っていることになっており、シッカリしたいい男なので、疑いもなく言われた地点で待っていると、間違いなく来てくれた。疑ってはいなかったが、一人旅の常として、来ない場合も胸中想定しており、もし来なかったら雨も降っていた折り、傘も盗まれてきっと相当惨めなパリ第一日目を送っていただろうと思われる。
 彼はもう1人の画家の卵、刑部(おさかべ)君と一緒で、そちらのアパートで、彼手作りのトンカツや野菜サラダのご飯で歓迎の陣を張ってくれた。ハイライト2カートンをお土産にと思っていたが、それもリュックと一緒で口惜しい思いをした。(このハイライトは、ロンドンにいた時、教え子から手紙が来て、10月の28〜30日に自分の母親が、市のヨーロッパ教育研修旅行でロンドンに着くので何かとよろしく、という文面で、生徒もその母親も面白い人なので楽しみにしていたが、「ハイライトを2カートン持って出発した」とか、「食事に誘いたいと母が申していた」とか、この息子もなかなかである)

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 筒井君と刑部君は私と同世代で、たんなる絵オンリーでなく、雑学が全般に及んでいたので楽しい話し合いになった。
 「それにしてもパリのアパルトマンの屋根裏の絵画き、とは話が出来すぎてますね」
 「ほんとに少し恥ずかしいぐらいで...」
 こちらはロンドンでターナーを発見したが、2人とも自分の部屋にターナーのポスターを貼っていた。
 「私はルノアールやセザンヌは全然つまらなくて、ああルノアールだなぐらいで素通りしている。自分でもぜいたくなことをしていると思っている」
 「いやあ、それは贅沢というより、もったいないことをしていると思います」
 それを聞いてアッと思った。やっぱり違うんだなあという感じである。結局私に見分け得ないものを彼らは見取っているという発見でもあった。しかし何を見分けているのかこちらは分からず、彼らも口に尽くし得ぬのがもどかしい。
美術館の一隅ガイドブック 翌日は日曜で、ルーブルが無料なので3人で出掛け、私には刑部君がついてザッと案内と解説をしてくれた。ギリシャ・ローマとエジプト部門、それに絵画部門の一部だったが、的をはずさない。だが絵画部門に移って、彼の絵を志す者としての観点と、私の絵を見る際の関心の方向が正反対なことに気がついた。このことは、ルーブルを出て喫茶店に移ってからも論じあったことだが、要するに彼らにとって大切なのは手法であり、私にとっては主題である。彼らに言わせれば極端にいえば、描かれている内容はどうでもいいのである。私にとっては主題があって、それを画家がどう解釈し、いかなる発想で表現しているかに関心がある。それでザッといえば、セザンヌやルノアール、ドガ、レンブラント、ルーベンス、それにマネ、モネ、ピサロなどの印象派に関心がうすく、一方、ムンクやデューラー、ブレイク、ゴヤ、ダリ、グレコ、ゴッホ、ドラクロワ、モローなどに関心が傾く、というもったいないことになるのである。これは美術のみならず、音楽や文学についてもいえそうで、なぜそれを、という動機がはじめに気になり、そこが分かって、さてそれをいかに、という手続きを踏んでいるようだ。両方分からないと、この人はなにを無意味に、と芸術作品ともどもその芸術家をおとしめてしまう。言葉をかえれば、その世界に分け入らないで、皮相的にこちらの尺度で測って済ませている。こちらの当てにしている生き方、ものの見方を前提にして、その上でそれにのっとった表現の仕方や展開方法についていく。

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ムーラン・ルージェ 刑部君が選んでおいてくれた宿のすぐ近所の映画館に、ムーラン・ルージェと書いてあるので、「本物のムーラン・ルージェはどこら辺にあるのですか」と聞いたら、
 「これが本物のムーラン・ルージェです」という返事。
 宿のあたりはパリ随一の歓楽地帯で、セックス・ショップやストリップ小屋が氾濫している。このホテルも売春婦や男娼の寝ぐらであると後で分かった。9時頃になると彼らは仕事に出かけて行く。ア、いってらっしゃい。

 物価高のパリでも、ここモンマルトルの麓はいちばん安いそうで、暖房つきの部屋にはガスコンロもついていたので、刑部君から鍋やフライパン、食器を借り、いっぽう筒井君から学生食堂の食券を分けてもらった。パリの学生でないとめったに手に入らないもので、これだと一食3フラン(210円)と、自炊するよりもさらに安あがりである。ただ学食が遠くて、モンマルトルの丘を越えた向こうにある。食事をとりに、小雨煙るモンマルトルの石畳の坂道を登り降りすると、<ちまたに雨のふるごとく> その出来すぎた雰囲気にてれ笑いする。

