『旅 行 記』       

         ジョランダ下宿 (点描マドリッド1975年9月)

ジョランダ下宿のドア ここジョランダ下宿で2時半から昼食をとるのは4人、若禿で鬘をかぶっている郵便局勤めのスペイン青年と、広宣流布を目論んでいる創価学会員の金子さん、それにスペイン語学校に通って、ゆくゆくは空手を教えようとしている小笠原さんに私である。初旬まではこれにもう一人、プロ・サッカーの三軍選手、カナリア諸島の英雄セグンドがいたが、いよいよシーズンとなって地方ヘトレーニングに出発した。
 闘牛場(トロス)に鮮やかな光と影を演出していた陽差しも弱まり、マドリッドの街を秋雨が一過、セグンドをアトーチャ駅に送る日が風たちぬ秋であった。動き出した列車のデッキで別れの握手を求めるセグンドに、打ち出の小槌のミニチュアをお守りにと渡す。彼の故郷カナリアは常春だという。
 闘牛が灼熱の国技ならば、サッカーはもっともポピュラーなスポーツか、プロの勝敗は賭け事の対象となり、「1×2」屋に出入りする人々も増えてくる。やや強い1チームと、マイナーの2チームの総当たりを、引き分けの×も含めて全試合の予想を投票する。街で散見する「1×2」屋は、さながら郵便局か選挙の投票場である。闘牛の入場券
 いっぽう闘牛の方は、セビリアで一度見たが物足りなかったので、毎週日曜日欠かさず通った。入場料は10ペセタ(50円)から800ペセタ(4000円)までズラリ揃って、見る側の層を物語っている。最初は壮快さしか感じなかったが、マントを牛の角で取られ、転倒し突かれたバンデリオがいて、それ以降とても怖いものを見ているのだ、という緊張感に襲われた。闘牛師は華麗だが、年間何十人と牛に殺されているのも事実なのである。
 雨の降る日はぬかるんで足も取られるし、マントも雨に濡れて、からまったり滑ったりでたいへん荒れる。勇気ある牛にはハンカチが振られて殺されることなく儀式が途中で終了し、たくさんの牝牛に混ざって堂々の退場となる。また引退する闘牛師が最後には不手際だったものの、感きわまって男泣きに泣いて退場したり、まだ無傷の猛牛を相手に膝まずいたまま動かずマント1つであしらうという、信じられないほど勇敢な闘牛師もいた。
 一度突かれて死に目に遭えば、恐怖が先に立つはずなのに、なおも助ッ人を押し退けて立ち向かう闘牛師。マントしか見ない牛の習性は悲しいが、何かの拍子にそのマントを操る人間をジッと見る牛も絶無とはいえまい。考えれば考えるほど膝がガクガクしてくるような怖さである。アフリカを愛したヘミングウェイがまた闘牛の大ファンだったというのも、分かるような気がするのである。

