『旅 行 記』  
         
薄日射す帝都の秋 (点描ロンドン1975年10月)


イベリア航空機
 はじめて乗ったヒコーキは面白かった。怖くてワクワクする。
 ヒースロー空港で、国際カトリック学生ホステルの詳しい住所を聞く。マドリッドで旅行者の鈴木君が一足先にロンドンに行ってそこに滞在し、快適だったと聞いたからだが、彼とはヘルシンキ、ハンブルグ、ブレーメン、ツェルマット(スイス)、マドリッドと5回偶然に会っている。いずれも打ち合わせた訳ではないから、たいした偶然である。
 はじめて英語圏の国にはいって、見るもの聞くもの、かつて知ったる言葉なので何かとスムーズにいく。もっとも学生ホステルは満員だったので、隣のポートランド・ホステルに落ち着くことにし、食事は主に学生ホステルの地下の食堂でとることにした。ポートランド・ホステル入り口
 マドリッドでは隣室にトロがいて、金子さんがいて、ヒロシがいたが、ロンドンではまず日本人に接するチャンスがない。ここの下宿は個室が満員で、カレッジに通う生徒と同室になった。ニュージーランドのそばの島から来ていて、国の名前は FIJI 、聞いたこともない国だが、人種はインド系である。シャミルといって可愛いところのある16歳の少年なのだが、髪型や服装を気にするナルシシストで、わがままで高慢である。いちど生意気なので殴ろうとしたら、
 「悪かった、悪かった、許してくれ」とあやまって憐れみを乞うので止めると、直後に、
 「英語が下手ならイギリスにくるな。あんたの顔はビッチだ」と開き直る。
 「ビッチとはどういう意味だ。 ugly のことか」「そうだ」
 「ああ、そうか」では締まらない。
 年下の者にファースト・ネームなど言われたくないので、私の名前はセンセーだと言ってある。金切り声をあげてセンセー、センセーと怒るから、あいよ、となる。
 喧嘩の以後、私が徹底的に朝寝坊して、夜は真夜中、彼が寝てからヒッソリ帰ってくるのを続けたので、これには寂しくなってしまったらしい。考えてみれば、16歳で人種差別の激しい先進国イギリスに来て(先進国というのはシャミルの感覚)、常に気を張って、自分自身もビッチ(有色人種への蔑称でもある)なのだから、ちょっと可哀想でもある。将来医者になるというが、カレッジで習っているのは化学と物理、数学の三科目だけ、これでいいのかとも思う。便所に幽霊がいた、とかいって洗面台で小便をするような奴である。

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   観光名所をそれぞれ訪れてみると----

バッキンガム宮殿】 儀仗兵
 衛兵の交替が11時半からなので定刻に行ってみると、鉄柵の前はすごい人だかりですでに何も見えない。それで少し離れたところの石壁によじ登ったが、頭ごしにはなったものの、鉄柵をはすかいから見ると、鉄柵と鉄柵の透き間が埋まって、黒々とほとんど鉄柵しか見えないことが分かった。マ、いいかと思って、群衆と騎馬警官の動きを見ていると、たくさんの日本人観光客がいて、なるほどこういう所にくれば日本人に会えるのか、と思った。
 衛兵などというのは、いくらなんでもバカバカしい仕事で、今どき本気でやっているのだろうかと思っていたが、見たかぎりでは、やはりあまり本気になっていないようだ。目玉などキョロキョロ動かして、こちらを盗み見ようとしていると、オイ、真面目にやれと言いたくなる。
 モスクワはレーニン廟での衛兵交代の方が、はじめて見たせいもあってか、数段の迫力であった。同じ背丈の者を勢ぞろいさせるなど朝飯前の国だからだろうか。