パリ国立図書館 筒井君の時間があいたので、一緒にパリ国立図書館へ行った。案内で訳を話すと、どこの大学教師か、と訊くので、中学校をやめてカレッジにし、静岡をやめて東京にしてなんとか中に通してもらった。階上の資料室へ行くと、まず階下の受付へ行け、といわれ、受付で筒井君がパスポートを持っていなかったのでダメと言われ、出直そうと思って資料室の係員に出直す、と彼が伝えると、本当はダメだけどと言って 30×20 センチぐらいの分厚い資料を2冊もってきてくれた。彼に訳してもらうと『悪魔に憑かれた人々』という題名で、なかは全部手書きの17世紀当時のスクラップだった。作法通りとすれば、それはすべて血で書かれているはずの本物である。1ページ1ページ丹念に見ていくと、目的のグランディールの悪魔との契約書があった。こんなにうまい具合に見られるとは予想していなかったので、あっけないぐらいだった。係員のいなくなった隙に写真を2枚撮り、筆写しようと思ったが古い字なので途中で放棄する。
 「これ、何げなく剥がして持って帰ったらすごい値打ちもんだな」
 「ここにあるの、全部そうじゃないか」
 筒井君も「おかげで面白いものを見せてもらった」と興奮気味であった。
 そのあと、彼の案内で大きな教科書販売店に行って倫理道徳の教科書を探してもらったが、どうもそんな教科書はフランスに存在していないらしかった。 「なんか話が逆だな」

 刑部君が日本へ結婚しに帰るので、筒井君と一緒にオルリー空港まで見送った。一夜、彼と絵はもとより、ジル・ド・レイや大腸菌、ルルド、地球空洞説などを語り合って楽しかった。

碁 パリの碁会所は、ロンドンより貧弱で、喫茶店の2階で細々とやっている。碁石も軽いプラスチックで迫力がないが、韓国人の六段という恐ろしく強そうなのがとりしきっている。