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トロの道着を着こんだセグンド 8月の末、まだ太陽のぎらつく日中は、小笠原さんやセグンド、それに語学の勉強に来ている近所の大学生ヒロシと公営プールに数回行った。
 イベリア半島のド真ん中、首府マドリッドには海がなく、したがってレティロ公園の横200メートル、巾270メートルの矩形の池に、たくさんのボートのあいだを縫って20人乗りぐらいのペンキの剥げた遊覧船が仰々しく航行している。これにスペイン人が行列を作って7分ぐらいで池を1周している。
 一度、公営プールにヒロシと行ったとき、日本びいきの監視員が来て、エア・ボンベとレギュレーターを貸してくれ、プールに潜らせてくれた。何度やっても耳抜きができないので、3メートルも潜ると耳が痛くなった。
 プ−ルは何回行っても目の保養によいのだが、小笠原さん、通称トロと一緒に行くのは荷厄介である。この男、アナクロもはなはだしく、フンドシを締めた国学院の体育会系OBで、自民党青年部に頼まれて左翼のデモに突っ込んだり、卒業しては悪徳不動産の営業を数年やったりで、歳は私より1つ上、猪首のうえに脂ぎった毛穴の多い平たい顔と、鼻下に不揃いのチョビ髭、盛り上がった肩から湾曲して出る両の腕は、五分刈りの短髪とあいまって、要するに外国在住タイプの日本人ではない。現在「ボックス」なる私立の語学学校に通っているが、きちんきちんと殊勝に通う根性はあるものの、毎回居残りの劣等生で、最古参でいるのは後輩かゾロゾロ追い抜いていくため。
 このトロが(トロというのは名前が徹で、トールよりトロ(牛)だろうと付けて私が名づけ親)、また救いがたい女好きで言ってみれば車寅次郎をより粗暴にかつスケベエにした感じ。スケベエはスペイン語でベルデというが、これは私の覚えた数少ないスペイン語の1つ。何かあれば私が、いや、彼はトント(まぬけ)でベルデなので、とスペイン人に告げ□せねばならぬ故、それをトロに知られてドスの利いた声ですごまれ怒鳴られれば、これはかなりスリリングなゲームである。
 このトロがプールに行くと、オンナ、オンナと目の色かえて、美人にフワアッと惹き寄せられ、まったく生きた磁石をみる思い。このためにも語学に力を入れねばならぬのに、言葉の分からぬ私にも、スペイン人? 名前なんていうの? 年いくつ? あなたは美しい、ぐらいしか言ってないのがよく分かる。そして最後が
 「今日、夜、(<今晩>という言葉はまだ覚えていない) ディスコティカ?」----要するに、暇だったらぶしつけですが、今晩一緒にディスコに踊りに行きませんか、という謂を、ぶしつけをはるかに凌駕して迫っていく。日本人の面汚し、などと眉しかめるのは事情知らぬ他人事で、目の辺りに見ていると、腹かかえて笑いたくなる愉快さである。なんでよりによってヨーロッパでいちばんカチカチのカトリック国に来たのか、これは最大の不覚であったろう。ドッグレース券
 一度、トロに連れられてドッグ・レースを見に行ったときのこと、彼はパドックで犬の気合いをジッと見、私の意見を聞き、行列に並び、鉛筆を舌でなめ、テレビの配当を見、人をかきわけベンチの上にのっかって、ゴール寸前ではウワアッと怒鳴り、息堰き切って私のもとに駆けつけて、オイッ、見たか、6−3だよ、6−3! 買ったのかと聞けば、いや買ったのは3−6だ、ちくしょう逆だったなあ、と、連勝単式だから何もならない。何かここが外国で、まわりが外国人ばかりというのが嘘のようである。レースが終わって下宿までの帰り道は、
 「オイ、本当にその道でいいのか」などと、危なっかしげについてくる。そのくせ、
 「ホセ・アン(マドリッド一の繁華街)はオレのシマだからなんでも聞いてくれ」と豪語する。

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プラド美術館パンフ プラド美術館は入場料が高く(250円)、学生だと無料で、しかもマドリッドで学生証が作れると聞けば、これはどうあっても作る方が正義である。英文の在学証明書を偽造すればいいのだが、金子さんのタイプを借りて作った私の証明書は、見せてもらった本物より立派だったので少し心配だった。自慢したいのは消しゴムで作った学校名のゴム印で、旧カナで「驛辨大學」と本格的だった。ただ「之印」は忘れてしまった。この学生証交付の手数料が250円で、これ以降、各国で莫大な恩恵に預かれるのである。ただ、EKIBEN UNI. と書かれてみるとやはりどうも不安で、一時たいへんな数にのぼったという「東京大学」にしておけば無難だったかもしれない。
 ところで無料になってみると、一方で感激もうすれてしまうのも事実であった。プラドはグレコが最高だが、「裸のマヤ」の先入観しかなかったゴヤが、時代精神を数段先取りしていた異質な感覚の持ち主だったのを知った。広いプラド美術館だが、一巡してみるとゴヤだけが、陳腐な作品はともかくとして、違うのである。おそらく晩年になってだろうが、何か大きなものに囚われていたのがみてとれるのである。