【ロンドン塔
 宝物舘でみた、エリザベス女王の錫杖にはめ込まれてある世界一のダイヤモンド<アフリカの星>----なんの前知識もなかったが、凄いものを見続けているのだな、という圧倒的な感慨が襲った。見る所は段になっていて、前段ショーケースのそばは立ち止まってはならない、1周して後段少し高いところからは、ジッと見続けていいという仕組み。
 宝物舘入り口に、「時ニヨッテ突然閉館ニナルコトガアリマス」といった脅かすような注意が書かれていたが、目を細めて飽かず見ていると、突然、それが起こった。警報が鳴ったような記憶もないが、なんの前触れもなしにショーケース全体が、突然黒い鉄板のようなものでサッと覆われ、アッと思う間もなく、警備の制服が何ごとか叫んで私たちを強制的に誘導し、金庫のような陳列室がただちに閉館された。売り場の売り子も含めて、混乱していた客が全部宝物舘の外まで出され、それには1分もかからなかったか。
 意地になってジッと再舘を待ち、再び金庫のような部屋で<アフリカの星>拝見したが、卵ぐらいの大きさのダイヤモンドに向かって、あなた凄いんだなァと敬意を表したい気持ちであった。

【英国議会ジェリー・ドリエンドル(ロンドン)
 土曜日で内部参観ができ、女王の玉座のきらびやかさに驚嘆もしたが、ビッグ・ベンも含めた外観をテームズ河畔から見、近くのウェストミンスター寺院もあわせて見ると、イギリスらしい荘重さがここら辺一帯から伺われる。かつての大英帝国と斜陽の老大国の現在とが、ともになるほどとうなずけるようなカビのはえた重厚さであった。

【ロンドン動物園
動物園パンフ パンダを見た。上野へ行く用事はなかったが、ロンドンに来る用事はあったのだ。ニヤニヤしたい気持ちである。ここは世界的規模であった。昆虫舘があって、サソリも毒蜘蛛も蛇ぐらいの百足も見た。蟻の巣まである動物園など、はじめてである。高い入園料にみあうものであった。

【マダム・タッソー
 名は知られているが、同じ趣向の蝋人形舘はすでにあちこちにあり、それらの方が新しいだけあって、いろいろ工夫にソイレント・グリーン富んでいる。「もし動かなければ、それは人形です」というキヤッチ・フレーズであった。悪人たちばかりを集めた部屋があったが、英国人中心の名の知らない悪党ばかりなのが残念である。
 隣のプラネタリウムに入ったが、小学校6年のときに見た渋谷の五島プラネタリウムの方が、感激が大きかったのは当然か。チャールトン・ヘストンのSF未来映画で、老人が「田園交響曲」の流れるなかで、海や花、せせらぎ、森林、野原、星などの大自然のフィルムをみながら安楽死するシーンを思い浮かべて、だんだん終末に近づきつつあるな、と思った。

【セント・ポール寺院
日曜ミサの案内 訪れた日は日曜日で、博物館・美術館とうが午後からかも知れぬという危惧から、寺院まわりをしたのだが、ドームの大ききに驚いたのもさることながら、ちょうどミサの最中で、パイプ・オルガンと聖歌隊の少年と男性合唱を聴くことができたのは幸いだった。こういうのを聴くとお布施もスムースに出るし、脱俗的なきよらかな世界もありそうなんだなあ、という気持ちになる。

【グリニッチ天文台
グリニッチ天文台 かつてはロンドン市街のやや郊外、テームズ河を隔てたここの丘の上で観測していたが、街の灯りやネオンに邪魔されて、天文観測そのものは別の所に移ってしまっている。しかしここが西半球と東半球をわかたつ原点であることには変わりはない。しかも嬉しいことにちゃんと分かってますふうに地面に線が引いてあって、標識にいわく、「世界最重要子午線、こちら東経、こちら西経、ここ北緯51度28分38秒、経度O度O分O秒、トランジット・サークルの中心」と晴れがましく書いてある。
 明石に行ったときも、アア東経135度、とすぐその気になったが、赤道にはおそらく赤い線は引いてないだろうしで、この線上に立って両半球を見渡したことは、天文好きのわが生徒なら鼻血を出すのではなかったろうか。
 因みにここが中心線に選ばれたのは、測量技術が一頭地を抜きんでいたのもさることながら、鉄道会社の方で時差に困ってここを標準時にしたのが一因になっている。蒸気機関車で認められて街の灯りで追われた訳である。