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【催し物】


<11月7日> 
旅の重さ パリ第七大学で、日本映画クラブ主催の『旅の重さ』を見る。半年ぶりの日本映画なので楽しい。字幕は英語だったので、「ごめん下さいまし」が「ハロー」に、田舎芝居の「トザイ東西」が「レディス&ジェントルメン」になる。それだけでも楽しい。
<11月8日> 『約束』
 おなじ所で『約束』と『わたしの寅さん』を見る。岸恵子が来て解説をした。『旅の重さ』が72年度ベストテン4位で、『約束』が5位で同じ監督作品だが、『約束』の方が数段優れていると思う。荻原健一は『青春の蹉跌』でも見たが、好感もてる演技である。この字幕はイタリア語。ローマかベネチアの映画祭にでも出品したためだろうか。寅さんの方は字幕なし。日本人だけでゲラゲラ大笑いして、フランス人には気の毒であった。でも例え字幕が出ても訳が分からないのではないだろうか。筒井君ははじめて見たが、他のシリーズのも見たいとなんども繰り返していた。
<11月11日>グレコのパンフ
 今日は祝日である。祝日であるのは、商店が閉まっているのと、子供が昼間から出歩いているので分かった。調べてみると「第一次大戦記念日」とある。いやはやなんとも。
 ビリュー劇場でジュリエット・グレコを聴く。軽石を卵の白味に漬けてかち割ったような声である。やるかと思ったら『枯れ葉』を歌った。学生時代、「エコール・ド・パリ」というシャンソン喫茶でボーイのアルバイトをしていたのを思い出す。あそこではシャンソンのレコードが1枚おきにかかったので、好きも嫌いもない、シャンソンを聴けば条件反射的にあの頃を思い出す。『酔いどれ天使』
 そのあと、映画博物館のシネマティーク・フランセで黒澤明監督の『酔いどれ天使』を見る。このシネマティーク・フランセでは、毎日違ったプログラムで3〜4本の名画を立て続けに上映している。映画史上の名作から、アラン・レネやゴダール、またパゾリーニやフェリーニなどの近作まで広く上映しているが、言葉の壁に隔靴掻痒、レインコートを着てシャワーを浴びるようなものだから、結局見ない。『酔いどれ天使』の宇幕は英語だったが、字幕の言葉はなんとまあ無味乾燥な要約でしかないのだろう。字幕を見て「違いない」と思う一方、「とんでもない」とも思うのである。映画の中で着飾った笠置シズ子がブギを歌ったが、その田舎臭い顔つきと挙措に多くのフランス人、特に女性が失笑し、こちらは笑えずに赤面した。<イエロー・モンキー> という東洋人への蔑称を思い出す。
<11月15日>
 シネマティーク・フランセでパゾリーニの『奇跡の丘』を見る。これは一度見た映画だし、内容は分かっているから言葉がなくてもついていける。筒井君と一緒に見たが、あとで聞いた話だと、イタリア語でなくフランス語の吹き替えだったという。全然気がつかなかった。パゾリーニが殺されて間もないからか、超満員の大騒ぎで、はじまる前に黙祷があった。天使や悪魔、三博士、ヨゼフ、マリア、洗者ヨハネ、ユダ----それぞれ役どころにあまりにフィットした顔つきに、感ずるところ多なり。
<11月19日>
 サリュー・プレィュルでツール交響楽団を聴く。モーツァルトの『フィガロの結婚』序曲、ショパンとラベルの『ピアノとオーケストラのための協奏曲』、それにベートーベンの『第七』----3時間にわたる大演奏だった。指揮者の云々、楽団の云々は分からないが、『第七』の第2楽章はとてもよかった。
<11月20日>シャルトル大聖堂
 ベルサイユ・シャルトル・ツアーの観光バスに乗る。ベルサイユ的宮殿はもう驚かないが、シャルトルの大寺院は尖塔が遠望できる分だけ、荘厳である。これはやはり、ペギーのように麦畑のあいだを縫って巡礼すべきものか。凱旋門もコンコルドのオベリスクも、シャイヨーから見るエッフェル塔も、そしてこの大寺院も、高さに見合う広がりを与えられていて流石である。日本人のガイドがついていたので、細部まで説明してくれて、知らなければ見落とすことばかりだった。
<11月21日>
 パリ大学で寺山修二の『トマト・ケチャップ皇帝』という気味の悪い駄作と、羽仁進の『初恋地獄篇』を見る。後者は学生のとき見て共感した映画であった。
<11月23日>
 サリュー・プレィュルでフィッシャー・ディスカウを聴く。これを聴くために出発を延ばした次第である。「ディスカウを聴いて、次の日ベルリンヘ飛ぶのか」と筒井君は羨ましがった。当日会場でもしやと思ったら、やはり『冬の旅』であった。「おやすみ」や「溢るる涙」、「カラス」「鬼火」「道楽師」など、天井桟敷から万感の想いを籠めて聴いた。ツール交響楽団のときと違って、今晩はさすがに完全に満員である。

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 ルーブル美術館へは日曜日4回、平日1回行った。平日に行ったらとても空いていて、モナリザの前に人だかりがなくてビックリした。日曜日は入場無料だし観光客が多くて混雑する「大工ヨゼフ」
 ラ・トゥールの「大エヨゼフ」は、かつて東京で開かれた西洋近代美術展で一度見たものである。中学2年のときで、この絵葉書だけ買ったのを覚えている。大阪出身の筒井君もこの展覧会を京都で見て、感激したという。
 クロード・ローランの絵とターナーの絵をよく混同するので、そのことを刑部君に話したら、ターナーはローランの弟子で、初期は師の模倣ばかりしていたと聞いて納得する。
 エルミタージュで見たファルコネのアモールに再会する。諦めていただけに、もうどちらが本物でもかまわない。私パリの夜景の好きな18,9世紀ロマン派の甘い彫刻が多く、それらを撮るためにカラーをやめて白黒フィルムにする。天気が悪いと撮れないのでひたすら晴れる日を待ったが、出発の3日前にやっと太陽が顔をみせた。それでエッフェル塔にも登るチャンスができた。時間を見計らって行ったので、ちょうど登った時に太陽が沈むところだった。パリの街がだんだん暗くなり、空の下にはちゃんとセーヌも流れており、一斉に外灯に灯が点って壮観であった。
 ルーブルで、死海聖書の写本が入っていた壷を1個見た。大英博物館の方には説明文だけで実物がなかったので、ルーブルが一点リード、「19世紀の彫刻」という本を買う。

 11月のパリの街は、朝8時ごろにようやく白みはじめる。文章を書いていて徹夜になり、7時ごろになってもまだ外が真っ暗だと、このまま朝は来ないのではないかと思ったりする。冬の北欧の陰鬱さもぜひ経験してみたかった。夜が早いのは我慢できても、朝が遅いのは通勤通学する人々にとってやりきれないのではないだろうか。