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 マドリッドから4人でトレド、アビラ、セゴビア、エル・エスコリアルと、レンタカーで2泊3日の小旅行をした。ちょうどマドリッドを中心にして半円の円周上を走った格好である。レンタル料から食費、宿泊費一切合財含めて9000円だったから安くあがった。不毛の丘陵地帯で水を飲む
 外交がヒロシ、会計が斉藤先生、食事が阿部さん、運転手が私である。斉藤先生は東京で英語塾を開いているヤギ髭の30歳で、阿部さんは釣り竿と番傘を担いだ岩手県出身の旅行者である。ヒロシが自己紹介した時、
 「メジャモ・ヒロシ(私はヒロシです)」とスペイン語で言ったのを、阿部さんは
 「ああ、メジャモさんですか」とやって、私が「ええ、沖縄の人です」と半畳をいれると、
 「沖縄はどちらで?」と聞くので、ヒロシは
 「宮古です」などと言って、2人でさんざん沖縄の話をしていた。
 トレドはマドリから南に70キロ、城塞に囲まれた古都で、エル・グレコゆかりの地。かつてフランコが校長をしていた士官学校がタホ川の向こうに見える。絵葉書で見るトレは、その深い川の反対側から見おろすようにして撮ったものが多いので、そちら側から鳥瞰するによかろうと車で回る。便利である。
 キャンブ場で阿部さんと当番のヒロシが食事を作っているあいだ、タホ川で泳いでみた。かつてアラブの姫がここで水浴していてスペイン王にみそめられたそうだが、なにか臭<て変に温かい川である。海と違って気持ちが悪いので早々に引き揚げ、魚があちこち跳びはねているので釣りを試みる。リールの扱いに慣れないのでテングス糸と格闘しているうちに暗<なってしまった。自炊旅行をしている阿部さんだけあって、カレーライスは美味なものである。ヨーロッパに来てはじめて天の川が見られる程度のまともな星空を見た。
 翌朝アビラに向かう途中、街道筋のちょっとした村で食糧を仕入れると、そのよろず屋に人だかりが出来て、たいへんな騒ぎになった。腰の曲がったお婆さんまでわざわざ杖をついて出陣あそばされ、みんな揃って記念撮影ということになった。物持ちの阿部さんが三脚を立てて自動にセットすると、
 「あれぇ、勝手に動くのかえ」とかなんとか、小母さん連中が声をたてる。数えてみれば20人もいたようだ。アビラ
 アビラは私が是非、と薦めた所で、聖女テレサに奇跡のおきた修道院がある。町並みもトレドに劣らぬ古風な城塞で、かつては戦略上の重要地点だった所だ。聖女テレサのエクスタシーはフランシスコのスティグマ(聖痕とともに何か危ないっかしい精神構造を思わせる。いま揶揄されそうなことは、昔だってからかわれる対象だったに違いないが、ともかくキリスト(の幻影?)が出現したという部屋を見て満足する。ローマでベルニーニの『聖テレサの法悦』をみるのが楽しみになった。
 アビラを出て一路セゴビアヘひた走る。なだらかな不毛の丘陵地帯を舗装道路がくねくねと続いている。セゴビアもまたローマ時代の水道が残っているほどの古都だが、変哲もない地続きの土地で<要衝>を占める条件はなんだ巨大十字架ろうかと興味があった。車でセゴビアを出たり入ったりした感覚では、どうやら谷あり崖ありの立体的に入りくんだ地形であった故のようだ。
 次の日は、昼過ぎまでに車を返さねばならないので、6時の早出となった。
 エル・エスコリアルは、フェリッペ2世がサン・ロレンソ修道院の工事を監督したという小亭まで車をまわし、カイドス渓谷ではこの小旅行でいちぱんの関心事だった高さ150メートルの巨大な十字架を見る。スペイン戦争で斃れた兵士を祀るために岩盤をくり抜いた壮大な聖堂を内蔵している。ここのドームは古典的なドームとはまた異なった、迫力ある現代芸術の格調高い産物といえるだろう。