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碁会所 昼間はいろいろ回る所が多いが、夜は博物館も美術館も閉まってしまうので、碁会所に通う。
 ここには有段者が日本人も含めて20人近く、中級の層が薄くて、十何級という初心者が多い。私は6級で打っていたが、途中から5級にした。
 11、2日の土、日にわたって、日本から2人プロ棋士が来て、名人戦解説や八面打ち、碁の映画などを見せてくれた。八面打ちははじめてみるが、壮観なものである。芦葉三段が6勝2敢、井上初段が7勝1ジゴであった。
 19日の日曜日は、ジェファリーという医者の車で隣の州まで遠征に行った。そこのオープン・トーナメントに出場するためである。100人ぐらい集まって日本人は私だけ、5級の人3人と3級1人と対戦して2勝2敗であった。ジェファリーは名誉1級の碁キチで、日本棋院のGOレビュウでは彼の自宅が連絡先になっていたので、そこへ最初に出掛けて、それ以来のつきあいである。彼は実力2級だから4戦4敗、持参の扇子が泣いていたが、それでも賞品授与者となって嬉しそうだった。
 遅くなったので彼の家に泊まったが、豪華な碁盤に那智黒と貝の白石、無数の碁の本と神田で買い求めた古書を自慢するのが目的だったようだ。私は一生懸命驚いた。
 この碁会所で、静大で英文学を教えている谷本先生と知り合いになった。児童文学をやろうとしている四十前のややそこつな方で、家族を連れて一年間の研修に来ている。6級ぐらいの実力でよくマッタをし、石をハガすが、小鹿に帰ってからも付き合うようになりそうである。囲碁トーナメント
 25、6日の土、日曜日はここの碁会所の秋季置き碁トーナメントがあって、それにも参加、10月は文化の秋である。成果は1勝3敗と不出来だったが、相手が14級、10級、二段、8級とまちまちなので打ち辛かった。試合時計などを使うのもはじめてのことである。

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 大英博物館には <持ってきちゃいました> といった感じの世界の逸品がズラリ揃っており、全部を見切っていない。
 また東京では入手しがたい好きな本が多く、30冊近くも購入した。ただし絵のついた本である。絵本。特に博物館近くに魔法、オカルト、占星術、練金術、ヨガ、タロット、手相、まんだら、生命の木と、要するにその方面の書籍専門店があって、店屋に入った途端、興奮して次の日出直したほどである。そしたら谷本先生にまた会った。悪魔バズーズの像
 早速買った『悪魔とその全仕事』なる本の中で、フランス人司祭グランディールが悪魔と契約した血判書が、ロンドンはマンセル・コレクションなる所にあると知り、勇躍訪れてはみたが、古色蒼然たる蒐集室ではなかなか見つからず、結局そこにあるのはプリントだけで、オリジナルはフランス国立図書館にあると知った。
 「では来月、パリでそれを見ましょう」とは、格好いい科白であった。また、映画「エキソシスト」で使われたメソポタミアの悪魔、バズーズの像もルーブルにあると分かった。

 ジル・ド・レイ公に関しては、ルーアンのジャンヌ・ダルク博物館で彼の署名と印章を見るに留まったが、メアリー・エバンス・ピクチャー・ライブラリーに彼のポートレートがあると知り、インフォメーションで住所を確認した。こういったあまり普段しない所探しには、、インフォメーションも職業意識をもやしてあちこち張り切って電話をしてくれる。例えばベーカ一街のシャーロック・ホームズ・ハウスはどこですか、などという質問には、即221番地のB、ただしフィクションです、と答えが返ってくる。(もっとも行ってみたらそこにはもうなくて、トラファルガー広場の近くの酒場にコレクションを移してあった) なんとか、ロンドン郊外のメアリー・エバンスが分かって行ってみると、引っ越したあとで玄関に移転先が書いてあった。インフォメーション情報はどうも古い。メアリー・エバンス・ライブラリィ内部
 前もって電話をいれて、日本人が行くと伝えてあったのが功を奏したのか、件の図書館は一般公開のされていない所だったが、すぐポートレートを見せてくれ、私的利用のみということで写真も撮らせてくれた。
 「物書きか」 とか 「どうしてジル・ド・レイを知ったのだ」と聞いてくるが、写真を撮ればそれきりの訪問であり、それでも1ツ仕事が終わったような快い満足感があった。