フランコ 反フランコの落書きやポスターをロンドン、パリで見る。マドリッドでは反政府の落書きは丹念に消されていたのに、こちらはペンキ代節約のためか、FRANCO なら(→)といった消し方である。フランコ死亡をパリで聞く。
 地下道にギター弾きやフリュート弾きがいる。たいてい若者だが、ロンドンの地下道にも多かった。一度年老いたバイオリン弾きがいたが、これは手慣れた弾き方でうまかった。
 歩道と車道の段差の至るところ、水を流している。塵芥を下水道に押し流すためで、こういう仕事は主に外国人がやる。
 ベルリン出発の前夜、筒井君のアパートで刑部君の食器類を返却する方々、晩飯を一緒にとる。画架やキャンパスだらけの狭い一室なので、ベッドに板を敷いてそこを食卓とする。
 出発当日、空港で荷物の一件を再確認した。結局リュックに入っていた荷物の一切とその価格を、見送りに来てくれた筒井君と2人でコーヒーを飲み飲み練りあげたが、電気スタンドを書き込むのを忘れた。もしリュックが発見されれば東京まで送り、発見されなければ横浜宛て、英国航空が弁償する次第となった。

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雪のシャーロッテンブルク宮殿 ベルリンまでの航空路は、雲もなく晴れていてよい眺めであった。途中ケルンに降りて税関を通り、また舞い上がる。東ドイツ上空で眼下は一面の雪景色となった。見るからに寒々しい。
 機内で奈良国立博物館勤務の人と一緒になる。東洋美術専門で、ダーレム博物館東洋美術部門を調べにきたのだという。その晩は同じホテルに泊まったが、高いので翌日ユースホステルに移る。
 ダーレムでは民族誌博物館のオセアニア部門に度胆を抜かれる。原始とパトスと本能と----まったくの異趣文化。神もたぬ野放図さ、常夏の情熱の奔流であった。
 翌日、地下鉄で東ベルリンに入る。封鎖されている箇所の地下鉄プラットフォームには、機銃を持った東独警備隊員がいる。別室で持ち物を徹底的に検査されたが、そうあることを予期してカメラバッグ1つの軽装にしておいた。だだっ広いガランとした広告のない街、東ベルリン。ドイツ国民のような誇り高い民族までが共産思想を強いられるのは堪えがたいことに違いない。ペルガモンの遺跡その他をみる。旧博物館では戦後30周年記念インターナショナル(共産圏)文化交流展をやっていた。ソビエトや東欧、北ベトナム、キューバなどからの出展があったが、半年前モスクワのトレチャコフ美術館で見た「戦線からの便り」が出品されていた。
 アウシュビィッツに行くつもりでポーランドのビザを申請しようとしたが、教えられて行った所はポーランド文化センターで大使館ではなかった。よってこの計画は漬れたが、共産国入国はなにか肩が凝るのでホッとしたともいえる。
ベルリン、フランス管区壁の向こうを見る 28日はコルベ美術館へ行くも休館。動物園は曇っていて寒々しく、入る気にならない。ベルリンの壁にそって歩いてみる。5ヶ所の物見台に登って向こう側をみやる。壁の向こうにもう1つツルツルの壁があり、そして巾50メートルぐらいの地雷原があって、さらに高さ3メートルぐらいの高圧電流の鉄状網と、コンクリート製の逆茂木がある。向こうの警備兵が双眼鏡でこちらを見ているのをカメラに納める。
 午後フランクフルトヘ飛ぶ。ベルリンのテーゲル空港では荷物をX線で調べていた。
ゲーテ 29日、フランクフルトは何もない所なので、夏のドイツ旅行の際も乗り換えと食事に立ち寄っただけだったが、仕方がないのでゲーテの生家と博物館へ行く。蚤の市で皮製の半長靴の中古を5マルク(600円)で買った。防寒帽は950円。冬のアジア旅行のために買うつもりのものだった。夕方、広場にたくさんの屋台が出ていた。イルミネーションやもみの木で飾られている。教会の屋上からバンドが賛美歌を流している。綿飴も売っていた。クリスマスは近い。百貨店が景気を煽っている。
 フランクフルトにいても仕方がないので、予定より1日早く11月30日、ローマへ発った。ドイツ独特のソーセージのにおいに再び接して、夏の旅行の記憶が甦った街だった。