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 トロが来て、ボックスからトレドヘ日帰りバス旅行があるので一緒に行かないかと誘ってくれた。トレドは2度目であるが、誘いに乗った。彼が、学校仲間からどんな扱いをされているかにも興味があったからだが、見ていると、語学学校で語学ができないと、こうも大変なのかという感じだった。彼は私の世話をする(のか受けるのか不明だが)ということで共に別行動をとったが、それが彼の深謀遠慮とみた。
 小さな広場で、子供たちが4、5人、舞台を作っている大人たちを見守っており、何か始まりそうなので、トロをけしかけて何でもいいから
 「何時からか?」(これぐらいは彼も言える)と聞いてもらうと、
 「6時から」と言う。その頃どんどん子供や大人が増えてきて、爆竹が鳴らされ、祭りになった。広場の中央にポールが立ち、先端に紐でくくったビニール袋がついていて、男の子が登ってそれを取ったり、女の子たちは目隠しをさせられて、お互い相手にケーキを食べさせる催しをやっている。またスイカ割りのようにお菓子のはいった壷が吊るされ、ヘルメットをかぶった子供が目隠しされて棒で叩き割る。
 子供たちはわれも我もと殺到し、すさまじいまでに無秩序である。ヨーロッパの文明国では、子供のときから公序良俗を厳しく教えられる、というのは一昔前の話であろう。少なくともラテンの子供は小さなジェントルマンではない。その代わりに、ここにはまだ路地裏の遊びがたくさん残っている。特に昼寝から覚めて、ちょっとしたものを食べ、9時10時の夕食までのあいだが、大人も子供も広場や公園に出てくつろぎ、おしゃべりし、ボール遊びや鬼ごっこをする時間帯である。浴衣や下駄、団扇がない以上、私たちにはどうしても馴染めない世界だろうが、それでも東京の団地の公園で湿っぽく遊ぶ子供よりは、よほどかつての私たちの時代に近い。

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ドン・キホーテ 毎週日曜日、下宿の近くでラストロ(古物市)が開かれる。皮製の水筒や錆びた錠前、素焼きの水差し、懐中時計、短銃、サーベル、燭台とたくさん並べられてたいへんな賑わいである。時計を3、4個もった男が寄ってきて、スイス製だ、買わないか、とか言う。それで自分のを見せて
 「セイコー、セイコー!(十数年前の)」と怒鳴ると、あ、そうかと去っていく。日本製品はスペインに限らずたいしたものである。オートバイは絶対だし、カメラや電卓、車、時計も確実である。若い日本人旅行者が時計やラジオ、力メラなど、自分の持ち物や日本からの土産物を売っている。同じ下宿の画家の卵の福地君が、浮世絵を2、3枚模写して一緒に売りに出したところ、マドリッドで仕事をしている年配の日本人が買い取って、スペイン人の顧客に贈るからどんどん描いてくれ、と言われて、たいへんなパトロンがついたと張り切っている。
 金子さんはこの国に3年近くいる。部屋にはいると立派な御本尊様があって抹香の匂いがする。今は語学学校で英語を習っていて、一級の資格を取ろうとしている。スペインで英語学校へ通うのも面白いが、元革マル派の闘士がやはり3年ぐらいこの国にいて、運転免許を取ろうとしているのも面白い。筆記は受かるのだが、実技で2回落ちている。この革マルとトロがはじめて接した時、トロが息せき切って私の部屋に駆け込んできて、
 「おいッ、あいつ革マルだよ、革マル、おっどろいたなあ、俺なんか自民党青年部に頼む、ッて言われて金もらって突っ込んだクチだからなあ」----話を聞いてみると、もとより弁のたつ革マルに滔々と理論を展開されて、閉口したらしい。
 「あいつは男ッ気があってスカッとしている」などと転嫁して、
 「それにしてもこっちに来て、いろンな奴に会うなあ」とひとりで感心していた。
 あとでこの革マルに会ったとき、私が「なにせトロは無思想だから」と言ったのを、それが回りまわってトロの耳に入り、私の部屋に入るなりポカンと私の頭を殴って、
 「お前、革マルんところで俺がまぬけで単純だ、って言ったろう」
 「いや、絶対そんなことは言わない、ただ無思想だってだけは言った」
 「・・・そうか」
  ----それなら自分も自尊心を傷つけられることなく納得できるらしく黙ってしまったが、先に殴っているのだからもうどうでもいい訳である。
 マドリッドで最初にお世話になった土井さんの家へ本を借りに伺ったときも、共通の知り合いはトロしかいないので、もっぱら彼をサカナにした。二日経ってトロが私のところへ来て、凄い剣幕で、
 「おまえ、土井さんところで俺のことなんか言ったろう」
 「なにを急に」
 「おまえ、俺がボックス行ったら、女の子が『小笠原さん、また振られたんですってェ〜?』 言うから、どうしてバレたんだろうと思ったら、その女の子と土井さんが知り合いだろう、そしてお前おととい土井さんところへ行ったな、それでハハーッ先生だなと思ったワケよ」
 「なるほど」----その間に自分の推理に惚れてしまって、興奮は収まっている。次の朝、今度は道場で同じことを言われた、この世界は狭いから俺はもうスペイン中の日本人に顔向けできない、と大げさなことを言う。マドリッドの日本人社会が狭いのは本当らしく、トロの空手の先生が、テレビでオリエントという時計のコマーシャルをやっていたり、日本大使館に勤めている生意気でスペイン語の流暢な女子職員が、実は文法がデタラメなのだとか、日航の受付の女の子が、ト口のことを「まあ、デベロッパーちゃん」と知っていたりする。デベロツパーとはかつて彼が不動産屋に勤めていたからである。
 