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フリーパス 今まで大都会らしい大都会に行かなかったためだろうか、ロンドンではじめてたくさんのニグロやインディアン、モンゴル系の人たちを見た。かつてイギリスが世界を相手に手広くやっていた証左だろうが、図書館でみたフーズ・フーにも所属クラブが書いてあるような身分や学歴にうるさい保守的な国で、これでは人種間のあつれきも相当あることだろう。
 旅行中知り合った男で、彼はロンドンの下宿探しに苦労し、あるペンションでもらった名刺には、法律上禁止されているはずの <European only>  が小さく印刷されてあった、という話も聞いた。地下鉄のエレベーターやリフト、プラットフォーム、車内は広告の氾濫だが、黒人舞踊団の広告に「ニグロは醜い」という落書があった。一方、改札口には、警察からの通告として、アイルランドの過激派が手紙爆弾やパラソル爆弾を至る所に仕掛けているから注意せよ、と書いた黒板が立て掛けてある。またロンドン一の繁華街、ピカデリー・サーカス周辺の一角にはチャイナ・タウンがあり、そこの雰囲気は横浜・中華街よりもはるかにどぎつい中国色に溢れている。
 1つの国家、1つの人種、1つの言葉----ニッポン。

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 国立絵画舘とテート美術館でターナーを発見した。
 それまで風景画なんぞは、ゴッホの迫力はともかく、まるで無意味と思っており、ターナーの風景画にも別段意味があるわけでもないが、なんというか、アトモスファーという語感にぴったりの雰囲気の、モヤモヤッとした、分かる分かる、と言いたくなる光の取り入れ方をしているのである。このモヤッていて薄日が射している光景はこちらに特有のものと納得がいくが、この他にも、赤茶けた岩肌に光が射していて、しかもホコリが舞って空気が濁ってみえる、というところまで分からせる絵を描いているのである。
 風景画である以上、単にうまいなあ、よく絵の具でそんな感じを出せるなあ、と感心するに留まるが、ターナーの画集や絵葉書の色が全部違ってしまっているのにもビックリした。話には聞いていたが、このターナーのような色彩の感じがすべて、といってもいい画家にとっては致命的な話である。白黒写真にしても分かる絵と、分からなくなる絵があるとすれば、ターナーのは白黒どころか、フィルムに感光させるとそれでもう分からなくなる絵である。
 はじめこのターナーについてはまるで無知で、Turner の r を見落としてチューナ−だと思い込んでいたのを、谷本先生にターナーだと指摘されて、漱石も言ってるユーメーな画家なのだと教わった。

 こどもたちが綿や布切れにセーターなど着せて珍妙な人形を作り、地下鉄の出入り口や路上に置いて金をせびっている。チャーリー・ブラウンによく出てくるハロウィーンのためかと思ったが、ガイ・フォックスなる男の記念のためだという。11月5日に大きな張り子を作って燃やすのだそうだが、ガイ・フォックスが何者だか知らない。ロンドン塔で処刑されたそうである。

 国立絵画館に19世紀フロレンス派画家の作品で「愛と愛徳の戦い」(The Combat of Love and Charity)という題の絵があって、エロスが矢をはなつところを清純な乙女が盾でハッシと受け止めて、右手でブルンブルンと鎖をまわしている。山ン中で二人だけで決闘していてなんだかおかしい。
アウトサイダー
 この旅行で他に発見だったなあ、と思ったのは、ウィリアム・ブレークとデューラーである。ブレークはウィルソンの『アウトサイダー』で詩人として取り上げられており、その詩を知らないのでイメージが湧かなかったが、彼は画家でもあり、こちらでたくさんその絵を見るにおよんで、しかも詩人なのか!と驚いた次第である。その発想の仕方に関心を惹かれる。
 デューラーの方は、これもゴヤに似て陳腐な絵ばかりのドイツ最大の画家、という先入観だったが、デューラー・ロゴあちこちの博物館に散らばっている彼の鳥居みたいなマークの入った絵を丹念に見てまわると、あ、これもデューラーなのか、という発見と疑惑から、あ、これがデューラーだな、という認識へ移っていった。

 
矢を射抜かれている聖セバスチアンはむごたらしいが、昔は槍や刀、弓矢が武器だったから当たり前のことだったのかもしれない。今の時代に死刑囚が電気椅子でなく弓矢で殺されたら、これは猟奇的でむごたらしい。

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Merthyr Vale St. 予定ではスコットランドのインバネスまで行って、日がな一日ネス湖のほとりでわくわくしながら「もしや」を期待したり、あいるらんどのやうな田舎へ行ってみるつもりだったが、さすがロンドンだけあって、観るべきもの、すべきこと、訪れるべき場所が多くて時間がなくなった。ただウェールズのさる炭鉱街までは忘れずに日帰りの遠出をした。
日付 10月21日、ウェールズの片田舎、 Merthyr Vale 駅を降りてそこの小さな集落に足を踏み入れたときは、どこを訪れたときよりも緊張していた。

 5月のはじめ、ヨーロッパ出発が間近になって、本当に突然、忘れていたものが甦るようにしてその事件を思い出していた。さっそく新聞社に問い合わせたものの、三社ともいつだか分からぬ外電の炭鉱事故は調べようもなく、それを記事にしたリーダーズ・ダイジェスト社も連休で確認しようがなかった。
 シベリア鉄道の車中でその事故をユーバート助教授に話したところ、彼はおぼろげながら概略を覚えていて、おそらく英国ウェールズ州でおきた事件だったろうと言った。
 ロンドンに落ち着いてまもなく、インフォメーションで数年前の新聞はどこで読めるか、と問うと、大英博物館がいいという返事。で、そこの受付で聞くと、こちらの付属図書館は遠いところにあるので、と、ウェストミンスター市立中央資料図書館を紹介してくれた。 そこへ行って事件の概要を話すと、政府発行の当時の事故調査報告書を貸してくれた。事件は9年前の1966年10月21日に起こっていた。あれからすでに9年もの歳月が経っていたことに私は驚いた。
 当時、風呂に入る前に新聞を拡げてその記事を読み、ひどいショックを受けて入浴のあいだ中、そのことを考え続けたのをいまだにはっきり覚えている、端的にそのとき、字句どおり神も仏もないと思った。

 資料図書館で、「タイムズ」のマイクロ・フィルムによる当時の記事も見せてもらった。『ボタ山流出、学校を埋め200人不明----母親たちは夜通し埋まってしまった子どもを捜している』という大見出しである。記事は、
 「昨朝ウェールズ州グラマガンの炭鉱街アーバーファンで800フィートのボタ山が地すべりし、授業中の学校などを埋め、約200人が遭難したものと懸念されている。現在早朝までに85人の死亡が確認されているが、ボタ山はマーシア・ベイルを取り巻くガラ場の一角にあり、二日間に渡ったはげしい雨が山津波の原因とみられている。昨夜来二千人が非常灯の下でシャベル、ピッケル、素手で掘り返しているが、泥土はなおもゆっくり移動しており、救助作業員も何人か負傷した。(略) 教頭代理のバーノン氏の遺体が真夜中近く発見されたが、ある救助員は『先生は腕の中に5人の子どもを抱いておられた』と語った」