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 食事は朝は寝ていて、昼2時半から下宿でとる。スープに肉か魚、オムレツ、サラダ、果物などを案配よく工夫してくれる。夜はチノ・レストラン(中華料理屋)でとることが多い。時々、日本食を<どん底>という店屋でとる。日本からのビデオ・テープをカラーテレビで見せてくれるが、カラーはこの国では珍しい。テレビ局は2つで、サッカーの試合などはどの酒場でも、軒並み客が突っ立って画面に見とれている。
 マドリッドにいる間、運動は卓球とビリヤードをよくやった。創価学会の金子さんの卓球は打ち込みを知らない堅実派、よく守って相手のミスを待つタイプ、トロは汚いサービスにすべてを賭けるタイプ。ビリヤードはヒロシとよくやった。ローテーションをはじめて試みたが、面白いものである。
 いったいにスペイン人は昼間からブラブラしている。昼間からといっても、昼間に長大なシェスタ(昼寝)があるし、夕方、チョチョッと店を出すと、また長大な空き時間をブラブラしている。いきおい酒場はいつも満員で、夕方にはビーンホールやサッカー・ゲーム、ビリヤードなどの遊技場は一杯になる。そのうえ映画館が、酒場ほどではないが無数にあって、封切りでも500円と安いので、これにも長蛇の列が並ぶ。映画そのものはすべて吹き替えで、『アラビアのロレンス』も、したい放題のカットであった。そして国民は時間つぶしに、ピパスというヒマワリの種をかじる。オウムやインコほどの要領で、歯で殼をパリッと割って舌でこじあけて、実をスルッとかじるのである。フランコが政権を奪われないように国民を遊ばせている、という話もあるいは、と思わせる。我がパチンコが上陸したら、と思うとゾクゾクッとする。
 地下鉄は平日が30円、日曜祭日が40円である。通勤客が減る分、料金を上げて均らしているのかも知れない。5、6年前、名古屋に地下鉄があるのを知って驚いたが、マドリッドやリスボンに地下鉄があるというのは、もっと驚いていい話である。

 10月1日、空港までトロが見送りにきてくれた。