 神が観念的にしか捉えられない私にとって、その譬えようもないやりきれない事件は、簡単に神概念を粉砕するものを持っていた。もちろん観念的には神の存在が一介の人間によって一蹴されるという、そんなレベルの問題ではないことも、「神などて沈黙され給うや」といった、それこそ逆に機械仕掛け的に「さしたる用はなかれども----」としゃしゃり出てやたら混乱させる性質のものでもないことは弁えていたが、それが観念的であっただけ、生々しい不条理に接した瞬間、私は即座に権力神を呪詛していた。
 このように、強大な権力を持つ神を彼方に設定して、それに人間のドラマをぶつけて悲憤慷慨するパターンは私の思考様式に定着していた。たとえば世界史的観点からはあまりに部分的水漏れ的ないくつかの奇跡の実在や、瞬時にして7万人の命を奪ったヒロシマ自体、また後手で知ったアウシュビィッツなど----
 しかしこの、ボタ山が崩れて小学校が下敷きになっておおぜいの子供が死んだ、という出来事ほど、「こんなことまで起こるのか」というショックはなかった。われわれを地表に侍らせているこの惑星が、そんなことまで耐えて容認しているのか、という感覚だった。
 この事件が、決定的に他と異なっていたのは、まったく人間臭さ、人間的要素がなかったこと----敵の銃弾に斃れた兵士には、少なくとも敵がいた。根こそぎ消されたヒロシマ市民には、少なくともトルーマン麾下、逡巡があろうとボタンを押した空軍将校にいたるまで、確固たる意志が働いていた。しかし <ボタ山> が突然崩れて、子どもが殲滅したとは。
 なんで無辜の子どもが、というのでは決してない。子どもが世界史に関わっていくのは決して不自然ではない。ただビアフラやインド・ビハールの餓えた子どもがセンセーショナルに報道されたところで、それは他と孤立してそうあるのではなく、そこにはやはり餓えた母親がいて、自分の分を子どもに分け与えたり、あるいは置き去りにして見殺しにしたりという人間のドラマがある。しかしなんの意味も持たない石炭ガラが移動して小学校が一つ消滅した、という外電は---- <世ノ終ワリハ突然来マス> という、それこそ人間臭くも抹香臭くもない、石炭ガラのように乾いた無機的事実が肺腑をえぐったのであった。

 10月21日はあいかわらずのどんよりした曇り日で、快晴の日がロンドンに来てまだ1日もない。

 カディフで乗り換えて、石炭のために作られた支線を列車は入っていく。客車はやがて、調査報告書の航空写真で見覚えのある地形に入った。
 両側に山が迫っている狭い谷あいに、鉄道と石炭を積んだ貨車と、集積場、ドブ川、死んだような街なみ、そして新しく建て直された小中学校と、山の中腹に壮絶な真白い墓の群れ。同じ死亡日の連なる墓碑群
 ----午前中にすでに人々は墓参を済ませたのだろう、どの墓もきれいに磨かれて、たくさんの花束が供えてあった。
   <お前のために ダディとマミィより>
   <息子は家に帰らない しかし しかし決して忘れない>
   <愛くるしい笑顔、やさしい心づかい、喜びと快活さ
         ----お前の生涯は完璧だった>

 ----今さら何をしに来たのだろうか。子供を失った両親のように時を止めるためではない。9年前の衝動を確認して洗い流すためでもない。また喉の奥にヒステリー球をこしらえてカタルシスを得るだけの、冒涜的行為に走るためでもありたくない。ではひたすらこうだった、今はこうなっていた、と凝視するために来たのだろうか。ひとりこだわって逆行して、悪く悪く解釈して、世界は暗いものなのに明るく振る舞うのは間違えている、と思いたいのだろうか。いろいろな疑団が行き来するなかで、子供たちの名前を記したメモリアルに日本から持参の姫だるまを供えたとき、とにかくこれは間違いなく御霊に喜んでもらえるな、ということだけは素直に確信できた。
 これが世界に対する結論めいたものになっていくのだろうか、そしてそれがいいのかどうかも何も分からないまま、追われる気持ちでかつて子供のいなくなった街をあとにした。

                    「写真」(1)      「写真」(2)

       
                           http://my.spinavi.net/fukurou/index.php?itemid=7  
  
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 二次的観光名所をそれぞれ訪れてみると----
オベリスク
【クレオパトラの方尖塔】
 中形のオベリスクである。エジプトから運ぶのに19世紀の技術を極めたというから、当時のもの凄さが忍ばれる。映画『十戒』で、若き監督官モーゼがファラオに工事の進捗状況を報告している最中、遠景の現場でオベリスクがスックと立つ、という場面があった。

【国立ポートレート美術館】
 教材蒐集のためにのぞいてみる。皆さん功なり名を遂げたからこうして描かれるのだろうが、そうした人には科学者や芸術家はともかく、醜い顔が多い。修正してそうなのだろうから、胸打たれる顔つきなどにはまず出くわさない。もって肝に銘ずべしか。

【ユダヤ博物館】
 イギリスでみるユダヤ博物館はどんなものか、興味のあるところだった。イスラエルにとって大戦後のパレスチナ問題で果たしたイギリスの役割は大きい。壮大なユダヤの歴史が見られるかと期待したが、思いのほか貧弱な博物館で、18,9世紀の祭具やユダヤ教独特の燭台が飾られてある程度だった。ポーランドのロッズ・ゲットーと強制収容所で使わされた屈辱のユダヤ紙幣がひっそりと展示されてあった。

【ビクトリア&アルバート博物館】
 世界的規模である。旅行中はじめの頃は博物館でこまごま驚いていたが、この頃は大まかに驚くようになった。それで最初にここの博物館なんぞにていねいに驚いていたら、きっとヨーロッパの地方都市でみかける小さな博物館なんか、もう入る気がしなかっただろうとヒヤリとさせられる。

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ヤマハDTホンダ 街を歩いていてオートバイがとおると、チラッとみて HONDAだな、よし、YAMAHAか、よしよしと満足し、たまにお国のオートバイがとおると、アッ、知らないな、野暮だな、と思う。オートバイはまず問題なくヨーロッパを席巻している。だいたいナナ半なんかは日本人の体格に合うように作られているのだろうか。

 難しい名前なので覚えなかったが、ここの下宿のマレーシア人とすこし接した。シーク教徒なのでターバンを巻いている温和な男である。私が出発する前の日、数年間の留学を終えて故国へ戻った。こちらで法律を勉強して、国に帰ったら弁護士になるのだという。兄弟がたくさんいてその長男なのだが、
 「土産は」と聞くと、「イギリスにはいい土産がない」と言う。下宿の朝食係を兼ねて宿泊費を浮かしていた。発つ日が近づくにつれ浮き浮きしていたが、
 「ホーム、スウィート・ホーム」とつぶやいて、
 「私の国はこんなに寒くない」と言った。
 「お国で成功するよう望んでいる」と私は言った。

ガイドブック 大英博物館へは6,7回通っただろうか、行けども追いつかぬ。館長だって掌握できぬはずだから焦る必要はないのだが、学問が細分化し、分業化・専門化していくのも止むなしと思わせるジャングルである。戦争中は由緒ある文化都市や地域には爆撃しなかった、という話を、おかしなセンチメンタリズムだと捉えていたが、まったく一発の爆弾で大英博物館なんかが吹っとんだりしたら、その取り返しのつかぬこと、想像を絶する。ピーターパン像

風に舞う落ち葉 別に住みつきたいとは思わないが、それでも出発の日が近づくにつれ、立ち去りがたい思いにかられるのは、マドリッドでもロンドンでも同じである。1ヶ月かけてひと通り見るべきものは見、訪れるべきところは訪れて、こうして博物館そばの公園のベンチに憩うていると、敷きつめられた落ち葉が風に舞うている。でも <ここかしこ定めなくとび散らふ落ち葉かな> は巴里11月にとっておきたい。
 ロンドンを発つ最後の晩は、下宿を引き払って安ホテルに泊まった。シャミルが空港まで見送るというのが煩わしくなったからである。これは動物的本能的な少年だった。